その為に生きている/後編
いくつか、思い当たるふしがあった。例えばマリエだけを芝居見物に伴わせてくれたこともそうだろうし、書庫で逢い引きの『予行演習』を行い、その際こめかみに口づけられたことも、そうなのかもしれない。
あるいは城の庭園で花を摘んだ時、隣に座るようにと促されたのも、過ごした時間を逢い引きのようだと表したのも、もしかするとそういうことだったのだろう。
一つの疑念が解けると、すぐに認めたくなかった事実が次々に現われた。
カレルは確かに純粋で、真っ直ぐだった。マリエが書物から得てきた真偽も怪しい事柄を、あれこれ不満を唱えながらも試してみせた。婦人は甘いお菓子を好むものだと言えば、マリエにお茶菓子を分けてくれた。手巾を落として気を引くのがよいと告げれば、マリエの目の前で手巾を落としてみせた。その時には説明が足りなかったのかと苦笑したマリエだったが――今ならわかる。カレルの行動はあくまでも、どこまでも純粋だった。
それでも認めたくはなかった。
認めてしまうと、更に不敬で、恐れ多いことまで自覚してしまいそうになる。決して許されないことであるにもかかわらず。
「……ご、ご冗談でしょう、アロイス様」
マリエは平静に振る舞おうとしたが、その試みは効を奏さなかった。声は上擦り、頬が熱を持ち始めた。視線のやり場に困り果て、うろうろと泳がせれば、アロイスは嘆くように自らの額を押さえた。
「冗談ならよいと、私も思います。ですが疑いようのない事実です。気づいていらっしゃらなかったのは、あなたくらいのものでしょう」
「わたくしだけ、なのですか」
マリエは胸の前で手を握り合わせた。愕然としながら呟く。
「でも……あってはならないことです」
「その通りです」
「殿下が、あってはならないことを考えていらっしゃると……?」
「私の言葉がどうしても疑わしいのなら、殿下に直接伺うのがよろしいいでしょう。我々は確実と思っておりましたが」
アロイスの発言に、マリエは一層赤面した。よもやそんなことを、よりによって忠誠を誓う主に向かって問い質せるだろうか。
「できることなら、私の口からは告げたくなかったのです。主の想い人をその相手に打ち明けるなど礼儀に適ったことではありませんし、あれだけ一途でいらっしゃる殿下に対し、不躾なふるまいでしょうから。しかし」
力なく、アロイスがかぶりを振る。
「こうなってしまった以上は最早、温かく見守るどころか、見て見ぬふりをすることすらできません。あなたに事実を打ち明けたのも、あなたに、一刻も早く手を打っていただきたかったからです」
マリエはまだ、思索と現実の狭間にいた。夢見心地というにも気忙しく、疑わしい思いを抱き続けていた。ぼんやりとアロイスの言葉を反芻し、そして彼の次の声を待った。
「先程も申し上げた通り、殿下には覚悟がおありでない」
次の声は、まるで痛みを堪えているように聞こえた。
「覚悟がないというのはつまり、この度の一件に繋がります。あの方は恐らく城を出ることの危険も、もしものことがあった場合、周囲の者がどういう扱いを受けるのかも考えていらっしゃらなかったのでしょう。ご存じなかったのか、それともご自分の力を過信していらっしゃったのか、それは定かではありませんが」
それも純粋だから、なのかもしれない。
マリエを従えずに街で買い物をしたり、一人で井戸を探し回ったりする行動は、危険を承知していれば決してできたことではないはずだ。カレルは十八になっても尚、少年らしい純粋さを失わずにいた。マリエにとってはそれが嬉しくも、いとおしくもあったのだが、王位を継ぐ者としては捨てなければならない性質でもあるだろう。
「あの方は我が国において唯一、国王陛下の血を引いていらっしゃるお方です。王位を継ぐべき存在はあの方以外にいらっしゃらないのです。そのことを、誰よりもあの方が自覚してくださらなければならないのに」
アロイスが語る通り、国王の子はカレルただ一人だった。
マリエが物心ついた頃よりこの国には王妃がおらず、カレルは一人きりの王子として、皆から慈しまれ、大切に育てられた。王の親族も数人存在していたが、あくまでも継承権があるのはカレルだけだ。他の者に権利が与えられることがあるとすれば、すなわちカレルに資格がないと判断された時か、あるいは――カレルに『もしものこと』があった場合だけだろう。
「覚悟もなく、純粋なままのあの方に、誰かを守ることなどできるはずがありません」
きっぱりと、アロイスは言い切った。
「殿下の純粋さは、いつか殿下ご自身に不利益を引き起こすことでしょう。あの方にとって最も大切な人を傷つける結果になるかもしれません」
言いながら留められた視線を、マリエは困惑しながら受け止める。信じがたい思いは未だに残っていた。
「現に昨夜、殿下はあなたを失いかけていた。今回は大事に至らず不問となりましたが、何事かが起きていれば、あなたはただでは済まなかった。それは殿下にとっても間違いなく不幸な結末です」
思えば、マリエの覚悟も中途半端なものだった。
自分自身の犠牲は厭わぬつもりでいても、周囲の人々を巻き込む結果は想像してもいなかった。誰のことも守れないという点では、マリエもまた同じだ。
「あなたの命も、我々の命も、全てあの方の掌中にあります。これは決して大げさなたとえ話ではなく、あの方のご意思一つでたやすく消し去ることができます。もちろん殿下はそのようなことをなさる方ではありませんが、むしろ意図せぬうちにそういう結果を引き起こす可能性の方が恐ろしい」
アロイスはマリエを、眼光鋭く見つめていた。
「だからこそ、マリエ殿。あなたには罪を負っていただきたいのです」
