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どこまで続くか誰も知らない(5)

 茶会の日、メイベルは従者二人を伴いアルフレッドの邸宅を訪ねた。
 馬車に揺られて好天の下に輝く街並みを進むと、広い庭園を有した大きな邸宅の並ぶ一角へと差しかかる。彼の住まいは富裕層が家を構える一帯にあるらしく、窓から覗く家々はどれもレスターの屋敷と比肩するほど大きい。また住宅街に入っても道幅は馬車がゆうに通れるほど広く、そのせいか道中で何度か四頭立ての豪奢な馬車とすれ違った。
「お茶会だなんて随分と久し振り。あの人が元気だった頃以来よ」
 メイベルは上機嫌で真新しい帽子の傾きを直す。
 普段使いの帽子は旅の間に少しくたびれてしまったので、今日の茶会の為に新調したのだ。夫人はアルフレッドたちの結婚式の為に服も仕立てているところで、この街を訪れてからの一連の出来事をすっかり楽しんでいるようだった。
「この辺りのお作法がわたくしたちのものとあまり違わなければいいのだけれど。せっかく招いていただいたのに失礼があっては困るもの」
 そう呟きながらも夫人の顔には緊張や気負いの色は見られない。むしろこの機会を大いに楽しもうという気概に溢れているようだった。
「ご安心ください、奥様。この街ではもう何度も食事をお召し上がりになったでしょう」
 バートラムがそれを後押しするように言葉をかける。
「それに奥様が旅行者であることはアルフレッド様も既にご存知のはず。その上でのご招待なのですから、多少の風習の違いには目をつむってくださることでしょう」
「確かにそうね。あの方は優しそうな方だもの」
 くすっとメイベルは笑い、座席に並んで座るもう一人の従者に目を向ける。
「クラリッサ、その薔薇、とてもよく似合っていてよ。きっとあの方も目に留めてくださるわ」
 赤褐色の髪を結い上げたクラリッサは、その髪に赤い薔薇を飾っていた。ちょうど右耳の上辺りに位置する薔薇はまだ開ききっていないものをバートラムがわざわざ選び、丁寧に棘まで取り除いてくれたものだ。そのことが気に食わないわけではないのだが、クラリッサはこの道中ずっと押し黙っていた。
 しかしメイベルの言葉を無視するわけにもいかず、溜息をつきたいのを堪えて応じる。
「ありがとうございます、奥様」
「ええ。あの方にもお礼を申し上げましょうね」
「……もちろん、その通りにいたします」
 クラリッサは表向きは行儀よく、内心は煮えくり返る思いで答えた。
 アルフレッドには叩きつけたい文句こそあれど、言うべき感謝の言葉など何一つとしてないはずだ。この赤い薔薇も赤褐色の髪には馴染むと言いがたかったし、そもそも生花を髪に飾るのはもっと年若い娘のするようなことだとクラリッサは思う。夫人に帯同するに当たり、クラリッサも持ち合わせた一番上等の服を身に着けてはいたが、飾り気のない小間使いの服に薔薇の花はまるでちぐはぐで、バートラムが掲げた鏡を覗いた時はうんざりしたものだった。
 だが今日はアルフレッドの誘いに乗ってやらなければならない。彼の望みを叶えてやる為ではなく、彼が誤解のしようもないほどにきっぱりと、その望みを拒んでやる為に。
「どうしたの? クラリッサ、今日はあまり元気がないのね」
 にわかにメイベルが眉根を寄せた。
 クラリッサは胸中を押し隠しているつもりだったが、考えてみれば夫人ともかれこれ八年以上の付き合いがある。顔つきの変化や態度の違いがあれば当然わかってしまうのだろう。慌てて表情を明るく作り変えた。
「いいえ、そんなことは。わたくしはすこぶる元気でございます」
 そして急き気味に答えると、微かに笑んだバートラムが口を挟んできた。
