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嘘でもいいから(2)

 杜松の木は日当たりのよいところに生えるもので、湖に沿う道なりに整列して立っていた。
 木々はどれも、クラリッサが首を伸ばして見上げるほど高く伸びている。白く眩しい太陽に吸い込まれそうな梢から視線を下ろすと、低いところほど枝葉を大きく広げているのがわかる。枝の先には針のように尖った葉が固まってついており、その中に守られるようにしてころころと丸い実が成っていた。実には青緑色の若いものと黒に近い濃紫の熟したものがあり、クラリッサは熟した実に手を伸ばした。
「私が取ろう。君は下がってて」
 すかさずバートラムが手を出してくる。
 背丈も腕の長さも、手早さすら敵わない相手だ。クラリッサが実に触れるより早く、彼の手が杜松の実を丁寧にもぎ取り、クラリッサの持つかごへ入れた。
「このくらい、わたくしにもできます」
 クラリッサは申し出たが、バートラムはかぶりを振る。
「松の葉は尖っているし、枝は硬い。君の美しい手に傷がついては困るからな」
「大げさです。傷を恐れていては料理もできません」
 要らぬ気遣いにクラリッサは眉を顰めた。なるべくさっさと摘み終えて、メイベルのところへ戻りたいと思っていた。
 なのにこの執事が、邪魔のつもりか優しさなのか、クラリッサには何もさせてくれない。
「大体、効率が悪いでしょう。二人で手分けして摘めば早く終わりますのに」
 ぶつぶつ言いながら、クラリッサはかごを提げて次の杜松の木の根元へと移る。
 バートラムもしっかりついてきて、笑いを堪えるような顔でクラリッサを見ている。
「なぜそんなに急ぐ? 日はまだ高いのだから、散歩がてらゆっくり摘めばいい」
「奥様をお待たせしてはいけないでしょう」
「今戻ってはかえって悪い。奥様ご自身が一人になりたいと仰ったのだから」
 言われてクラリッサは来た道を振り返る。
 杜松の並木が続く道の先、湖畔に佇むメイベルの姿はまだかろうじて見える距離にあった。湖水を覗き込む小さな姿から、何を思っているのか読み取ることはできなかった。
「私としては束の間、君と二人だけの時間を堪能したいところだ」
 メイベルを見つめるクラリッサの視界を、バートラムの覗き込む顔が遮った。鼻がぶつかるほど近くから微笑みかけられると気まずくてたまらず、クラリッサは慌てて俯く。
「あなたは不真面目すぎます。執事ともあろう方が、務めの最中に何を仰いますか」
 そう言いながらも耳朶が熱を持つのがわかる。慣れない感情が込み上げてきて逃げ出したくなる。自分の身体と心が、意思を離れてひとりでに活動を始めたようだった。
 恐らくそういったクラリッサの変化を、彼もまた気づいているのだろう。
「私の不真面目さなどとうに知られていると思っていたがね。今更じゃないか」
 俯くクラリッサを追い駆けるようにして更に顔を覗き込んでこようとするので、逃げる為には飛び退かなければならなかった。クラリッサはよろけながら後退りをして、その拍子に傾いだかごから収穫したばかりの杜松の実がぽろぽろと転がり出る。
「ああ、ほら。気をつけないとせっかくの実まで逃げてしまうよ」
 バートラムは笑いながら転げ落ちた杜松の実を全て拾い集め、かごに入れ直してくれた。そういう時もやはり彼は手が早く、クラリッサが屈み込む暇すら与えてくれなかった。優しく気遣ってくれるところも、いつもの彼と同じだ。
 やはり変わってしまったのは自分の方だった。クラリッサは嘆息する。
「ありがとうございます。それと、ごめんなさい」
 礼と共に謝罪の言葉も口にすると、バートラムは怪訝そうに瞬きをした。
「謝るようなことでもないのに」
「いえ、そうではなくて。先程から無礼な態度を取っていることへのお詫びです」
「無礼だとも思っていない。気にしすぎだよ、クラリッサ」
 彼はそう言ってくれたが、クラリッサの態度がおかしいことは見抜いているはずだった。そうなるとクラリッサも引き下がることはできず、力なく語を継いだ。
