永遠に続いてほしい夢の話(1)
茶会を終えて宿の部屋へ戻ってきた後も、メイベルは興奮冷めやらぬ様子だった。「今日は素敵なお話をありがとう」
胸に手を当てて、深く息をつく仕種に満足感が表れていた。
「誰の話を聞くよりも、身近で大切な人たちの恋のお話が、一番素敵だとわかったわ……」
バートラムはそんな彼女から帽子を預かり、上着をそっと脱がすと、客室の椅子を引いた。さすがに疲れた様子で腰を下ろすメイベルの顔を、斜め上から覗き込み、少しだけ済まなそうな顔をする。
「奥様にはこれまで秘密にしていたことをお詫び申し上げます」
「いいのよ。わたくしが相手ではあなたがたも話しにくいでしょう」
メイベルは気にしたそぶりもなく首を振る。
「それにあなたがたはとても働き者ですもの。わたくしに恋の話をする暇なんて、今までずっとなかったはずよ」
そう言って従者二人を見回すメイベルは、この部屋で誰よりも赤い頬をしていた。痩せた身体をぐったりと背もたれに預けながらも、瞳の輝きは一向に衰えず、言葉も止まらなかった。
「だけど少しだけ悔しいわ。あなたたちのこと、ちっとも気がつけなかったんですもの」
当然だとクラリッサは思う。気がつくも何も実際には恋仲ですらないのだから、見抜きようもないだろう。
そもそもこれはただの方便、アルフレッドの誘いを拒む口実というだけのはずだった。もちろん用が済んだ後はアルフレッドの不埒な行動ごと闇に葬り、なかったことにするつもりでいたのだ。なのに――よりにもよって最も知られたくない人物に知られてしまった。
「我々の務めには関わりのないことです。奥様にお気を遣わせてもいけませんから」
バートラムは恭しく頭を下げた後、クラリッサに視線を向ける。
「奥様には当面お話ししない方がいいだろうと、彼女と二人で話し合い、決めたのです」
親しみを込めた眼差しが同意を求めてくるのがわかった。
クラリッサは不承不承頷く。
「その通りです、奥様。今後もどうぞお気遣いなきようお願い申し上げます」
「あら、全く気にしないというわけにはいかないんじゃない?」
メイベルが冷やかすように微笑んだので、クラリッサは大慌てで繰り返した。
「いいえ、どうぞお気遣いなく! 奥様にお気を遣わせるなどとんでもないことでございます!」
もちろんクラリッサは忠心からそう懇願したのだが、メイベルは逆に少々落胆したようだ。
「そう? あなたの方こそ気を遣わなくてもいいのよ、クラリッサ」
まるでメイベル自身が率先して二人に気を遣いたいと思っているかのような口ぶりだった。
主を落胆させるのは従者として恥ずべきこと、しかし真実ではない事柄について気を遣われるのも心苦しい。クラリッサがくたびれた頭で必死に言い訳を考えていると、バートラムが代わりに口を開いた。
「この件もアルフレッド様にお話しする機会がなければ、奥様にお知らせすることもなかったでしょう。我々も急にお知らせすることになって、いささかうろたえているほどなのです」
執事の言葉にメイベルは目を丸くした。
「そうだったの。ではなぜあの方はそんなことを、皆の前で仰ったのかしら」
「いえ、我々があの方に口止めをするのを忘れていただけのことです。むしろあの方のお話が軽妙で、我々もつい奥様には隠してきたことを打ち明けてしまいましたが、アルフレッド様はそれを奥様にも既知の事実であると思われたのでしょう」
よくもまあ次から次へと出まかせが飛び出してくるものだ。執事の饒舌さにクラリッサも呆れるやら感心するやらだった。
しかしあれだけの騒動があっても鈍ることのないその機知には恐れ入る。疲れの色も見せずにメイベルと接するバートラムを、クラリッサは羨ましく思う。
自分は今日はもう駄目だ。すっかり疲れ果てて、考えることさえままならない。
「わたくしはね、本当のことを言うと、あなたたちのことを知ってほっとしているの」
メイベルはそう言って、二人に笑いかけてくる。
「こうしてあなたたちを旅に連れ出して、随分遠くまで一緒に来てもらったけど、あなたたちはどんなふうに思っているのか気になっていたのよ」
椅子に座る夫人が傍らに立つクラリッサたちを見る時、自然と上目遣いになる。その眼差しが今はどこか許しを請うようなものに、クラリッサには見えた。
「もしあなたたちに残してきたものがあるなら、わたくしの事情に長く付き合ってもらうわけにいかないでしょう?」
