冗談にもならない/前編
二人は人目を避け、城の裏手の通用口から外へ出た。そこから伸びる細い道は、小さな森に続いている。踏み固められた道の上に、蹄の音が緩やかな間隔で響く。
野掛けにはおあつらえ向きな、よい天気の日だった。午後の日差しが吹きつける風を適度に温めてくれている。のんびり馬に揺られるのも悪くない気分だった。少なくともアロイスはそう思う。
そうは思わない人物もいるようだが。
「怖くはありませんか」
アロイスはやや大きめの声で尋ねた。
しかし返事がない。そこで首だけを動かし、後ろを確かめる。
そこにいるはずのルドミラの顔は見えない。飛び跳ねるように揺れる栗色の髪と、ドレスを纏う細い肩だけが見えている。彼女はアロイスの背にしがみつき、顔を伏せていた。
「こ、怖くなんて。この程度、どうってことなくてよ!」
言葉の割に震える声も、アロイスの背中へ直に伝わってくる。ともすれば上着がちぎれそうなくらいに強く、きつく縋られていた。語るに落ちたというところだが、さすがに馬上で彼女をからかう気にはなれない。
「それはよかった」
アロイスはおかしいのを堪えながら令嬢に告げる。
「あまりびくびくしていると、怯えが馬に伝わってしまいます。馬は賢い生き物ですからね」
「冗談でしょう! わたくしが怯えているように見えて?」
「いいえ、見えませんとも」
答えてからアロイスは前に向き直り、そして密かに苦笑する。
何だかんだと大人びたことを言ってみせても、所詮は十八の若い娘だ。聡明さと勝気さで鳴らすかの令嬢にも、恐怖を感じる瞬間は確かにあるらしい。アロイスは胸のすく思いで手綱を握る。
「怖くなんか、ないんだから」
念を押すように、ルドミラが呻く。
もちろん、そう言いながらもアロイスの背からは決して離れようとしない。
おののいているのは馬上の高さか、それとも揺れの大きさか。横乗りの不安定さも一役買っているのかもしれない。しかしドレス姿のルドミラに鞍を跨がせることはできない。
手綱を取っているわけでなし、走らせているわけでもなし、さして怯えるほどのこともないのだが――そう思うのはアロイスが乗馬に慣れた人間だからだろう。あの殿下ですら初めのうちは、馬の背の揺れにびくついていたほどだった。
この鹿毛の馬に乗るのも久し振りだった。
ややおとなしい気質をしているせいで、騎士団では不用とされた馬だ。本来ならばどこか農家へでも払い下げられ、城で飼われることもないはずだった。
だがその当時、少年期に入ったばかりのカレルが乗馬を始めたいと言い出した。気性の穏和な馬ならば練習用にはぴったりだと、特別に飼い始めたのだった。カレルが大きくなってからはしばらく出番もなかったが、この気質はご婦人を乗せる役割にこそ適任と、厩からこっそり連れ出してきた。
久々に人間を、それも大人を二人を乗せるとあってか、鹿毛の牡馬は並足でもどこか逸っているそぶりだった。乗った背から黒いたてがみを見下ろせば、懐かしさと愉快さがない交ぜになった、奇妙な思いがアロイスの胸を過ぎる。
この馬にカレル以外の人間と乗り合わせる日が来ようとは。
それも相乗りの相手は妙齢のご婦人、アロイスの年齢のようやく半分という小娘だ。幼い頃の愛馬に自分が、ルドミラと共に乗ったと聞けば、カレルはどんな顔をするだろう。
度肝を抜かれた王子の面持ちが、想像の中にぽつんと浮かんだ。
打ち明けたいような、しかし秘密にもしておきたいような。まさに奇妙な心境だった。自分の心もまた逸っていることを、アロイスは正直に自覚している。
久し振りの休日を若い婦人と過ごすというのも、なかなか悪くないものだ。
「ね……ねえ、隊長さん!」
震える声を背で聞いた。
どうしましたと問い返す前に、しがみつき直したルドミラが続けて叫ぶ。
「一体どちらへ向かうつもりなの? それと、あとどのくらいで着くのかしら!」
口ぶりから察するに、とにかく早く着いて欲しい様子だった。抱えた菓子の包みがどうなっているのか、アロイスはそちらの方が余程気にかかる。あまり強くしがみつかれても困るのだった。
並足でこの怯えようなのだから、速駆けでは一体どのような反応をするだろう。湧き起こる悪戯心はすんでのところで堪えたものの、口元に浮かぶ苦笑いは消しようもなかった。
「もうじき着きますよ。きれいな沢がありますから、そこで野掛けと参りましょう」
答える声の合間に、森の木々が立てる葉擦れの音がさやさやと聞こえた。
二人を乗せた鹿毛の馬は、森を貫く小道をゆっくりと辿り始めていた。
人の手が加えられた森は、何の予定もない日には至って静かなものだった。
道を外れても迷う心配のないほどの広さで、外れには清浄な沢がある。そのほとりで馬を下りたアロイスは、次いでルドミラに手を差し伸べた。
令嬢は握り潰すほどの強さでアロイスの手を掴むと、こわごわと馬から下りた。馬上で散々揺られてきたからか、靴底が大地に触れた直後、ルドミラは大きくふらついた。
「大丈夫ですか」
アロイスはとっさに彼女を抱き留めた。
その腕に縋りながら、ルドミラは珍しく弱々しい声を立てた。
「へ、平気よ、ありがとう。ただ……わたくしは馬車の方が性に合っているみたい」
「それは残念です。しかし、よい経験にはなったでしょう」
軽口のつもりで応じれば、ルドミラの口元にもようやく引きつった笑みが浮かんだ。
