menu

執事と羊のスーベニア(1)

 孤児院から赤毛の少女がやってきた日のことを、バートラムはくまなく覚えている。
 彼女が暮らしていた孤児院からレスターの屋敷が建つ農村までは、馬車で半日近い距離がある。貧しい孤児院にはそこまで馬車を用立てるだけの経済力がないようだった。そこでバートラムは主人レスターに働きかけ、せっかく雇い入れる小間使いが雨風に打たれて病気になっては損だと吹き込んだ上、彼女の為に馬車を出させることに成功した。たかが小間使いの為に馬車を使いに出すのも異例のことだが、レスターはいくらか訝しげにしながらも執事の進言を受け入れていた。バートラムとしても老いてますます鋭敏な主から追及を受けたとしても構わぬという覚悟があった。
 彼女がやってくることによって、大きな変革が起きるだろうと確信していたからだ。

 こうしてバートラムは、十六歳のクラリッサと再会した。
 会うのはまだ二度目だった。初めて顔を合わせたのはつい数週間前、バートラムが屋敷に新しい小間使いを雇い入れる為、孤児院を訪ねた時のことだった。そこで見た、彼女の堂々とした誇り高い笑顔が忘れられなかった。新しい小間使いに彼女を選んだ理由もたったそれだけだった。
 しかし再会したクラリッサは緊張のせいか妙におどおどしており、孤児院で見せたような笑顔を浮かべることはなかった。おまけに一度会ったはずのバートラムのことを覚えていなかったようだ。屋敷に到着した馬車を出迎えたバートラムに対し、ぎこちなく頭を下げてこう言った。
「初めまして。クラリッサといいます」
 強張った顔つきでたどたどしい挨拶をした赤毛の少女に、バートラムは多少落胆していた。孤児院では目の前でお茶を入れてくれたはずなのだが、どうやら顔を覚えていてもらえなかったようだ。
 もっともすぐに気を取り直し、彼女に対しにこやかに挨拶を返した。
「バートラムだ。ここでは執事を務めている」
「よろしくお願いします、バートラムさん」
 クラリッサはうんと首を伸ばして執事を見上げた。彼女は十六という年齢を考慮してもやや小柄で、おまけに酷く痩せていた。折れそうなほど細い手首には骨が浮き上がり、頬はこけ、血色も悪かった。一つに束ねた赤褐色の髪も傷んでおり、瞳だけが手負いの獣のようにぎらぎらとしていた。痩せ細った身体には麻袋から作ったようなごわごわの服をまとい、小さな手には四角い鞄を一つだけ提げている。
「君の荷物は? これだけかな?」
 尋ねてみると、赤毛の少女はこくんと頷く。
「そうです。あの、服はこっちで貰いなさいって」
 彼女を雇い入れると決めた後、孤児院側へはいくばくかの支度金を手渡していたはずだった。だがどうやらその金はどこかへ消えてしまったようだ。行方を彼女に問うたところで明らかになるとも思えず、バートラムは事実を胸にしまっておくことにする。
「お洗濯は、得意です。孤児院では毎日やっていましたから。服も、敷布も洗えます」
 クラリッサはまだ幼さが残る口調で、諳んじるように続けた。
「お掃除だってできます。力がないように見えるかもしれませんが、ここへ置いていただく以上は一生懸命働きます。何でもお申しつけください」
 誰かにそう言うようにと教わってきたのかもしれない。急に畏まった物言いになった少女の、棒切れみたいに細い腕をバートラムは見つめた。
「お料理は少ししかできません。パンを焼くことと、お茶なら入れられますけど……」
 彼女の入れたお茶を、バートラムは孤児院を訪ねた時に口にしていた。あれを主人夫妻に振る舞われては困る。早急に対策が必要だろう。そんな胸中を読み当てたかのように、少女もまたおずおずと語を継ぐ。
「でも、できないことは覚えます。教えてください」
 そこまで言い切ると、クラリッサは乾いた唇を結んだ。どうやら教わった言葉はここまでらしい。
 語られたのは彼女自身の言葉ではなかったようだが、それを覚えてくるだけの生真面目さはあるようだ。惚れた欲目もあるにはあるが、バートラムは彼女の態度を好意的に捉え、手を差し伸べた。
