伝書婦人と悪食令嬢(1)
どうやら、ルドミラがアロイスと喧嘩をしたらしい。「いつものことではないか」
カレルは率直な感想を述べたが、それが令嬢の闘争心にますます火をつけた。
「確かにわたくしとあの方は、意見の相違で諍いになることも過去にはございました。ですが今度という今度はそういう諍いの限度を超えておりますの。もう我慢がなりませんのよ!」
彼女が眉を逆立てて語るところによれば。
ルドミラが城を訪ねる際、警護中のアロイスとは顔を合わせたら軽口を叩きあうのが慣例となっていたそうだ。
その軽口というのも、聞く者が聞けば単なる痴話喧嘩としか思えぬ類の代物だったが、本日はたまたま令嬢の虫の居所が悪かった。いつもの軽口がいつしか言い争いになり、二人がカレルの居室前で口論を始めたのはほんの数分前のことだ。
騒ぎに気づいたカレルとマリエが慌てて外へ飛び出すと、顔を真っ赤にして地団太を踏むルドミラと、困り果てて疲労困憊のアロイスとがいた。王子とその近侍が仲裁に入るまでもなく、ルドミラは栗色の髪を振り上げ、足音も荒くカレルの居室に立てこもった。
そして現在、カレルは憤懣やる方ないルドミラの愚痴に付き合わされている。
「大体、あの人は口を開けば職務職務とそればかりで、他のことはまるで頓着しない人ですもの」
ふんと鼻を鳴らし、令嬢はいつになく苛烈な口調でまくし立てた。
「わたくしにはいつも年上ぶった、偉そうな態度を取るくせに、婦人の扱いは全くと言っていいほど下手なんですのよ。誉め言葉の一つも言えないと見えますもの。年の功だなんて言葉もございますけど、あの人にはそんなものありませんわね」
マリエはその傍らで茶を入れながら、さりげなく居室の扉に目を向ける。
完全に閉ざされたその向こうで、控えめな咳払いが聞こえたような気がした。
「アロイスはあれで不器用な男だからな」
そこでカレルがアロイスを庇う。
「職務に当たる間はそれに集中しているゆえ、あなたへの扱いがぞんざいなのも致し方ないこと。恐らく職務を終えて一息つく時には、真っ先にルドミラ嬢の顔を思い浮かべているに違いない」
王子殿下の言葉の後、先程よりも大きな咳払いが響いた。
カレルは愉快そうに扉を見やった後、ルドミラに向き直って告げる。
「そういうわけだから、あなたが案じることはない。あれはああいう男だと受け入れてやってくれ」
「わたくしは別に案じてなんかおりませんけど。あの人がどう思っているかなんて端から存じませんもの」
しかしルドミラは不機嫌そうにカレルを睨み、こう続けた。
「でもまさか、殿下があの人の肩を持たれるとは思いませんでしたわ」
「何を申す。私はどちらに与するとも言ってはおらぬぞ」
カレルは生真面目そうな顔を作って答えたが、笑いを堪えているのを傍らのマリエは見逃さなかった。よく見れば令嬢と囲む円卓の陰で、自らの腕を抓り上げている。
「いいえ、殿下も所詮はあの人と同じ殿方。わたくし達婦人が機嫌を損ねたところで、なぜ立腹しているかなんておわかりにならないでしょう?」
ルドミラが大きく首を竦める。
仮にも一国の王子に対し『所詮』などと言い切る婦人はルドミラくらいのものである。マリエは令嬢の物言いにいつも瞠目させられているが、カレルは慣れたものなのか、気分を害すそぶりもない。
「私はあなたがなぜ腹を立てているのか、理解しているつもりだが」
「あら、それでしたらどうしてあの人にきちんと啓蒙しておいてくださいませんの?」
「近衛の兵の婦人の扱いまで、私が責任を持って躾けろと申すか」
「いっそそうしていただきたい気分ですわ」
令嬢が溜息をついたところで、ちょうど茶の用意ができた。
マリエが二人の前にそれを差し出すと、ルドミラは面を上げ、少し疲れた顔で微笑んだ。
「ありがとう、マリエ」
それからふと思いついたように尋ねてくる。
