人狼屋敷の甘美な記憶(5)
「ロック、いないの?」フィービが執務室を慎重に見回している。
そこが無人だとわかると、美しい顔が次第に険しくなっていくのが扉の隙間からも窺えた。
「どういうこと? 閣下もいらっしゃらないじゃない」
不審そうに声を尖らせたフィービは、傍らのヨハンナを睨む。
若い小間使いはいかにも取り繕うような笑顔を見せた。
「あっ! もしかしたら場所を移されたのかもしれません!」
「場所を? どうしてよ」
「それは……ええと、うちのお屋敷にはお部屋がたくさんありますから!」
ヨハンナの答えは答えになっておらず、衣裳室内のロックはひやひやしていた。
エベルさえ人狼の姿でなければ、出ていって説明もできるのだが。
街では人を食らうと噂されている人狼を、フィービの前に晒すわけにはいかない。ましてエベルには秘密を守って欲しいと言われている。衣裳室に閉じ込められたロックはもどかしさを噛み締めていた。
そして狭い衣裳室の中、人狼と密着していなければならない状況が辛い。
お互いじっと息を殺しているのだが、心なしかエベルの呼吸が荒くなってきた。
ロックも人狼のエベルに抱き締められるのは妙な心地がしていたし、全身を毛皮に包まれているのはさすがに暑い。呼吸をする度に何とも言えない獣の臭いが感じられ、次第に意識が朦朧としてきた。毛皮に包まれた厚い胸板に身を預けつつ、フィービが穏便に立ち去ってくれることを願っていた。
そのフィービは、完全にヨハンナを疑っているようだ。
「あの子をどこへやったの?」
殺気立った口調で尋ねたので、ヨハンナは大仰に跳び上がった。
「どこへ、なんて……存じません!」
「あたしが呼び出された短い間にいなくなった。最初からそのつもりだったの?」
――呼び出された?
ロックはその言葉を聞き咎めた。フィービはずっと扉の外にいたものだと思っていたが、違うのだろうか。そういえばロックが悲鳴を上げた時、扉の外のフィービは何の反応もしなかったようだが――。
「本当に存じないんです!」
ヨハンナは結んだ髪が水平になるほど強くかぶりを振る。
「きっとロック様のご用件が済んで、お二人で散策でもしていらっしゃるのだと思います」
「散策ぅ?」
フィービの声は相変わらず疑わしげだ。
「はい! あの、よかったらフィービ様もご案内しましょうか?」
言うなりヨハンナはフィービの腕を両手で掴み、ぐいぐい引っ張り始めた。
「ではこちらです、どうぞ!」
「ちょっと、あたしは行くなんて言ってないわよ!」
「でも閣下とロック様を探しに行かないと、でしょう?」
「そうだけど……ああもう、引っ張んないで! 自分で歩くわよ!」
ヨハンナの手を振りほどいた後、フィービは苛立たしげに執務室を後にする。
扉を閉める直前、もう一度だけ室内に視線を走らせていたが、息を潜めるロックたちには最後まで気づかなかったようだ。
二人の足音が離れ、やがて聞こえなくなった後、エベルとロックは揃って息をついた。
「やり過ごしたみたいだな」
「そうですね。フィービには悪いけど……」
彼女を欺いた形になったことを、ロックは少々気に病んでいた。
だが気になっていることもある。フィービが執務室の前を離れていた事実、そして彼女が口にした『呼び出された』という言葉は、一体どういう意味だろう。
考え込むロックの頭上では、エベルがふうふうと呼吸を乱している。
「エベル、大丈夫ですか? 息が苦しそうです」
「ああ……苦しいわけではないのだが、どうもな……」
「これだけ毛皮を着ていて、暑いからでしょう」
「確かに熱くなっている。こんな状況でなければ理性が持たなかった」
どうも話が噛み合わないなとロックが思い始めた時だ。
「ともかく、名残惜しいがここから出よう。ヨハンナは気こそ利くが、芝居はあまり上手くないからな」
エベルがそう言い出したので、すかさず賛同した。
「そうしましょう。では――」
そして毛皮の隙間から腕を出し、衣裳室の扉を押し開けようとしたところで、
「待ってくれ。出るのはこちらからだ」
制止したエベルの丸太のような腕が、衣裳室の奥の壁を押した。
ロックは扉の隙間明かりでそれを見た。押された途端に壁がずずっと音を立てて下がり、代わりに石造りの真っ暗な通路が現れる。高さは中腰になってようやく通れるほど、幅も大人二人がすれ違えるかどうかという広さだ。
「な、何ですか、これ」
思わずロックが上げた声は、その通路の奥まで響いた。どうやら先はかなり長いようだ。
「秘密の通路だよ、こういう時に使う為のな」