「もちろん教えよう。わからないことがあればいつでも聞いてくれ。さあ、荷物を」
 差し伸べられた手を、少女は怪訝そうに見つめている。
 それでバートラムは微笑み、
「持つよ。旦那様と奥様のところへ案内しよう」
「……ありがとう、ございます」
 クラリッサはお辞儀をしてから、こちらへ鞄を引き渡した。身の回りの品しか入っていないとわかる、実に軽い鞄だった。
 それからバートラムは先に立って屋敷へ入り、クラリッサを主の元へと連れていった。彼女はこういった屋敷に立ち入ったことがないのか、玄関の広さにまず息を呑み、廊下を少し進むごとに忙しなくきょろきょろしていた。ホールの天井に吊り下げられたきらびやかなシャンデリアを見つけると、溜息の後で眩しそうに目を細めていた。絨毯敷きの階段を上ろうとして遠慮がちにためらい、バートラムに促されて一段目に足を置いた時は、その感触に瞬きを繰り返していた。見るものも触れるものも全てが新鮮そうなクラリッサを、バートラムは微笑ましく思いながらたびたび振り返っていた。
 彼女は酷く緊張していて、ここでの生活に思いを馳せる余裕もないようだ。
 しかしバートラムはこれからのことを考える度、楽しみで胸が高鳴るようだった。主人に付き従って農村へ移り住んだものの、田舎暮らしは平穏ながらも少々退屈で、まだ枯れる歳でもないバートラムは内心刺激を欲していたのだ。何年ぶりともつかない恋の予感に心が弾むのも無理はない。
 黴臭く薄暗い孤児院での暮らしは彼女をすっかり弱らせていたようだが、ここで日の光を浴び、新鮮な空気を吸い、存分に養生すれば、彼女はより美しい女になることだろう。赤い髪は美しく艶を帯び、手足はすらりと伸びて、頬には血色が戻り、誇り高い笑顔がより似合う婦人へと成長することだろう。その為にも、彼女が活力を得て育つまで今しばらく待つ必要があるのかもしれない。

 二人が再会を果たしたちょうどその頃、農村の片隅では小さな事件が起きていた。
 クラリッサが屋敷勤めを始めたのは春の半ばだったが、それは農園で飼われている羊達の毛刈りの時期でもあった。寒さを凌ぐ為にたっぷりと毛を蓄えた羊達は、この時期になると一頭一頭が質量を増し、農園の柵の中でみっしりと身を寄せ合う様は雲の集まりのようだった。そのもこもことした増毛ぶりはとある農園の若い羊飼いの目を眩ませたようだ。羊のうち一頭がふとした拍子に柵を跳び越え、そのまま近くの山へ逃げ込んで行方知れずとなったことに、何日も気づかれなかった。
 まんまと脱走した羊は二週間、春の野山を駆け回り自由を謳歌していた。蓄えたふかふかの毛が泥で汚れても構おうともせず、自由に草を食み、山の木々の陰で好きなだけ眠った。だがそんな自由にも飽きが来たのか、あるいは人や仲間の羊達が恋しくなったのか、件の羊はある日自発的に山を下りてきたのだった。
 そのことがレスターの屋敷に、そしてバートラムとクラリッサにささやかな騒動をもたらす。

 その日の午後、バートラムは仕事の手が空くや否やクラリッサを捜しに出向いた。
 彼女が屋敷で働くようになって二週間が過ぎたが、暇を見つけてはその姿を見に行くのが日課となっていた。クラリッサはまだここでの生活に慣れていないようだったが、持ち前の勤勉ぶりを大いに発揮してよく働いていた。少なくともここに来てから健康状態はいいようだし、頬にも血色が戻ってきた。主人夫妻も生真面目な彼女を気に入ってくれたようだ。当のバートラムは始終顔を見に行っているせいか、顔はしっかりと覚えてもらえたようだ。もっとも彼女は年上の男と言葉を交わすのにも慣れていないようで、何か声をかけても会話は弾まず、弱々しい微笑を返してもらうのがやっとだった。彼女をどこかで見つけたとしても、探し求めるあの笑顔を目にすることができるのはいつになることか。バートラムは見当もつかぬままに彼女を捜し歩いていた。
 まずは台所を覗いたが、彼女の小さな姿はそこになかった。次に食堂を覗き、一階の廊下を一通り回ったところで窓の外に彼女の姿を見つけた。大きな空の籠を抱えていたから、恐らく干してあった洗濯物を取り込むところなのだろう。窓越しに声をかけてもよかったが、どうせなら明るいところで話したいと自らも外へ出てみる。
