人狼閣下と道化の仕立て屋(1)
ドアベルの音が響いて、仕立て屋ロックは面を上げた。店の戸口に、誰かの影がある。店の天井まで届きそうなほど大柄の影だ。
ロックはかけ継ぎに夢中で店じまいを忘れていた。夜分遅く、『フロリア衣料店』はいつもなら閉まっている頃合いで、店員のフィービも帰した後だ。ロックは立ち上がり、カウンター越しに声をかける。
「いらっしゃいませ。こんな時分にお客様とは珍しいですね」
すると大きな影がのっそり動き、金色の瞳がロックを捉えた。
仕立て屋ロックは道化である。
本名をロクシー・フロリアといい、れっきとした二十歳の娘だが、店に出る時は男のふりをしている。詐欺師、泥棒、ならず者ばかりの貧民街ではそういった偽装も必要だった。
幸い、痩せた身体と猫のようにきつい顔立ちは男を装うのに役立った。葡萄酒色の髪を耳の下で切り揃え、男物のシャツとスラックスを着込んだ姿はいかにも貧弱で覇気のない若者に見える。その軟弱そうな外見を人々にあざ笑われつつ、帝都での平穏な暮らしを手に入れていた。
だが今夜、ロックは自らに勝るとも劣らぬ道化に出会う。
「服を一揃い、いただけるか」
低い声で言ったその客は、人狼だった。
頭の上にある尖った耳、真っ黒な毛で覆われた強靭そうな身体、丸太のように太い腕と脚、そしてふさふさの尻尾――ロックも噂には聞いたことがある。この帝都に隠れ住む人狼の話を。普段は人に化け、何食わぬ顔で暮らしているが、夜の訪れと共に正体を現し、人を襲い食らうという。
「ひっ……」
ロックが思わず悲鳴を上げると、人狼はまるで宥めるように両手を上げた。
「恐れるな、少年。私は服を貰いに来ただけだ」
狼そのものの貌は、言葉を発する度に大きな口から鋭い牙が覗いた。恐れるなと言われても無理な話だったが、ロックは震え上がりながらも応じた。
「服を……あなたが?」
「ああ。この通り、着る物が全て破れてしまった」
人狼が腕を広げて全身を見せる。
その身体を覆うものは黒々とした体毛だけで、うっすらと逞しい胸筋が覗いている。確かに一糸まとわぬ姿と言ってもいいのかもしれないが、相手は店の天井にも届く巨体の人狼だ。果たして服を着る必要があるものか。
「お、お仕立てのご用命ではないのですよね?」
ロックは恐る恐る尋ねた。
そして人狼が頷くのを見て、かすれた声で語を継ぐ。
「うちはご覧の通り、人の為の衣料店です。既製の服があなたに合いますかどうか」
既製のものでも、貫頭衣など融通の利く服はある。だがそれにしてもこの人狼は大きすぎた。大事な商品を次々と破かれては堪らない。
だが見上げるロックに対し、人狼は優雅に一礼して答えた。
「それだ、少年。私は人の身体に合う服を求めている」
尖った耳をぴくぴくさせながら店内を見回すと、
「一揃い、いただいてもいいだろうか。君は……ええと、店番かな?」
妙な物腰の柔らかさで尋ね、ロックを一層戸惑わせた。
「僕はここの店主です」
そう名乗り出ると、人狼は驚いたようだ。金色の瞳を瞠るのが狼の貌でもわかる。
「君が? 随分と若いように見えるが」
「こう見えても二十歳です」
「へえ……男、で間違いないか」
「そうです」
ロックは答えた後、勇気を奮い立たせてカウンターの外へ出た。
そして人狼の言う通り、紳士物の一揃いを店内で見繕い、毛むくじゃらの手に渡した。
「試着室はどちらかな、ご店主」
「ええと、奥になります」
「ありがとう」
指し示された店の奥へ、尻尾を振りながら人狼は消える。
それを見送った後、ロックはその場にへたり込む。
噂に聞く人狼が、まさか自分の店を訪ねてくるとは。
ロックも、それを実際に見たという人物には会ったことがない。だがこの帝都では人狼を見た者がいる、食われた者がいるという噂が実しやかに囁かれていた。ただ人を食らう為だけに夜闇を徘徊し、ひとたび獲物を捕らえればたちまち牙を剥くという化け物――ロックもその目で見るまでは、質の悪い怪談の類だと思っていた。
だが、人狼は本当にいた。
この店に現れ、今は奥で着替えをしている。
人を襲い食らうという話の割には、随分と丁寧で温厚な人狼だった。しかし異形には変わりない。着替えの後でロックを襲う気だとしたら、そろそろ我に返り、対応を考えなくてはなるまい。
