思い出はどこにでも(2)
日々は穏やかに、しかし慌しく過ぎていく。近侍として残された時間がいかほどあるか、マリエは知らない。だが短かろうと長かろうと、心を込めて主に尽くす意思に変わりはない。自分の務めは手抜かりなく果たそうと決めている。
毎日はばたばたと忙しく、数日前のやり取りを振り返る暇もなかった。
この午後も、花瓶に活ける新しい花を摘んできたばかりだ。早足で部屋へ戻ってきて、今は息を弾ませながら花の並びを整えている。いつでも摘みたての、きれいなものを活けておかなければならない。
カレルが、換えてはならぬと命じない限りは。
室内にいるカレル本人には聞こえないよう、マリエは微かな笑い声を立てる。
花瓶を見る度に思い出すのは、二人で城の庭園に出て、共に花を摘んだ日のこと。そしてその花を萎れても枯れても尚、花瓶に飾ったままでいた主の一途さだ。
あれから時が経ち、今となっては幸せな記憶となりつつある。自分がいかに深く想われていたかを知ったマリエは、同じだけの想いを自分からも返したいと望んでいる。
だから、花瓶を置く窓辺に別の影がかかり、ゆっくりと傍らで立ち止まった時も、マリエは微笑んでいた。それが誰の影かは確かめるまでもなくわかる。きっと新しい花を眺めに来てくださったのだろうと踏んで、その人の為により美しく花を活けようと心がけつつ、穏やかな一時をしみじみ噛み締めていた。
窓辺に近づいてきたカレルは、やがて言った。
「マリエ。動くでないぞ」
脈絡のない命令に疑問を覚えた次の瞬間、振り向こうとしたマリエの頭は、首と肩ごといっぺんに抱きすくめられた。背後から、包むように。
背中が温かい。
一方、心はひとたまりもなく蒸発した。
「えっ、あ、あの」
声になったのはそこまで。
あとはもう口をぱくぱくさせるばかりで、急に何をと尋ねることはできなかった。こめかみの辺りにカレルの顎が密着するのを、マリエは訳もわからず受け止めている。
ゆっくりと息を吐いても、包み込まれた肩や首は動かなかった。カレルは強い力でマリエを抱き、そのまましばらく静止していた。
マリエは主を背負うような格好で、実際は半ば支えられる形で窓辺に立っていた。両手は所在なく花瓶に添えたまま。
二人の間の抱擁は、近頃では珍しいことでもない。
だが一定の回数を重ねた今でも慣れるほどの余裕はなく、こういう時、マリエは未だにまごついてしまう。おまけにこんなに明るいうちからでは、たとえ他に誰もいない室内だろうと気恥ずかしく、対処に困る。
それでも、嫌な気がしないのは確かだ。
少しするといくらか落ち着いてきて、自然と俯いていたマリエも、ようやく面を上げることが出来た。カレルが自分を抱きしめたまま、今の今まで黙っているから、マリエの言葉かもしくは行動を求めているのかもしれない。そう察して、こわごわ主を見上げてみた。
意外にも、カレルはこちらを見ていなかった。
マリエの腕の先にある両手――その中の、花瓶を注視していた。
やがて呟く。
「おおむね五本分と言ったところか」
訳がわからなかった。
「……殿下?」
蒸発した後の声で呼べば、カレルはやっとマリエを見て、得意満面に応じた。
「驚かせたか。実は、お前の肩幅を測っていたところだ」
「肩幅……でございますか」
ますますもって訳がわからない。呆けるマリエに主は、青い目で花瓶を指し示しながら説明する。
「お前の肩がこの花瓶で何本分かをこうして確かめている。……もうよい、楽にしろ」
本人だけが満足げに腕を解き、マリエの身体を離したが、離された方は何が何だかといった心境でいる。まず、なぜ、自分の肩幅を花瓶と比べる必要があるのか。
「それを測って、いかがなさるおつもりですか」
「無論、お前の為にドレスを仕立てるのだ」
カレルがそう答えたので、マリエはやっと数日前の令嬢の訪問と、それに伴うやり取りとに思い当たった。
「その件なら、もう納得していただけたものと思っておりました」
「何を申す、納得どころか諦めてもおらぬぞ。確かに私は今のお前も、どこの女にも引けを取らぬと思ってはいる」
背後から覗き込むようにしてカレルが見下ろしてくる。少し昔、悪戯を思いついた時に見せていたのと同じ顔つきだ。
「ならばお前がよその女のように着飾れば、より一層よい見映えになるはずだ。そう結論づけるのも間違いではあるまい?」
「それは、お言葉ですが、わたくしには異論がございます」
「まあ、私の欲目ということもあるし、試してみなければわからぬからな。まずは衣装を仕立てるのが先決。しかしお前が何のかんのと駄々を捏ねて仕立て屋を呼ばせまいとするから、やむを得ず私がお前を測っておいて、それを仕立て屋に伝えるという策を取るまでだ。わかったか」
駄々を捏ねた覚えはなかったが、おおよそのところは呑み込んだ。
つまりカレルはマリエのいないところで衣装を仕立てるべく、先程のように肩幅を測ってみせたということらしい。花瓶と比較するやり方でどれほど正確に測れるものかは疑問だが、ある意味おおらかな主らしい策だとは思う。
