言葉は巡り、繰り返す
かつて、幼い王子殿下はマリエに向かってこう言った。「私はマリエの部屋へ行きたい」
既に夜更けを迎えていた。王子殿下は寝間着に着替え、あとは寝台に入るだけという時分だった。
マリエが寝室に置かれたランタンの油を足し、挨拶を済ませて退出しようとしたところで小さな手に袖を引かれた。
「もう戻る時間なのであろう? ならば、私も一緒に行く」
上目づかいで懇願するカレルに、近侍になったばかりのマリエは困惑した。
「殿下はもうお一人でも眠れると伺っておりましたが……」
「確かに私は一人で眠れる。だが今宵はマリエの部屋へ行きたい」
「お言葉ですが、わたくしの部屋は殿下をお招きするようなところではございません」
「誰が決めた? この城の中に王子たる私が入れぬ部屋があるとはおかしな話だ」
カレルはこの時十歳にもなっていなかったが、幼いながらも聡明で弁舌に長けていた。少なくとも、仕事しか知らない小娘のマリエを黙らせるには十分だった。
「ですが……あまりきれいな部屋ではございませんので」
マリエは苦し紛れにそう言った。マリエの私室はこの頃よりただ睡眠を取る為だけの部屋でしかなく、王子殿下を招くにふさわしい場所ではない。そもそも机と寝台だけで手狭になってしまうようなみすぼらしい部屋だ。連れていくわけにはいかなかった。
それ以前に、たとえマリエが根負けしたとしても、近衛の兵達が許しはしないだろう。
「では、マリエは汚れた部屋に住んでおるのか?」
カレルが目を瞬かせたので、マリエはますます困り果て、
「いえ、もちろんきれいに使ってはおります」
「ならば私が訪ねてもよいではないか」
「殿下にはこのお部屋で眠っていただかないと、兵達も務めが果たしづらいでしょう」
「彼奴はいい、少しくらい苦労をすべきだ」
近衛兵について話が及ぶと、カレルはなぜか顔を顰めた。怪訝に思うマリエに向かってまくし立ててくる。
「元はと言えばアロイスが悪い。私に幽霊の話をした」
思わぬ剣幕で飛び出してきた言葉にマリエはぎょっとした。
「では、殿下は幽霊を恐れて、わたくしの部屋へ来たいと仰るのですか?」
「怖いなどと誰が言った。私は全く怖くはないが、お前のところへ現れては困る」
「わたくしの身を案じてくださっていると……?」
マリエは驚きながら聞き返す。
するとカレルは白金色の髪を揺らし、もっともらしく頷いた。
「古い城には幽霊がいるのだそうだ。それも人に取りついて精気を奪う質の悪い奴だ。日が落ちると現れて青白い顔で城内を徘徊しては、眠るべき時分に眠らぬ者を見つけて取りつくのだという」
話に耳を傾けながら、マリエは青白い顔の幽霊を思い浮かべて恐ろしさのあまり身震いした。そんなものいるはずがないと頭では理解していても、ひとたび想像すると本当に現れるのではないかという不安が胸を過ぎる。
「アロイスの言うことだから真実かはわからぬが、万が一現れた時には私がお前を守る」
この小さな王子殿下は、どうも胡散臭い話を吹き込まれた模様だ。アロイスという名の若き近衛兵がカレルと親しいことは知っていたが、殿下にあまり妙な話をして欲しくないとマリエは思う。マリエもまだ十代前半の少女、この手の話を聞いて平気でいられる歳ではない。
そして何より、カレルが妙に張り切っている。
「案ずることはないぞ、マリエ。私はアロイスより木剣の扱いを習っている」
「幽霊に剣が効きますでしょうか」
マリエは頭を抱えた。主が冗談で言っているならまだしもいたく本気の様子で、おまけに自分の身を案じてくれているのだ。その心遣いだけならとても、思わず微笑んでしまうほど嬉しいものなのだが。
「殿下。お気持ちは嬉しく思いますが、やはり今宵はここでお休みくださいませ」
やがてマリエは、宥めるようにカレルの肩に手を置いて、傍らの寝台に座らせた。
小さな王子殿下は抗うように身を捩る。
「何を申す、お前はどうする気だ」
「わたくしは殿下がお休みになるまでお傍におります」