 しかし玄関から戸外へ出たバートラムを迎えたのは、春の午後の日差しとけたたましい悲鳴だった。
「だ、誰かっ! 誰か来てくださいっ!」
 間違いなく、その声は赤毛の小間使いのものだった。
 バートラムは即座に地面を蹴り、声のした方へと急行した。こんな平和な農村にて悲鳴を上げる事態など想像もつかなかったが、彼女の危機となれば身体の方が勝手に動いた。
 そうして駆け込んだ庭園の隅、青ざめた顔でへたり込むクラリッサの前にそれはいた。
 雷雲が地上に降りてきたかのように、泥だらけですっかり黒ずんだ毛皮の羊だった。その圧倒的な質量を誇るむくむくの毛の塊が、恐怖に打ち震える彼女の前に立ちはだかっていた。
「……これは」
 思わず、バートラムは呻いた。羊くらいそこらの農園でも見かけたことがある。この辺りではよく飼われている家畜で珍しくもないが、こんなにもたっぷりとした毛の、それもここまで泥だらけの羊は見たことがなかった。その大きさは馬車を引く馬の背に届きそうなほどで、羊が作る影に小さなクラリッサはすっぽり呑み込まれている有様だった。無論、かの羊の巨体はほとんどが膨らんだ毛によるもので、その毛を刈ってしまえば内にあるのは他の羊と変わらぬ小さな体なのだろう。だが無尽蔵に増えた毛量は目の前の羊をより大きく、獰猛な生き物に見せかけていた。
 しかしいかに驚異的な大きさの羊であろうとも、バートラムは臆すつもりもない。クラリッサはもこもこに膨らんだ羊にすっかり怯えているようで、顔は青ざめ唇は震えている。他でもない彼女の危機を救えるのは自分だけだ。
 バートラムは素早く駆け出し、彼女と羊の間に滑り込んだ。そして羊から目を逸らすことなく、背後に隠したクラリッサに告げる。
「クラリッサ、君は向こうへ」
「で、でも……」
 彼女が心配そうな声でためらったので、バートラムは後ろを向かずに手を差し出した。それに掴まり、ようやく立ち上がったクラリッサがさっとその場を離れようとすると、羊はそれに気づいて震える鳴き声を上げた。
 羊の声は意外と大きい。孤児院育ちのクラリッサが驚くのも無理はないだろう。
「ひっ」
 クラリッサが引きつるような声を上げたからか、羊がぴくりと耳を動かし、彼女へ近づこうとにじり寄る。この羊もどういうわけか赤毛の少女を気に入ったようで、間に割って入ったバートラムのことなど眼中にない様子だ。磨いた黒曜石のような瞳は焦点も定まらぬまま、それでもじっとクラリッサの方を向いている。
 バートラムは彼女を庇うべく、両手を広げ、目の前の羊を押さえ込みにかかった。
「そんな、バートラムさん! 危険です!」
 少女の悲痛な声に呼応するかのように、バートラムの腕の中で羊がまた声を震わせる。もこもこと質量のある羊は押さえ込むにはあまりにも掴みどころがなく、腕の中でぬるぬると滑るようだった。おまけに柔らかそうに見える毛皮は意外と油っぽく、触ると指や手のひらがぎとぎとになる。そしてこの羊は農場の羊たちと比べても酷く汚れていて、バートラムの服はたちまち泥や枯れ草やその他諸々の汚れで塗れた。
「クラリッサ、誰か人を呼ぶんだ!」
 バートラムは羊を抱え込みながら叫んだ。
 その叫びにクラリッサははっとして、よろけながらもその場から走り出す。
 羊も黙ってはいない。バートラムの拘束から逃れて執心の少女を追い駆けようとじたばた足掻き、めえめえと鳴き、力の限りに暴れ回った。
「無様な真似はやめないか! 無駄な抵抗は、醜態を晒すだけだ!」
 獣相手に言うことでもないとわかってはいたが、バートラムは羊を諭しつつ、その巨体を力ずくで地面に引き倒した。仰向けにした羊の上に圧し掛かるようにして押さえつける。羊は説得にも聞く耳持たず、まるで蛇のようにのた打ち回ったが、さすがに仰向けにされると抵抗もできないようだ。
「……ふうっ」
 バートラムが歯を食いしばり、息をつきながら毛の中に埋もれた顔を睨みつけた時、ようやくクラリッサが別の使用人を連れてきた。
