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聖なる夜の変化

「わあ……」
 ふゆさんが、溜息のような声をつく。
 首をぐんと伸ばして見上げた先には、窓明かりが整然と並ぶホテルがある。
 そのままの姿勢で、俺に対して言ってきた。
「随分と高そうなところです」
「十八階建てだそうですよ」
 俺は答え、すかさず彼女に突っ込まれた。
「いえ、その高さじゃなくてです」

 クリスマスイブの夜、俺とふゆさんは十八階建てのホテルの前にいた。
 このホテルの目玉は何と言っても、最上階にある展望レストランだ。きらめく夜景を見下ろしながらのクリスマスディナーは評判がいいらしい。予約を入れるのも苦労した。
 貧乏学生たる俺からすれば、ホテルのディナー二人分はなかなかの額だった。だけど二人で過ごすクリスマスの為ならやむを得ない。
 幸い、高校時代は禁止されていたバイトも大学では出来るようになった。自分で稼げるようになった以上、クリスマスの夜くらい背伸びして贅沢したっていいはずだ。ささやかなものだけど、彼女にプレゼントを用意していたっていいはずだ。
 二人きりで過ごす二度目のクリスマスが、去年と代わり映えしないんじゃつまらない。少しは彼氏らしいところを見せないといつまでも頼りない後輩のままだ。

 昔の人も言っていた。恋人はサンタクロース、と。
 だから今日は俺がサンタクロースだ。

「じゃ、入りましょうか」
 意気込んだ俺は、まだホテルを見上げているふゆさんに声を掛けた。
 ぎくしゃくとこちらを向いた彼女が、不安げに尋ねてくる。
「本当に入るんですか?」
「もちろんですよ。もう予約入れてありますし」
「なら、半分持たせてくれませんか」
 どことなく気後れした様子でふゆさんが言う。
 今日はこっちの奢りだって言っておいたのに、俺の懐事情が気になるらしい。
「大丈夫っすよ。今日の食事代くらいは稼いでます」
 俺が胸を叩いても、納得のいかないらしい表情でいる。
 もじもじと指を組み替えながら彼女は続けた。
「それは聞いていました。だけど何と言うか、一人暮らしをしている君に、実家暮らしの私がごちそうしてもらうというのも、少々悪い気がするんです」
 彼女は優しい。高校時代から変わらず、とても優しい。
 きっと去年のクリスマスが質素過ぎたのがいけなかったんだろう。何せプレゼントはない外食もない、食べたのはケーキとおでんだけという過ごし方だ。おまけに場所は俺の部屋と来たら、今年の彼女が気後れするのも無理はない。
 でも、今年は違う。
「気にしなくていいですってば。さ、行きましょう!」
「あっ」
 俺はふゆさんの手を取ると、有無を言わさずホテルのエントランス目指して歩き始めた。
 彼女もそれ以降は黙ってついてきた。

 ロビーを通り、エレベーターに乗ってレストランへ向かう。
 エレベーターのドアが開くと、途端に視界が開けた。夜景を売り物にした展望レストランだけあって、ぐるりと一面がガラス張りだ。
 落ち着いた照明の中、ウェイターさんに案内してもらった席からは、きらめく街の明かりが思う存分見下ろせた。
「すごく、きれい……」
 彼女が感嘆の声を零したので、ほっとする。
 気に入ってもらえなかったらどうしようかと思ってた。

 お互いにコートを脱ぎ、とりあえず席に着く。
 ドレスコードのないレストランで、彼女はオフホワイトのセーターとチェックのプリーツスカートという服装。毛先のくるりとカールした髪が、セーターの白さに映える。とても可愛い。高校時代からずっと、いつでも可愛いけど。
 その合間に俺はさりげなく襟元を確認する。
 何もないことを確かめ、もう一度ほっとした。サンタクロースもあれこれ気を遣う。

