幾度も生まれる恋を殺して/後編
扉が薄く開いているせいか、ランタンの炎が揺れていた。淡い影を背負ったルドミラが、吐息まじりに呟く。
「少しばかり、安心できてよ」
廊下には聞こえぬようにか、低く抑えた声だった。
「わたくし、疑っていたの。あなたが殿下とマリエの仲を裂こうとしたのではないかと思って。でも、それはわたくしの思い過ごしだったようね」
なかなかいい読みをする。
面にこそ出さなかったが、アロイスは内心ひやりとした。敏さでは同い年のカレルのはるか上を行くようだ。
「あの夜のことは、殿下の御為を思っての振る舞いだったのね。そのように解釈してよくって?」
それは間違いない。深く顎を引く。
「ええ。仰る通りです」
「これから先も、お二人を無理矢理引き裂こうなんて真似はしないでしょう?」
それも、恐らくは。
先だっての件も好き好んでやったことではない。二度とああいう機会が訪れなければよいと、アロイスも思う。
激高するカレルに殴られた件も含めてだ。王子殿下に護身術を教えたのは他でもないアロイスだったが、いつの間にやらその拳は重く力強く成長していた。あの日に拵えた痣もようやく消えた頃だった。
「もちろんです、ご令嬢」
心からのアロイスの答えを、ルドミラは満足げに受け取った。
やがて、はにかむように唇を解いてみせる。
「それならよくてよ。あなたを許して差し上げても」
「……感謝いたします」
アロイスはすかさず深々と頭を下げた。
予想以上にあっさりと許されて拍子抜けしたが、面倒事がきれいに片づき、主命を果たしたことにほっとしていた。
安堵が表情に出てしまったのか、アロイスを見た令嬢がくすっと笑う。
「あら、胸を撫で下ろしているわね。わたくしがそんなに恐ろしいのかしら?」
「そういうわけでは、決して」
アロイスもつられて笑いそうになり、慌てて表情を引き締める。
ルドミラを相手取るに当たり、拗れに拗れる先行きを想定していた。この小娘に手を焼かされるのが憂鬱で、殿下がこの関係の修復を諦めてくださったらとさえ思っていたほどだ。
「近衛隊長ともあろうお方が、わたくしみたいな娘が怖いだなんて、おかしな話ですこと」
ルドミラにはアロイスの安堵ぶりが愉快だったようだ。からかうように言われた。
「怖いなどとは……思っておりません」
「そうかしら。今のあなた、猫に見つかった小さなねずみのようよ」
猫のような令嬢が喉を鳴らして笑う。
小さなねずみとは似ても似つかぬ長身強面のアロイスは、しばらくの間ぽかんとしていた。だがルドミラがあまりにも朗らかに笑うので、遂にはつられて吹き出してしまった。
「――失礼」
その後で詫びると、ルドミラは気を悪くしたふうもなく小首を傾げる。
「あなたって正直な方ね。殿下と同じで、すぐお顔に出るのね」
王子殿下と同じだと言われて、本来なら畏れ多いと言うべきなのだろう。しかしアロイスはこの時こそ正直に応じた。
「畏れながら、殿下ほどわかりやすくはないつもりですが」
不敬な物言いにも、ルドミラはおかしそうに華奢な肩を揺らした。
「それもそうね。殿下のお顔のわかりやすさと言ったら、見ていて愉快な気持ちになってくるほどですもの。初めてお会いした時も、わたくしを蔑ろにしてマリエのことばかり気にかけておいでで」
令嬢の声は知らず知らずのうちに大きくなっていたようだ。
書庫の外で再び、咳払いが聞こえた。
ルドミラは首を竦め、アロイスに向かって唇の前に人差し指を立ててみせる。
それから椅子に座ったまま、ひざまずくアロイスの耳元に囁きかけた。
「でも、殿下は素敵な方だわ」
秘密を打ち明けるような、甘く優しい囁き方だった。
面を上げたアロイスが目を見開くと、ルドミラの表情もふと優しくなる。