そう答えるとマリエは寝台の枕元に椅子を引いた。カレルが眠りに就くまで、今宵はここに留まろうと思った。
「私が寝たら、お前を守る者がいなくなる」
「わたくしなら平気です。それより殿下がお休みになれない方が困ります」
「だが、お前にもしものことがあれば……」
「その時は殿下のお傍まで、走って逃げて参ります」
マリエは微笑むと、不承不承ながらも寝台に横たわったカレルに毛布をかけた。肩口を包むように毛布を引き上げると、その上からあどけない顔を覗かせたカレルが言った。
「必ずだぞ。誓え、マリエ」
「お誓いいたします、殿下」
「幽霊が出たら私が守る、だからちゃんと逃げて参れ」
「仰せの通りにいたします」
しっかり頷き返したからだろう。安堵したカレルはすぐに瞼が重くなったと見え、寝台の上でうつらうつらし始めた。傍らに座るマリエの袖をしっかりと握りしめたまま、やがて静かに眠りに落ちた。
小さな主の安らかな寝顔を見下ろせば、マリエの胸にも優しい気持ちが満ちてくる。
こんなにも幼いのに、この方はわたくしを気にかけてくださる。わたくしもこの方の温情に報いる従者であらねばならない――。
そう誓いを立てたのは十年も昔の話だ。
時が経ち、既に少年ではなくなったカレルがある日、言った。
「私はお前の部屋へ行きたい」
かつて聞いたのと同じ言葉だった。
くしくも夜更けを迎えていた。ちょうどカレルが寝室へ入ろうかという時分だった。マリエが寝室に置かれたランタンの油を注ぎ足した直後、追い駆けるように寝室へ入ってきたカレルが切り出したのだ。
「そういえばお前の部屋に入れてもらったことがないからな」
昔とは違い、もう上目づかいで見られることはなくなっていた。むしろ背の高い主から見下ろされるばかりだった。顔つきも昔とは違い、何か楽しいことでも見つけたかのように笑んでいる。
「な、何を仰るのですか」
マリエは慌てるあまり油壺を取り落としそうになり、それをカレルが素早く拾い上げた。マリエの手に返しながら得意げに続ける。
「私とお前は長い付き合いだ。なのにお前の部屋を知らぬのは何だか悔しい」
「お言葉ですが、殿下をお招きできるような部屋ではございません」
「しかし聞くところによれば、アロイスはお前の部屋へ入ったそうではないか」
「わたくしが倒れた時の話でございます。わたくしからお招きしたわけでは決して」
城を抜け出し町へ出かけた日の話だ。倒れてしまったマリエを部屋へ運んでくれたのは近衛隊長のアロイスだった。もっともそれは気遣いと同時に、監視の意味もあったのだろう。
何にせよ主に疑いをかけられるような類の話ではない。
「お前はアロイスを部屋に入れておいて、私には来るなと申すか」
カレル自身もそれをわかっているのだろう。マリエに対する口ぶりは試すようでもあり、駆け引きを楽しんでいるようでもあった。マリエが口ごもるとますます愉快がって語を継いだ。
「一度見てみたいと思っていたのだ、お前がどんな部屋で寝起きしているかを」
「ご覧になって面白いものではございません」
「面白いかそうでないかは私が決めることだ」
「本当に何もないところでございますから」
いよいよマリエが困り果てると、カレルは目を細めてマリエを見やる。
「何もないということはあるまい。お前がいる」
その笑顔が、マリエにはなぜか笑っているように見えなかった。気圧されて俯くと、なぜか頬がかっと熱くなる。
主の言葉が命令でないことはマリエにもわかっていた。命令であれば、カレルは必ずそうとわかるように言う。従わせようとして言っているわけではないと理解していたからこそ、マリエは狼狽していた。
敬愛する主に粗末な自室を見せるだけ、それだけであれば拒否する理由もないのだろう。だがマリエには自分でも把握しきれぬためらいがあった。そういえばかの『求婚入門』にもこう記されていたはずだ――未婚の婦人であれば身持ちは堅くあるべし。自室に軽々しく殿方を招いてはならない。
