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神聖で幸福な家族の一日
その日は記念日だった。新しい家族が創られた、神聖で、とても幸福な一日だった。
「奥様に我々の結婚の許可をいただいた。この旅が終わったら、結婚しよう」
湖畔に借りた邸宅の前庭で、バートラムはクラリッサに告げた。
その時、クラリッサは実感の持てない顔をしていた。それでも夢を見ているように頷いてくれ、その顔をバートラムはじっくりと見つめる。
これから更にする話は彼女を更に驚かせることだろう。
新しい家族を得る幸いを心ゆくまで噛み締めてから、続きを口にした。
「そして私は奥様の養子となる。我々は家族となるのだ、クラリッサ」
「――……えっ?」
驚きの声は、彼女の唇からぽろっと零れ落ちた。
むしろこの瞬間、クラリッサは夢心地から現実へと引き戻されたようだ。瞳を大きく瞠って、喘ぐように聞き返してくる。
「養子?」
「ああ」
「家族?」
「ああ」
「ど、どなたと、どなたがです?」
「まずは私と奥様が親子になる。そしてその私と君が結婚すれば――」
バートラムは上機嫌だった。求められればいくらでも説明する気でいたが、クラリッサの理解が追いついていないのを見て言葉を切った。
そして、改めてゆっくりと告げる。
「旦那様と奥様からのたってのご要望だったが、ずっとお断りし続けてきたのだ。もうかれこれ、十年以上も」
しかし言い聞かせたところで、クラリッサは何も呑み込めないようだった。
目を白黒させたかと思うと、持っていた箒を放り出して水を飲みに駆けていく。その足取りも酩酊しているように覚束なく、バートラムは案じて見送りながら箒を拾った。
その一時間ほど前、バートラムはメイベルと話し合いの場を設けていた。
邸宅の居間で向かい合わせに座った。シェリルたちの祖父の葬儀に参列した後で、メイベルの表情にはさすがに疲れの色がある。
だがバートラムが姿勢を正すと、すかさず笑顔を向けてくれた。
「お話って何かしら。わたくしは楽しみで仕方がないわ」
齢を重ねてもなお、夫人の朗らかさは少女のように屈託がない。
バートラムもつられて微笑む。
「ご期待に沿えるものであればいいのですが」
「きっとそうね、早く話してちょうだい」
メイベルは身を乗り出し、話を急かした。
それでバートラムも一呼吸置き、直に切り出した。
「以前、旦那様からいただいていた養子の話、奥様さえよろしければお受けしたいのです」
性急な物言いになったのは、バートラム自身も知らず知らずのうちに緊張していたせいかもしれない。
そしてそれは、メイベルにとって意外な言葉だったようだ。
「まあ……!」
彼女ははっと息を呑んだ後、口元に手を当てた。
「ようやく決めてくれたのね、バートラムさん」
「今更ながら、遅いお返事になってしまったことを申し訳なく思っております。旦那様に直接お答えできなかったことも」
そう続けると、メイベルは優しい微笑を取り戻す。
「いいのよ、レスターならわかってくれるわ」
「私も、そう願っております」
バートラムは本心から呟いた。
まだレスターが存命であった頃、そしてクラリッサが雇われてくるよりも前のことだ。
老いたレスターはバートラムに、養子になってくれないかと持ちかけてきた。
当時、バートラムは先代の執事に仕事を教わり始めたばかりだった。家族を失い、靴磨きとは名ばかりの物乞いに身をやつしていた頃、変わり果てたバートラムに気づいて手を差し伸べてくれたのがレスターだ。返すべき恩に、勤労奉仕と忠誠で報いるつもりでいた。
そんな恩人を家族にと考えるのは、バートラムにとって難しいことだった。
レスターとメイベル夫妻に不満があったわけではない。