「今日はごめんね。散財させちゃったみたいで」
 向かい合わせに座るなり、彼女が申し訳なさそうに言った。
 あまり心配させないよう、俺は軽い調子で応じた。
「いつもお世話になってますし、このくらいはさせてくださいよ」
 努めて明るく告げたつもりだったのに、ふゆさんの表情は変わらない。曇ったままだ。
 気まずくなって口を噤むと、慌てた弁解が追い駆けてくる。
「でも私、こんなに素敵なお店に連れてきてもらって、君に無理をさせたんじゃないかなって……心配だったんです」
 言った後で、ちらと大きなガラスの向こうへ視線を向け、呟くような声で続ける。
「私は、二人でいられたらそれだけでも幸せですから」
 参ったな。
 気持ちは嬉しい。そういう人だったからこそ、一緒にいたいと思ったのも確かだ。それでもう、かれこれ一年と九ヶ月も付き合っている。
「俺だってそうっすよ。だから一緒に美味しいものでも食べようと思って、それで誘ったんです」
 率直に打ち明けると、ぱちぱちと瞬きをした後で、彼女の顔はようやく綻んだ。
「優しいんですね」
 だからそれは、ふゆさんの方ですってば。

 そんな彼女も、食事が運ばれてくると笑顔を見せてくれるようになった。
「頬っぺたが落っこちそうです」
 ふわふわの頬を押さえて、前菜のうちからとろけるような表情をしている。やっぱり花より団子っすね、とは二重の意味で言えない。でもまあ、お互いに、そういうことだ。
 事実、料理はとても美味しかった。サラダですら食べたことのない味をしていた。クリスマスらしいローストチキンは柔らかさに驚かされた。デザートには小さめだけど苺のミルフィーユとアイスクリームが出され、俺たちは夜景そっちのけで食事を楽しんだ。
「とっても美味しかったです。ごちそうさまでした」
 彼女が行儀よく両手を合わせる。
 俺も軽く頭を下げてから、ポケットに手を突っ込んだ。
 取り出したのはきれいに包装された小さな箱だった。
 中身はもちろんプレゼントだ。それを差し出し、俺は彼女に笑いかける。
「これ、クリスマスプレゼントです」
「……え?」
 きょとんとした後で、彼女の表情は固まった。
 いや、固まったというよりむしろ、凍りついていた。
「受け取ってください」
 俺が重ねて促しても、しばらくの間静止していた。
 やがて動き始めてからも、強張った動作でかぶりを振られた。
「だ、だめです。受け取れません」
「どうしてですか」
 いきなり拒まれてこっちがうろたえた。
 だけどふゆさんは真剣なそぶりで続ける。
「だって私……何も用意してませんでした」
 こちらをじっと見上げる大きな瞳が、次の瞬間悲しげに潤んだ。クリスマスイブのレストランには場違いなほど悲愴な顔つきをされてしまった。
 何が彼女をそうさせたのか、最初は理解できなかった。

 俺へのプレゼントを用意してなかったからってことか?
 でもそれは、去年だって別に貰ってなかったし――去年と同様、ふゆさんからのプレゼントは『一緒にいてくれること』でいいと思ってた。だからそんな、気にするようなことじゃない。
 だけど現に、彼女は泣きそうな顔をしている。

 まずい、と思いつつ大急ぎでフォローしてみた。
「そんなのいいんですよ。これは俺がしたくてしたことであって……」
「でも、ごちそうになった上にプレゼントまでいただくなんて」
「気にしないでください! ふゆさんにはいつもお世話になってますし!」
「……こんなことなら私も、何か用意しておくべきでした」
 俺がどれだけ言い募っても、ふゆさんは萎れてしゅんとなる。
 てっきり喜んでもらえると思っていた俺も、あまりの反応にしょげたくなった。
 単に、去年できなかったことをしようと思っただけなのにな。