「奥様にとってもそうですが、クラリッサにとっても本日は久々の茶会。緊張するのも無理のないことでしょう」
 途端にメイベルは口元に手を当てる。
「まあ、わたくしばかり浮かれていて、ちっとも気がつかなくて……ごめんなさいね」
 それから気遣うように顔を覗き込んできて、
「でもあなたならどこへ出向いても大丈夫よ。いつだって礼儀正しい、わたくしの自慢の使用人なんですもの」
 優しい言葉をかけてくれた。
 メイベルのその言葉も、今日ばかりは言い知れぬ罪悪感を抱かせた。メイベルはアルフレッドの優しさを信じ、アルフレッドとソフィアの関係を信じ、そしてクラリッサは誰に対しても礼儀正しい小間使いであると信じている。それらの思いを裏切ることなく、全て水面下のうちに決着をつけなくてはならない。
「そう気負うことはない」
 決意を秘めるクラリッサに、バートラムもまた言葉をかけてくる。
 ちらりと目をやれば彼は青い目を優しく微笑ませて、こう言った。
「奥様は今日の茶会を心ゆくまで楽しまれることだろう。なら君も同じように楽しめばいい」
「ええ。……楽しめるよう、善処いたします」
 終わりの方は小声で、クラリッサは答えた。
 それが聞こえたのかどうか、長身の執事は座席の背もたれに悠然と寄りかかる。やはり手持ちの中で一番上等の服に身を包んだ彼は、そのまま茶会だろうと舞踏会だろうと構わず溶け込んでしまえそうなほど優雅な存在に見えた。

 クラリッサとバートラムが秘密の話し合いを持ってから、一日と半分が過ぎていた。
 そしてその間、クラリッサの知る限りでは彼との関わり方に変化はなかった。せいぜい薔薇の棘を取ってくれたり鏡を持ってくれたりと普段以上に優しく接してもらっているような気がする、という程度だ。メイベルの目を盗んで口説いてくるのはいつも通りのことだったから、やはり特別違いはないと言えるだろう。
 彼と恋仲を演じることについてクラリッサは一応了承したものの、すっかり納得しているわけではない。彼の前では『必要に駆られて仕方なく』という態度を崩すつもりはなく、実際にその通りでしかないと思っている。だからバートラムが権限を濫用して必要以上に不埒な行為を働こうものなら引っ叩くなり噛みつくなりしてやるつもりでいたのだが、彼の態度は普段と何ら変わりなかった。
 それでいて事ある毎にこちらを勇気づけようとするような、優しくも柔らかい眼差しを送ってくるので、クラリッサはいささか拍子抜けしていた。まるで自分だけが恩知らずにも彼を警戒し、この度味方になってくれた相手にすら牙を剥いているような気がしてならず、それこそメイベルに抱いた罪悪感を、バートラムに対しても少なからず持っていた。

 やがて馬車は停まり、先に降りたバートラムの手を借りてメイベルが、そしてクラリッサも外へと降り立つ。
 目の前に建つアルフレッドの邸宅は周囲の屋敷とも引けを取らない立派な構えをしていた。外壁は煉瓦造りで屋根は瓦、この辺りでは左右対称の建物が主流なのか、この三階建ての邸宅も対称の造りをしていた。
 玄関前には招待客に挨拶をするアルフレッドの姿もあった。訪ねてきた人々と楽しげに談笑していた彼が、ふとこちらを向いてメイベルたちに目を留める。たちまち早足になって近づいてくる。
「メイベル夫人! よくぞお越しくださいました」
 アルフレッドはにこやかに言い、メイベルに向かって丁寧にお辞儀をする。
「この度は突然のお誘い、失礼いたしました。しかしこうしてまたお会いできて光栄です」
「いいえ。こちらこそお招きいただき光栄に存じます」
 メイベルも帽子を取り、上品に頭を下げる。
