永遠に続いてほしい夢の話(3)
賑わう街並みを抜けて辿り着いた聖堂前にも、既に人だかりができていた。人々の目的はこのよき日を迎えた花婿と花嫁の姿を一目見ることのようで、聖堂に続く道を封鎖するかのように分厚い人垣ができてしまっている。聖堂の扉は開放されているようだったが、遅れてきたクラリッサたちに中の様子が窺えるはずもない。
「人がいっぱい。何にも見えないわね」
メイベルが爪先立ちで人垣の向こうを覗こうとしている。しかしことのほか小柄な夫人が背伸びをしたところでどうしようもなく、やはり何も見えないようだった。
「奥様、お気をつけて」
不安定な姿勢になるメイベルに、バートラムがそっと手を差し出す。
その腕にまだ掴まったままのクラリッサは、押し合い圧し合いする人波にすっかりくたびれていた。人いきれのせいで頭がくらくらする。バートラムに頼らなくてはならないのは癪だったが、掴まっていなければとっくに逸れてしまったことだろう。その点はよかったと言わざるを得ない。
それにしても。
視界を遮る見知らぬ人々の表情を漫然と眺め、クラリッサは現実味のなさを覚えている。皆、この日を酷く楽しみにしてきたように笑い合い、はしゃいでいる。お祭り騒ぎそのものの賑やかさを心から楽しんでいるようでもあり、その根底にある祝うべき出来事について何の不安もないと言わんばかりの様子だった。
無論、不安などないに越したことはない。あの茶会以降、アルフレッドが悔い改めて結婚式に向き合う心を持ってくれていればそれでいいのだが――何となく胸がざわめくのはどうしようもなかった。
クラリッサの不安を駆り立てるかのように、その時、人波の向こうで声が上がった。
石畳を揺るがす歓声と喝采は、明らかに今日の主役に向けられたものだ。
長身のバートラムが人垣の先に目をやり、それからメイベルに向かって告げた。
「アルフレッド様がお見えのようです」
メイベルがぱっと顔を輝かせ、更に背伸びをしようと試みる。
「まあ、素敵な花婿さんのお出ましね。どうにか拝見できないかしら」
前方に詰めかける人々の反応からして、アルフレッドは賞賛を受けるに値するいでたちでいるらしい。とは言えクラリッサは彼にいい意味での興味など少しもなく、それくらいならまだ石畳の目でも眺めている方がましだった。
思わず眉を顰めると、ちょうどバートラムがこちらを振り向いた。そして腕に掴まっているクラリッサの手に自らの手を重ね、目だけで微笑んだ。
「そう怖がることはない。この人出では彼も君に声をかけられまい」
声量を落としてもはっきりと聞こえた言葉に、クラリッサは無言で頷く。
しかし次の瞬間、バートラムは自分の腕からクラリッサを引き剥がすと、まるで隠すように背中側へと押しやった。クラリッサの視界にはバートラムの広い背中しか見えず、何事かと顔を覗かせようとすると彼の手で制された。前にもこんなことがあったような気がする――クラリッサは嫌な予感を抱きながら目の前の執事の顔を見上げる。
「……こちらへ来る」
バートラムが呟く。
その言葉を合図にするように、クラリッサたちの前で人垣が割れた。クラリッサはそれを執事の背の陰から眺めていたが、近づいてくる姿を認めた途端、素直に引っ込んでおくことにした。
「アルフレッド様。本日は、本当におめでとうございます」
メイベルがアルフレッドを迎えたようだ。夫人の慈しみに満ちた声が聞こえてきた。
「ありがとうございます、メイベル夫人。今日のこの日にあなたの後に続けることは大変な名誉です」
憎たらしいことに、アルフレッドはメイベルの前で跪いたようだった。人々のどよめきが起こり、クラリッサは再び執事の陰から様子を覗く。