二人は真っ当な家庭を知るバートラムにとっても理想的な夫婦だった。二人の愛は互いのみならず使用人たちにも惜しみなく注がれ、それはバートラムにとっても例外ではなかった。
拾われてきた当初、野犬のように警戒心剥き出しのバートラムにも、夫妻は優しかった。バートラムの伸び放題だった髭を剃り、垢まみれの身体に湯を使ってきれいにしてくれた。医者を呼んで診察をさせ、栄耀が足りないとわかると十分な食事と休養の時間を与えてくれた。
そして体力と人間らしさを取り戻したバートラムに、いつまでもここにいていい、と言ってくれた。
その時はバートラムも、両親の死後以来初めて涙を流した。
だが一方で、本物の両親の存在が胸のうちから消えることはなかった。
貴族の家系でありながら取り潰しに遭い、一夜のうちに全てを失った。そんな両親が選んだ道は毒を飲むことで、他のきょうだいたちも自ら望んでか、あるいは望まぬうちにか道連れとなった。
一番幼かったバートラムだけが毒を飲まされず、この世に残された理由はわからない。遺言などは一切なかったからだ。
少なくともバートラム自身は、それを両親が最後に残した愛情の形と受け止めている。
決して理想的ではなく、むしろ独善的ですらある愛が、バートラムを苦痛だらけの生に縛りつけた。
だからこそ、レスターとメイベルの子にはなれないと思った。
しかしそれも今では古い傷跡だ。
「レスターはね、あなたに選ばせなさいって言うの」
メイベルは幸せそうに語る。
その口調はまるで、ついさっき彼と話したばかりだというようだった。
「わたくしたちがあまり強くお願いしたら、望む通りの選択ができなくなってしまうから。あなたがここにいたいなら置いてあげればいいし、わたくしたちの子になりたいというなら温かく迎えてあげればいい。そして、どこかへ行きたいと言い出したら止められないだろう、ともね」
レスターの慧眼は、バートラムの黙して語らぬ胸中までも見抜いていたようだ。
いくらかは考えていた。
レスターとメイベルの元での暮らしは平穏に満ちていたが、胸に巣食う空虚さを癒すことまではできなかった。
いつか自分はあの屋敷も出て、また当てどない放浪生活をするかもしれない――執事としてレスターに仕えつつ、そんなことも思った。
だが転機が訪れた。
新しい小間使いを雇う為に、あのじめじめした孤児院へ出向いた時だ。
「私も、この決断をするまでに様々なことを考えました」
バートラムは素直に打ち明けた。
「亡き両親のことも、あなたがたがいかに理想的なご夫婦であるかということも。ですがそれでも、私には家族や家庭への憧れがいつまでも失われたままでした」
「……そう」
労わるように、メイベルが微苦笑を浮かべる。
それから胸に手を当てて、そっと尋ねてきた。
「でも、わたくしたちの子になりたいと言ってくれた以上、今はそうではないのでしょう?」
「ええ。今は温かな家庭が欲しくて仕方がありません」
万感の思いを込め、バートラムは答える。
そう思わせてくれたのは他でもないクラリッサだった。
折しも同じように親がなく、幸福ではない少女時代を過ごしてきた彼女が、バートラムの空虚さをいともたやすく埋めてくれた。
「ずっと考えておりました。両親はなぜ、私だけを置いていったのか。何をなすべきと思って残してくれたのか。もちろん答えが出ることはありませんでしたが……」
そこで息をつき、バートラムは続ける。
「ですがようやくわかったのです。両親の遺志を知ることができないのであれば、残りの生をどう使うかは私の自由だと。そして私はこの生を、大切な人たちと共に楽しむことにしようと」
苦痛だらけの日々は過ぎ、今は幸福だけがある。
その幸福をより楽しむ為に、確かなものにする為に、バートラムは大切な人たちを家族にすると決めた。
「あなたを母と呼ばせていただきたいのです」
そう告げると、メイベルは少女のようにはにかんだ。