「わたくしはお会いしてからずっとそう思っていてよ。だけど……そうね、マリエには内緒にしておいてちょうだい」
どういう意味かと、尋ねる言葉を飲み込んだ。
尋ねずともわかる。今の、目の前に見える照れ笑いからは、推測する必要もなくたやすく読み取れてしまう。
若い娘の唐突な打ち明け話に、アロイスは戸惑った。
それを意に介さず、ルドミラは小さな小さな声で続ける。
「わたくしはね、お会いする前から殿下をお慕いしておりましたの。内緒よ」
心の奥底にしまい込んできただろう秘密を、大切な宝物のように打ち明けてくる。
「お会いする前から、お顔は何度か拝見したことがあったし、お話ししたことはなくても噂はたくさん耳にしておりましたもの。殿下はとても快活で、そうでありながら粗暴なところのない、お優しい方だって伺っていたわ。陛下とは似ていらっしゃらないあの白金色の髪も、とてもおきれいだと思っていたの」
ルドミラの柔らかそうな頬に赤みが差した。
先程とは違い、怒りのせいではないことは明らかだった。
「わたくしだけではなくてよ」
令嬢の告白を、アロイスは無言のまま受け止める。
「わたくしと同じような、貴族の家に生まれた娘は皆そうなの。皆、同じように殿下をお慕いしているのよ。父や母からそういうふうに教わって育つの――この国を愛するように、この国の未来を担う殿下のことをお慕いするようにって。わたくしもそのように言い聞かされて育ったから、殿下に初めてお会いする時は、素直に胸がときめいたわ」
そこまで話すと、ルドミラは苦い記憶を思い出したように笑みを翳らせた。
「でも、お会いしたその日にはっきりと悟ったわ。あの方が誰を想っておいでか、誰を大切にしていらっしゃるか、わかりやすいことこの上なかったもの」
カレルがルドミラを初めて招いた日のことは、近衛兵の間では笑い話として存在していた。
不器用かつ一途な殿下が、かねてより想いを寄せていた近侍の失敗を庇い立て、それによって気性の荒い令嬢の神経を逆撫でし、怒らせた。
額面上はそういう話だった。
その裏側に令嬢のどんな想いが潜んでいたか、アロイスは今日まで思い至らずにいた。
「あの日、殿下がわたくしを蔑ろになさった時はとても腹が立ったわ」
ルドミラが長い睫毛を伏せる。
「だけど帰宅して、頭を冷やして考えたら理解できたの。わたくしや他の皆が、遠目に見たお姿や噂話からするのとは違う、本当の懸想を、殿下はなさっているんだって。そうでなければあんなふうに必死になられたりはしないだろうって……」
彼女が本当の懸想をしていたのかどうかは、アロイスには判別つきがたかった。
そもそもカレルを訪ねてくる貴族令嬢たちの意思がどこまで純粋なものか、眺めているだけでは掴めなかった。令嬢よりも余程熱心な親がいるという話は、いくらでも耳にしている。ルドミラの父親も社交界ではなかなかのやり手だという噂もあり、娘の教育には熱心だったであろうことも察しがつく。
ルドミラが言ったように、カレルは愛されるべき身分だった。
国を愛するように想われ、敬われ、慕われるべき存在だった。
それと引き換えに、この国と国の民の為、生涯を尽くす使命を背負っている。
カレルは決して、誰か一人のものにはならない。誰かを一途に愛そうが、誰かに一心に想われようが、たった一人の為には生きられない立場だ。妃を娶ったとしても、その相手だけを想って生きることは出来ない。だから妃を娶らず、身分の低い女と想いを通わせる生き方は、カレルにとっても辛く険しい道のりになるはずだった。
多くのものを犠牲にしてゆかねばならない。マリエの人生も、自由も、あるいはもしかすれば、自らに対する想いそのものも。