「確かにね。次の機会があるなら、馬車を用意してと真っ先に頼むことにするわ」
それから彼女はアロイスの傍を離れ、大きく息をつきながら辺りを見回す。
昼下がりの木漏れ日によって明るく照らされ、木々の幹や地面、それに川のほとりに点々と日だまりを作っている。木々は瑞々しい青葉をのびのびと広げ、小さな森の奥まで緑の天井に覆われているようだった。
流れる沢の水は止め処なく、時々ちかちかと目映く輝いた。心地よいせせらぎの音に交ざり、風の音、木々の揺れる音、どこからかは鳥のさえずりも聴こえる。
視界を占めるのはひたすらに暖かで、のどかな光景だった。
「この森へ、昼間いらしたことは?」
視線を巡らせるルドミラに、アロイスはそう尋ねた。
途端にルドミラはつんと澄まして、
「夜ならあるわ、無理やり連れてこられたことがね」
いかにも揶揄するように応じてみせる。
お互いに思い出すのは同じ夜の出来事だろう。カレルがマリエと共に城を抜け出した日の夜のことだ。あれからいくらか日が過ぎて、あの頃と比べると何もかもが変わってしまったようだった。
アロイスから見たルドミラの印象からしてそうだ。
ルドミラは唇を尖らせ、わざと不満げにアロイスを見上げている。自慢の美貌もそういう表情をしていれば台無しで、今の彼女は実にあどけなく映る。だがその分、睨まれようが皮肉を言われようが嫌な気はせず、むしろ可愛いものだと思えてくるのが不思議だった。
彼女とこうして休日を過ごすまでになるとは、全く運命とは奇妙なものだ。
自分の運命の先くらい、既に見通せているものと思っていたのに。
「絨毯か何かのように、でしたね」
冗談めかしてこんなことを口にできる日も、訪れるとは思っていなかった。
それでルドミラが、屈託なく笑ってくれることがあるなど、想像もつかなかった。
「ええそうよ、あんな扱いは生まれて初めてだったわ」
作ったような不満顔はすぐに消え、ルドミラは機嫌のよさを取り戻した。軽く笑んだまま、きょろきょろしながら答える。
「でも、明るいうちに来たのは初めてよ。街からお城へ行くにはこの道の方が早いのでしょうけど、この森は時々入れなくなるという話を聞いていたものだから」
「仰る通りです。ここは必要に応じて人払いをします。あの夜もそうでした」
「お城で管理なさっているとも伺っているわ」
「よくご存知ですね、ルドミラ嬢」
アロイスは頷き、穏やかに語を継ぐ。
「だからこそ、なのです。そういう場所だからこそ、本日はあなたをここへお連れしたかった」
そこまで告げた途端、森の中を見回していた令嬢は弾かれたようにアロイスを見上げた。長い睫毛で怪訝そうに瞬きをする。
「それは、どういうことかしら?」
「後でお話します。しかしひとまずは」
問いには答えず、アロイスはルドミラの抱える染物の包みに目を向ける。気のせいか宿舎で見た時よりも、形が若干ひしゃげているようだ。
「そちらのお菓子をいただいてもよろしいですか」
「え? ええ……よくてよ」
一瞬戸惑いを見せたものの、すぐに笑んでルドミラは頷く。染物の包みを手の上で解けば、円よりも半円の形に近づいたケーキが現れた。
「少し潰れてしまったかしら」
「だとしても、味が損なわれることはないでしょう」
「……そうね、きっとそうよ。味の方は間違いなくてよ」
アロイスの言葉を聞き、年頃の令嬢は嬉しそうにしてみせた。
急な外出となったせいで、あれこれと持ち出せなかったものがあった。
まず地べたに敷く布を忘れた。アロイスは気を揉んだが、ルドミラはさして気にせず、川のほとりに腰を下ろした。ドレスの汚れを恐れるそぶりもなかった。
茶器を用意している時間はなく、コップすら持ってきていなかったので、沢の水は手ですくって飲んだ。ケーキを切るナイフもなかった為、やむなく懐剣で代用した。ケーキがこびり付いた刃を拭き取りながら、あまりの無作法さにアロイスが笑うと、ルドミラもつられたようにくすくす笑ってくれた。
ケーキ自体の味は悪くなかった。きめの細かいしっとりとした生地に、香ばしいクルミはよく合った。砂糖や酒が控えめで、癖が少なく仕上がっていた点も実に好みだった。馬が草を食む傍ら、アロイスはケーキに舌鼓を打つ。
「美味しゅうございます」
「そうでしょう。何と言っても殿下が首っ丈でいらっしゃるケーキなのだから」
率直な感想を聞き、ルドミラは相好を崩した。
その後で軽く肩を竦める。
「もっとも殿下が首っ丈なのは、ケーキを作る人の方なのでしょうけどね」
「仰る通りです」
アロイスも心の底から頷いた。
カレルが好きなのは、あくまでもマリエが焼いたクルミのケーキだ。同じ味のものを他人が焼いたところでああも喜びはしないだろうし――いや、同じ味わいのものを作れる者も、恐らくはいないのだろう。マリエが作る料理やお菓子には、彼女の想いが詰まっている。
では、このケーキはどうだろう。アロイスはふと、食べかけのクルミのケーキに目をやった。マリエお手製のケーキは食べたことがないので比べようもなかったが、ルドミラが作ったこれには、果たして何が詰まっているのだろうか。
「わたくしにも作る機会があってよかったわ」
ルドミラがぽつりと呟いた。
アロイスが面を上げると、彼女は栗色の髪を揺らして笑う。
「作り方を教わったところで、食べてくれる人なんているかしらと思っていたところなの」
その輝く笑顔を、アロイスは複雑な思いでしばし見つめた。