「近頃のわたくしは少しおかしいのです。あなたもご存知でしょう」
「おかしい? そうかな」
 バートラムは萎れるクラリッサの姿をじっくりと眺めた後、顎に手を当てながら答えた。
「私の目には近頃の君は、どんどん可愛らしくなっていくように見えるがね」
「そうでしょうか。わたくしは、近頃の自分があまり好きではありません」
 嘆くクラリッサは別の杜松の実に手を伸ばす。
 もちろんそれもいち早くバートラムにもぎ取られてしまったが、今度は責めることもせず、素直に頭を下げておく。
 それからわずかにためらった後、率直に打ち明けた。
「あなたの傍にいると、わたくしは自分が自分ではなくなるような気がするのです」
 一瞬、彼の青い目がすっと細められた。
 しかしすぐに穏やかな表情に戻り、バートラムは相槌を打つ。
「それは、悪いことではないだろう?」
「いいえ、よくないことです。わたくしは自分がどうしたいのかまるでわかっていなくて、混乱してはあなたに八つ当たりをして……そんなのが可愛いはずがありません」
 彼に対する感謝の気持ちと、率直に想いを告げられたことへの戸惑いと。
 彼の軽薄な言動を咎めたい衝動と、彼を頼りにしているという現実と、その優しさ、明るさに対する憧憬と甘え――矛盾の塊のような諸々の感情をクラリッサは持て余し始めている。昨夜告げた素直な気持ちも嘘ではなく、しかし彼に対する反発心もまだ消え失せたわけではなかった。
「悩める君も可愛いよ」
 バートラムは造作もなくそう言い、クラリッサが不服に思っているのを見かねたように続けた。
「もっとも私が何と言ったところで、君は納得しないつもりのようだが」
「ええ。わたくしは、こんな惑うばかりの自分は嫌です」
「しかし私はそういう君が変わっていくのを見るのが、とても好きだ」
 さらりと告げられたその言葉一つで、クラリッサの心臓が大きな音を立てた。
「いくらでも変わっていけばいい。人は変わるものだよ、望むと望まざるにかかわらずな」
 バートラムは杜松の実を摘んでいく。慣れた手つきに見えるのはその堂々とした立ち振る舞いのせいかもしれないが、謎の多い彼のことだ、こうして果実の収穫を生業にしていた時代もあったのかもしれない。
 そして濃紫の丸い実を一つ、大きな手のひらに乗せてから、何事かひらめいた顔をした。
「クラリッサ、知っているかな。杜松の実は料理に使うのもいいが、酒に浸しても美味しい」
「聞いたことはございます」
 酒の香りづけにも使うものだという話は、以前何かの折に聞いたことがある。だが急に話題が変わったように思えて、クラリッサは戸惑っていた。
「せっかくだから今度、二人で飲もうか。君のような生真面目な婦人も、時にはその心を解く必要がある」
 彼はそんなふうに続けて、クラリッサは戸惑いながらも眉を顰める。
「わたくしにお酒は飲まない方がいいと仰ったのはあなたです」
「それはあくまでも『私の目の届かぬところでは』という意味だよ。私の管理下で、少し嗜む程度なら問題はない」
 そうは言われてもクラリッサは酒に興味がなかった。以前飲んだ――飲まされた時の印象が悪すぎたせいかもしれない。
「あっという間に寝入ってしまって、頭痛を抱えながら目を覚ますのでしたら、わたくしは結構です」
 酒に対する不信感を拭えず、クラリッサは突っ撥ねた。
 だがバートラムは気にしたそぶりもなく、
「あの時は君も寝不足で、とても疲れていたからだろう。今なら大丈夫だ」
「そうでしょうか……」
「むしろ酒が君の悩みを解決する手助けになってくれるかもしれない」
「お酒がですか? どうやって?」
 思わず目を見開いたクラリッサに、バートラムはあえて突き放すような笑みを寄越した。
「飲んでみればわかる。試してみたくなっただろう?」
 そう言われると多少気にはなる。何より今の自分の不安定さにうんざりしていたので、クラリッサは思わず頷いていた。
「では近いうちに」
 バートラムはクラリッサの答えに満足したようだ。しかし微笑む顔はいつもながらの端整さで、酒を好んで飲むような顔つきには見えない。
