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夏の追想

 夏休み中のメインイベントと言えば、花火大会だ。
 港の方で毎年打ち上げられる花火を、今年は写真部一同で見に行こうと提案した。俺の意見は部内でも大歓迎され、皆で待ち合わせて出かけることになった。
 一応、最大の目的は花火の写真を撮ることだ。
 でもそれ目当てで行く奴なんてきっと一人もいないだろう。夜空に上がる大輪の花火に見とれたらカメラを構えてる暇もないはずだし、夜店がいくつも出てるから食べる方のお楽しみもある。ああいうところで食べる焼きそばやたこ焼き、かき氷が妙に美味いのは言わずもがなだ。
 それに何よりも俺にとっては、早坂先輩が一緒というところが最高だ。
 きれいな花火をきれいな先輩の隣で見られたらと思っていた。でもって早坂先輩が浴衣を着てきたりして、長い髪をアップにしてたらすごくいい。
 そういう期待もあったからこそ、皆で花火をと提案したわけだ。

 ところが。
「――花火大会、私は行けないから」
 当日の朝、部活に出てきた早坂先輩は、俺に向かってそう言った。
 俺は思わず絶句する。
「え……い、行かないんですか、先輩」
「うん。部長なのに不参加でごめんね」
 そして両手を合わせると、申し訳なさそうに苦笑してみせた。
「私の分も皆で楽しんできて」
 これは結構ショックだった。
 早坂先輩と一緒に見る花火を楽しみにしてたのに。
 いや、先輩と一緒に校外で行動できるってだけでうれしかった。たとえ部の連中が一緒にいたとしても、先輩がいてくれるならそれだけで一際楽しくなったはずなのに。
 半ば呆然としながら、俺はかぶりを振る。
 先輩、どうして行けないんだろう。何か用事でも――まさか、先約があるとか!

 怖ろしい想像が脳裏を過ぎる。
 普段は部の集まりにも積極的に参加していて、美味しいもの大好きな早坂先輩が、花火大会なんていう絶好のイベントに同行しないなんて考えにくかった。
 理由があるとすれば、やっぱり、他に一緒に行く相手がいるとか。
 そんな話聞いたこともなかったけど、でもそういうことにならないか。花火大会を部の連中と行くよりも、他に行きたい相手がいるとか、そういうことじゃないのか。
 あの早坂先輩を射止めるくらいだからしっかり者でツッコミ属性で甲斐甲斐しいほどに世話焼きなナイスガイに決まっている。
 うわ、やばい。そんな奴に太刀打ちできるのか、俺。
 ネガティブな方向に考える時だけは妙に妄想が膨らむから不思議だ。
 想像の中でやけに輝いているナイスガイが浴衣姿の先輩を連れ去ろうとして、阻止しようとした俺が地面に転がった瞬間――。

「……そんなにがっかりしなくても」
 早坂先輩の声がして、俺ははたと我に返った。
 目の前にいる先輩は、緩くカールがかった毛先に指を絡ませながら小首を傾げた。
「もしかして、私がいないと寂しい?」
 一瞬、どう答えていいのかわからなくなった。
「い、いや、その……もちろんっすよ」
 いや、実際その通りなんだけど。
 でもずばり答えていいものかどうか迷いつつ、結局は素直に頷いてしまった。
「先輩も来てくれるものと思ってましたし、寂しいっす」
「本当にごめんね」
 先輩はどこか嬉しそうに笑い、それから首を竦めた。
「でもどうしても行けなくって」
 だからその『どうしても』の部分が気になってるんですが。
 俺はそわそわしつつ、探りを入れてみることにする。
「何か、用事でもあったんですか」
 それとなく欠席理由に水を向けると、たちまち先輩の表情が曇った。
「実はちょっと、理由があって……」
 申し訳なさそうな顔をして、ちらと視線を部室内に走らせる。
 他の部員たちはなぜかこちらを見て見ぬふりだ。早坂先輩と俺が会話をしていると、いつも微妙そうな顔をされるから困る。
 俺もきょろきょろしていれば、先輩の手が俺のシャツの袖を引いた。
「ちょっと、いい?」
「え?」
 廊下に出てと、先輩がジェスチャーで促してくる。
 その表情の硬さにただならぬ空気を察して、俺は黙ってその後に従った。