「けど人狼なんて、どうしたら……」
ロックは絶望的な気分で呟く。
自分一人しかいない店内、助けを求める相手も今はいない。大声で悲鳴を上げたところで、怠惰な市警隊が人狼に立ち向かえるとも、貧民街の住人の為に駆けつけてくれるとも思えない。いっそ逃げてしまいたい衝動にも駆られたが、命より大事なこの店を放り出すことだけはできなかった。
それで結局、売り物の杖を握り締め、人狼が戻ってくるのに備えていた。
だがしばらくして、試着室から出てきたのは――、
「なかなかよい仕立てだ。腕がいいのだな、ご店主」
鳶色の髪の、若く美しい青年だった。
歳の頃は恐らく二十代半ば、均整のとれた身体つきをしていて、背丈も人並みより多少高い程度だ。毛むくじゃらの人狼は見る影もなく、引き締まった腕や脚にロックが仕立てたシャツやズボンがよく似合っていた。整った顔立ちは狼の貌とは似ても似つかなかったが、切れ長の瞳は金色で、人狼の面影がそこにだけ残っていた。
「人狼の身体に、いつも着ている服は合わなくてな」
青年は凍りつくロックに対し、先程と変わらぬ穏やかさで続けた。
「しかし助かったよ。危うく家へ帰れなくなるところだった、礼を言う」
それでロックは構えていた杖をゆっくりと下ろし、
「お、お役に立てて、嬉しいです」
震える声で告げ、青年を軽く吹き出させた。
「随分と怯えさせてしまったな。当然のこととは言え、済まなかった」
謝罪の言葉に、ロックはますます混乱した。
人狼は日中は人の姿に化けると聞いたが、今は夜だ。そしてロックの前で堂々と正体を晒している。彼は、何者なのだろう。
「ところで、ご店主。世話になっておいて何だが――」
青年は改まって切り出し、ロックは再び身構える。
「な……何です?」
「今、持ち合わせがない。人狼になった時、服ごと財布まで吹き飛ばしてしまったからな」
「……え?」
意外な言葉、ではなかったはずだ。
人狼は裸だった。持ち物があるようでもなかった。財布がないというのも嘘ではあるまい。
だが、仕立て屋としてはそれでは困る。
「近いうちに色をつけて返す。それまでツケにしてもらえないだろうか」
青年は眉一つ動かさず言ってのけた。
ロックは慌てて異を唱える。
「それでは困ります。うちはツケにはしないって決めてるんです」
貧民街でそれをやればたちまち商売が成り立たなくなる。店を持って三年目のロックが、固く守り続けている決まりでもあった。たとえ相手が人狼であっても、店の品を持っていく以上は客だ。
「だが、財布がないのだ。仕方あるまい」
盗人猛々しいとでもいうのか、青年は堂々と主張する。
「必ず払う、それは神に誓ってもいい」
この街では神への誓いなど塵ほどの価値もないのだが、そこまで言うならとロックは譲歩した。
「ではあなたのお名前と、お住まいを教えてください。もし払いに来なかったら、取り立てに伺います」
すると青年は顎に手を当て、しばし考え込んだ後で答えた。
「私は、エベル・マティウス。家は貴族特区にある」
マティウスと言えば伯爵家である。帝都育ちではないロックですらその名を知っている。
名家で知られるマティウス家に人狼がいるとは、にわかには信じがたい事実だ。
「ご冗談を。伯爵家に人狼の者がいるとなれば、醜聞どころじゃ済まないでしょう」
ロックは嘘を咎めるつもりで睨んだ。
だがエベルと名乗った青年は、表情を変えずかぶりを振る。
「嘘ではない。確かに伯爵が人狼となれば騒ぎになるだろうが、明かさなければ済む話だ」
しかもこの青年は、自らが伯爵閣下であるという。
眩暈すら覚えたロックに、エベルは声を落として言い添えた。
「そしてご店主。あなたは顧客の秘密を守れるだろう?」
店主としての自尊心を刺激するその一言に、ロックは思わず頷く。
「む、無論です、閣下」
「では、頼む。明日にも金を持って来よう」
エベルは爽やかに笑んでから、夜更けの貧民街に消えていった。
体よく持ち逃げをされたのかもしれない――我に返ってから、ロックは思った。
だが貧民街にうじゃうじゃいる詐欺師でさえ、人狼の姿を借りてまで小さな窃盗を働こうとは考えまい。持っていかれたのはシャツとズボンと靴の一揃いだけだ。ロックにとっては大切な商品でも、正体を晒す危険を冒してまで盗む価値があるとは思えない。