本日の花婿は神の御前で誓いを立てるにふさわしい服装をしていた。たっぷりと生地を取った真紅のマントには金糸の刺繍があしらわれ、その下にまとうチュニックも意匠を凝らした上質なものだった。撫でつけられた栗色の髪には花婿の証たる金色のサークレットが輝いている。花婿の冠は金、花嫁の冠は花と小枝を編んで作るのが聖堂で挙げる結婚式での慣わしだった。
見栄えのよさはともかく、彼がレスターとメイベルの後に続くなどおこがましい、とクラリッサは内心歯噛みしていた。
「まあ、アルフレッド様。差し出がましいようですけれど、いささか緊張されておいででしょう」
くすっと、メイベルが笑う。
するとアルフレッドも照れを滲ませた声で笑う。
「はは、ご夫人のご慧眼には敵いませんね。さすがに当日ともなると身が引き締まる思いです」
「そう気負われる必要はございませんわ」
メイベルはあくまでも優しく、アルフレッドを励まそうとする。
「大丈夫、神様も真摯な愛を誓い合うお二人には温かい眼差しを向けてくださるわ」
その時アルフレッドがどんな顔をしたか、バートラムの陰に隠れているクラリッサには見ることができなかった。少しでも殊勝な顔をしていればまだいいのだが、恐らく他人事のように愛想よく微笑んでいたことだろう。
ともあれしばらくしてからアルフレッドは立ち上がり、こう言った。
「式まではいくらか時間もございます。どうでしょう、ソフィアにも会っていただけませんか」
「それは……わたくしにはとても光栄なことだけれど、よろしいのかしら?」
メイベルは少し躊躇を見せた。
「式を控えた花嫁さんはそれこそ酷く緊張しておいででしょうし、わたくしがお邪魔してはかえってご負担でしょう?」
「いいえ、緊張しているからこそあなたに会っていただきたいのです」
しかしアルフレッドはメイベルの懸念を吹き飛ばすように、むしろ懇願の口調で続ける。
「実は私だけではなく、ソフィアも今日になって随分と重圧を感じ始めているようなのです。ここでかつて誓いを立てられたメイベル様とお話をすれば、いくらかその重圧を取り払えることでしょう」
「まあ……。わたくしにできることなら、いくらでもお手伝いいたしましょう」
人のいいメイベルは二つ返事でアルフレッドの頼みを引き受けた。
夫人の性格は重々承知していたクラリッサではあったが、まさか結婚式当日までアルフレッドと行動を共にする羽目になるとは思いもしなかった。こっそり肩を落とすと、バートラムが振り向いて言葉をかけてきた。
「君はずっと私の陰にいるといい。今の我々なら不自然ではあるまい」
「ありがとうございます、バートラムさん」
気落ちしつつもクラリッサが礼を言うと、バートラムも少しだけ複雑そうに笑んだ。
面倒なことになりそうだという予感を、この時、お互いに抱いていたのかもしれない。
一行はアルフレッドの案内で聖堂へと立ち入った。
身廊奥の祭壇前では、以前会った司祭が式に備えて支度をしているようだった。数人の侍者たちに何事か話している姿は見るからに慌しく、アルフレッドも、それにメイベルもその場を会釈だけで通り過ぎた。
花嫁の控え室は翼廊から階段を上がった二階にあった。小部屋が並ぶ静かな廊下の突き当たりでアルフレッドは足を止め、そこにある木の扉を拳で叩く。
「ソフィア、私だよ。メイベル様をお連れしたんだ」
アルフレッドはいやに声を潜めていた。扉を叩く音もごく優しく、まるで中の人物を気遣っているようだった。
扉の向こうからは微かな衣擦れの音が近づいてくるのが聞こえた。やがて扉は軋みながらゆっくりと開き、細く開いた隙間から見覚えのある金髪の令嬢がこちらを窺う。
「アル……? メイベル様もいらしてるの?」
慎重な問いかけの間、彼女の表情はやはり硬かった。緊張しているというアルフレッドの言葉は嘘ではないらしい。
「ああ、そうだ。中へ入れてくれるだろう?」
