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全て焼き付けて/中編

 街歩きが初めてのカレルは、目につくものを何でも珍しがった。
 往来の激しい道を歩きながら、森の道より踏み固められていることを面白がり、道端に建つ民家を見やっては、中がどうなっているか見てみたいといい、露天市を指差しては、色とりどりの天幕にどのような意味があるのかを尋ねてきた。
「あれは、よく目立つようにきれいな色にしているのでございます」
 マリエが知っている通りに答えると、カレルは目を丸くする。
「目立つようにすると、何かよいことがあるのか」
「はい。より多くのお客さんに来てもらえて、品物が売れるようになります」
「そういう事情があるのか。しかし、店によい品を置いていれば、おのずと客は来るものだと思うのだが」
 買い物に出かけたのは先刻が初めてで、普段は品物の方から寄ってくるカレルからすると、客を呼び込む商人の努力は合点のゆかぬものらしい。マリエは笑いながら説明を続けた。
「よく目立つお店の方が活気があるように見えますでしょう。目を惹く何かがそのお店にありましたら、お客さんの方も、おやっと思うこともございます」
「そういうものか」
 カレルは唸り、それからまた露天市に連なる天幕へと視線を投げる。
 当初の目的地である劇場は、この市場を抜けた先にある。
 しかしカレルのあくなき探究心は、マリエを露店市の奥へ奥へといざなっていった。マリエは時間を気にしていたが、主がいきいきと瞳を輝かせていたので、野暮なことは言うまいと口を噤んだ。
 それにマリエも、城に上がる前はこの町で暮らしていた。マリエの生家は街の外れにあり、ここからは見えるはずもなかったが、それでも母に連れられて市場を歩いた記憶はある。込み上げてくる懐かしさが、マリエを捉えて離さなかった。

 二人で歩く露店市は、客でごった返していた。
 ちょうど夕食の買い物に出る頃なのか、野菜や果物、肉など食料品の店に客が集中しているようだ。威勢のいい客引きの声、白熱する値切り合戦の声が賑々しく辺りに満ちていた。常に静かな城の中とはまるで違う、人の声と活気に溢れた場所だった。
 あちらこちらから様々な匂いが漂ってくる。分厚い肉を切り分けて、じゅうじゅう音を立てながら焼いている店がある。そうかと思えばマリエの顔以上の大きさをした、月のような色合いのチーズを並べている店もある。
 山羊の乳を売る店には、木をくり抜いた杯を傾ける客が何人もいた。
「飲んでみたい」
 カレルがそう言い出したものの、マリエは頑なにかぶりを振った。
「リンゴを六つも食べた後では、お腹を壊してしまいます」
 薬売りの天幕では、店主が薬草を擂り潰している様子を見かけた。辺りには明らかに食べ物とは違う、独特の匂いが漂っていた。
「風邪を引いた時にお前が作る、あの湿布の匂いと同じだ」
 カレルはその匂いに鼻の頭に皺を寄せていたが、マリエはその効用を信じているので、次に主が風邪を引いた時もやはり湿布を作るつもりだった。
 そのマリエは季節の花を壷に活けた店が気に入り、しばらく淡い色味の花々を眺めていた。あまりにしげしげ見ているので、花売りの青年が愛想よく声をかけてきた。
「お嬢さん、旅の方? あなたに似合う美しい花をお見立てしましょうか」
 そして花の一輪ごとに歯が浮くような恋の逸話を聞かせてきたが、話が非常に長く、マリエはその時間を少々持て余した。そして結局は慌てた様子のカレルに手を引かれ、花売りの露店から引き剥がされた。
「ああいう話をまともに聞いてはならぬ」
 カレルは早口になってマリエを咎めた。
 正直なところ、花売りの話の長さに食傷していたのはある。マリエは繋いだ手を温かく思いつつ、素直に感謝を述べた。
「割って入ってくださり、ありがとうございます」
「当然のことだ。そもそも話の長い男にろくな奴はおらぬからな」
 どうやらそれは、カレルの持論であるらしい。
「あの歴史の家庭教師を見てみろ、話の長さと来たら酷いものだぞ。放っておけば日が暮れるまで喋っているに違いない」
 カレルは歴史を教える教師について語る時、何よりも疎ましげな顔をした。
 相変わらずあの家庭教師とは折り合いが悪いようだ。だがカレルはどんな本を読むよりも身体を動かすことを好んでいたから、苦手意識は誰に教わっても変わらぬものかもしれない。
 城を抜け出し、森を駆け、この城下町まで相当の距離を走ってきた。それでもなお街中を歩くカレルの足取りはしっかりしている。まるで疲れを知らないようだった。
 それでいて市場を進むカレルは、マリエの歩調に合わせてくれていた。混み合う人並みの中では走ることもできないだろうし、急ぎたくとも急げないのかもしれない。
 あるいは珍しいものが次々と目に留まり、急いで駆け抜けるには惜しいと思っているのかもしれない。
 どちらか、もしくは両方の要因があったとしても、マリエはカレルの隣を歩けることをただただ嬉しく思う。手を引いてもらえることを幸せに思う。