「ねえ。あなただって殿方の不器用さに腹が立つことくらいあるでしょう?」
「いえ、そんなまさか、そのようなことは……」
問われたマリエは狼狽した。
当の『殿方』がすぐ目の前にいる状況では、たとえ答えが決まりきっていても口にしづらかった。
そもそもマリエにとってカレルは忠心と深い愛情と、そして生涯を捧げる対象だ。
そしてカレルがその双肩に担う重責もよく理解しているからこそ、多少の駄々や無茶を受けても腹を立てることは一度としてなかった。
「あなたらしくもない愚問だな、ルドミラ嬢」
答えられないマリエの代わりに、カレルが素早く口を開いた。
「マリエは私の幼き頃より傍にいるが、腹を立てたところは一度として目にしたことがない。私ですら想像がつかぬ」
するとルドミラはしげしげとマリエを眺めた後、得心した様子で応じた。
「殿下の仰る通りですわね。マリエが殿下に腹を立てるなんて、きっとあり得ないことですわ」
「お蔭で、無理をさせているのかどうかわからぬこともあるほどだ」
カレルが気遣うような眼差しでマリエを見る。
微かに笑んだその表情に、マリエは目で頷き返した。カレルの望みであれば、マリエは自らの力が及ぶ限りあらゆることを叶えて差し上げたいと願っている。カレルの為であればどんなことも無理ではなくなるのだ。
しかしそこで、ルドミラがまた嘆息した。
「お二人とも、よりにもよって今日のわたくしの目の前で見せつけてくださいますわね」
「あっ、し、失礼いたしました」
マリエは慌てて俯いたが、カレルはむしろ冷やかすような口調で応戦した。
「あなたも仲直りをすればよい。たやすいことだ」
「いいえ。今度という今度はたやすく許すつもりはないと決めましたの」
美しい顔を怒りの表情から崩さぬまま、ルドミラはそう言い切った。
普段とは違う彼女の様子にマリエは内心不安を覚える。男女の機微には全く疎いマリエだが、この事態がただならぬことであるのは理解している。このまま放っておいてよいものか、そんな思案を巡らせた時だ。
「マリエ。あなたに一つお願いがあるの」
ルドミラの言葉に、マリエは我に返って目を瞬かせた。
「あの人に伝言をお願いしたいの。『あなたが頭を下げてくるまではわたくし許す気なんてありませんから、話しかけないでくださいませ』とね」
「あなた自身で申せばよいではないか。なぜマリエを巻き込む」
カレルが眉を顰めると、ルドミラはつんと顎を逸らした。
「あの人と口を利きたくないんですもの。おわかりいただけるかしら」
「マリエは私の近侍。頼み事があるのなら、まず私を通すのが筋であろう」
「わたくしは一友人として、同じ婦人としてマリエにお願いしているんですのよ」
ルドミラはそう言い、不服そうなカレルには構わずマリエに向かって小首を傾げる。
「やってくれるでしょう、マリエ」
マリエにとってもルドミラは大切な存在であり、幸いを願ってやまない相手でもある。
立場こそ違えどその境遇には共感できるところも多々あり、その中でアロイスとの仲違いが生じたのであればやはり放ってはおけなかった。
「かしこまりました、ルドミラ様」
見守る主の不安をよそに、マリエは意気揚々と答えた。
ルドミラが帰った後、マリエは手が空いた機を見計らい、アロイスの元へ出向いた。
「アロイス様。ルドミラ様から伝言がございます」
任務中のアロイスにそう告げると、彼は精悍な顔にありったけの苦々しさを浮かべて応じた。
「殿下の近侍であるあなたが、他者の頼みを安請負するのはいかがなものでしょうな」
「伺いました。アロイス様はルドミラ様と仲違いをされたとのこと」
マリエは声を落として畳みかける。
「わたくしはお二人に、元のような仲睦まじさを取り戻していただきたいのです。だからこそ伝言役をお引き受けいたしました」
アロイスはそれを渋面で聞いていたが、どういう心境か、伝言を受け取る気にはなってくれたようだ。鎧の上に羽織る外套の襟を直しながら、やはり低い声で言った。
