まっすぐな目/後編
本来なら、畏れ多いことだった。不敬なことだと自覚しなければならないはずだった。
けれど今のマリエは、そういった思いすら遠くに追い遣ってしまいたかった。
命令を拒む権利があると言うなら、自分の望みとまるで等しい命令に黙って従う権利もあるはずだ。腕の中にいたいと望み、それをカレルが許してくれるのならば、拒む理由はない。
鍛え上げられ、力強い腕の中はとても居心地がよかった。カレルが人を殴るような真似をするのなら、マリエはそれこそずっと、ここに留まっていたいと思う。
この腕が、自分から離れてしまうことのないように。
「……拒まぬのか」
どこか呆然とした声が、マリエの頭上から降ってきた。
直後に腕の力がぎゅうと強まり、マリエはカレルの胸に顔を埋める格好になる。それでも抗わずにいれば、やがて溜息が聞こえた。笑い声のように、短く、微かな吐息だった。
「嫌なら、正直にそう申してもよいのだぞ」
「いいえ。嫌ではございません、殿下」
マリエはカレルの胸に縋りながら答える。
「しかし、これを言えばお前に嫌がられそうだ」
「何でございましょう」
「私は昨日から湯浴みもせず、しかも今日は朝よりずっと、この埃っぽい書庫にいる」
カレルは気まずげに言ったが、言葉とは裏腹に、腕の力を緩めることはなかった。マリエもそんな理由で身を離す気にはならない。
「お前に言われていた通りだ。こういう事態に備え、身だしなみには常に気をつける必要がある。今日からは石鹸も惜しまず、香油もきちんと使うようにしよう」
その言葉に、マリエはすかさず面を上げた。
「耳の後ろもお忘れなく」
「わかっている」
進言に頷いた後、カレルは青い瞳で腕の中のマリエをじっくりと見下ろした。
その眼差しは穏やかだが、何かをためらい、迷っているふうでもある。
マリエには確かめたいことがあった。ルドミラから聞かされた話、昨日観たあのお芝居のこと、そして机上に積まれた歴史書について、疑問はいくらでもある。
だが、何よりも先に、伝えたいことがある。
こうして腕の中にいられるうちに、告げておきたいことがあった。
「殿下」
マリエも真っ直ぐにカレルを見つめる。
これから先はもう、目を逸らしたくはない。
「どうした、マリエ」
いとおしげに名を呼ばれ、それだけで胸がじわりと熱くなる。
きつく抱き締められているのも幸せだった。近侍として、従者としてあるまじき振る舞いにもかかわらず、触れ合う体温で溶けてしまいそうなほど幸せで堪らなかった。
「お話したいことがございます」
マリエが続けると、カレルは唇を微笑ませる。
「奇遇だな、私もそうだ。私も、お前に話したいことがある」
薄々感づかれているのかもしれない。互いに長い夜を越え、ようやく顔を合わせた二人は、心のうちに同じ想いを抱いているのかもしれない。
「それでしたらどうぞ、殿下からお先にお話しください」
「いや、私の話は長くなる。お前が先でよい」
主の言う、長くなるという話も気にはなったが、ともあれ許されたマリエは主を見上げて切り出した。
「先程、ルドミラ様が殿下のお部屋に来ておりました」
「ルドミラ嬢が?」
途端に怪訝そうにしたカレルが、続けて尋ねる。
「今もいるのか」
「いいえ……」
苦い思いを噛み締めながら、マリエも静かに続けた。
「わたくしとルドミラ様は、言い争いになったのでございます」
「言い争いだと? お前が、かの令嬢とか?」
「その通りでございます、殿下」
マリエが眉尻を下げると、カレルは大きく目を瞠った。信じがたい様子でかぶりを振る。
「ルドミラ嬢はともかく、お前が他人と口論をするなどとは思えぬがな。何ゆえそのようなことに」
「お芝居の……昨日、殿下に連れて行っていただいた、お芝居の内容についてでございます」
答えれば、カレルは一層驚いたようだ。