 去年のクリスマスは何もなかった。
 レストランでの食事もプレゼントもなくて、それでも彼女がいてくれたら、俺の傍で笑ってくれたら、とにかく幸せだった。
 そこにもし、美味しいごちそうとプレゼントがあったら、もっと笑ってくれるんじゃないかと思ってた。
 なのに、今の彼女は笑っていない。

「とりあえず、受け取ってもらえませんか」
 ほとんど懇願みたいに、俺は言った。
 ふゆさんは動かない。テーブルの上に小箱を置いても、視線すら動かない。
「恋人はサンタクロースって、ふゆさんが去年言ってましたよね。それで俺、今年はサンタクロースらしいことがしたかったんです」
 言い添えると、彼女はようやく動いた。
 のろのろと手を動かし、小箱に触れる。柔らかさを知っているその手は、微かに震えていた。
「開けてみて、いいですか」
 硬い口調で問われた。
 俺は頷き、彼女の手が包みを開く。

 小箱の中身はチョーカーだ。
 俺がバイト代で買える物だから、はっきり言ってそれほど高くはない。このレストラン代だけで予算ぎりぎりだったくらいだから、プレゼント代は食費から切り詰めて捻出した。彼女には絶対言えない。
 そのくらいしたかったんだって言っても、彼女はきっと喜んでくれないだろうから。

「……ごめんなさい」
 中身を見たふゆさんが真っ先に口にしたのは、謝罪の言葉だった。
 どきりとした俺に、潤んだ瞳からの眼差しが真っ直ぐに向けられる
「柊くんがいろいろと考えてくれていたのに、私は何も考えていなかったんです、クリスマスの過ごし方」
「そんなの、いいんですってば」
「ううん、よくないです。全然よくないです」
 ふゆさんがぶんぶんとかぶりを振る。
「去年と同じでいいかなって思っていました。こたつに入って、ケーキとおでんでもいいかなって」
 おでんは規定路線だったのか。
 いや、それはともかく。
「そういうクリスマスの方がよかったですか」
 俺が尋ねると、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「私は君といられたら、どちらでも幸せです。でも……」
「でも?」
「こういうクリスマスは、とても緊張します。君が大人に見えるから」
 大人?
 俺が?
 ぽかんとする俺をよそに、ふゆさんは小箱からチョーカーを取り出し、それを身に着けてくれた。
 似合いますよと告げたら、たちまち真っ赤になって俯いてしまった。

 食事を終えた俺たちは、レストランを後にした。
 ホテルの明かりを背にして、帰りの道を並んで歩き出す。外は雪がちらついていて、足元にもうっすら積もり始めていた。少し寒い。
「ふゆさん、今日もカイロを用意してますか」
 俺は問うと、彼女はこちらを見ずに応じてくる。
「カイロはあります。でも使いたくありません」
「へ?」
「子供っぽいでしょう」
 そう言って、つんと顎を反らした。
 そうかなあ、と俺は首を傾げる。
「そんなことないっすよ。うちの婆ちゃんだって使ってます」
「君、女心がわかってないです」
「……はあ」
 そういうものかなと思っていれば、更に言われた。
「私も、男心はわかってない方だと思います」
 隣を歩く彼女は、ずっと俯いていた。
 凍った路面の足元が気になるのかと思っていたけど、そうではなかったのかもしれない。
 声が震えているのも、寒さのせいではないのかもしれない。
「君は、大人になりましたよね」
 ぽつりと聞こえた。
 誉められたんだと思って、素直にお礼を言う。
「そうっすか? ありがとうございます」
「でも私は、あんまり変わってないような気がするんです」
 今度はもう少し、弱々しく聞こえた。
「高校時代と変わってなくて、ちっとも気が利かなくて。クリスマスのことだってまるで考えてなくて、こたつに入ってケーキを食べることしか頭になかったんですから」
 そう語る彼女は、確かに高校時代とあまり変わっていなかった。

