積み重ねた思い出(1)
クラリッサが着て帰った新しいドレスを見て、メイベルは歓声を上げた。「まあ、素敵! あなたにとてもよく似合っていてよ、クラリッサ」
「あ、ありがとうございます……」
手放しの賛辞に、クラリッサは大いに照れた。メイベルに誉められるのは嬉しい反面、妙にくすぐったい思いがするのだった。
「緑というのがいいわね。あなたの髪色によく合っているんですもの。それにこの生地! 上品な艶があって、風格もあって、姿勢のいいあなたにはぴったりよ」
メイベルは宿に戻ってきたクラリッサをひとしきり眺め回し、自分のことのように嬉しげに笑んだ。
「あなたを着飾らせるのって楽しそうね。今度はわたくしもお買い物についていこうかしら」
「えっ、あの」
ドレスを一着買ってもらっただけでも大層なことだ。クラリッサは主の言葉に面食らう。
しかしすかさずメイベルが、微笑む口元に手を当てた。
「冗談よ。羽を伸ばす時は、あなたたち二人きりの方がいいんですものね」
「いえ、そういうわけでは――」
メイベルに来てもらうのが嫌だったわけではない。慌てて否定しようとしたが一足遅く、メイベルは既にバートラムに声をかけていた。
「短い時間だったけど、楽しんでこられたかしら」
「ええ、奥様のお心遣いのおかげでございます。ありがとうございます」
バートラムは丁重に礼を述べ、クラリッサの方を振り返りながら続けた。
「私もクラリッサも、久方ぶりに心ゆくまで語らい合うことができました」
青い目が同意を求めるような視線を向けてくる。
どう答えていいかもわからぬまま、クラリッサは曖昧に頷いた。
「そう。楽しい時間を過ごせたなら何よりね」
メイベルは胸を撫で下ろしたようだ。それから二人の従者に向かって、改めて微笑む。
「わたくしも今日一日のんびりしたおかげで、すっかり元気になったみたい」
その言葉の通り、メイベルは朝よりも活力に満ち溢れていた。今日はずっと宿の中で過ごしていたらしく、恐らくその間も思い出を振り返っていたのだろうとクラリッサは思う。
「もう思い残すことはないわね。明日にはここを発つわよ」
次の目的地も当然決定済みらしい。メイベルによれば、レスターとの結婚式を済ませた後、次に向かったのはここから程近いところにある湖畔の保養地だという。
そこでは土地を持った農場主が旅行者の為に空き家を貸しているとのことで、街の喧騒から離れて過ごすには最適なのだとメイベルは語った。主人夫妻もかつてはそこで小さな邸宅を借り、蜜月のひとときを二人きりで過ごしたとのことだった。
「二人きりと言っても、全く誰とも関わらずにいられるわけでないのだけどね」
メイベルは少女のようにはにかんだ。
「街から離れてしまうから買い物は不便なの。食べ物なんかは農場の方が売ってくださるけど、わたくしがぼうっとして、帽子を湖に流してしまった時は困ったわ。しばらくレスターのぶかぶかの帽子を借りて過ごさなければならなかったのよ」
出立は明日の朝。早いうちに宿を発ち、市場に立ち寄って食べ物やその他生活必需品を調達してから街を離れることに決まった。
「明日は早いわ。二人とも、今夜はゆっくり休んで明日に備えてちょうだいね」
そう語るメイベルの心は、早くも湖のほとりへ飛んでいるようだ。
クラリッサとしても主が喜ぶ顔を見るのは嬉しいものだった。明日からまた小間使いとして彼女の為に尽くそうと、心から思った。
だがドレスを脱いで寝台に潜り込んだ後、クラリッサはなかなか寝つけなかった。
毛布の中で何度も寝返りを打ち、壁にかけたドレスを眺めては濃密だった一日に思いを馳せる。この港町に来てからというもの毎日が目まぐるしく過ぎていったが、今日はその中でも最も目まぐるしい一日だった。身体はそれほど疲れていなかったが、心は散々揺り動かされ、振り回されて、ぐったりと疲れ果てていた。
何が何だかわからない、というのが現在の素直な気持ちだった。
バートラムの告白を疑っているわけではない。彼は心を込めて話してくれたように思えたし、クラリッサに対しては正直でありたいと以前言っていた。だから今日聞かされた内容にも嘘はないだろう。
だが彼は、真実を全て話してくれたわけでもないようだった。彼の身の上に関する話は随分とぼかされていた。無論、彼はそれをクラリッサに聞かせる必要がないと思って語らなかったのだろうが、何にせよ彼自身についての謎は一層深まったと言える。
だからだろう。彼が孤児院で自分を選んだその理由にも、クラリッサ自身には言えないような秘密があるのかもしれないと思えた。何かは想像もつかなかったが、もしかすると。
そこまで考えて、クラリッサは罪悪感に深く息をつく。
彼が自分を選んだ理由など、言ってしまえばどうでもいいことだ。
彼が自分を救ってくれた、クラリッサにとってはそれが全てだろう。
恩人であるバートラムへの感謝の気持ちを忘れてはならない。これまで働いてきた無礼を彼は気にしないと言ってくれたが、これからはそうもいかない。彼への態度も改めなくてはならないだろう。
ただ、それには一つだけ問題もある。
クラリッサは寝台からしばらく壁のドレスを眺めた後、訳のわからない息苦しさを覚えて枕に顔を埋めた。
バートラムの胸中を知った今、それを軽口だと思い、聞き流すことはもうできない。自分はそれに向き合わなくてはならない。恩人だと思っているなら尚のことだ。
無論、恩義に対する感謝の念を履き違えて、何の彼の想いに応えることは正しくない。彼もそういうあり方は望まないだろうし、クラリッサの気持ちが更に変わっていくのを待つつもりでいるようだ。彼が望むように変わっていくかどうかはクラリッサ自身にもわからないが――。
ふと、頬が熱くなる。
こういうことには縁がないだろうと思っていた。なのに今、我が事として深く考えを巡らせていることが、一方で無性に恥ずかしかった。もう他人事ではない。恥ずかしくて目を背けたくなっても、慣れない戸惑いに逃げ出したくなったとしても、踏みとどまって考えなくてはならない。
それは彼がクラリッサに問いかけた言葉への答えにも通じるだろう。
――君はこれから、どう生きたい?