「手短にお願いします、マリエ殿」
促す言葉が返ってきて、マリエはすかさず頷く。
「はい。ルドミラ様が仰るには、アロイス様から謝っていただきたいとのことです」
「……なぜです」
アロイスが警戒するように目を眇めた。
なぜかと聞かれると、そういえば理由までは聞いていなかった。そもそもマリエはルドミラから諍いの直接の原因を聞いたわけではないのだ。二人がいつものように喧嘩をし、ルドミラはその発端がアロイスにあると言っていたが――。
「なぜかは……存じませんが」
マリエは言葉に詰まりかけ、とりあえず知っていることだけを告げる。
「ルドミラ様はアロイス様が謝ってくだされば、お話をしてもよいと」
「かのご令嬢がそんなことを?」
するとアロイスは口元だけで笑み、呆れたように肩を竦めた。
「あの方にも困ったものです。喧嘩を売る為だけにあなたを寄越すとは」
「いえ、喧嘩を売るというわけでは……」
マリエはルドミラを庇おうとしたが、アロイスが機先を制して言った。
「ではマリエ殿、かのご令嬢にお伝えください。『この手の喧嘩は犬も食べないと申します。何かご用がおありでしたらマリエ殿を介さず、直接お話しください』と」
「そ、そのようなことを、ルドミラ様に申し上げるのですか?」
嫌な予感がした。臆すマリエを、アロイスは咎めるように見やる。
「はい。それでもあの方が喧嘩を売ってくる気でいらっしゃるなら、あの方はとんだ悪食と言わざるを得ませんな」
「お言葉ですがアロイス様、それではルドミラ様はますますお怒りになるのでは……」
マリエは懸念を示したが、近衛隊長の反応は平然としたものだ。
「お怒りになるでしょう。かと言って、ここで私が返事をしなければもっと大変なことになる」
「それでしたらもっと、何と申しますか、優しいお言葉を差し上げてはいかがでしょう」
恐る恐る告げてみてもアロイスはかぶりを振るばかりだった。
「これでいいのです。かの令嬢はすこぶる聡明なお方だ、きっとこちらの真意をご理解くださる」
そこまで聡明でもないマリエには、彼の真意が全く理解できなかった。
結局ろくな仲裁もできないまま、すごすごと引き下がるしかなかった。
数日後、ルドミラは再びカレルの元を訪ねてきた。
その際、警護に立つアロイスとは全く会話がなかったそうだが、マリエが伝言を承っていると告げると無関心を装いながら尋ねてきた。
「それで? あの人は何と言っていたのかしら?」
マリエはこわごわ、答える。
「はい、その……『この手の喧嘩は犬も食べない』と――」
まだ最後まで伝えていないにもかかわらず、ルドミラはそこでぱっと頬を上気させた。
「何ですって!?」
「あ、あの、まだ続きがございまして」
円卓に手のひらを叩きつける令嬢を、マリエはあたふたと宥めにかかる。そんな二人を、カレルはいかにも何か言いたげな顔で見守っている。
「何よもう……続き、聞きましょうか」
ルドミラは唇を尖らせながら続きを促してきた。
そこでマリエも意を決し、伝言の後半部分を口にする。
「何かご用がおありでしたらわたくしを介さず、直接お話しください……と」
「……あの人」
低く呟いたルドミラはもはや耳まで赤く紅潮し、ドレスをまとう細い肩はわなわなと震えていた。表情からは怒っているのか、恥じらっているのか、マリエには判別がつかなかった。
カレルが笑いを堪える表情で口を挟んだ。
「ルドミラ嬢、そろそろ引き際ではないか。ここは素直に、彼奴の言葉を聞き入れるがよい」
「殿下! やはりあの人の肩を持ちますのね、これだから殿方は!」
すかさずルドミラは噛みついたが、真っ赤になった顔では普段ほどの迫力もない。気づけば目も潤んでいて、思わずマリエがその顔に見入っていると、ルドミラはきっとマリエを見据える。
