私が私である理由(3)
気がつけば、二人で茶を飲む機会が増えていた。今日もこうしてまた、バートラムと二人だけでテーブルを囲んでいる。以前のように忌み嫌うべき相手だとは思っていないものの、クラリッサはこの執事と向き合って茶を飲んだり、食事をすることにまだ若干の抵抗を感じていた。少なくとも手放しで楽しいとは思えない。
ふとした時に山積する疑問が胸中で渦巻き、考え込みたくなる。
彼は何者なのだろう。なぜ、自分を口説こうとするのだろう。そしてその意思は、果たして当人の言うように本物なのだろうか。
「クラリッサ、皿が空いているよ。よかったら切り分けようか」
しかし物思いに耽る隙もなく、食事の間もバートラムはしきりに声をかけてくる。
「いえ、わたくしが自分でやりますから」
クラリッサは断ろうとしたが、逆にたしなめられた。
「いいから、遠慮なく食べたいものを言うといい」
その心遣い自体はクラリッサにとってありがたいことだった。着慣れないふくらんだ袖が気になって、食卓に並ぶ皿になかなか腕を伸ばせずにいたのだ。とは言え身分が上の執事に対し、お替わりを頼むのは大変勇気の要ることだった。クラリッサは平身低頭、焼き魚を取ってくれるよう頼んだ。
「そう恐縮しなくてもいいのに」
バートラムは苦笑して、慣れた手つきで焼き魚を切り分ける。そして大きな切り身に杜松の実のソースをたっぷり絡めて、クラリッサの皿に載せた。
「ありがとうございます」
クラリッサは礼を述べ、潮風が吹き抜ける食卓に視線を落とす。
卓上には遅い昼食としても十分なほどの皿が並んでいた。主菜の焼き魚はここの港で獲れたものらしく、新鮮でとても美味しかった。その他に茹でられてぱっくりと口を開けた貝類、ミルクとジャガイモの白いスープ、軽く焼いたパンに杏の砂糖漬けを乗せた焼き菓子まである。クラリッサはお腹が空いていたのでありがたくいただいたが、バートラムが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのは何とも落ち着かなかった。
「貴婦人は自ら手を出さないものだよ」
バートラムはそう言いながらクラリッサに食べ物を取り分け、茶のお替わりを入れてくれた。皿やカップが空いた頃合いを見計らい、きめ細やかに声をかけてくれた。執事だけに給仕は板についているようだが、クラリッサはどうにも居心地が悪い。
それでなくとも着飾ったクラリッサの姿は、お仕着せの時とは別の意味で人目を引くようだ。まして向き合って食事をする相手がバートラムであれば尚のことだろう。食堂の前を通りかかった人々が何度か振り返り、別のテーブルの客からもちらちらと視線を向けられて、結局何を着たところで好奇の目からは逃れられない気がしてならなかった。
「貴婦人と呼ばれる方々はお食事の際、何にもなさらないのですか」
自分は食べてばかりというのも気が引けて、クラリッサは尋ねた。
するとバートラムは愉快そうに目を光らせ、逆に聞き返してくる。
「私に貴婦人と呼ばれる方々と食事をする機会が、これまであったと思うかね?」
「さあ……。わたくしは存じませんが」
クラリッサは素直に答えた後、それではあまりにも愛想がないと思い直し、言い添えた。
「でもあなたでしたら、案外そういう機会もおありのように見えます」
「ほう。なぜ?」
「ご婦人に甘い言葉をかけるのがとてもお好きのようですから。そういう席に招かれたこともおありなのでは?」
本心は違う。それも嘘ではないのだが、本当は、バートラムの所作にどこか品のよさを感じ取っていたからだ。
一般家庭で習うものとも、片田舎の農園辺りの少々素朴な作法とも違う。ましてやクラリッサのように、屋敷勤めを始めてから大急ぎで体裁を整えたものでもない。もっと幼い頃から叩き込まれているかのような気品が、彼の立ち振る舞いにはある。
ただクラリッサをからかう軽口や口説き文句には品のあるものもないものも混在していたから、彼が貴い身分の人間であると確信しているわけでもない。