アルフレッドが愛想よく笑いかけると、ソフィアはこくんと頷いた。そして扉を開け、室内にアルフレッドとメイベル、そしてバートラムとクラリッサを招き入れた。
最後に扉をくぐったのはバートラムだったが、彼が室内に入る直前、ふと足を止めて廊下を振り返ったことにクラリッサは気づいた。つられるように振り返れば、廊下の途中にあった別の扉が軽く開き、中から数人の人間がこちらを見ているのに気づいた。クラリッサが目を瞬かせているうち、そちらの扉はすぐさま閉じられてしまったが――。
全員が中に入ったのを確かめて、ソフィアは控え室の扉をしっかりと閉めた。扉を背にして立つ彼女は間違いなく花嫁の格好をしていた。眩い金色の髪には花冠を飾り、純白のドレスの上に若草色のガウンを羽織っている。しかし着込んでいるにもかかわらず彼女は青ざめた唇を震わせ、酷く不安そうに花婿を見上げていた。
「ソフィア、少しは元気になったかい?」
アルフレッドはソフィアに歩み寄り、紙のように白い彼女の手を握る。ソフィアがぎこちなく頷くと、その手を引いて控え室に置かれた椅子へと導き、座らせた。
室内は思いのほか簡素な造りをしていた。円卓が一つに椅子が六脚、ぐるりと囲むように置かれており、その他には壁際に置かれた木造の鏡台がある程度だ。ここで着替えをしたのだろうか、鏡台の傍には大きな箱がいくつか重ねて置いてある。他に目につくものは光溢れる張り出し窓だけだった。
こんなに小さく寂しい部屋で、花嫁はどうして一人きりでいたのだろう。バートラムの背後に尚も隠れつつ、クラリッサは訝しさに眉根を寄せた。
「ええ、少しだけ……」
椅子に腰を下ろしたソフィアは再び頷き、それから縋るような目でメイベルを見上げる。
「メイベル様。こんな顔をお見せして申し訳ございません」
「お気になさらないで。誰だってこんな日には緊張するものでしょう」
メイベルもソフィアの傍まで近づくと、皺を深めるように優しく微笑みかけた。夫人の顔に刻まれた皺は長い人生の足跡であり、その顔に浮かべた微笑にもただ花嫁を宥めようとしているだけではなく、理解しようとしているそぶりが窺えた。
それでソフィアも蒼い唇にぎこちなく笑みを浮かべる。
「メイベル様も、結婚式の前には緊張なさったのですか?」
「もちろん、そうよ。わたくしだって神様の御前で誓いを立てたその時までは――」
古い記憶を手繰り寄せるようにメイベルは睫毛を伏せ、それからかぶりを振った。
「いいえ。その後だってとても不安だったわ。聖堂を出て、大勢の人々がわたくしたち目がけて花びらを浴びせかけてくれた、その瞬間まではずっと不安で仕方がなかった。夫を信じていないわけではなかったけれど、誰だって人生の節目には不安になるものでしょう?」
メイベルの告白は、クラリッサにとっては予想外のものだった。
軽い衝撃を受けつつバートラムの陰から顔を覗かせるクラリッサに、ふとアルフレッドが視線を寄越す。慌てて目を逸らしたが、彼まで縋りたがっているような顔つきをしているのには面食らわざるを得なかった。
結婚式とは、顔から血の気が失せるほど緊張するものなのだろうか。当然ながら経験のないクラリッサには想像も及ばなかった。アルフレッドは以前にも不安を漏らしていたが、こうして当日を迎えた以上は堂々と振る舞えばいいものをと思ってしまう。
だが、レスターを心から愛するメイベルでさえ、その時には不安に襲われていたというのなら――。
「そうでしたか。メイベル様も不安だと伺って、少しだけほっといたしました」
ソフィアは言葉通り胸を撫で下ろし、アルフレッドの手を握り返したようだ。
「わたくしも今日になって急に、不安で堪らなくなってしまって……でもこれも皆が通る道というのなら、神が与えたもうた試練と思うべきなのでしょうね」
