春の微睡
春の午後の陽射しが、睡魔を連れて来るのはどうしてだろう。ぽかぽかと暖かく室温を上げてくれるからなのか、眩し過ぎてそのまま目を閉じてしまいたくなるからなのか。
どっちも正解なのかもしれないけど、とにかく俺は、困ったもんだと思っていた。
「先輩、部活やりませんか」
「んー……」
「他の連中来ないんだから、一緒にやりましょうよ」
「うー……」
早坂先輩は部室の机に突っ伏して、むにゃむにゃ言っている。
さっきから何度声を掛けてもこの調子だ。
眠たがっているというより、もはやほぼ眠りかけているらしい。俺の声は聞こえているのかいないのか、唸り声とも呻き声とも知れない返事ばかりを発している。もしかするとただの寝言で、俺に対する返事ですらないのかもしれない。
「せんぱーい……」
俺は思わず溜息をついた。
今日は月に一度の『写真部通信』を仕上げる予定のはずだった。
俺も先日の桜の写真がよく撮れていたから、今月は張り切って提出しようと思っていた。そこでカメラ片手に勇んで部室を訪ねたら、早坂先輩がまどろんでいたというわけだ。
おまけに今日は他の部員が揃って休みだった。何せ中間テスト明けだ、羽を伸ばしたい奴もいれば、追試に泣く奴だっている。真面目に部活に出てくるのは早坂先輩と俺くらいのものだった。
だから、せっかく先輩と二人きりだと思っていたのに。『写真部通信』の編集を手伝って、手際のいいところを見せたりして、早坂先輩にもっと頼ってもらえるようになって、ちょっと誉めてもらえたりして――とかいう願望まで抱いていたのに。
俺が部室に来た時、先に着いていた早坂先輩は既に舟を漕いでいる状態だった。
そして机に向かったまではよかったものの、点けっぱなしのパソコンに突っ伏したかと思ったら、そのまますうすうと寝息を立て始めた。
「早坂先輩、編集やりますよー」
俺は先輩に歩み寄り、そっと声をかけてみる。
残念ながら返答はなく、突っ伏した頭も動かない。セーラー服の肩から背中にかけてが規則正しく上下しているだけだ。
毛先が緩くカールされた先輩の髪は、水の流れ落ちる軌道みたいに背中と、腕と、部室の机の上に広がっていた。
「先輩、起きてくださーい」
声はかけつつも、俺も次第に起こす気が失せつつあった。
だってこの寝顔だ。
先輩はどんな夢を見ているのか、うっとり目をつむり、幸せそうに微笑んでいた。唇が時々もごもごと動くから、美味しいものの夢でも見ているのかもしれない。
こうなると起こすのもかわいそうになってきたから、好きにさせておこうと俺も思う。『写真部通信』も急ぐほどのものじゃないし、出席率の悪い部活動が一日くらい昼寝の日になったって、誰に迷惑もかからないだろう。それに無理矢理起こしたところで、この暖気じゃまた睡魔と格闘する羽目になるだけだ。
だったらこの幸せそうな寝顔を見ていた方が、互いの為にもずっといい。
俺は早坂先輩の寝顔がよく見えるよう、隣の机に移動した。
そっと静かに椅子を引き、腰を下ろす。
すぐ隣から覗き込んだ顔は、安らかで、そして眠っていてもきれいだった。
今は伏せられているけど睫毛は長いし、瞳だってぱっちりとした二重瞼だ。今はもごもご動いているけど、唇はふっくらしていて、かさついているのを見たことがない。
間近で見ると肌のきめ細かさが良くわかった。触れたらきっと、しっとり柔らかいと思う。ほっぺたはいかにも蒸しあがったばかりのあんまんっぽい。
だとすると唇はさくらんぼかな。アメリカンチェリーとかいう色の濃いやつじゃなくて、化粧箱に入って売ってるような国産の、きれいでつやつやした赤色だ。