そう言ってからメイベルは慈愛に満ちた表情を浮かべた。
「でも、あなたたちにとって一番大切なものがここにあるなら……あなたたちがお互いに、大切なものをこの旅に持ち出せていたというなら、この旅はわたくしだけではなく、あなたたちにとっても素晴らしいものになるんじゃないかって、そう思うの」
祈りを込めたようなその言葉に、クラリッサは何も言えなくなる。
率直に言うと、素晴らしい旅の序盤で早くも躓き、足でも挫いてしまったような気分だった。
メイベルはその晩、満足げに眠りに就いた。
そして客室には、頭痛を抱えるクラリッサと疲れの色も見せないバートラムの二人が残された。
「……とんでもないことになりましたね」
「さすがにここまで大事になるとはな。心のみならず口も軽いとは手に負えない坊やだよ」
壁に寄りかかるバートラムが肩を竦めたので、クラリッサも真横に並び、自分のこめかみに手を当てながら応じた。
「アルフレッド様はつくづく面倒なお方です」
本当はもっと言ってやりたいことがたくさんあるのだ。罵りの言葉の語彙も彼に対してなら無限に湧き出てくるのではないかと先程までは思っていたが、宿に戻ってきてみれば疲労のせいで怒りを維持するのさえ難しかった。
ただただ途方に暮れていた。
「全くだ。君と意見が合うと、いつもは嬉しいくらいなのだが」
性格はまるで正反対の二人が、アルフレッドに対しては同じ印象を抱いている。それだけでもあの青年の扱いにくさがよくわかるというものだ。
茶会では彼を上手く説き伏せ、納得させたと思ったのだが、どういうつもりかアルフレッドはバートラムとクラリッサの関係を公にしてしまった。彼に悪意があって言い触らしたのかは測りかねたが、恐らく茶会の席を長く離れていた口実に使われたのだろうとクラリッサは思っている。
穏便に済ませたいというこちらの願いをことごとく踏みにじっていくアルフレッドを、クラリッサはもはや軽蔑しきっていた。
「こうなったらやむを得まい」
バートラムが腕組みをして真剣な面持ちになる。
物思いに耽るその顔を見上げ、クラリッサは期待を寄せて尋ねた。
「何かいい案がおありなのですか」
しかしバートラムはクラリッサを見て、その表情がおかしいとでもいうように破顔した。
「いいや、こうなったらこの状況を思う存分楽しむしかない。そう思ったまでだよ」
「楽しむとは何ですか!」
「声が大きいな、クラリッサ。奥様に聞かれては困るだろう」
唇の前に指を立てて、バートラムが優しく咎めてくる。
仕方なくクラリッサも矛先を収め、なるべく冷静にと努めながら聞き返した。
「今の状況の何が楽しめると仰るのですか」
「楽しいに決まっているだろう。皆に認められた上で君と恋人でいられるのだから、さぞかし甘い時間を過ごせることだろう」
冷静に尋ねたところでバートラムの態度が変わるわけでもない。本当に心底楽しげな声を上げるものだから、クラリッサは一層疲れて天井を仰ぐ。
「奥様だって喜んでくださった。あの分だと我々に何かと気を回してくださるかもしれない」
どこを向こうがバートラムの弾んだ声は聞こえてくる。呆れるばかりの内容もしっかりと聞こえる。
「ふざけたことを仰らないでください。奥様にお気を遣わせていいと思っておいでなのですか」
「場合によってはな。これも役得というものだよ、クラリッサ」
「あなたという方は……少しは真面目に考えてください」
声を張り上げないよう堪えると、握り固めた拳が小刻みに震えた。怒りに打ち震えるクラリッサを見て、バートラムは宥めるように肩を叩く。
「君の方こそ肩の力を抜いて考えた方がいい。どちらにしろ現状、我々が取ることのできる策はほぼない」
「ない、のですか」
「ないだろうな。今ここで奥様に我々の関係について真実を打ち明ければ、奥様ならすんなり信じてくださるかもしれない」
バートラムは丁寧に、穏やかな口調で説いてくる。
思案の余裕もないクラリッサの疲れた頭にも、その声は染み透るようだった。
「だがその後で必ず、奥様は我々にこう尋ねるだろう――アルフレッド様に、なぜそんな嘘をつく必要があったのか、と」
詳しい理由を教えるわけにはいかない。
戯れでつくことが許される嘘でもない。
そしてメイベルはクラリッサの生真面目さをよく知っている。嘘をついたことが露呈すれば疑問にも思うはずだ。嘘をつくだけの必要性があったことまで追及されてしまうかもしれない。