では、あれは、何だったのだろうか。
翌朝、出勤してきたフィービは店に入るなり顔を顰めた。
「ちょっとぉ! 何なのこの臭い、酷いじゃないの!」
野太い声の抗議は、ロックの寝不足の頭にがんがんと響いた。読んでいた新聞から視線を上げると、フィービは美しい女の顔で睨んでくる。
「まさかあんた、野良犬でも拾ってきたの? 駄目よ客商売なんだから!」
「そんなことしてないよ」
ロックが否定すると、フィービは怪しむように眉を顰める。
「じゃあ何よ。宿無し男を連れ込んだんじゃないでしょうね」
「それも違う。昨夜のお客さんの臭いじゃないかな」
そう答えてみたものの、恐怖に麻痺したロックの五感は、あの人狼の匂いなど覚えていない。
ただ一夜明けて店の扉を開けた時、嗅ぎ慣れぬ獣臭さを感じたのは確かだ。
昨夜の出来事は、夢ではなかった。
「臭い客は追い返しなさいよ、営業妨害よロック」
フィービは豊かな栗色の髪を、骨張った手でかき上げた。
彼女は――彼は、ロックと同じ道化である。
一見して骨太かつ長身の派手な美女といった風貌だが、口を開けば出てくるのは男の濁声だ。しかし女として生きたいのだと主張し、男に戻る気はないようだ。
フィービは長年行方知れずだったロックの父親の、恋人であったらしい。
女手一つでロックを育ててくれた母親は、死の間際に父親の所在を明かした。帝都にいる彼を頼れとの遺言に従い、ロックは生まれ故郷の農村を出て、父親の元を訪ねた。つい三年前の話だ。
しかし教えられた住所にいたのはフィービだけで、父親もまた、既にこの世を去ったという。
『あたしはフィービ。あんたの父親とは深い仲だったの』
野太い声でそう名乗ったフィービを、ロックもはじめは複雑に思った。
だがフィービは父が遺した一財産に手をつけることなく、大切に預かっておいてくれた。そして身寄りのないロックを励まし、帝都で暮らすように言ってくれた。その朗らかで優しい性格に、いつしかロックもすっかり惹きつけられていた。
今は貧民街で店を構えるロックを、フィービが傍で支えてくれている。身を守る為に男装を勧めたのもやはりフィービで、そのやり方で『フロリア衣料店』はどうにか軌道に乗りつつあった。
だが昨夜の客は、男装如きで誤魔化せる相手ではなかった。
もし牙を剥かれていたら、貧弱なロックの腕では太刀打ちできなかったことだろう。
「フィービ、マティウス伯って知ってる?」
ロックは客の名を思い出し、それとなくフィービに尋ねた。
「マティウス? 伯爵家でしょう、知ってるも何も」
フィービは広い肩を竦める。
「何年か前に先代が亡くなって、今は若いぼっちゃんが家督を継いでるって話よ。名前は……えっと――」
「エベル・マティウス?」
「そう、それ。結構いい男なのよぉ」
嬉しげに語った後、フィービはふと怪訝そうにした。
「そのマティウス伯がどうかしたの?」
「い、いや。お客さんが噂してたのを聞いたから」
ロックはフィービにも昨夜の出来事を語らなかった。
あの恐怖を誰かと分かち合いたい気持ちもなくはなかったが、話せばフィービを巻き込むことになってしまう。フィービなら親身に話を聞き、誰よりもロックを案じてくれるだろうが、そのことが昨夜の人狼に知れればどうなるかわかったものではない。
それに店主として、顧客の秘密は守らなくては。
「まあ、ここいらじゃ先代の方が有名だけどね」
ロックの内心も知らず、フィービは得々と語る。
「先代のマティウス伯は骨董品の類が大層お好きだったんですって。何でもない古い壺や彫像をさも曰くありげにお見せすれば、いい金で買ってくれるって評判だったのよ」
そこでくすっと笑ったフィービが、さも愉快そうに付け加えた。
「もっともエベルぼっちゃんに代替わりした途端、何にも買ってくれなくなったって詐欺師どもが嘆いてたわね」
話を聞く限り、先代のマティウス伯ならともかく、エベル・マティウスが貧民街をうろつく理由はないように思う。
ならば昨夜の男が、本物の伯爵閣下であったかどうかも怪しいものだ。
もしかしたら服はもちろん、代金さえ戻ってこないかもしれない。
「騙されたかな……」
あれほど怖い思いをしたくせに、ロックは商品を持ち逃げされたことを素直に悔しがっていた。