カレルにそれだけの覚悟があるのか、アロイスは不安を抱いていた。同じく犠牲になる者の立場として――いや、犠牲と言うのもおこがましい。主の為に捧げるもののあることは、従者として何よりも光栄なことだった。カレルにもそう思っていて欲しかった。失うものがあっても、あえて息の根を止めるものがあっても、全てはカレルの為に是としてなされることなのだと、思っていて欲しい。
ルドミラを筆頭にした令嬢たちの懸想も然りだ。
彼女の本心を当のカレルが聞けば、いかに気のない相手と言えどいくらかは思い煩うだろう。だからこそルドミラもカレルを退出させて、アロイスだけに打ち明けてきたのだろう。
貴い御身を守る者としては事実だけを受け止め、いつか殿下の耳に入った時には率直な思いを進言差し上げよう。アロイスはそうと決めていた。
「もちろん、わたくしにだってお二人の仲を引き裂く気はなくてよ」
ルドミラの密やかな告白は続く。
「殿下が一番素敵でいらっしゃるのは、マリエを傍に置いて、マリエのことだけを見つめていらっしゃる時なんですもの。あの青い瞳に情熱の炎が灯ると、とても明るく、美しく輝くのを、あなただって見たことがあるはずよ。顔だっていつも素敵だけど、マリエを思っていらっしゃる時が一番凛々しくて、希望に満ち満ちているんですもの。そうでしょう?」
問われて、アロイスは無言で頷く。
「だからわたくしも、純粋にお二人の幸いを願っているわ」
ルドミラが、両手を重ね合わせて自らの胸に当てる。
祈るようなその仕種が、ランタンの柔らかい光の中では冒しがたい神聖さに映った。
「あなたにだってそうよ、隊長さん。お二人の邪魔はして欲しくないし、もう二度とあんな振る舞いはして欲しくないの。そのことを約束してくれたら、本当に、完全に許して差し上げてよ」
その言葉の後で、愛らしい唇にとびきり明るい笑みを閃かせた。
「わたくしを絨毯みたいに抱えて、ぞんざいな扱いをしたこともね」
アロイスはその笑顔のあどけなさを瞼の裏に焼きつける。
カレルとマリエがそうだったように、ルドミラもまた、いつまでも幼いままではないだろう。いつかは大人になり、現実を知ることとなる。約束の儚さと、カレルの置かれた立場とを、彼女にもまた見せつける結果となるのかもしれない。
それまでは、彼女の幼さに合わせてやってもいいだろう。かつてのカレルと同じように、懸想に甘い夢を見て、現実を砂糖でくるみたがっている彼女の為に、物わかりのよい年長の理解者のふりをしているのがいい。その方が、少なくとも波風は立ちにくい。
真実など、彼女には打ち明ける必要もない。
「お約束しましょう」
アロイスはなるべく友好的に笑み、囁き返した。
即座にルドミラも表情を明るくして、はしばみ色の瞳を柔らかく細める。
「そう、よかった。それならわたくしもあなたを許すことにするわ」
「ありがとうございます、ルドミラ嬢」
感謝を込めて名を呼べば、年若い令嬢はどこかくすぐったそうにしてみせた。
「いいのよ。こちらこそ、つまらない話まで聞いてくれてありがとう」
そしてすぐに椅子から立ち上がり、一つ大きく伸びをした。およそ行儀のよい振る舞いではなかったが、アロイスは黙認していた。
「じゃあ、そろそろ殿下をお呼びしましょうか」
これは囁きではなく、普段通りの声量でルドミラが言う。
「あまり長い間ひそひそと話していては、かえって不審がられてしまいますもの。じっくりとお耳を澄まされていては堪りませんものね」
その後で振り返った令嬢は、ランタンの明かり越しに書庫の扉を見た。
ごく薄く開いていた隙間には、最後まで気がつかなかったようだ。
そして廊下の気配から察するに、今の会話の肝心なところは、カレルの耳には届かなかっただろう。
それでもいつかはわかることはずだと、アロイスは思う。
カレルがその想いを貫く為に、殺してゆかねばならないものについても。