人狼のエベルが、牙を鈍く光らせながら答える。
「このまま出ていって、フィービと鉢合わせては困るだろう。別の場所から戻ることにしよう」
「別の場所って、これ、どこに続いてるんです?」
「どこへでもだ」
エベルは簡潔に答えると、片腕にロックを抱きかかえたまま、石造りの通路に転がり込んだ。窮屈な通路を思いのほか機敏に這いずっていく。
ロックはと言えば、呆気に取られてされるがままだ。
あっという間に衣裳室の扉と隙間明かりが遠ざかり、人狼の毛むくじゃらの腕に運ばれて、真っ暗な通路の奥へと向かう。どこからか風が吹いているようで、人狼の毛並みがふさふさと揺れてはロックの頬をくすぐった。
その風の流れで、真っ暗な通路のところどころに分かれ道があるのがわかった。
人狼は夜目が利くのか、エベルは分かれ道を的確に曲がり、進み、やがて行き止まりに辿り着く。
「ここだ。穴が開いたら飛び込むから、しっかりとしがみついてくれ」
「は、はい」
ロックはやむを得ず人狼の首に腕を回して力を込める。
人狼が壁を押すと、二人がいた床がぱっくりと口を開けた。そこに吸い込まれるように落下して、辿り着いた先は明るい小部屋だった。エベルは首にしがみつくロックを横抱きにして、見事に着地してみせた。
「着いた。ひとまずここで準備をしよう」
狼そのものの顔がロックを見下ろし、そう言った。
ロックは抱えられたまま、部屋の様子を見回した。あまり広くはない石壁の部屋には、炎が揺れるランタンと大きな木製のチェスト、それからどこかへ通じる扉があるだけだ。人の気配はないが、それならどうして明かりが点いているのだろう。
「ここは?」
「いざという時の避難場所、というところかな。人狼の姿を人に見られぬよう、この家には先程のような秘密の通路が張り巡らされ、こんな小部屋もいくつかある」
問いに答えたエベルは、ロックを静かに床へ下ろした。
そして尻尾を振りながらチェストに歩み寄り、大きな手でその蓋を開ける。
中に入っていたのは、紳士用の着衣が一揃い、のようだ。
「用意がいいんですね」
ロックが感心すると、人狼は振り向いて尖った耳を揺らした。
「ありがとう。全て、私の父が造らせてくれたものだ」
先代のマティウス伯について語る時、エベルの声はどこか柔らかく、しかし寂しげにも聞こえる。
「父は私の身に降りかかった呪いに自責の念を抱いていてな……罪滅ぼしとばかりに、私の為になることは何でもしてくれた。こうして私の為に家を改築し、信頼のおける使用人だけを雇い入れてくれた」
密かに、ロックはその身を凍りつかせた。
いつか彼自身に言われた通り、エベルの境遇に、自らと似たものを感じ取ったからだ。
「あなたの為に、これを……」
「ああ。父は過ちを犯したのかもしれない。だが私は父を恨んでなどいない。愛してもらっていたからだ」
きっぱりと言い切るエベルに、なぜかよくわからない感情が込み上げてくる。
父を恨んではいない。
それはロックも同じだ。母と自分を捨てていった父を、恨んでなどいない。
だがエベルが彼の父について語る時、羨望にも似た気持ちを抱いていることにも気づき始めていた。
「素敵なお父様だったんですね」
ロックは何気なく言ったつもりだったが、その声は切なさに引きつっていた。
人狼が金色の瞳を瞬かせる。
「どうかしたのか、ロック」
「い、いえ。何がです?」
「酷く辛そうな顔をしている。何か、あなたを傷つけるようなことを言っただろうか」
そうして身を屈めて顔を覗き込もうとしてきたが、人間の時とは違い、人狼の巨体はロックの顔を覗き込むのも窮屈そうだった。
その不器用な身の屈め方に、ロックは少しだけ笑う。
「ご心配は無用です。ちょっと、僕の父のことを思っていただけです」
「傭兵だったという、あなたのお父上だな」
「ええ。前にお話しした通り、僕と母は父から捨てられたんです」
語ってから、ロックは自らかぶりを振った。
「いえ……そのはずでしたが、父は僕の為に財産を遺してくれていたんです。あの店を開くのに十分な額を」
傭兵が一仕事で得られる報酬の相場は知らなかったが、ロックの稼ぎなら五年かかってやっと貯められるほどの額だった。
その話を初めてフィービから聞かされた時、ロックは酷く動揺した。
「だから、父のことを恨みきれないというか……いえ、恨むなんておかしいんです。あれだけのことをしてもらって、父は僕を想ってくれていたのだとわかりましたから」
話しているうちにあの頃の混乱が蘇ってきて、思わず頭を抱えた。