「そう。皆同じだよ、ソフィア」
アルフレッドが顎を引くと、ソフィアは細く息をつきながら彼を見上げた。
「……ええ。きっと皆が同じなのね、アル」
視線を交わし合う二人は以前と同様、仲睦まじい恋人同士であるように、クラリッサには見えていた。
花嫁の元に花婿だけを残し、三人は控え室を後にした。
ひっそりと静まり返る翼廊を歩きながら、メイベルは従者たちに向かって声を落とした。
「お二人とも、きっとお若いせいね。聖堂に来たらあんまり大仰な儀式をするように見えて、気後れしてしまったのかもしれないわ」
「ええ。我々が気を揉むまでもないでしょう」
バートラムは温厚に応じた。
ただクラリッサの耳には『これ以上彼らと関わりたくない』という強固な意思表示にも聞こえた。
「だけど、何だか懐かしいわ。お二人が抱く不安まで、あの頃のわたくしとそっくり同じなんですもの」
メイベルは柔和な顔つきで視線を遠くへ投げた。それは単に翼廊の先だけを見据えているわけではなく、更に遠くを見ようと試みている姿に映った。
その先には何があるのだろう。クラリッサがつられるようにメイベルの視線を追い駆けた時だ。
「もっとも、わたくしの場合は駆け落ちだったから。頼れる人がレスターの他にはいなかったの」
呼吸をするようにさらりと、メイベルが言った。
驚きに足を止めたのはクラリッサだけだった。
そんなクラリッサを振り返り、皺の深い顔でメイベルは笑う。
「あのお二人にはもっと頼れる方々がいるんですもの。きっと大丈夫よ」
だがクラリッサの頭からは、もうアルフレッドのことも、ソフィアのこともすっかり抜け落ちていた。それよりも遥かに重大で、貴く、甘美な秘密を打ち明けられたように思った。もしかするとメイベルにとっては秘密でも何でもないのかもしれない。だがクラリッサは、今のこの瞬間まで主人夫妻の結婚がどういうものだったのか、何も知らなかったのだ。
ちらと視線を横に馳せれば、バートラムは冷静な面持ちを崩していなかった。目が合うと軽く目配せされた。恐らく彼はとっくに知っていたのだろう。
「あら、そんなに驚くことかしら」
棒立ちになるクラリッサに、メイベルがはにかむ。
それからいかにも年長者らしい訳知り顔で続けた。
「ねえ。あなたたちの結婚には、わたくしが必ず力になるわ。だからわたくしの真似をして、駆け落ちなんてしないでちょうだいね」
今のクラリッサにはそんな言葉さえ内心で否定する余裕もない。
情報の整理が追い着かない頭に、追い討ちをかけるように聖堂の鐘の音が響き渡り始め――。
「正午の鐘よ」
翼廊を揺るがすような鐘の音の中、メイベルがそう言った。
「そろそろ式が始まります。我々は一度、聖堂の外へ」
「そうね。行きましょう、二人とも」
バートラムが促すとメイベルも同意し、まず彼女が先に立って翼廊の階段を下りていく。
そしてバートラムは立ち尽くすクラリッサの手を、いやに恭しく取った。クラリッサが顔を上げると、優雅に微笑んでみせる。
「ご存知だったのですか?」
「何をだね。旦那様と奥様のことか?」
「他にございませんでしょう。わたくしはこんなに驚いているのに……」
「話を聞いていればわかるだろう。故郷を離れた遠方の地での結婚、つまりはそういうことだ」
バートラムはあっさり言ってのけると、クラリッサを落ち着かせようとするかのように背中を軽く、叩いてきた。
「それと、誰であろうとも幸せな結婚はできるという、よき見本でもある」
驚きのあまり、夢から覚めた後のようにぼんやりするクラリッサの顔を、バートラムは愉快そうに覗き込んでくる。
「この点は我々にとっても大切なことだ。心に留めておいてくれ、クラリッサ」
笑いを堪えながらそう言われて、クラリッサはなぜだか無性に拗ねたくなった。