「わ、わたくしも一応は婦人でございますし、いかに殿下のお頼みと言えど、夜分遅くに殿方を部屋へお招きするのはその、いかがなものかと存じまして……」
しどろもどろの反論に、寝室は一瞬水を打ったように静まり返った。
直後、カレルは大声を上げて笑い出したかとも思うと、
「そうか、お前もそういう解釈ができるようになったか」
なぜ笑われたのか理解できないマリエに、笑いながらもいとおしげに腕を回して抱き寄せた。
「お前のことだ、てっきり何も知らぬままかと思ったぞ」
「で、殿下……?」
「私は純粋な好奇心から『お前の部屋が見たい』と言ったのだ」
「……えっ」
突然笑われ、油壺を抱えたまま抱き締められ、その上自らの早とちりと来ればマリエにもはや立つ瀬はない。気恥ずかしさに卒倒しそうになりながら、カレルの胸に縋りついた。
「殿下、後生ですから今のわたくしの言葉は忘れてくださいませ!」
「無理な頼みだ。私はしかとこの耳で聞き、心に刻み込んだ」
「ち、違うのです。わたくしは殿下がそういうおつもりだとまでは……」
「弁解せずともよい」
言いながらも、笑いを堪えきれない様子がくつくつと喉を鳴らす音でわかる。
「昔は幽霊を本気で怖がっていたお前が、随分と成長したものだ」
カレルの半ば感嘆したような物言いはマリエにとって少々不本意だった。三つも年下のカレルに子供扱いをされるのは得心がいかない上、かつての自分は『幽霊が怖い』などと一言も口にしていなかったのに――。
「畏れながら、わたくしは幽霊が恐いなどと申し上げた覚えはないのですが」
「言わずともわかる。だから私が守ってやると言った」
腕の中から見上げた顔に、あの頃のあどけなさは一片も残ってはいない。
精悍な青年の面立ちをしたカレルが、青い目でマリエを見つめている。
「私の心は何一つ変わってはおらぬ。幽霊が出たら、私がお前を守ろう」
真摯な眼差しに、マリエは胸を打たれた。このひたむきな主は幼い頃から自分を一心に想ってくれていたのに、マリエは二十一になるついこの間までそれに気づけなかったのだ。そして同じように、自分自身の中にある想いにも。
だが今は、もう知っている。
「殿下……」
込み上げるいとおしさにマリエが堪らず呼びかけると、カレルはマリエの唇に指で触れ、そっとなぞった。
「夜中、お前の部屋に幽霊が出たら、私の元へ逃げて参れ」
「それで殿下にもしものことがあれば、わたくしが困ります」
「お前に何かあれば私の方が耐えられぬ。よいか、心に誓え」
そう言うと、カレルは全ての反論を遮るようにマリエの唇を塞いだ。マリエはぎこちなく目をつむって、それでも幸福な思いで受け入れた。胸の内でかつて交わしたあの日の誓いを思い起こしながら、新たな誓いをどう受け止めるべきかはまだ迷っていた。
しばらくして唇が離れた後、
「……いつか、お前の部屋へ招いてくれ」
乱れた呼吸を整えるマリエの頭上で、カレルが不意に囁いた。
面を上げると、穏やかな面持ちの主がマリエを見下ろしている。
「お前の部屋を見てみたい。今宵でなくともよい、お前の望む時で構わぬ」
「か、重ね重ね申し上げました通り、何もない部屋でございますが……」
「それでもよい。お前がいればそれだけで」
「ですが、殿下にお過ごしいただくにはあまりにも手狭で、みすぼらしい部屋です」
マリエの抗弁にカレルは目を瞬かせた後、どこかおかしそうに言い返した。
「私は何も、お前の部屋で一晩過ごしたいと言っているのではないぞ」
「わっ、わたくしもまさかそのようなことは! 断じて!」
頭巾が吹き飛びそうなほど強くかぶりを振ったマリエを見て、カレルはもう一度声を上げて笑った。
「部屋より先にお前の頭の中を覗いてみたいものだな。私が思うよりもずっと知識豊富ではないか」
「も……ものの本に、そのようなことも書いてありましたから……」
赤くなってうろたえるマリエは、そう答えるのが精一杯だった。