そんなロックの背中に、人狼の大きな手がそっと添えられる。明らかに人とは違う異形の手が、しかし今は温かかった。
「でも僕は、父には会えなかった」
その体温に支えられながら、ロックは吐露を続ける。
「父がどんな人で、何を思ってお金を貯めておいてくれたか、僕や母のことをどう思っていたのか。知りたかったのに……今でも知りたくてたまらないのに」
だが、父にはもう会えない。
ロックが帝都にやってきた時には、既にこの世を去っていたという。
「フィービは? 彼女は、お父上の恋人だったのだろう?」
エベルが気遣わしげに口を開いた。
「彼女からお父上について、話を聞くことはできないのか?」
「フィービは、父のことをあまり話したがらないんです」
好奇心には打ち勝てず、正面切って尋ねたことも、それとなく探りを入れてみたこともある。
しかしフィービはロックの父について、詳細を話したくはないようだった。
「多分、僕に気を遣ってるんだと思います。だから今では聞きづらくて」
フィービからすればロックは、愛した男の隠し子だ。
本来なら存在すら認めたくないものに違いない。なのにフィービはロックに優しく、いつも温かく労わってくれる。その関係が心地よく、壊したくないと思っているのも事実だった。
「……すみません。急に、こんな話を」
込み上げてくる切なさを抑え込みたくて、ロックは慌てて話を打ち切ろうとした。
人狼が短く息をつく。
「謝ることはない。やはり私とあなたはよく似ているようだ」
「ええ……そうかもしれません」
ロックが頷けば、エベルは思案に暮れるように耳と耳の間を掻いた。
そしてふと、思いついたように口を開いた。
「ロック、君のお父上の名は?」
「……どうしてです?」
尋ね返したロックに、エベルは笑うように大きな口から牙を覗かせる。
「前に話したが、私の父は骨董品の蒐集が好きだった。その趣味の為に、傭兵を雇い入れて遺跡に潜り込ませることもやっていたようだ」
傭兵。
その単語に、ロックははっとした。
「父を……ご存知かもしれないと?」
「さすがに私の父には聞けないが、うちには古株の執事がいる」
エベルが大きく顎を引く。
ぽんぽんとロックの背中を軽く、あやすように叩いてから、更に言った。
「それに、当時の伝手からあなたの父に行き着くこともあるかもしれない。名前を教えてくれたら、私はあなたの力になれる」
もしかしたら、父について知ることができるかもしれない。
それはロックにとって、何より抗いがたい誘惑だった。
もう会えないかもしれないと思っていた父のことを、フィービが語りたがらない父の生前の姿を、もしかしたらエベルが教えてくれるかもしれない。そうだとしたら、喉から手が出るほど欲しい。
だが――。
「それは、駄目です。できません」
ロックは身じろぎをして、エベルの優しい手を遠回しに拒んだ。
人狼は大きな手を宙に浮かせ、戸惑ったように首を傾げる。
「なぜだ」
「だって……僕はあなたのお気持ちを知ってるんです。ここであなたにお願いしたら、あなたを利用することになってしまう」
少々恥じ入りながらも、そう答えた。
逆に言えば、エベルに縋るということは彼の求愛を――場合によっては受け入れざるを得ない、という事態にもなりかねない。
ロックとしては、仕事以外で彼に関わるのはどうしても避けたかった。先程も動揺のあまり秘密にしていた思いまで吐き出してしまった。彼に関わると、覆い隠すものを一枚一枚剥がされて、やがて丸裸にされてしまうような気がしていた。
「利用するのが嫌なら、私の求愛を受け入れればいい」
エベルは金色の瞳をぎらつかせながら、大きな手をロックの頬に添える。
ぐいっと上を向かされて、濡れた鼻先がくっつくほど近づかれた。突然のことに身を硬くしたロックに対し、鋭い牙を見せつけるように彼は言う。
「あなたは私のことが嫌いではないのだろう?」
「な……それは、そうですけど……」
嫌いではない。
あまりにも振り回されて動揺させられてめまぐるしくて、何だか苦手に思っているだけだ。
「では、私を愛してしまえばいい」
甘い誘惑の囁きが、牙の生え揃った口から発せられる。
「あなたの身も心も私に委ねて、私に愛されることを望めばいい。それだけだ」
その口の奥に、血のように赤くぬめった舌がちらりと見えた。
吐息が唇にかかる。声を上げたくなるほど、くすぐったい。
かつては恐怖の対象だった人狼からの求愛を、ロックは呆然と聞いていた。
怖くはない。
なのに床に押し倒された時、細い身体は震え始めていた。