 遠い昔、母親に連れられてこの市場を訪れたことを思い出していた。
 母は幼いマリエに、人混みに揉まれても決して手を離さぬようにと言いつけた。だからマリエも素直に、母の柔らかい手をぎゅうぎゅうと握り締めていた。
 今のマリエは、カレルの手を握り締めている。
 知らず知らずのうちに、強く、決して離さぬように繋いでいた。
 お忍びの主と共に街をうろつく今の自分を、母が見たらどう思うだろう。厳格だった母の耳に入ればどうなるだろう。一抹の不安は、隣を歩く凛々しい横顔を目にした途端に影を潜めた。今は、今だけは考えたくなかった。

 おぼろげな幼少の頃の記憶から比べると、今の市場は大分様変わりしているようだ。
 山間に位置するこの国は、長らく他国との交易が盛んではなかった。近年になってようやく山越えをする為の道が開かれ、異国の品々が国内に入ってくるようになった。
 お蔭で露店市の品物も昔よりずっと多彩になっている。鮮やかに染め抜かれた毛織物に、変わった形の帽子や着衣、マリエが見たこともないような果物、古めかしい異国の書物など、目を惹くものは幾多もあった。

 しかし、カレルの目は違うものを捉えていた。
 人混みを機敏にすり抜けていく数人の子供達と、彼らが向かっていく通りの奥を。
 露店市はそこで一旦途切れて、代わりに現われた広場には、木造の簡素な長椅子がいくつか並べられていた。その長椅子の前に奇妙な姿があった。
「マリエ、あれを見ろ」
 告げられた時にはマリエも既に、カレルの視線を追っていた。だが、目にしたものの不思議さに返事も継げなくなっていた。
「あれか、道化というのは……」
 呟いたカレルの歩く速度が上がる。マリエも慌てて付き従いながら、広場にいる奇妙な姿を確かめようと目を眇めた。

 そこにいたのは、顔に色を塗った男だった。
 いや、男だと断言できるほどの材料はなかった。肌を白亜より白く塗り、その上から目元に赤く何やら文様を描き、瞼も毒々しいほど赤く塗っている。唇は青だった。血の気が引いた時とは違い、空のように真っ青な色をしていた。それでいて酷く大きい。マリエは一瞬、大口の男が現われたのかと跳び上がりかけたが、口の周りを広く塗りたくっているだけだと気づき、無性にほっとした。
 奇妙なのは顔だけではなく、服装もそうだ。緑色の衣装は身体にぴったりと沿う形をしていて、身のこなしも軽やかに見えた。はためくマントは男の影のように、自由自在に動き回る男に付き従う。爪先の過剰なほどに尖ったブーツは、地面の上を飛び跳ねる度にしゃんしゃんと鈴の音がした。手首にも大ぶりの鈴をつけている。そちらは手を振る度にがらがら、がらがらと野太い音を立てた。
 男はおどけた仕種で広場の中央に立ち、地面の上を跳ね回っている。くるくる華麗な回転を見せ、鈴の音を鳴らしながら踊っている。人々の視線を集めている。先程駆け抜けていった子供たちも、男の前まで行くと立ち止まり、その踊りに釘づけになっていた。
 鈴をつけた手首を捻って、男はちょんとマントの裾を抓む。そうして急に踊りを止めると、思わせぶりにぐるり、一回転した。ゆっくりゆっくりと、マントにされている刺繍が、広場に居合わせた者に見えるように――。
「あっ」
 マリエは声を上げた。
 驚きに声を発したのはマリエだけだった。カレルが横目でマリエを見ると、子供たちもおかしそうに振り向いてくる。マリエは恥じ入りながらも、目にした刺繍の文字は確かに心へと焼きつけた。
 ――お腹のよじれるような楽しい楽しいお芝居は、ロスチスラフの劇場にて!

 男はマントの文字を披露し終えると、周りに向かって深々とお辞儀をした。
 広場にはいつしか人だかりができており、子供も大人も奇妙な男の奇妙な踊りに夢中になっていた。当然ながらマリエも、カレルもそうだった。
 マントをはためかせた男は、一声、鳥の声のように張り上げた。そうして弾む足取りで、ゆっくりゆっくり歩き出す。人々がついてくるのを期待しているような動作だった。
 たちまち子供たちが駆け出し、男の後へついていく。その後に朗らかに笑う大人たちが続いた。しばらくしてからのんびりと動き出す人もいる。劇場に通い慣れているのだろう、奇妙な男の姿が遠ざかっても、慌てる様子も見せなかった。
「マリエ、あの男を追うぞ」
 カレルも浮かれた声を上げる。当然、マリエは頷いた。
「はい。恐らくあの方が、お芝居をしている方なのですね」
「そうであろうな。ああやって派手にやって、人目を惹いているのだ。お前の言っていた通り、ああいうやり方は確かに活気があってよい」

 二人は、奇妙な衣装を着た男の後を追った。はばたくようにぱたぱた揺れる、男のマントを目印に。人波の流れにも沿いながら、街の奥へ、奥へと歩いていく。
 そうして辿る道の先に、石造りの小さな劇場が見えてきた。
 マリエは何度かカレルに連れられ、街の劇場に足を運んでいたが、過去に訪れたものよりもずっと小さく、簡素な建物だった。だがその前には切符を買い求める行列ができていて、その盛況ぶりは一目瞭然だった。
「芝居だ! いよいよ件の芝居が観られるな!」
 カレルが興奮気味に声を上げ、輝く表情をマリエに向けた。
「ここまで来たからには心ゆくまで堪能するぞ、マリエ!」
 その顔つきを見つめただけで、マリエもまた満ち足りた気持ちになっていた。
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