それに全てはたかだが二十四歳、おまけに世間知らずのクラリッサの目を通しての憶測だ。彼の振る舞いの優雅さも本物の貴族たちから見れば紛い物なのかもしれなかった。
何にせよ、バートラムはクラリッサの言葉に心外そうな顔をした。
「ご婦人に、というのは謝りだ。訂正してくれたまえ」
「どこか間違っておりましたか」
「君にだけだよ、クラリッサ。私がよそのご婦人を口説く姿を、君は見たことがあるのかな」
言われてみれば、ない。
農園の地主の娘たちから熱い視線を送られ、時に茶会に招かれたり、また時には懸想文を頂戴したこともあったようだが、それに対して彼がどう対応したのかまではクラリッサの耳にも入ってこなかった。
クラリッサが彼を軽薄だと思うのも、屋敷勤めの八年の間に散々口説かれてきたからだ。初めのうちはやんわりと断っていたのに彼は懲りる気配もなく、クラリッサも次第に強く拒んだりすげなくしたりと意思表示を始めた。しかしそれでも彼は挫けるどころか、まるでこちらの拒絶に気づいていないかのように毎日毎日同じやり取りを繰り返してきた。何を言っても無駄だった。諦めようとしなかった。
その諦めの悪さも含めて、クラリッサは彼を、息をするように婦人を口説く軽佻浮薄な男だと思ってきたのだが――。
もし、昨日の彼の言葉が本当だとすれば、それらの行動にも説明がつくのかもしれない。
――もし、彼が本当に、自分に好意を持っているのだとしたら。
「私のこれまでの言動を顧みればわかるだろう?」
バートラムがまたしても思索に割り込んできた。
彼は時々、こちらの内心を見透かしたようなことを言う。クラリッサはひやりとしたのを誤魔化す為、皿の上の焼き魚をフォークで口に運んだ。淡白な白身魚に杜松の実の独特の風味がよく合い、美味しい。いつか自分でも作ってみようと思う。きっと奥様も喜んで食べてくださることだろう。
そして魚を飲み込んでしまってから、思いきって口を開いた。
「そろそろ伺ってもよろしいですか、バートラムさん」
「何をだね、クラリッサ」
「わたくしの疑問に答えてくださると伺っておりました」
クラリッサがそう続けると、バートラムは驚いたように眉を上げた。その後かすかに苦笑する。
「もう本題に入ろうというのか、性急だな。君らしい生真面目さと言うべきか」
指摘されてクラリッサも一瞬気まずさを覚えた。慌てて言い直す。
「いえ、お食事が一段落してからでも結構でございます」
「私は構わないが」
バートラムは首を竦め、今一度堪能するように緑のドレスを着たクラリッサを眺めやった。満足げに細められた目が自分の髪と顔、そしてドレスを代わる代わる注視するのでクラリッサは反応に困る。
「その前に先の言葉の訂正だけは忘れずにお願いしたい。私はよそのご婦人を口説いて回ったことなどないよ」
彼が愛想よく、しかし有無を言わさぬ口調で繰り返してきたので、仕方なくクラリッサも言った。
「ええ。確かにわたくしも、そういうお姿は存じません」
「そうだろう。私を捕まえて、どこぞの坊やのように浮気性だと言うのは大層な誤解、もしくは侮辱だよ」
喉を鳴らしてバートラムは笑った。
クラリッサは思い出したくない顔を思い出しかけたので、慌ててそれを振り払う。美味しい焼き菓子で気分を落ち着けてから、追及するつもりで尚も尋ねた。
「それは失礼いたしました。でも、どうしてなのですか」
その疑問が不思議だというように、バートラムが軽く目を見開く。
「奇妙な問いだな。恋とはそういうものだろう」
「恋……ですか」
クラリッサは茶を飲みながら、今し方耳にしたばかりの単語を心の中で反芻した。自分には馴染みのないものであり、どこか現実味に欠ける言葉でもある。
知っているのはただ一つ、レスターとメイベルの間に生じた激しくも純粋な恋の形だけだ。それそのものを垣間見たわけではないが、恋が愛へと変化し、その果てに迎えた一つの結末をクラリッサは見てきた。