 夏休みでひと気のない廊下に出ると、先輩は深刻な表情で告げてきた。
「実はね……私、花火が苦手なの」
 表情とは裏腹に、随分と風変わりな告白だった。
 俺はさっきまでの妄想はどこへやら、ぽかんと口を開けているだけで精一杯だ。
 花火が苦手なんて、そんなこと考えもしなかった。確かに早坂先輩は雷も苦手だったようだけど、まさか花火までとは。
「そんなにびっくりしなくても」
 俺が声も出せずにいれば、先輩は唇を尖らせる。
 それはそれで結構可愛いなと思いながら、俺はおずおず聞き返した。
「すみません。でも、どうして苦手なんですか」
「大きな音がするじゃない」
 きっぱりと先輩が言い切った。
「そりゃまあ、しますね」
「でしょう? お腹の底からずーんと響く感じ。あれが苦手なの」
「はあ」
 平気な人間からすればあの重低音こそが醍醐味なんだけど、それが苦手って人もいるようだ。
「小さな頃に連れて行って貰ったことがあるの。でもすごく怖くて、私、泣き出しちゃって」
 思い出したのか、先輩の顔がきゅっと歪んだ。
 何かを惜しむようにかぶりを振る。つややかな黒髪が揺れている。
「その時ね、せっかく買って貰ったわたあめを落としちゃったの」
「わたあめ?」
「ピンク色ですっごく可愛くて美味しそうだったのに、一口も食べないうちに、びっくりした拍子に地面に落としちゃって……あれはもうすごく、悔しかった。大泣きしちゃったくらい」

 なるほど、と俺は納得した。
 食べ物の恨みってやつは何よりも怖ろしい。
 早坂先輩の心には恐怖と理不尽さとがないまぜになって、今でも強く刻み込まれているんだろう。その気持ちはわからなくもない。

「以来、打ち上げ花火は苦手でしょうがないの」
 早坂先輩が苦笑いを浮かべたから、俺もようやく諦めがついた。
 そういうことなら仕方ない。無理に誘うのもかわいそうだ。
 それに、先輩を掻っ攫ってくナイスガイの存在が消えただけでも本当、ありがたい。
「だから、私の分まで楽しんできてね」
「はい、そうします」
 優しい一言をかけてもらい、俺は大きく頷いた。
 すると先輩は唇の前に人差し指を立て、ふっと子供みたいな照れ笑いを見せた。
「それと、この件はくれぐれも内密に。これは先輩命令です」
 俺は後輩なので、先輩の命令は絶対だ。もちろん素直に従った。

 結局、花火大会には写真部の連中と一緒に行った。
 色気も何もあったもんじゃない集団だったけど、これはこれですごく楽しかった。港にある花火大会の会場まで続く通りには、ずらっと屋台や露店が連なっていた。混み合う通りを潜り抜けながら食べたい物を食べ歩いたし、夜空に打ち上げられた花火はやっぱりきれいだった。
 こんなにきれいな花火が楽しめないなんて、早坂先輩はかわいそうかもな。
 わたあめが売られているのを見かけた時も、俺は先輩のことを考えていた。
 昼間、学校で聞いた先輩の思い出話のことだ。花火の音にびっくりして、食べようとしたわたあめを落っことして泣いちゃうなんて、今の先輩からは想像もつかない。俺の前ではとにかく先輩ぶろうとして、でも時々天然だったり拗ねたりして、可愛くて、そして優しい人だから。
 今とは違う、怖がりで泣き虫だった早坂先輩も、見てみたかったなと思う。

 そう言えば先輩とわたあめが似てるかもしれない。ふわふわしていて、風が吹けば飛んで行ってしまいそうに軽くて、食べてみたらすごく甘い。
 早坂先輩にはわたあめがよく似合う。ピンク色のやつは特に似合いそうだ。そう思った。

 花火大会が終わった後、俺たちは現地解散してそれぞれ帰路に着いた。
 だけど俺はすぐには帰らなかった。
 人混みを抜けて通りの隅の静かな辺りに辿り着くと、そこから電話を掛けてみた。
 もちろん、早坂先輩にだ。
『――もしもし?』
 先輩の声が電話の向こうで、少しくぐもって聞こえた。
 掛けてみてから俺は焦った。あ、そうか。もう時間が時間だ。先輩なら既に寝てた頃かもしれない。
「す、すみません。先輩、寝てました?」
 慌てて尋ねると、すぐに先輩が答える。
『ううん、起きてました。お布団の中ですけど』
「じゃあ寝るところでした?」
『ううん。……花火の音が聞こえないようにしてただけ』
 徹底している。
 先輩の対策ぶりに俺は苦笑した。
「花火大会ならもう、無事に終わりましたよ」
『お布団の中にいたからちっとも気づきませんでした』
「そりゃそうでしょうね」
 いかにも先輩らしい。
『皆は? まだ一緒なの?』
「いえ、もう解散してます」
『じゃあ、帰るところ?』
「ええ、まあ」
 曖昧に言葉を濁した俺は、次に何を言うべきか迷っていた。
 いや、言いたいことは一つだけなんだ。今のところは。言いたいことがあって、先輩に電話を掛けたんだ。