 毛先のくるりとカールされた髪も、ふわふわの頬も、色の白さも、全体的な可愛らしさも。
 高校生の頃と、大学生になってからと、あまり違いを見いだせない。別に違わなくてもいいと思ってるけど。
 それを言うなら俺だって、あんまり変わってないはずだ。
 高校を卒業して、大学に進学してはみたけど、いい男になったとか、服のセンスがよくなったとか、そういうことを人から言われた記憶はまるでない。高校時代の友達に会うと、まず『変わってないな』と言われる。それからふゆさんのことを好奇心剥き出しで尋ねられる。
 ふゆさんのことを好きな気持ちだって、ちっとも変わっちゃいない。
 だからこその、今日のデートだった。

「やっぱり、去年と同じように過ごした方がよかったですか」
 もう一度、俺は尋ねた。
 もう一度、ふゆさんは大きくかぶりを振った。
「君の気持ちはとても嬉しかったです。ご飯も美味しかったですし、プレゼントも素敵でした」
 その後で溜息をつき、言葉は続く。
「でも、緊張してしまいます」
 緊張。
 その言葉を否定的なニュアンスで受け取りたくなる俺を、彼女の手が引き止めた。
 ぐいと、腕を引かれた。思わず立ち止まる。
 道の真ん中で、彼女がふと身を寄せてきた。俺の肩に額を預ける。冷たい空気に彼女の髪の香りが入り混じる。
 表情は見せず、彼女は言った。
「君が私よりずっと大人になってしまったみたいで、どきどきするんです」
 それは言い過ぎだ。
 そもそも大したことはしてない。レストランでの食事とプレゼント、そのどちらも大人たちからすればどうってことない額のはずだ。
 俺はそれらをアルバイトをして、やっとの思いで手に入れた。それでも足りなくて食費を若干切り詰めた。そこまでしてでも彼女を喜ばせたかった。そんな奴のどこが大人なんだろう。

 俺はただ、恋人はサンタクロースという言葉を実現したかっただけだ。
 一年越しだけど、去年の分も合わせて挽回したかった。それだけだ。
 大人になったからじゃない、むしろ子供みたいなこだわり方だと思う。

 でも、ふゆさんに誉められると嬉しい。
 こっちだって、どきどきする。

「あの、ふゆさん……」
 身を寄せられて棒立ちになりつつ、どうにか声を絞り出せば、微かな笑い声が返ってくる。
「柊くんもどきどきしてますか?」
「え、ええと、まあ……」
「それはよかったです。私だけだと寂しいですから」
 彼女の髪に、肩に、ひらひら降ってくる雪が落ちる。
「今夜の柊くんは素敵です」
 雪より早く、彼女の言葉が俺の心で溶けていく。
「今夜はすごく、君にどきどきさせられました」

 いや、こちらこそ。
 こちらこそです、ふゆさん。

 寒さのせいではなく、俺は本気で意識が遠のきかけた。
 そこを引き戻してくれたのは、やっぱり彼女の言葉だった。
「帰りに、ケーキを買っていってもいいですか」
「……は? え? まだ食べるんすか?」
 むしろ一気に我に返った。思わず聞き返した俺に、顔を上げた彼女が笑う。
「はい。そして君の部屋にお邪魔しようと思います」
「はあ……つまり去年と同様、こたつでケーキを食べるということですか」
「ちょっと違います。去年のコンセプトは『恋人はサンタクロース』でしたが、今年は『恋人はプレゼント』ということにします」
 恋人はプレゼント……?
 それはつまり。
「そうと決まれば善は急げです!」
 ふゆさんが俺の腕を取り、ぐいと引いた。
 俺はつんのめりそうになりながらもどうにか体勢を保つ。
 そのまま腕を引かれて、雪の降る道を歩いていく。
「まだケーキ、売ってるといいですね」
 俺を引っ張っていく彼女は、にこにこしている。
 頬が赤いのは寒さのせいだけではないと思う。でも、笑っていられる分だけ、彼女の方がきっと大人だ。

 どきどきするあまり笑ってはいられない俺も、だけどとても幸せだと思う。
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