今頃メイベルは宿の客室で、レスターのことを深く、静かに想っているのだろう。ふと思いを馳せたくなった。
「君がそれを知らないと言うなら、私が教えてあげよう」
バートラムが笑んで、ティーポットに手を伸ばす。
「クラリッサ。お茶のお替わりは?」
「いただきます」
カップが空になったと見るやすかさず声をかけられ、クラリッサは素直に頭を下げた。そしてお替わりを入れてもらった後、更に本音をぶつけた。
「わたくしは別に、それを教えていただきたいわけではないのです。でも……」
「でも? 知らないからこそ私の言葉に納得がいかない。そういうことかな」
「……ええ。仰る通りです」
クラリッサは恋を知らない。そして知らない以上は、バートラムのこれまでの言動が常識に適ったものであるかどうかも判断のしようがなかった。
だからどうしても納得できない。彼の言葉を信じきれない。八年間、拒まれてもすげなくされても諦めずに口説き続けるような恋など、あるものなのだろうか。
「いつから、なのですか」
そう尋ねてから、クラリッサはわずかに後悔した。相手の領域に踏み込む、不躾な問いのように思えたからだ。
だがバートラムは気にしたそぶりもなく、また考え込む間すらなく答えてみせた。
「初めて会った時からだ、クラリッサ」
決然とした告白に、クラリッサは持ち上げかけていたカップを置いた。受け皿が冷たい音を立ててカップを受け止め、その中では紅色の水面がぐらぐらと揺れていた。
クラリッサは驚きと戸惑い、そして膨れ上がる一方の疑問を抱きながらバートラムを見つめた。
テーブル越しに、彼はこちらに見とれるような、蕩ける眼差しを送ってくる。
「我々が初めて顔を合わせ、話をした時のことを覚えているかな」
次いで彼はそう尋ね、クラリッサは少し考えてから答えた。
「わたくしがお屋敷に参りました日に、ご挨拶をした時ですか?」
もう八年も前のことだ。記憶は既に曖昧になりつつあった。
それでも初めて孤児院を出され、片田舎の農村に連れてこられた時の気持ちだけは覚えている。馬車に揺られながら目にした見知らぬ景色に身を切られるような心細さを覚え、これから勤めることとなる屋敷の主たちに根拠のない恐怖を覚えていた。孤児院で育てられた子供たちは十五、六で働きに出るのが決まりだったが、その先に明るい未来が待っているとは子供たち自身が思っていない。クラリッサも孤児であることを理由に迫害される日々を送ってきたから、同じ扱いを勤め先でも受けるだろうと思い込み、絶望に打ちひしがれていた。
しかし彼女を出迎えたのは穏和を絵に描いたような仲睦まじい老夫婦であり、孤児院育ちで痩せ細り、おまけに酷く怯えていたクラリッサを温かく迎え入れてくれた。屋敷に到着した初日はその衝撃だけで頭がいっぱいで、主の傍らにいた長身の執事とはどんな会話を交わしたか、よく覚えていない。挨拶はしたと思う。彼の人形のような美しい顔立ちに驚きつつ、しかしそれ以上に執事がまだ若い青年であることに驚いた覚えがある。その程度だ。
「いや、違う」
バートラムはそんな言葉で、回想に耽るクラリッサの意識を現実へ引き戻した。
クラリッサは瞬きをした。
「どういう、ことですか」
「我々はもっと前に――君がお屋敷に来るよりも先に、一度顔を合わせている」
記憶にない。いつのことだろう。本当にそんなことがあっただろうか。
衝撃的な事実を明かされ、しかもクラリッサには思い当たる節もない。屋敷に来る前と言えばクラリッサが孤児院で暮らしていた頃に違いないが、その頃彼のような人物と出会った覚えはない。そもそも孤児院の外へ出る機会は十五の頃まで通った学校と、週に一度の聖堂での礼拝以外になかったから、孤児院外の人間とは接触する機会も稀だった。
「え……? ご、ご冗談でしょう。わたくしは存じません」
うろたえるクラリッサを、バートラムは優しく宥めにかかる。