「あなたがお酒を飲む方だとは存じませんでした」
 驚きのあまり告げると、彼は珍しくはにかむように笑った。
「奥様は飲まない方だからな。旦那様のお相伴にあずかるのも、私の務めだった」
 彼の答えにクラリッサは一層驚いた。レスターが食事中に酒を飲む姿はよく見ていたが、執事と共に酒を嗜む姿は一度も見たことがなかった。正直、彼がそこまで主と親しくしていたということすら知らなかったが――小間使いの身分ではわからないことだと思えば、いくらか納得もできた。
 見てみたかったと今になって思うのは、それがもう二度と目にすることのできない光景だからかもしれない。
 クラリッサは少し複雑な心境で、執事が見せた照れ笑いの表情を見上げていた。

 その後、二人は夕食用に、あるいはいつか酒を飲む時の為に杜松の実を集めた。
 小さなかごは程なくしていっぱいになり、二人は揃って息をつく。
「そろそろいいかな。……さて、これからどうする、クラリッサ」
「では奥様のところへ戻りましょうか」
 クラリッサの答えを聞くと、バートラムはたちまち苦笑した。
「まだ早い。それより、私ともうしばらく散歩をする気は?」
 思わずクラリッサは躊躇した。彼と二人で過ごす時間に慣れていないせいでも、彼の傍で変化を見せる自分自身に酷く戸惑っているからでもあった。
 それで答えを迷い、視線を地面へ落とした時だ。
 足元のすぐ近くの草むらが、何の前触れもなくがさがさと音を立て始めた。そちらに目をやった次の瞬間、緑の草の隙間から何かが勢いよく飛び出して、クラリッサの靴の爪先にぼとりと乗った。
 泥まみれで毛皮の色が判別つかない、小さなうさぎだった。
「あっ!?」
 突然のことにクラリッサは声を上げた。うさぎが怖いわけではなかったが、いきなり現われれば驚くし、声だって出る。そして驚きのあまり仰け反った挙句、よろけて尻餅をついた。
 うさぎも潰されては敵わんとすぐさま逃げ出し、またどこかの草むらへ逃げ込んだようだ。後には痛みを堪えるクラリッサと、おかしいのを堪えているバートラムが残された。
「大丈夫か、クラリッサ。随分な驚きようだったな」
 彼が手を掴み、立ち上がらせてくれたので、クラリッサは恥じ入りながら弁解した。
「急なことでしたから……ありがとうございます」
「馬だけではなくうさぎも苦手なのかな、君は」
 からかうような物言いをされれば一層気恥ずかしい。また落としてしまったかごと杜松の実を黙って拾い集めると、また草むらががさがさ言い始めた。今度は先程よりも大きな音で、うさぎよりはゆっくり、まるでこちらを驚かすまいとしているように草を掻き分け静かに現れた。
 シェリルだ。今度は一人きりで顔を出したかと思うと、にこりともせずクラリッサたちの前へ進み出た。地面の上で屈み込んで杜松の実を拾うクラリッサを見下ろし、愛想のない顔で小首を傾げた。
「何してるんですか」
「ええと、杜松の実を落としてしまって、拾っているところです」
 クラリッサが答えた時にはもうバートラムが残りの実を拾い集めたところで、かごに実を戻しながら彼がシェリルに聞き返す。
「お嬢さんこそこちらには、お一人で?」
 シェリルはかぶりを振り、じっとバートラムを見上げながら答えた。
「うさぎ、追い駆けてたから」
 追い駆けていたから、サイラスとはぐれたということだろうか。
 しかしその割に彼女から焦りは感じられず、こうしてばらばらになって森を歩くことも珍しくはないのだろう。
 それにしても、誰と話していてもにこりともしない子だ。人見知りなのかもしれないが、それならどうして今日は向こうから声をかけてきたのだろう。
「うさぎを探しているのですか?」
 クラリッサが尋ねると、シェリルは曖昧に頷き、
「うん。でも、いいんです。あんなに大きな声を出したから」
 どうやらクラリッサのせいで逃げられてしまったようだ。はっとするクラリッサに、しかし少女は慌てて続けた。
「あ、ごめんなさい。そうじゃないんです」