ある意味彼と同じように命拾いをしたクラリッサは、自らの行く末とも向き合い始めていた。
これからの自分の生涯に、はたして、恋は必要なものだろうか。
眠れぬ夜を越えて迎えた朝、三人は朝日が昇るのを待って宿を出た。
金払いのいい客が出て行くのを、宿の従業員たちは名残惜しげに見送ってくれた。そのまま馬車を借りて荷物を積み、既に店を開け始めた街の市場へと向かう。そこで農場では手に入らないような食料品や生活品を購入すると、いよいよ街を離れる時が訪れた。
大量の荷物と三人を乗せて、馬車は石畳の大通りを抜けていく。蹄鉄が石畳を蹴る音が小気味よく響き、車窓には緩やかに流れていく見慣れた街並みが映る。
クラリッサはその窓を覗き込み、しばらく外の景色を楽しんでいた。街並みの背後から顔を出すように、聖堂の天を衝く二本の尖塔が見えている。ゆっくりとではあるが、次第に遠くなっていくのを黙って眺めていた。
「名残惜しいのだろう?」
不意に、座席の向かい側に座るバートラムが尋ねてきた。
クラリッサは思わず窓から身を引いたが、いつもと変わらぬ微笑を浮かべる彼の顔をまともに見られず、すぐ車窓に目を戻した。それから答える。
「少しだけ。この街でもいろいろなことがございましたから」
「そうだな、短い間だというのに随分と思い出ができた」
声を聞くだけでは、バートラムがそこに皮肉を込めたのかどうかは判断つきかねた。含まれていても仕方がないとクラリッサは思うが、散々な目に遭った日々のことも、今となってはかなたの記憶となりつつある。
「わたくしはもっと思い出が増えたわ。素敵な結婚式も見られたし……」
メイベルはうっとりと語った後、隣に座るクラリッサと、差し向かいのバートラムの顔を見やった。
「それに身近なところにも、素敵な恋人たちがいるとわかったものね」
結局、メイベルには真実のほどを打ち明けていない。
今となっては全くの嘘だとも言えず、クラリッサは返答に迷いながら俯く。メイベルだけではなくバートラムまでこちらを見ているのがわかったが、そちらを向く気にもなれなかった。
なぜか今朝は彼と顔を合わせづらかった。昨夜、眠れぬ時を過ごしながら彼について散々考えたせいだろうか。それとも単に、寝不足の顔を見られたらからかわれるような気がするから、かもしれない。曖昧な感情と戸惑いと重い頭を抱えつつ、クラリッサは馬車に揺られていた。
「けど、アルフレッド様たちにご挨拶をしなくてよかったかしら」
メイベルは馬車に乗り込んだ今も、そのことを少し気にしているようだった。
向こうは結婚式からまだ二日しか経っておらず、こちらはもともと遠方からの旅人、出立に当たってわざわざ挨拶をする必要もないだろうとバートラムが夫人を説得したのも今朝の話だった。はっきり言ってしまえば彼らのことを気にかけているのはメイベルだけで、クラリッサは改めて挨拶をしたいとは全くもって思っていなかった。この件に関しては執事も同意見らしく、すかさず口を開いて進言していた。
「今は蜜のように甘い時間を過ごしておられるお二人に、別れの悲しみで水を差すのはあまりに酷なことでしょう。我々は黙って立ち去り、彼らの思い出に末永く残ればいいのです」
バートラムのよく動く舌は今日も調子がいいようだった。人を言いくるめることにかけては熱心な彼の仕事ぶりに、メイベルは安堵の息さえついてみせる。
「そうね、時々思い出してもらえたらそれだけで光栄だわ。結婚式の時のこと……お二人が危機を乗り越えたことと共にね」
クラリッサは別に思い出して欲しいわけではなかったが、それでも少しは考える。
いつか自分が旅の足跡を振り返るようなことがあるとしたら、その時はアルフレッドたちのことも思い出すのかもしれない。さすがに何年も経てば彼らに対する不満や苛立ちも和らぎ、自分でも驚くほどいい思い出と感じるようになっているかもしれない――と考えかけて、すぐに内心でかぶりを振った。いくら年月が経とうとも、クラリッサの性格ではきっとそうは割り切れないだろう。