「いくらでもどうぞ。わたくしはずっと、あなたを本物の子供のように思っていたけど――」
そして言いかけてかぶりを振り、優しく言い添える。
「いえ、あなただけではないわね。あなたがたをよ」
「何よりも、嬉しいお言葉です」
バートラムは目をつむってそれを受け入れた。
そして今の言葉を、次はクラリッサ自身にも聞かせてやりたいと思う。
彼女ならどんな反応をするだろう。目を輝かせて喜ぶか、夫人と同じように照れてはにかむか。あるいは生真面目さえゆえに、畏れ多いことと慌てふためくかもしれない。
だがその後で、必ずや幸せを噛み締めることだろう。
ずっと欲しがっていたものが手に入るのだから。
「クラリッサには、既に結婚を申し込みました」
更にそう続けると、メイベルが目を丸くする。
「まあ……! 段取りはもう整っているのね?」
「ええ。彼女からもよい返事を貰ったところです」
それがつい昨夜のことだとは、さすがに打ち明けなかったが。
何にせよメイベルの方も、いつの間にとは思ったようだ。冷やかすように小首を傾げた。
「近頃のあなたがたはすっかり仲良しね、よいことだわ」
「お蔭様で、幸福を噛み締める日々にございます」
バートラムもここぞとばかりにのろけた。
「彼女はあの通り、生真面目で、真っ直ぐで、困難に立ち向かう勇気と細やかな思いやりを併せ持つ婦人です。旅先においても彼女は常に私の支えであり、よりどころでもありました」
「わたくしも全く同意よ、異論はないわ」
くすくすとメイベルが笑う。
「あなたがたなら温かい家庭を築いてくれることでしょう」
「ご期待に沿えるよう、全力を尽くします」
「あなたの全力なら問題ないでしょうね」
そう言った後で、メイベルはふと不安の色を覗かせた。
恐る恐るといった様子でバートラムに尋ねてくる。
「ただ……クラリッサはわたくしを、母親のように思ってくれるかしら? わたくしはもうおばあちゃんですもの、ふさわしくないと思われたら……」
「それは要らぬご心配でしょう」
バートラムはその不安をやんわりと否定した。
クラリッサがメイベルをどれほど慕っているかは今更語るまでもない。
本人は忠心と思い込んでいるようだが、それだけではないことをバートラムは知っている。
それに、クラリッサもまた空虚な思いを抱えているのだ。
「彼女と初めて出会ったのは、薄暗い孤児院でした」
その時のことを、バートラムは今でも鮮明に思い出せる。
胸ときめく眩しい光景と共に、陰鬱な空気の臭いもまた記憶されていた。
「彼女は……彼女も、温かい家庭を欲しています」
バートラムは、メイベルに対しては多くを語らぬつもりだった。
そしてメイベルも心得たように頷く。
「……わかったわ。あの子も大変な思いをしてきたのね」
「その分、いえそれ以上に、これから幸せにしてみせます」
きっぱりと誓いを立てた。
それでメイベルも納得したのだろう。再び微笑を取り戻し、こう言った。
「ええ。わたくしも、よき親になるわ。レスターの分まで」
かくしてその日、新しい家族が創られた。
もっとも当のクラリッサは事実を知らされ、呑み込むまでにかなりの時間を要したのだが――それから家族らしくなるまでには、不思議と時間もかからなかった。
旅を終え、終の棲家のある農村へと帰ってきた三人は、今でも幸いの中にいた。
バートラムはクラリッサと式を挙げ、本格的にレスターの後を継ぐこととなった。時々町まで出かけては、彼が遺した商店で養父顔負けの商売をしている。その堅実な仕事ぶりは平穏な暮らしを問題なく支えていた。
クラリッサの方はと言えば、当初は小間使いを辞めたことに戸惑いを感じていたようだ。
しかし幸福な日々のお蔭か、いつの間にか夫人としての振る舞いが板についてきた。
「お義母様、花冠ができあがりました」
