夏の追想の裏側
私は花火が苦手です。この上なく苦手です。
舌を火傷することよりもずっとずっと苦手です。
花火の音を聞くと、子供の頃、買ってもらったわたあめを落としてしまった記憶が甦ります。
あんなに大きな音がするなんて、まるで私を驚かせたがっているみたいで酷いと思います。
あの音がなければ、とってもきれいで素敵だと思うのに――写真で見る花火は、まさに夜空に咲くお花のようで、彩り鮮やかなものでした。
もしも花火に音がなければ、今日だって写真部の皆と観に行けたのに。
せっかく清田くんが残念がってくれたのに。
花火の音を聞く前から何だか悲しくなってします。
清田くんは、部の後輩たちの中でもちょっとだけ特別な人です。いつも優しくて、明るくて、可愛いことを言ってくれます。でも途轍もなく鈍感なところがあるので、彼は私の胸中など知らないままだと思います。
そんな彼が、私が花火大会に行かないことを寂しがってくれたのは嬉しいことでした。
清田くんは私のことを、純粋に先輩として好いてくれているだけなのもわかっていますが、それでもです。
ですから夜遅くになって、清田くんから電話が来た時は、大変に驚いてしまいました。
その時、私は完全で完璧な対策を講じていました。
花火大会が始まる頃になったらベッドに入り、頭からお布団を被ります。窓は締め切ってありますから、外の音は聞こえてこないはずです。
暑さ対策にはアイスノンをタオルに包んで持ち込みます。念の為、耳栓も用意しておきました。これで絶対に、花火の音は聞こえてこないでしょう。まさに完全で完璧です。
そうして潜りこんだふとんの中で、携帯電話の画面に表示された名前を見て、私は慌てました。
危うく耳栓をしたまま電話に出そうになりました。耳栓を外してから、お布団の中で深呼吸をします。三回。
そして、
「――もしもし?」
私はそっと呼びかけました。
電話の向こうは賑々しく、人混みの音がしていました。
たくさんの人の声を背負って、清田くんの言葉が聞こえてきます。
『す、すみません。先輩、寝てました?』
私は驚きを押し隠しながら、冷静なそぶりで答えます。
「ううん、起きてました。お布団の中ですけど」
だって先輩というのは、常に落ち着いていなくてはならないものだからです。後輩の前では、いつ何時でも完全で完璧でいるべきなのが、先輩という存在なのです。
その点で私は至らぬところも多い先輩ですが、せめて彼の前でだけは素敵な先輩でありたいのです。彼の好意と尊敬の念を裏切りたくはありません。花火に怯えてがたがた震えていたと思われたくもありません。
『じゃあ寝るところでした?』
「ううん。……花火の音が聞こえないようにしてただけ」
そう答えると、彼は少し笑ったみたいでした。
馬鹿にされたようには聞こえなかったのでほっとしました。彼は他人を馬鹿にするような人ではありませんけど、いちいちほっとしたいのです。
『花火大会ならもう、無事に終わりましたよ』
「お布団の中にいたからちっとも気づきませんでした」
いつの間に。
私はそっとお布団から顔を出し、恐る恐る、ベッド際の窓のカーテンを捲ってみました。
確かに花火は見えません。音もしません。
『そりゃそうでしょうね』
彼はまた笑ったようでした。
清田くんはよく笑う人です。そしてその笑った顔が堪らなく可愛らしいのです。
いつも学校で見ているあの笑顔を思い出して、私は少しの間ぼんやりしました。
それからふと我に返って、尋ねました。
「皆は? まだ一緒なの?」
『いえ、もう解散してます』
ということは、彼一人なのでしょうか。
「じゃあ、帰るところ?」
『ええ、まあ』
私の問いに曖昧な答え方をした後で、急に彼が黙り込みました。
その後に何か言葉が続くのかと思っていたので、私も少し黙っていました。
だけど何も続かずに、しばらくお互い、黙ったままでした。
ところで清田くんは、一体何のご用で電話をくれたのでしょうか。そういえば聞いていませんでした。
もちろん同じ部に所属する先輩後輩同士、特別なご用がなければ電話をしてはいけないというわけでもありません。彼からの電話は、何のご用もなくとも嬉しいものです。
だけど、何かご用があればいいなと思ってしまうのも、女の子の心理というものです。
何か、彼が私に伝えたくなるような、特別なお話があればいいのに、なんて。
私がそんなことをあれこれ巡らせている間も、清田くんはずっと黙ったままでした。
どうしたのかな、と思いながら、私は先輩らしく尋ねてみることにしました。
「花火大会、私の分まで楽しんでくれた?」
そうです。花火とは楽しむものなのです。
本来はそういうものでした。
『え? は、はい。楽しみました』
彼はそのように答えます。
私にとっては悲しくて、胸のしくしくするような思い出ばかりの花火ですが、彼にとってはきっと楽しいものであったに違いないのです。