それでも、いいものもよくないものも混在する思い出は、旅の始まりからずっと積み重なりつつある。
この街で過ごした最後の、それでいて最も印象深い時間――初めての逢い引きの記憶もまた、クラリッサの胸に確かにしまわれていた。
「眠いのなら寝ていてもいい」
バートラムの声がして、俯いていたクラリッサは思わず顔を上げた。
途端、視界にはこちらを気にするように見るバートラムの表情が飛び込んできて、クラリッサは思わずうろたえた。
「眠いわけでは……わ、わたくしは平気ですのでお気になさらずに」
「そうは見えないな、クラリッサ。今朝の君は随分と眠そうだ」
「そんなことはございません」
クラリッサは否定したが、寝不足が顔に表れているのは明らかだった。
「無理しなくていいのよ。湖までは少し距離があるのだから、寝ていたらどう?」
メイベルが本気で案じ始めると、クラリッサはいよいよ劣勢になる。何と答えていいのかわからなくなる。
「着いたら起こしてあげよう。何なら肩を貸そうか?」
恥ずかしげもなくバートラムがそんなことを言い出したので、クラリッサは車窓に顔ごと向けてから答えた。
「お気遣いなく。わたくしはもうしばらく、この景色を見ていたいのです」
窓越しに見る二本の尖塔は、いつの間にやらぼんやりと霞んでいた。
やがてそれは完全に見えなくなり、石壁の街並みもふっつり途切れて、馬車は物寂しい草原を走り出す。
朝早くの出立が功を奏し、また好天に恵まれたこともあり、湖畔には昼過ぎに到着した。
針葉樹が連なる森を傍らに、湖は静かに透き通った水を湛えていた。海沿いの街よりも風がないせいか、湖面は一枚の鏡のように凪いでおり、空の抜けるような青さや木々の尖った梢まで鮮明に映し出している。岸辺近くに浮かんだ流木には一羽の水鳥が止まり、真っ白な羽を休めていた。
馬車は既に石畳の道ではなく、踏み固められた地面に伸びる道を辿っていた。
そして程なくして、湖の傍に立つ農場の前に停まった。
「さあ、農場の方に聞いてみないと。空いているお家はあるかしらって」
メイベルはそう言うと、すとんと身軽に馬車から降り立つ。
それを苦笑気味に追い駆け、バートラムが言った。
「奥様。交渉でしたら私にお任せください」
「ええ、もちろんよ。わたくしだとはしゃぎすぎてしまって駄目なんですもの」
緑の木々に囲まれた湖のほとりは空気まで澄み切っていた。メイベルはその清らかな空気と自然の香りを胸いっぱいに吸い込んだ後、感嘆の息をつく。
「この辺りも、昔とちっとも変わっていない! またここで過ごせるなら夢のようよ!」
そして期待に満ちた目を執事に向けた。
バートラムはもう一度苦笑して、今まさに馬車から降りようとしていたクラリッサに声をかける。
「クラリッサ、奥様はもう一刻として待てないご様子だ。私が農場の主に話をしてくるから、君は奥様を頼む」
「かしこまりました」
頷くクラリッサに、バートラムが自然な動作で手を差し出してくる。借りなくても平気だとクラリッサは思っていたが、丁重に断るより先に、向こうから手を取ってきた。
「さあ、降りたまえ。ところどころぬかるんでいるから気をつけて」
メイベルに聞かれぬよう、クラリッサは声を落として訴える。
「あの、こういうことをしていただかなくても平気です」
「いいから。私がしたくて、こういうことをしているんだ」
バートラムが平然と囁き返してきたので、クラリッサも論戦を諦め、手を借りたまま馬車から降りた。
それからちらりと窺えば、彼は機嫌よさそうに笑んだ。端整な顔に浮かぶ遠慮のない喜びの表情は、至上の幸福を味わっているかのようにさえ見えた。クラリッサは手を離しながら、その顔を見上げてそっと呟く。
「したいことをしたら、それほどまでに嬉しくなるものなのですか」
「そうとも、クラリッサ。私は君にしてあげたいことがたくさんあるのだ」
女主人に負けず劣らず、今日の執事もまたはしゃいでいるように感じるのは気のせいだろうか?