「それがなぜ、お前とルドミラ嬢の言い争いの種になる?」
「ルドミラ様とわたくしとは、結末に対する解釈が違ったのです」
考え考え、マリエは言葉を紡いでいく。
「わたくしは、あのお芝居の二人が結ばれるはずがない、と思っておりました」
カレルはその言葉に眉を顰めたが、声に出しては何も言わなかった。
「二人の間には身分の差がございます。何事もないまま幸せになれるとは、到底思えませんでした」
言いにくい本心も、視線は外さずに口にした。ここにあるものの全てに今こそ向き合いたいと、マリエは思っている。
「ルドミラ様の考えは、そうではありませんでした。あのお芝居の中の二人は、想い合っているからこそ幸せな結末であるべきだ、と。……それで、わたくしとあの方は言い争いになりました」
ルドミラの意見も間違ってはいないはずだ。幸せな結末を信じたくなる心も、年の近い娘同士、十分に理解し得る。
しかし現実はどうだろう。信じる心と愛だけでは乗り越えられないものなど、枚挙に暇がないほどだ。世間知らずで無学なマリエにも、そのくらいはわかってしまう。
「殿下には、あのお芝居は本当にあったことだと伺いました」
マリエはカレルを見つめたまま、一句一句噛み締めながら告げる。
「そうであったとしても、わたくしには幸せな結末が想像できません。身分の差を乗り越えるなどとは、可能か不可能かという以前に、考えてはならぬことのはずです。あの青年にとっては、もしかすればそうではないのかもしれません。けれどあのお芝居の、酒場の歌姫にとっては、彼との未来は考えてはならない、不敬なものであったはずです」
カレルも、マリエを見つめている。何か言いたげに、しかし唇は結んだままで。双眸に、寂しさとも悲しさともつかぬ色を湛えて、マリエの言葉を見守っている。
するとマリエの胸は苦しくなり、そこで一度、息継ぎをした。
「殿下に……」
カレルの腕の中にいるのは幸せなのに、もどかしいような、切ないような、形容しがたい息苦しさも覚えた。
「殿下に、想う方がいると伺った時も、わたくしは同じように思いました。叶えばいいと思いながらも、一方では決して叶わないだろうと思っておりました。それでも殿下に、その方への想いを諦めていただきたくなかったのです」
それは、なぜか。
答えはとうに知れている。
「わたくしは浅ましい女です」
マリエはその思いも、率直に語った。
「わたくしは殿下と、殿下が懸想していらっしゃるその方とが、心底羨ましかったのです。叶わぬ想いでも一時、胸を焦がしていられることが羨ましかった。殿下のその真摯な御心を独り占めしているその方が羨ましかった。わたくしには同じようにはできません。想うことも想われることも叶わず、ただ殿下のお傍で、殿下を見守らせていただくことしかできません。それなら、せめて」
カレルが誰を想っているかは、今日まで確信は持てなかった。いくつかの腑に落ちない事柄が散見され、おぼろげな予感を抱いた後、アロイスにはっきり言われてもなお飲み込めなかったほどだ。
だからこの想いは形にもなるまいと考えていた。
恋にもならぬまま、ひたすら心底で眠らせるだけになるだろうと思っていた。
「せめて殿下が、一心に恋をしていらっしゃるのを眺めていられたらと思っておりました。それもできることなら長く、ずっと見つめていられたらよいと。そうすることで、殿下の幸せなお気持ちの、欠片でも味わうことができたなら、それだけでとても幸いだと思っておりました」
羨ましかった。
たとえ叶わなくとも、身分の低い婦人をひたむきに想っていられるカレルが。
羨ましかった。
そのカレルに一途に想われている、名も姿も知らぬ婦人のことが。
どちらにもなれないと思っていた。マリエが想うなら、それだけで不敬なこととなる。王族に仕える一族の生まれで、幼い頃から従者となるべく教育を受けてきたマリエに、そんな真似ができるわけがなかった。