「わたくしは……何をすればよろしいのでしょう」
マリエはこわごわ尋ねる。
非力な自分は、どうすれば、主と主に仕える人々を守れるのだろう。
「酷な頼みかもしれませんが」
そう前置きして、アロイスは告げた。
「あなた自身の手で、殿下の懸想を終わらせていただきたい」
鎧戸の隙間から差し込む光が、次第に明るくなりつつあった。
マリエは微動だにせず、近衛隊長の苦渋に満ちた表情を注視していた。アロイスがどんな思いで今の言葉を告げたのか、十分に理解できた。その瞬間、彼は先んじて罪を引き受けたのだということも。
だが、マリエはまだ決心がつかない。
近侍としてカレルを見守り続けてきたマリエは、その懸想ぶりもよく知っていた。カレルがどれほどに思い悩み、心を揺らし、溜息をつき続けてきたか、他の誰よりも近くで目の当たりにしてきた。それでも尚、カレルが誰を想っていたのかは知り得なかったのだが――知り得ぬままに、マリエも主の助けとなるべく心を砕いてきた。そういった経緯も、過去も、マリエが終わらせなくてはならないのだとしたら。
心苦しい。確かにそう思う。
そして、とても切ない。
それでも、目を背けるわけにはいかない。アロイスは既に罪を負った。次に罪を負い、償わなくてはならないのはマリエだ。
そうすることで多くの者が守られるのだとしたら、たとえそれが主の意に反することでも、ためらってはならない。結果として主の為にもなるのだろうから、決してためらってはならない。
今のマリエはただ一人、カレルの為に生きている。
マリエだけではなく大勢の者たちが、カレルを守り、支え、慈しむ、その為に生きているのだ。
元より、カレルの懸想は叶わぬものだった。一国の王子、それも将来王位を継ぐべき人間が、身分の低い女と結ばれるはずがない。妃として選ばれるのはルドミラのような身分貴き令嬢であり、マリエは暇を出されぬ限りは永遠に近侍のままだ。主が妃にふさわしい婦人と結ばれ、神聖にして唯一無二の夫婦となるのを傍らで見守り、そして寿ぐのが務めだ。
だから、ここで終わらせてしまうのは正しいことなのかもしれない。
「……お言葉ですが」
マリエは一つ、懸念を口にした。
「もしも、です。もし、アロイス様の仰ったことが事実ではなくて、殿下が想いを寄せていらっしゃるのが他のご婦人なら……わたくしの取るべき行動は、全く違うものになりましょう?」
間髪入れずアロイスは答える。
「私は、その可能性は想定しておりません」
「で、ですが……」
「先にも申し上げました。あなたが私の言葉を疑わしいとお思いなら、殿下に確認なさるとよいでしょう。あなたはこの手のことに余程疎いと見えますから、直に言われるまで得心なさることもないでしょうし」
辛い評価を下されたようで、マリエは俯きたくなった。
だが直視しなくてはならない。現実と、負うべき罪を。
カレルの為になることならば、ためらわずにできるはずだ。マリエは今日まで忠心篤くカレルに仕えてきた。眼前に示された罪は、恐らく今日までの務めと同じように、必ずカレルの為になることだ。
もし、もしも。本当にカレルの想い人が、他でもないマリエだとするなら――。
「殿下は、幸せな恋をなさっていたのでしょうか」
ふと、マリエは呟いた。
叶わぬ恋でも、当の本人にまるで気づいてもらえなかったとしても、カレルは幸せだったのだろうか。懸想をして、ただひたすらに想い続けて、報われることはなくても、果たして幸いでいられたのだろうか。今となってはそのことだけが気懸かりだった。
「……私には、わかりかねます」
アロイスが苦しげに息をつく。
「ただ私は、殿下とあなたがお二人でいらっしゃるところを眺めているのが、とても好きでした。あなた方が何事か言葉を交わし合って、些細なことで幸福そうに笑うお姿を見ているのが、私にとって何よりの幸いでした」
そこまで語ると、アロイスは痣の残る顔で笑った。
「あなた方はずっと、逢い引きの真似事をしているだけでよかったのです。城の外には目を向けず、未来のことも考えず、何も知らないままお二人でいてくださればよかった。いっそ大人になることなく、幼いままでいてくださるのが、一番幸いだったのかもしれません」
マリエはその言葉に目を伏せた。
幼いままでいるのは不可能だった。カレルですら、いくばくかの少年らしさを残して大人になってしまった。もちろんマリエ自身もとうに少女と呼べる年頃ではない。様々なことを知り、それらを飲み込んで、こうして現実と向き合っている。そしてまた一つ、飲み込まなくてはならないことができた。
既に夜は明けた。
答えを出すべき時が訪れる。
「殿下の御為になることでしたら」
マリエは答える。
心の隅に、まだ確信に至らぬ思いを潜めながら。
「わたくしは必ず、そのようにいたします」
アロイスがマリエの居室から立ち去った後、マリエは寝台を降り、手早く身支度を整えた。
昨日の今日で調子がいいとは言いがたかったが、立ち働けないほどではなかった。
身支度を終えた後で、ふと思い出したことがあり、マリエは引き寄せられるように机の引き出しを開けた。
そこには手紙が一通しまわれている。
便箋は皺だらけで、しかし皺を伸ばそうと必死になった痕跡が未だに残っていた。綴られた文面には覚えがある――マリエが書庫の詩集をひもとき、綴ったものだからだ。
歯の浮くような言葉が並んだ懸想文を、マリエは食い入るように見つめていた。あの頃、訳もわからぬうちに綴っていた文面は、今でもやはり訳がわからない。それよりも重大な事実に打ちのめされていたから、文面などどうでもよかった。
どうしてこの懸想文がここに、マリエの居室にあるのか。
ようやく、気づいた。