 人が増えると多勢に無勢、羊も観念したのだろう。多少暴れはしたが猿轡を噛まされ、ひとまず庭の柵に繋がれた。

 その後、主人夫妻が近隣の農園へ問い合わせた結果、羊の身元が判明した。
 当日中に若い羊飼いがすっ飛んできて、丸々と膨張した羊は元の農園へと連れ戻されたということだ。
 バートラムはそのやり取りを見ていることはできなかった。脱走してから二週間もの間、大自然で泥に塗れ汚れを溜め込んできた羊と触れ合ったばかりだ。羊との捕り物を終えたあとは即座に着替えなければ、とてもではないが職務に戻れなかったからだ。おまけにぎとぎとした油は手を洗ってもなかなか落ちず、バートラムはいささかうんざりしていた。
 その沈みがちな気分も、居室を訪ねてきたクラリッサの顔を見た途端、すっかり雲散してしまったが。
「汚れ物をお預かりします」
 クラリッサは着替えを済ませたバートラムから汚れた服を受け取ると、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「それと、ありがとうございました。あの、さっきは助けてくれて」
 まだ敬語も覚束ない彼女は声を小刻みに震わせていた。怯えているのかもしれない、とバートラムは察した。ここへ来てから二週間が過ぎ、そろそろ彼女も使用人の間の上下関係を理解しつつあるのかもしれない。屋敷の中ではクラリッサに次いで若いバートラムだったが、執事として確固たる地位を築いた現在ではどの使用人からも敬意を払われるようになっていた。
 一方のクラリッサは屋敷の中でも最も若く、そして最も新しい使用人だ。彼女自身、その立場は重々弁えていると見え、不慣れな敬語をたどたどしく操りながら皆に付き従っていた。
 だからこそ、執事の手を煩わせて迷惑をかけたという事実に罪悪感を持っているのだろう。
「迷惑をおかけしました。あんなに大きな羊がいると思わなくって、怖くて……」
 クラリッサがおどおどと続けたので、バートラムは彼女の緊張を解きほぐそうと微笑んだ。
「迷惑などということはない、君が困っていたら助けるのは当然だろう」
「で、でも、服も汚れてしまいましたし、わたくしがちゃんと逃げられていたらこんなことには……」
 彼女はすっかり打ちひしがれている。しゅんとして項垂れる様子を、バートラムも苦笑気味に見つめていた。
 孤児院で出会った時に見せてくれた美しくも誇り高い笑顔と、今のしょげ返った彼女の姿はまるでかけ離れている。ここへ来てから二週間、クラリッサがバートラムに打ち解けてみせる様子はまだなく、むしろ地位という堅牢な壁を張り巡らせて近づけさせまいとしているようにさえ思えた。バートラムとしても一朝一夕で距離を縮められるとは考えていないのだが、執事と小間使いという立ち位置のせいで彼女の素晴らしい笑顔を拝めないとなれば非常に残念なことだろう。
 実のところ、彼女はバートラムや主人夫妻、あるいは他の使用人達に、愛情不足の子供のような卑屈な態度を見せることも多かった。孤児院育ちという引け目がそうさせるのだろうが、そんな彼女がこの屋敷に雇い入れられるようになった経緯を知ったらますます萎縮することだろう。その経緯も今はまだバートラムだけが知っていることだったが、クラリッサには当面教えない方がいいと判断していた。
 どちらにせよ今のままでは打ち明けるどころではない。
「気に病まなくてもいい」
 バートラムは彼女を宥めようと、汚れた着衣を抱えるその手を取った。
 クラリッサが瞬きをする。右手はされるがままにバートラムへ預け、左手で汚れ物を抱え直す。
 小さな、古い傷跡がいくつか残る彼女の手をそっと握り、バートラムはひざまずいた。
「私は君を助けられてむしろ嬉しいのだよ。君の為なら羊だろうと狼だろうと果敢に戦い、君を守り抜いてみせようとも」
 その言葉はややおどけたつもりだった。彼女が愉快がり、笑ってくれればいいと思ったのだが――クラリッサは意表を突かれたようにきょとんとしていた。
「はあ……狼が出るなら逃げた方がいいですよ。あれはわたくしなんかより賢いと聞きます」