「マリエ、伝言を頼まれてちょうだい!」
「構いませんが、よろしいのですか? アロイス様は直接お話しくださいと言っておりましたのに」
マリエが聞き返す横で、カレルは黙って首を横に振っている。制止しようとしているのだろうが、マリエも自らが事態をややこしくしている自覚はあった為、ここで下りるのは気が引けた。
そしてルドミラは険しい表情で言い放つ。
「『前回も、謝るまでは話しかけないでと言ったはず。そちらが謝るまではわたくし、徹底抗戦の構えを続けるつもりでいるから』と伝えて。いいこと? 徹底抗戦よ!」
剣呑な物言いに、マリエは密かに震え上がった。
そしてルドミラ嬢が先日よりも足音荒く帰っていった後――。
「マリエ。お前はいつまで伝書鳩の真似事をする気だ」
二人きりになった居室で、カレルはマリエに尋ねてきた。
唐突な問いにマリエは目を瞬かせた後、おずおずと回答する。
「アロイス様とルドミラ様、お二人が和解をされるまではと考えております」
「お前が伝書鳩を続ける限り、お前の思う和解はなかなか訪れぬと思うがな」
カレルは深く笑み、今の発言に強い確信を抱いている様子だった。
それではマリエも黙っていられず、間髪入れずに問い返す。
「殿下。わたくしはお二人のお役に立てていないと、そう仰るのですか?」
「いいや。ある意味では、お前はとてもあの二人の役に立っている」
ゆっくりと首を振り、白金色の髪を揺らしながらカレルは語を継いだ。
「よいか、マリエ。あの二人はお前を介して睦言を楽しんでおるのだ」
「む……睦言でございますか」
何とも面映い単語が主の口から飛び出し、マリエは他人事にもかかわらずうろたえた。
しかしカレルは気にしたそぶりもなく、堂々と語る。
「そうだ。お前が伝書鳩をすればするだけ、あの二人の『犬も食べない』ような睦言が延々と続くこととなる」
「はあ……」
「あの二人はあれで十分仲睦まじいのだ。お前が気を揉む必要は全くない」
そういうものだろうかとマリエは内心首を傾げた。
確かによく軽口を叩きあっているあの二人だが、この度の喧嘩はいつもとは違う険悪さを感じ取っていた。放っておけば元に戻らぬのではないかと思えるような――その懸念が現実になって欲しくはないから、マリエは伝言役を買って出たのだった。
「前に言ったであろう。私には、ルドミラ嬢の気持ちがわかると」
カレルは椅子から立ち上がり、傍らに控えていたマリエの隣に並んだ。そしてマリエを真っ直ぐに見下ろしながら続ける。
「ルドミラ嬢は恐らく、不安なのだろう。それを晴らす為に相手の気持ちを確かめようとする」
「不安……ルドミラ様が……」
アロイスはマリエと同じように、その剣と生涯をカレルに捧げると誓った身だ。
そしてルドミラはそれを知った上で、彼を愛すると決めた。かの令嬢は聡明にして気丈だが、まだ十八の少女だ。時には不安に駆られることがあっても何らおかしなことはない。
ならば、アロイスはルドミラの不安を酌んだ上で伝言を返してきたのかもしれない。それにしてももう少し優しい言葉であってよかったのではとマリエは思うが、ルドミラがどう受け取ったかまではわからなかった。
「では殿下、わたくしは今後どのようにするのがお二人の為になるのでしょう」
マリエが教示を乞うと、カレルは近頃とみに大人びた、青年らしい顔つきで頷いた。
「教えてやろう。耳を貸せ、マリエ」
「あっ……」
言うなり肩を抱き寄せられ、マリエはたちまち硬直した。急に熱を帯びた耳朶に主の唇が微かに触れる。マリエは思わず身を竦めたが、カレルは構わずこう言った。
「お前はこれよりもう二度だけ、伝書鳩になるのだ。よいな」
「二度、と仰いますと――」
「内容は今から私が言う。よくよく胸に刻み込んでおけ」
耳元で囁かれる言葉は熱く、覚えにくいことこの上なかったが、マリエは忠心を奮い立たせてどうにか胸に刻み込んだ。