 でも今になってちょっと、怖気付いたって言うか。
 結構早まったことしちゃったんじゃないか、しようとしてるんじゃないかって気になってきた。
 だってこれって、いかにもわかりやすい好意の表し方じゃないか。しかもこんな夜遅くに電話までして。迷惑がられたっておかしくないのに。
 俺は別にナイスガイじゃないから、こんな世話の焼き方なんて迷惑なだけかもしれない。
 でも――。

『花火大会、私の分まで楽しんでくれた?』
 早坂先輩がふと尋ねてきた。
「は、はい。楽しみました」
『そっかあ。よかったね』
 見えもしないのに頷いた俺に、先輩は優しい声を立てて笑う。
 花火を楽しめない先輩が、こっちのことを気にかけてくれてる。
 自分が行けないイベントごとなのに、ちゃんと気にしてくれている。
 そして楽しんで帰る俺のことを『よかった』と言ってくれた。
 本当に優しい笑い声をしていた。

 その笑い方に背中を押されたと言っていい。
 ほとんど衝動的に――それこそ空を昇ってく打ち上げ花火みたいな勢いで、俺は電話の向こうに告げていた。
「先輩っ」
 後戻りはできない。
「俺、あの、今日来られなかった先輩の為に!」
『え?』
「そのっ、わたあめを買いまし、た」
 事後報告。
 もう買ってしまったので後戻りはできません。自分で食べるくらいしかない。もちろん、自分で食べるよりも早坂先輩に渡す方が一番いいに決まってる。
 先輩はわたあめが似合うから。
『私に? わたあめ、買ってくれたの?』
 明らかに戸惑ってる様子の声が聞こえて、やっぱ早まったかなと思う。

 言ってしまえば口実だ。
 先輩に会いたいが為の、一方的な好意の表し方だ。
 でも、押しつけがましいのを承知の上で言ってしまえば、俺は今日の楽しさを先輩にも味わって貰いたかった。
 部の皆と同じように、花火大会の雰囲気を、楽しさを、早坂先輩とも共有したかった。要はそれだけのことだ。
 そう思ったのは当然、先輩のことが好きだからだ。

『そっか……』
 電話の向こうでは先輩が溜息をついている。
『今日、行けなくてごめんね』
 声のトーンが落ちたので、俺はこの上なく焦った。
 ああやっぱり早まった。って言うか失敗した。どうしよう。
「あ、謝らないでください。こっちこそ早まったことして――」
『悪いんだけど、わたあめ、うちまで届けてくれる?』
「……え?」
 予想外の言葉が聞こえ、俺は、とっさに聞き返した。
 電話する前は一番期待してた台詞のはずなのに、いざ耳にすると、信じられない思いが強かった。
『せっかく買ってくれたんだから、食べたいです』
 おずおずと早坂先輩が言う。
『あ、もちろん大変じゃなければ、だけど』
「大変じゃないっすよ。むしろ、俺、そのつもりでした!」
『本当に? 嬉しいです。花火がなければ行きたかったのにって思ってたところだったから』
 先輩は、くすくすと楽しそうに笑っていた。
 それで俺も、今度はこの上なく幸せな気持ちになって、先輩に告げた。
「じゃあ今から猛ダッシュで先輩の家に参上します」
『え? あの、そんなに急がなくてもいいですよ』
「いえ、もう遅いですし、これ以上迷惑はかけられませんから」
『ううん、ゆっくり来て』
 そこだけは懇願するように早坂先輩が続ける。
『私、着替えなきゃいけないの。もうパジャマですから』
「――今すぐすっ飛んで行きます!」

 残念ながらと言うべきか、俺が先輩の家に辿り着いた時、既に着替えは済んでいた。
 でも私服の夏物ワンピースを着た早坂先輩も、当然ながらすごく可愛かったので不満なんてない。
 おまけに、わたあめを受け取ってくれた先輩は本当にすごく嬉しそうだった。目をきらきら輝かせて俺を見てくれたから――それは花火よりもきれいだったから、俺にとってこの夜は、最高の夜になった。
 一人で帰る夜道の途中、何度も何度も思い出すくらい、いい夜になった。
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