「クラリッサ、薔薇の小さな蕾のように可愛い君を、無情にも置いて逃げる私ではないよ」
 バートラムが歯の浮くような科白を続けると、意外にも赤毛の少女は少しだけ頬を赤らめた。
「い、いえ、バートラムさんにはそういう場合逃げてもらわないと、旦那様と奥様が困ります」
「では、君は困らないと?」
 すかさず畳みかけるように問い返す。
「私は君への恋に殉じる覚悟もあるが、そうなっては二度と君を救えなくなるからな。傍らで君を守る私のことを、君にも水のように空気のようになくてはならぬものだと思ってもらえたら光栄だ」
 すると今度は意味を測りかねたようだ。クラリッサは小首を傾げるようにしてバートラムの言葉に応じた。
「ええと……よくわかりませんけど、そんなに守ってもらわなくても平気です。もう羊を逃がさないようにすると、農場の人も言ってましたし」
 十六歳の少女に冗長な口説き文句は効果がないようだ。ひざまずくバートラムを見下ろす表情があどけなくも恐縮している。
 バートラムは彼女の素直な返答にまたも苦笑したが、気を取り直して語を継いだ。
「では君も、もう気に病まないように。互いに怪我一つなかったことを喜び合おう」
「はい、バートラムさん」
「それと一つだけ、許して欲しい。私は君を救ったのだ、このくらいはさせてくれ」
「何をです?」
 怪訝そうなクラリッサが見下ろす中、バートラムはその小さな右手の指先を自分の口元へと持っていく。それからためらわず、指先にそっと口づけた。
 触れたのはほんの一瞬、細い指の冷たさがわかるかわからないかという程度だった。
 だがその行動はクラリッサの表情に劇的な変化をもたらした。血色の悪い顔が再び彼女の髪の色のように赤くなったかと思うと、抱えていた汚れ物を取り落として彼女は叫んだ。
「なっ……何をするんですか! こ、こんなの、こんなことって……!」
 クラリッサは慌てふためき、抗議の眼差しを向けてくる。
 彼女の反応をバートラムは意外に思った。てっきり、何をされたかわからないという顔をするのだろうと予想していたからだ。
「驚かせたなら済まない。しかし私も君からのお礼が欲しかったのだよ、許してくれないか」
「だ、駄目です。こういうことは結婚をすると決めた時に初めてするものだって!」
 生真面目な彼女はますます激高したようだったが、咎め立てる言葉は可愛らしく、バートラムはつい吹き出してしまう。
 たちまちクラリッサは目を瞠り、バートラムは笑いを堪えながら弁解する。
「君は言葉遣いまで初々しいな。そうか、君がそう思っているならそのうち結婚でもしようか」
 その問いかけにクラリッサは眉を逆立てて応じた。
「……わ、わたくしを、あなたはわたくしをからかったのですね!」
「からかう? とんでもない――」
 私は本気のつもりだよ、と続けようとしたバートラムの返答は、勢いをつけた右からの平手打ちによって遮られた。
 小柄な十六歳の少女の繊手から繰り出される平手打ちなど、普段なら痛くも痒くもない。だが不意を打たれたことと、よもや彼女がそんなことをするとは予想もしなかったというのもあり、バートラムはぐらりとよろめいた。
 その隙にクラリッサは床に散らばった汚れた衣類を乱暴に拾い集めた。そして真っ赤な顔を最大限顰め、いつになく強気な眼差しで執事を睨みつけた後、荒々しくドアを閉めてバートラムの居室から立ち去った。
 バートラムは打たれた頬を自らの手で押さえ、彼女が閉めていったドアをぼんやりと見つめていた。
 それからふと我に返り、思わず密かに呟いた。
「――怒った顔の方が可愛いじゃないか」
 彼女から初めて向けられた強い感情に、その時の表情に、バートラムは魅入られていた。かつて見た彼女の誇り高さが、今の怒り顔にもよくよく表れていた。卑屈になっておびえている顔よりはずっといい、好ましいと思う。
「そうか。君はそこにいたのか、クラリッサ」
 探し求めていたものを、予想していたよりも早く見つけた気分だ。
 バートラムは頬を張られた後にもかかわらず、一人嬉しげに笑っていた。
top