たとえ互いに深く想い合っていたとしても、身分の差を越える術をマリエは知らない。幸せな結末に至る方法が、あるとは思えない。
「アロイス様から、聞きました」
マリエがためらわずに打ち明けると、カレルが結んでいた口を開く。
「何をだ」
「殿下が……誰を想っておいでだったかを」
声を潜めて話していたつもりだったが、その時、書庫の外でごつんとぶつかる音がした。
たちまちカレルは書庫の扉を睨み、腹立たしげに歯噛みする。
「あの男、何ぞ余計なことを申したか」
「いえ、あの方は殿下の御為になることですからと、わたくしに教えてくれたのです」
マリエは書庫の外にいるはずのアロイスを庇った。
それでカレルは、マリエに視線を戻す。ぎくしゃくと、しかし観念したように。
ランタンの柔らかな明かりの中、カレルは赤く燃える頬を晒していた。非常に面映そうな顔つきをしながらも、マリエを抱く腕に力を込めた。
マリエも素直に、主の腕に身体を預けていた。
カレルが支えてくれるのなら、最も伝えたかった想いもきっと告げられる。
だから、深呼吸の後で言った。
「お慕い申し上げております、殿下」
声だけははっきりと、敢然と発したつもりだった。
実際のところはどうか、今のマリエにはわからない。声はかすれていたかもしれない。身体が震えているのかもしれない。酷くうろたえた、どうしようもなく惨めな顔をしているのかもしれない。
それでも言葉を、想いを伝えたかった。自らの想いに気づいた以上、黙っていることも、隠したまま消し去ることもできそうになかった。
「……マリエ」
目の前でカレルが息を呑む。
マリエは堰を切ったように続けた。
「わたくしは、殿下の想い人が誰かも存じぬうちから、殿下のお気持ちを心から支えることのできなかった、とても至らぬ近侍でございます。側仕えの身でありながら、私心を消し去ることもできぬような女でございます。許されぬことと存じておりました。にもかかわらず、こうしてお伝えしておりますこと、どうかご寛恕を乞いたく存じます」
言い終えてから、静かに唇を結ぶ。
込み上げてくるものがあり、目の奥が熱く潤んだ。
だが、もう、泣くのは堪えた。罪の償いとして、全ての幕引きを負うつもりでいた。
見上げた先では、カレルが複雑極まりない面持ちをしている。
今すぐ笑い出したいようにも、酷く悔しそうにも映る顔つきで、やがて慎重に問いを発した。
「アロイスはお前に、何と吹き込んだのだ」
「あの、ですから、殿下が……誰を想っておいでなのか、でございます」
これははっきりと答えにくい問いだった。マリエが先程と同じ答えで濁せば、カレルが鼻を鳴らす。
「そうか。ならば、後でもう一発殴る」
視線は再び書庫の扉へと転じ、その向こうで誰かの咳払いが聞こえた――ような気もした。
「殿下、乱暴なことはいけません、お止めください」
慌ててマリエは制止した。
カレルの視線は再びマリエに注がれ、目が合うとその唇に苦い笑みが浮かんだ。
「私とて、お前には自分で告げたかったのだ。他人の口から告げられるほど恨めしいこともない」
だがその後、深い溜息をつく。
「いや……それを言うならば、もっと早くに告げるべきだったか。お前に辛い思いをさせることも、無理をさせることもなかったな」
二人の視線はその時、確かに結ばれていた。
直後、カレルはより強い力で、潰れんばかりにマリエを抱き締めた。マリエの胸が潰れ、苦しげな息と喘ぐような声が漏れる。だが決して不快ではなく、それどころか満ち満ちていく幸福感に頭がくらくらした。
そんなマリエの耳元に、カレルが低く囁く。
「私もお前に話したいことがある。マリエ、聞いてくれるな?」
耳朶に触れる吐息に身体が震えた。
青年の温かな腕の中、娘はうっとりと顎を引いた。
「――はい、殿下」