「でも、わたくしのせいで……」
「また捕まえますから」
 口下手ではあるが、気立てはいい子のようだ。何となくクラリッサはこの娘に好感を持った。
 シェリルの方もまだ言いたいことがあるようだった。しばらく緑色の目でクラリッサを見つめてから、恐る恐る口を開いた。
「怖がりなんですか?」
 何を聞かれたかクラリッサが理解するより早く、隣でバートラムが吹き出した。
 クラリッサはむっとして彼を睨んでから、シェリルに向き直り、大人ぶって答える。
「そんなことはございません。先程のは急だったから驚いただけです」
「でも、昨日だって。馬に乗る時びくびくしてた」
 子供というのは関心のなさそうな顔をしておきながら、大人たちのすることを意外とよく見ているものだ。
 ぎくりとしたクラリッサの顔を、シェリルは子供らしい素直さで見つめてくる。
「怖いのが嫌いなら、言っておきたいことがあります」
「な……何でしょう」
「この湖と森のどこかに、おじいちゃんがいるんです」
 おじいちゃんというのは何かの俗称、あるいは隠語だろうか。クラリッサが内心首を傾げていると、シェリルは間を置かずその疑問に答えてくれた。
「あたしとサイラスのおじいちゃんです。去年、いなくなっちゃったんです」
「……それは、どういう意味かな」
 さすがに聞き捨てならないと思ったか、バートラムが口を挟んできた。
 シェリルは物怖じせず、淡々と話す。
「どこかへ出かけたまま帰らなかったんです。お父さんとお母さんと、別の農場の人たちも呼んで、湖も森も探したけど見つからなかった」
 湖を渡る風が突如吹きつけ、杜松の並木を微かに揺らした。囁き合うようなざわざわという音が辺りに響き、風と共に森を駆け抜け、次第にほうぼうへ満ちていく。
「お父さんたちはもう諦めてしまったけど、あたしとサイラスはまだ探してるんです」
 そこまで語るとシェリルは息をつき、緑の瞳でクラリッサを真っ直ぐに見た。
「だから、気をつけてください。見つけたらすごく怖いかもしれない」
「こ、怖いというのはつまり――」
「うん。生きてるかどうかわからないし、森にはいろんな動物がいるから。気をつけて」
 言い終わるが早いか、シェリルは捜索の続きとばかりに草むらの中へ飛び込んでいき、すぐに気配や物音ごと遠ざかっていった。森には慣れているのだろうが、それでも目を瞠るほどの俊敏な身のこなしだった。
 森の木々が尚もざわめく中、かごを提げたクラリッサは急に寒気を覚えて、おずおずとバートラムに目を向けた。
 バートラムは難しい顔つきをしながら呟いた。
「あの二人、宝どころかとんでもないものを探し歩いていたようだな」
「……ええ」
 クラリッサは頷く。喉が詰まって、それ以上言葉が出てこない。
 昨夜、バートラムは彼らの冒険について随分夢のある想像をしていたようだが、現実はどちらかというと悪夢に近い。こんなにも美しく穏やかな湖と森に、もしかしたら誰かの報われぬ魂が漂っているのかもしれないと思うと、安穏と過ごしていることに後ろめたさすら覚えてしまう。
 そしてどこかにいるかもしれないシェリルたちの祖父については、申し訳ないながらもやはり恐ろしさの方が先立った。
「このこと、奥様には内緒にいたしますでしょう?」
「そうだな。彼らが総出で探したものを、我々が偶然見つけてしまうということもあるまい」
 バートラムはそう応じてから、目の端でクラリッサをちらっと見た。
 そこで何かの感情の揺らぎを見出したのだろう。すぐに軽い笑みを浮かべた。
「クラリッサ、大丈夫かな。顔色がよくない」
「へ……平気です。わたくしは怖がりではございません」
「もし怖くて眠れないというのであれば、今夜は私の部屋を訪ねてくるといい」
「怖くはありませんったら!」
 クラリッサは声を張り上げたが、むきになった時点で語るに落ちたようなものだ。
 すっかり浮かない顔になって、ようやく日の傾き始めた空を仰いでいた。
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