そんなことを考えながら見つめていたら――何か、お腹が空いてきた。
すると目の前の早坂先輩が急に美味しそうに見えてきて、俺は慌てて視線を逸らす。
さすがに先輩は食べられない。
いや、変な意味じゃなくて、とにかく駄目だ。
それにしても、先輩が寝てると部室の中が静かだった。
写真部の部室は校舎の隅にある空き教室で、隣もその隣も文化系クラブの部室になっている。すぐ隣は茶道部だから話し声も聞こえてこなくて、早坂先輩の寝息だけが響いている。
いつもならもう少し賑やかなんだけどな。出席率が悪くて、俺と早坂先輩の二人きりってことはよくあった。それでも先輩と一緒なら寂しいとか、静かすぎるなんて思ったことはない。
二人でいる時、早坂先輩はいつも笑顔で、朗らかに俺と話してくれた。ちょっと天然な人だからたまに会話が噛み合わないこともあったし、子供っぽい理由で拗ねたりすることもあったけど、それでも基本は優しくて、にこにこしている人だった。
俺は先輩のそういうところが好きで――だから、この静けさが無性に寂しくなってきた。
早坂先輩は確かに寝顔も可愛い。
可愛いけど、やっぱりつまらない。
起きてる時の様子を見ている方がずっとずっと面白いし、楽しい。俺のカメラに収めたいと思うのだって寝顔じゃない。先輩の笑顔だ。
いつか頼んでみたいと思っているけど、今の俺じゃ無理だ。写真の腕がよくないのもあるし、言ったところで早坂先輩にはその意味が伝わらないからでもある。
普通に考えて、意識してる相手の前で無防備にぐうぐう寝たりはしない。つまり今の早坂先輩から見て、俺は安全圏かつ意識もしてない存在ってことになる。空しいけどこればかりは事実だ。
どうしたら先輩に、眠気も吹っ飛ぶほどどきどきしてもらえるだろう。
どうしたらただの後輩じゃなくて、異性として見てもらえるだろう。
というか、俺以外の男の前でもどきどきして頬を染めてる早坂先輩とか、いまいち想像できないんだよな。先輩は人を好きになったらどんな顔をするのかな。いつか、見てみたい。できれば俺の目の前で。
ずっと頬杖をついていた俺は、腕が疲れてきたので机の上に突っ伏した。
そのまましばらく、ちっとも起きない先輩の寝顔を観察していた、はずだった――。
ふと、何か柔らかいものが、俺の頬にそっと触れた。
それは冷たくも温かくもなかったけど、その後ですうっと吹き込むような寒さを感じた。
おかしいな。さっきまであんなに陽が射してぽかぽか暖かかったのに。一気に冷え込むなんて、まるで日が落ちた後みたいだ。
隣で寝てる先輩が風邪を引いたら大変だ、俺は慌てて、いつしか閉じていた目を開けた。
「あっ」
早坂先輩が、そこで小さく声を上げた。
俺は驚きのあまり声が出なかった。蛍光灯の明かりが眩しく、何度か瞼を開閉したけど、見える景色は変わらない。
隣の机で寝ていたはずの先輩が、いつの間にか起きていた。
そして俺は机の上に突っ伏したままだった。
ぼけっとしていたら、先輩が顔を覗き込んできた。目を瞬かせつつ、笑いを堪えるような顔をしている
「おはよう、清田くん。もう日が暮れてるけど」
「え」
現実を受け止められず、俺はゆっくりと身を起こす。
白っぽい蛍光灯の明かりに照らされた部室は、随分と冷え込んでいた。窓の外は真っ暗だ。射し込んでいた日光も既に消えてしまっている。
「俺……もしかして、寝てました?」
喉が渇いていたせいか、声が少しかすれた。
早坂先輩は間髪入れずに頷く。
「もしかしなくても寝てました」
「マジで……いえ、マジっすか」
何やってんだ俺。先輩の寝顔を見つめていたはずなのに、何で自分まで一緒になって寝てるんだ。他人のことを言えた義理じゃない。