「君は覚えていないか、仕方あるまい。あの日は来客が多かったようだからな」
そうして少しだけ気遣わしげに、言葉を選びながら続けた。
「私は執事だ。使用人の雇い入れについては、旦那様から全権を任されていた」
彼の言葉をクラリッサは呆然と聞いている。乾いた潮風も、食堂前に並ぶ丸テーブルも、そこに座るほかの客たちも、全てが急速に遠ざかり、意識の外へ弾き出された。
「君もよく知っているだろうが、使用人たちは旦那様と付き合いの長い者が多かった。君が来るまでは私が一番の新参だったのだよ。古株の小間使いが腰を悪くして暇を申し出た後、新しく小間使いを雇うことになったのだが、それなら若い者を迎えて、一から仕事を教えながら長く勤め上げてもらうことにしようと旦那様が仰った」
現在では使用人の中でクラリッサが一番若い。次に若いのがバートラムであることもクラリッサはよく知っていた。
「旦那様が出された条件は若く、健康で、正直そうな者であること。奥様は気立てがよければそれだけでいいと仰った。あとは全て私の見立てに任せると」
バートラムはまるでつい最近の記憶のように淀みなく語った。
「だから私は君たちの元へ出向き、新しい小間使いにふさわしい少女を選ぶことにした。若く健康で正直そうな、気立てのいい少女をだ」
そして絶句するクラリッサに、親しみを込めて笑いかけた。
「その時、私が選んだのが君だ。一度話もしただろう。思い出さないか?」
覚えていないのは、当時の記憶がクラリッサにとって陰鬱極まりないものだからだろうか。
クラリッサが十六の頃、あのじめじめして薄暗い孤児院には来客がひっきりなしにあった。
たまたまその年はクラリッサと同世代の子供たちが多かった。孤児院は大きくなった子供たちを追い出すべく、広く働き口を求める広告を出した。それを見たほうぼうの地主や工場主などが安くて若い働き手を求めて孤児院を訪ね、孤児たち一人ひとりを検めては適当な者を連れ出していった。働き手としてはやはり少年の方が多く求められており、クラリッサのような少女はそれこそ小間使いや女工、飯炊きなどの口がなければ声がかからないのが実情だった。
だから少女たちは孤児院の院長から来客をもてなす役割を仰せつかった。客人が来ると聞けば院内を掃除して回り、訪問を受けた後は大急ぎで茶を入れてお出しする。そこでの働きがよければおまけとしてでも雇ってもらえるだろう、というのが院長の目論見のようだった。
それが功を奏したのかどうかはわからないが、クラリッサが茶を入れて来客をもてなしたその日、客人の一人がクラリッサを小間使いとして雇いたいと申し出てきたそうだ。
クラリッサはその報告を院長から聞かされた為、一体いつの、どんな客人がその人であったかは知らずにいた。
つまりその客人こそが、バートラムだったということになる。
「あなたがわたくしを……選んだのですか」
気の抜けた声を上げたクラリッサは、すぐにはっとして言い直した。
「あなたが、選んでくださったのですか」
「そうだ。私が君を選んだ」
バートラムの青い瞳が射抜くような眼差しを送ってくる。降り注ぐ太陽の光はその目を、まるで深い水底を覗かせるように照らし出している。透き通った青の美しさにはクラリッサでさえも思わず見入ってしまう。
彼のこの目が初めて自分を捉えた時、一体どんなふうに映ったのか、想像もつかなかった。
ただ、今ばかりは、どうしてかと尋ねることができなかった。
聞くのが怖かった。自分の運命を大きく変え、考えられる限り最も幸いな未来をもたらしたそのきっかけに触れるのが怖かった。運悪く彼の目に留まらず、レスターやメイベルと出会うこともなかった可能性を考えるだけで、呼吸が苦しくなり唇が震えた。
そんなクラリッサの胸中さえ見通しているように、バートラムは静かに言った。
「君を選んだ理由は、恋がしたいと思ったからだ」
苦しい呼吸さえ、その瞬間に止まってしまった。
「君のようなお嬢さんと――君と、恋に落ちてみたかった」