「……だからといって、奥様をずっと欺いているわけには参りません」
クラリッサが苦しげに息をつくと、バートラムもそれには頷いた。
「それはそうだろう。無論、私としては嘘ではなくなってもいいと思っているが」
「どういう意味ですか」
「意味は今度教えてあげよう。今夜のところは、我々が最も大切にすべきことを確かめておかねばならない」
最も大切なこと、それはクラリッサにもわかっている。
「アルフレッド様とソフィア様の結婚式を――正しくはそれをご覧になる奥様を、何事もないようお守りすることでしょう?」
「その通りだよ、クラリッサ」
バートラムが顎を引く。
「坊やたちの結婚式が済み、この街を離れることさえできれば後はどうにでもなる。奥様にも全てではないにせよ、真実の一部を打ち明けて納得していただくこともできるだろう」
彼の言うことも理解できるのだが、果たしてメイベルを納得させつつ、その思い出自体は汚すことなく、嘘をついた事実を打ち明けることなどできるのだろうか。
クラリッサの頭ではそこまで筋道立てて考えることができない。
疲れているせいかもしれない。また頭が痛くなってきて思わず額を押さえると、バートラムが肩に手を置いてきた。
「とりあえず、結婚式が終わるまでは様子見だ。こればかりは無事に終わってもらわねばどうしようもない」
「そうですね……」
クラリッサが力なく頷くと、バートラムはその肩を慰めるように軽く抱いてきた。判断力の落ちているクラリッサが気づいて咎めるよりも早く離してくれた後、優しいばかりの笑みを浮かべる。
「さあ、今夜はもう休むといい。君も酷く疲れているようだからな」
バートラムの表情の優しさを、クラリッサは奇妙な思いで眺めていた。
今更かもしれないが、彼は自分の前でくたびれた顔をしてみせたことがない。今日もあれだけのことがあったというのに疲れの色さえ見せずに笑んでいる。それも途方に暮れるクラリッサを和ませようとしているかのように、ひたすら温かく笑っている。
「あなたは、お疲れではないのですか」
奇妙な思いは疑問になり、クラリッサは思わず尋ねた。
たちまちバートラムが目を瞬かせたので、尋ねたことを少し悔やんだ。
「いえ……あの、そういえばお礼を忘れていたと思ったのです。あなたも今日はわたくしのせいで酷く疲れたでしょうに、わたくしばかり疲れたと言うのも図々しいように思えて……」
やはり疲れのせいだろう。言いたいことが上手くまとまらない。バートラムが見守る中、クラリッサはあれこれと言葉を並べ立てた挙句、短く言い添えた。
「今日は、本当にありがとうございました」
バートラムはほんの一瞬だけその青い目を眇めてから、口元はわかりやすくはっきりと笑んだ。透き通った瞳は笑っているのかいないのかわからないほど真剣に、クラリッサの言葉と表情を吟味しているようだった。
「君が望むほどの成果は挙げられなかったがね。近いうちに挽回させてくれ」
「そんなことはありません」
クラリッサはかぶりを振った。
そして、言おうかどうか迷っていたことを――むしろ自分でも思い出したくないことを、それでも感謝を伝える為には必要だと思い、口にした。
「あの時、少しだけ、あの方が怖かったのです」
恥ずべき感情だと思っている。
アルフレッドに対し、わずかなりとも怯え、臆してしまったことをクラリッサは非常に恥じていた。
だから一人でも戦った。必死になって抗った。だがバートラムがあの閉ざされた扉を叩いてくれた時、その声を聞いた時、張り詰めていた心が一気に解けたのを感じた。
「ですからあなたが来てくださって、本当に助かりました。ありがとうございました」
クラリッサは一息に言うと勢いよく頭を下げ、すぐに踵を返した。バートラムがどんな表情をしているかを確かめる気にはなれなかった。そのまま彼の元を離れ、与えられた自らの寝室へ飛び込んだ。
扉を背にして息をつく。
「……おやすみ、クラリッサ。いい夢を」
扉を隔てた向こう側から、バートラムが声を投げかけてきた。
返事をしようか迷っていると、微かな笑い声が更に続いた。
「怖い夢を見たら、また私を呼ぶといい。どこへでも助けに行くよ」
クラリッサは結局、返事をしなかった。
それでも目まぐるしい一日の終わりを、いくらか静かな気持ちで迎えていた。
途方に暮れてはいられない。戦いは形を変えて、もうしばらく続くのだ。