「得心したか」
マリエの表情から内心を読み取ってか、カレルは歯を見せて笑った。
「理解はいたしましたが、承服できかねます。そもそも着る機会のございませんものを――」
「いいから黙って測られておけ。次は腰周りだ」
口にしかけた反論は、腰を掴まれた瞬間に引っ込んだ。
「――!」
思わず息を呑む。
マリエは二十一にして大変に初心であり、それに輪をかけて大層な石頭である。
いくら主とはいえ、想い人とはいえ、両手で腰を掴まれるという行為はとっさに許容しがたい。しかし咎めようにも悲鳴さえ上げられない辺りが情けない。
主の大きな手の感触にくすぐったさと身の置き所のなさを覚えつつ、しばらくの間、マリエはただただ硬直していた。
遠のきかけた意識を、主の声が引き戻す。
「――うむ、四本分だな」
たちまち我に返って反応した。
「お、お言葉ですが殿下! 三本の間違いではございませんか」
マリエは初心な上に石頭だが、何よりもまず妙齢の婦人である。
いつになく迅速に異を唱えた近侍を、カレルは目を瞬かせ、訝しがった。
「そうか? 私の目には四本分はあるように見えるが」
「お間違いにならないでください。そんなにはございません」
「間違ってなどおらぬ。どう見ても……」
「三本、でございます」
マリエは頑として主張する。
その顔をじっと見つめたカレルは、やがて合点のいったように告げた。
「見栄を張るでない」
図星を差されて、マリエはうっと言葉に詰まる。
そこへカレルが宥める声音で尋ねた。
「そんなに腰周りが気になるか」
「……お恥ずかしい限りです」
「だから、ドレスを着たくはないと申すか」
「そういうわけでは、決して」
すかさず、それは否定した。そうではない、マリエは自身の容姿をさほど気にしたことがなかった。
ルドミラが美しいのは彼女自身の素養によるものだが、美しいドレスを着ているのは貴い生まれだからだ。そういうことだ。マリエには似つかわしくない。
と、カレルは急に吹き出して、
「しかし先程の、むきになるお前は実に愉快だった。あんな顔はそう見られたものでもない」
「殿下……! どうぞお忘れになってくださいませ!」
「難儀なことを。私はお前の顔なら何もかも、全て覚えておきたいというのに」
羞恥に打ち震えるマリエに、笑いながらも優しく、語りかけてくる。
「私はな、マリエ。傍にいられるうちにいろんなお前を見ておきたいのだ。むきになった顔も、今のように恥じ入る様子も、それから美しく着飾った姿も」
腰を掴んでいた手に力を込めて、抱き寄せてくる。
抗わずに従えば、頭上で幸せそうな吐息が聞こえた。
「お前と過ごした時はいつでも、どの出来事もよい記憶となるだろう。これから先、離れて暮らす日が来ても、お前のことを思い出せさえすれば少しは気が紛れる。だからお前についての記憶は、なるべく多い方がよい」
カレルは幸せな記憶を求めている。
ちょうどマリエが、花瓶と花に思いを馳せていたように、カレルも何かの折にマリエの頑なな主張や我に返った後の恥じ入りようを思い出し、幸せな気分になるのだろうか。
共に花を摘んだ記憶や、花を捨てたがらなかったあくる日のことも思い出しては、懐かしさを覚えたりするのだろうか。
「私はやはり、着飾ったお前を見てみたい」
切々と、主は訴える。
「お前はどうだ。私に覚えていてもらうなら、より美しい姿の方がよいとは思わぬか。お前にも腰周りを気にするような女らしい心があるのだから、着飾りたいという思いとて皆無ではあるまい?」
確かに思う。
カレルの幸せな記憶の中に、分不相応に着飾った自分の姿があるのはどうだろう。場違いかもしれないが、いつもより美しく映るかもしれない自分を、他のどんな表情よりも覚えていて欲しい、と思う。
畏れ多いことでもあるが、もしも――後で思い出してもらえるなら、その姿はせめて、きれいな方がいい。
「しまう場所なら案ずるな。私の部屋に置いておけばよい」
胸を張るカレルに、マリエはようやく少し笑った。
「殿下がドレスをお持ちになるのですか」
「うむ。見る度にまたお前を思い出せる、ならば断じて無駄にもなるまい」
「……それでしたら」
承知いたしました、と半分も頷かぬうちにカレルの顔が輝いた。抱く腕に力を込めて、飛びつくような勢いで語を継ぐ。
「ようやく了承してくれたな! 待ちかねたぞ、では早速だが続きにしよう」
「続き、と仰いますと――」
「もう忘れたか。お前を測るのだ、花瓶でな!」
「お、お言葉ですが……できれば仕立て屋の方を呼んでいただけますか」
マリエはおずおずと申し出て、カレルが途端に不服そうにするのを見た。やむを得ず測っていたという割にはあからさまな落胆ぶりだった。
「何だ。私では不満か」
「いえ、その。わたくしも一応は、女でございますから」
想い人にあちらこちらの幅を知られるのは、何とも気まずいものだった。
四本分もないはずだと思っていてもだ。