「見せてちょうだい……まあ、いい出来映えね」
クラリッサとメイベルのはしゃぐ声が庭から聞こえる。
二人を探していたバートラムも、その朗らかさに思わず足を止めた。
「奥様はお花の冠作りがとてもお上手でいらっしゃいます!」
小間使いのベルに絶賛され、クラリッサは照れたようだ。
「昔、小さな子たちに作ってあげたことがあったから。意外と覚えているものですね」
そう語る声がしみじみと懐かしげで、聞き耳を立てるバートラムもつい微笑まずにはいられなかった。
書類仕事が片づいたので、皆でお茶でもと声をかけに来たところだった。
しかし家の中にクラリッサたちの姿はなく、捜し回るうちに辿り着いたのがこの庭だった。
天気のいい午後だった。降り注ぐ陽光が暖かい陽だまりを作り、庭一面に咲き乱れた花々がよい香りを漂わせている。
その庭先に一脚だけ持ち出された椅子の上にメイベルが座り、すっかり白くなった髪に可愛らしい花冠を載せている。
クラリッサはその足元に座って、新しい花冠を編み始めている。
それをベルが、横から目を輝かせて眺めていた。
日の光が惜しみなく照らす、目も眩むほど神聖で、幸福な光景だった。
バートラムは用件も放り出し、しばしその庭の光景に見惚れていた。
メイベルが足元の二人を見下ろす表情は慈愛に満ちていて、クラリッサの赤い髪はきらきらと美しく輝いている。ベルは花冠の手業を学び取ろうと躍起で、クラリッサがゆっくりと編んでみせると、メイベルがその様子を見てくすくす笑う。
苦難に満ちた人生と長い旅の先に、こんな幸いが待っていたとは。
声をかけることさえためらわれ、黙って家の陰から三人の姿を覗いていた。
どれくらい経った頃だろう。
「ねえ、そろそろお茶にしない?」
不意に、メイベルが切り出した。
「今日はこんなにいいお天気なのだし、お外でお茶というのはどうかしら?」
「名案です、お義母様。今日は暖かいですから」
クラリッサは頷き、それを見たベルが勢いよく立ち上がる。
「ではわたくし、支度をして参ります!」
「お願い。それとセドリックさんに、敷物を持ってきてくれるよう伝えてちょうだい」
メイベルが言い添えると小間使いは勇ましく首肯した。
「かしこまりました!」
それからぱっと駆け出したかと思うと、身を潜めるバートラムには気づかずに家の中へ飛び込んだ。直にあの執事と言い合いをしつつ、仲良く茶器と敷物を運んでくることだろう。
そして出方を窺うバートラムに、そっと声がかけられる。
「さあ、お行儀の悪い子は出ていらっしゃい」
どうやらメイベルは、物陰に潜むバートラムに気づいていたようだ。
そのことに驚きつつ、バートラムは言う通りに庭まで出向いた。もっとも驚いているのはクラリッサも同じで、現れた夫と義母を目を丸くして見つめている。
「バートラム、そこにいたのですか? お義母様はどうして?」
「だって、長い影が見えていたもの」
メイベルは言い当てたことに嬉しそうだ。顔をほころばせている。
「覗き見をするつもりはなかったのですが、あまりにも楽しそうなのでつい……」
バートラムが自白すると、クラリッサはおかしそうに笑った。
「覗き見だけでよかったのですか? お一人でなんて寂しいでしょうに」
「きっと黙って見ていたいほど、素敵なものがあったのよ」
メイベルはそれもお見通しのようだ。
レスターの慧眼を受け継いだかのような言葉に、バートラムは照れ笑いを浮かべるしかない。
「近頃、お母様には何もかも見抜かれているようだ」
「あなたにも敵わない相手がいるのですね、バートラム」
クラリッサはますます愉快そうにしたが、その相手の一人が自分自身だとは気づいてもいないようだ。
妻の眩しい笑顔を眺め、バートラムは思う。
敵わぬ相手がいることも、こうして見れば素晴らしいことだ。
家族を手に入れた幸福を、こういう時に噛み締める。