清田くんがそう答えてくれた時、私は不思議と穏やかな心持ちになりました。
私が楽しめないことを、私の分まで楽しんでくれた彼を、とても嬉しいと思ったのです。
「そっかあ。よかったね」
心から、私は言いました。
本当はいろんなことを、一緒に楽しめたらいいと思っていました。
清田くんと一緒に花火を楽しめないことを、悲しく、切なく思っていました。
だけど今、彼が実に楽しそうに電話を掛けてきてくれたことを、とても嬉しく思う私がいました。
清田くんは大変に優しい人です。きっと花火大会へ行けなかった先輩を気遣って、電話してきてくれたに違いないのです。特別ご用もないようですから、私はそう解釈しました。
彼が花火を楽しんでくれたことは幸いでした。私も一緒になって楽しんだような気分になりました。相変わらずあの音だけは苦手ですが、楽しい気持ちを貰ってしまいました。
私が思わず笑んだ、その時でした。
『先輩っ』
急き込む声で、彼が私を呼びました。いつものように。
『俺、あの、今日来られなかった先輩の為に!』
「え?」
『そのっ、わたあめを買いまし、た』
後に続く言葉はたどたどしく、何事だろうと思いました。
私は彼のくれた言葉を幾度か反芻し、そして聞き返しました。
「私に? わたあめ、買ってくれたの?」
わたあめのことは忘れられません。
子供の頃の悲しい記憶。
花火の音に驚かされた、あの日の思い出。
だけど清田くんが、私の為にわたあめを買ってくれたと言うのなら――そんな記憶はどこか隅っこへと押し退けられてしまいました。
「そっか……」
じわりと、不思議な気持ちが湧き起こります。
「今日、行けなくてごめんね」
私は彼に、そう告げました。
いえ、本当は他のことを謝りたかったのです。
私はこの時、清田くんの好意を利用したくなりました。
率直に言えば私は部活の先輩として見てもらうより、女の子として見てもらいたいのです。
でもそれは、今は正直には告げられません。だって彼は、私のことを先輩としてしか見てくれていませんから。今はまだ、先輩と後輩の間柄でしかありません。
いつかそうではなくなればいい、と思います。
そうではなくなるようにしてしまいたいと思います。
それこそ、完全に完璧な策を講じて。
『あ、謝らないでください。むしろこっちこそ早まったことをして――』
優しい彼が詫びようとする言葉を遮って、
「悪いんだけど、わたあめ、うちまで届けてくれる?」
私は先輩らしさを装って、頼みました。
『……え?』
彼がとっさに聞き返してきます。
いつもなら口にする台詞を、私は、今はあえて言いませんでした。
「せっかく買ってくれたんだから、食べたいです。あ、もちろん大変じゃなければ、だけど」
これは、先輩命令ではありません。そのことに彼は気づくでしょうか。
多分、気づかないでいてくれると思います。
清田柊くん、今日のお願いは先輩命令じゃないんですよ。いかにも先輩っぽく装う私の気持ちは、先輩のつもりではないのです。普通の女の子のつもりでいるのです。
彼からの返事は、少しの間の後に届きました。
『大変じゃないっすよ。むしろ、俺、そのつもりでした!』
それで私はこの上なく幸せな気分になりました。
「本当に? 嬉しいです。花火がなければ行きたかったのにって思ってたところだったから」
そうです。彼と一緒に楽しめたらよかったのに、と悲しい思いを抱いていました。
だけどもう、そんなふうには思いません。
十分に楽しくて、幸せで、どきどきしています。
『じゃあ今から猛ダッシュで先輩の家に参上します』
電話越しに聞く清田くんの声も、元気いっぱいに弾んでいました。
でもその言葉でふと、私は自分の今の格好に気づきます。
「え? あの、そんなに急がなくてもいいですよ」
『いえ、もう遅いですし、これ以上迷惑は掛けられませんから』
「ううん、ゆっくり来て。私、着替えなきゃいけないの。もうパジャマですから」
『――今すぐすっ飛んで行きます!』
彼、私の話を聞いていないみたいです。
パジャマ姿なんて絶対に見せられないのに、どうしてすっ飛んでくる気になるんでしょう。
それでも着替えはぎりぎり間に合いまして、清田くんにみっともない姿は見せずに済みました。
届けて貰ったわたあめは甘くて、大変美味しかったですし、彼は私の為に花火の写真を撮ってくれていました。清田くんのデジカメのディスプレイからそれを見せてもらって、私は素直にときめきました。音のない写真で見る花火はとてもきれいで、眩しかったです。
そして私は決意を新たにしました。
いつか、を本当のものにしようと。
彼が私を『先輩』ではなく、一人の女の子として見てくれるように――私も彼の為に写真を撮ろうと、この時思いついたのです。 TOP