目を擦りながら部室の時計を見れば、午後六時を回ったところだ。
寝ついたのは何時くらいだっただろう。日が暮れる前だったから、四時になるかならない頃かもしれない。
じゃあ、たっぷり二時間は寝たってことか? 何をのんきな。
「先輩もずっと寝てたんですか?」
そう尋ねてから、ふと気づく。
あんなに眠そうだった先輩の目が、今はぱっちりと開いている。長い睫毛に縁どられた二重の瞳が、俺を映してきらきら光っていた。
「うん。さっき起きたばかりです」
早坂先輩のさくらんぼのような唇にも、意味ありげな笑みが浮かんでいる。
「目が覚めたら、隣でぐうぐう寝てるんだもの、びっくりしちゃった」
ってことは俺、先輩に寝顔を見られたのか。
ショックだ。普段から大していいところも見せてない俺が、更に間の抜けた寝顔を見せたなんて恥の上塗りじゃないか。心なしか先輩もおかしそうにしてるし、きっと油断しまくりの寝顔だったに違いない。
俺の内心を読んだのか、先輩は不意にくすくす笑い声を立てた。
「可愛い寝顔だったよ、清田くん」
そう言われて喜んでいいのかどうか。
いや、よくないよな。
「止めてくださいよ先輩」
この上なく、俺はへこんだ。
「何で? 本当なのに」
「いやもう、俺の寝顔なんてとっとと忘れてください」
「やだ」
「お願いです、忘れてくださいってば」
俺が困っているのを見て、先輩はやけに楽しそうだ。あんまんみたいなほっぺたが緩んでいて、ほんのり赤みが差している。
やっぱり起きてる方が可愛いな、早坂先輩。
俺としても先輩に楽しんで貰えたなら本望です。間抜けな寝顔を見られたってさ。
「玄関閉まる前に帰りましょうか」
一つ大きく伸びをしてから、俺は切り出した。
「え、もう帰っちゃうの?」
「帰らないでどうするんすか、今から部活なんて無理すよ」
目を丸くした顔に、今度はこっちが笑ってしまった。
先輩はそうだけど、と唇を尖らせる。
何が不満なのかはわからない。編集作業を片づけてしまいたかったのかもしれないけど、今日は昼寝で時間を潰してしまったからもう無理だ。
「編集はまた次の部活でやりましょうよ。俺、今度こそ手伝いますから」
俺がそう提案すれば、早坂先輩の表情がぱっと輝く。
「清田くん、次もまた来てくれるの?」
「もちろんっすよ。俺、皆勤賞狙ってますし」
「じゃあ是非! 清田くんが来てくれるなら、私も頑張る!」
先輩は張り切った様子で拳を握り締めた後、何か思いついたような顔をした。
そして急にもじもじと切り出してくる。
「それと、帰りにコンビニ付き合ってくれませんか?」
「構いませんけど、買い物っすか」
「うん。何だかあんまんが食べたくなったの」
「あんまん?」
猫舌の先輩にしちゃ珍しいチョイスだ。
奇遇にも、俺も食べたいと思ってたところだった。
「そう、温かいの。ちょっと身体冷えちゃったから」
早坂先輩はちらりと目を逸らし、長い髪をくるくる指に巻きつけている。
でもその口元は愉快そうにほころんでいて、何かいいことを思いついた後みたいに見えた。
「いいすね。俺も腹減ってるし」
同じタイミングで同じものが食べたくなるなんて、俺と先輩はやっぱ似てるのかもしれない。
だとしても、好きな人の前で堂々と寝てしまう間抜けは俺くらいのものだろうけど。
というわけで、俺と先輩は学校帰りにコンビニに寄って、あんまんを買って食べた。
春の夜道はまだ肌寒くて、あんまんを食べながら歩くのにぴったりだった。
先輩は猫舌だから結構苦労してたみたいだけど、時間がかかった分ゆっくり歩けたから、俺としてはラッキーだったかな。