「旅先でお茶会に招いていただけるなんて思ってもみませんでしたから、本日は喜び勇んで伺いましたのよ」
「それはよかった。私としてもあなたのお話をじっくり拝聴したいと思っておりました」
 二人の会話は至って和やかであり、そして親しい間柄のようでもある。もともとメイベルは社交的な人物であり、あの片田舎でも人好きのする笑顔を武器に穏やかな人間関係を築いていた。近隣の農園の地主夫人たちと茶会を開くことも珍しくなく、そういう時はクラリッサもよく立ち働いた。
 メイベルが久し振りとなるこの茶会にどれほどの期待を寄せているか、たやすく想像できた。
 だからこそクラリッサはアルフレッドの方を見ないようにしていた。代わりに彼の住まいだという煉瓦造りの邸宅を何の気なしに眺めていた――しかしふと、あることに気づいて目を瞬かせた。
 この邸宅の煉瓦もレスターの屋敷と同様に、比較的新しいもののようだ。赤みの強い煉瓦はさほど汚れておらず、もしかするとレスターのあの屋敷の外観よりも新しいように見える。いつかメイベルが語った『味が出る前の煉瓦』が積み上げられている。
 よくよく見れば玄関の柱や窓枠も眩しいほど白く、屋根の瓦も風雨を幾度も潜り抜けたようには見えない。この邸宅は建ってから間もないのかもしれない、とクラリッサは思う。だとするとここはアルフレッドの屋敷と言うより、これから神の前で誓いを立てる新しい夫婦の為の屋敷なのかもしれない。
「ところで、今日はあなたお一人なのかしら?」
 一通りの挨拶が済んだ後、メイベルが珍しく冷やかすような口調でアルフレッドに尋ねた。
 彼はすぐに意図を理解したと見え、照れを含んだ声で答える。
「ええ、ソフィアも友人とお茶会を開くと言っていて。こちらには私の親しい方だけをお招きしたのです」
 てっきり二人で催す茶会だと思っていたので、その言葉にはクラリッサも少し驚く。驚きのあまり思わず視線を向けると、アルフレッドもまた主人の後方に控えるクラリッサに目を留めた。
 すぐさま髪に飾った薔薇にも気づいたのだろう。愛想のいい顔がその時一段と輝いた。
「その花を気に入っていただけましたか、クラリッサ嬢」
 彼が親しげに話しかけてきたので、クラリッサも礼を失しない程度の微笑で応えた。
「はい。わたくしにまでお花を贈ってくださり、本当にありがとうございます」
「この薔薇の色を見た時、あなたにもお贈りしようと決めたのです」
 アルフレッドの微笑は育ちのよさが窺える穏やかなもので、その裏側に何か下心があるとは考えにくい。しかしメイベルとは違い、クラリッサは既に人を疑うことを覚えている。微笑み返した後は一歩下がり、これ以上話しかけられないように軽く視線を落とした。
 視界の隅でバートラムの長身の影が動き、クラリッサの傍らに立つ。
 その動きに気づいたからかは定かではないが、アルフレッドも会話を打ち切るようにメイベルを促す。
「ああ、立ち話をさせてしまい申し訳ありません。さ、続きは中でいたしましょう」
「ええ。お邪魔いたします」
 メイベルはそれに従い、二人の従者も後に続いた。

 茶会は邸宅の大広間を用いて開かれた。
 親しい相手だけを呼んだという言葉の通り、歓談と軽い食事を主とした気さくな茶会だった。円卓だけをいくつも並べて、椅子はくたびれた客人用に何脚か、壁際に寄せて置いてあるだけ。飲み物は茶だけではなく葡萄酒や蒸留酒などもあり、食べ物もパンや焼き菓子、果物にチーズなどが銀の食器に盛りつけられている。広間には三十人以上の客人の他、冷やした酒を運び込んだり空いた皿を片付ける給仕たちが行き交い、この日の為に呼ばれたという吟遊詩人たちが太鼓やフィドルやフルートを奏で、それはそれは賑々しい場となっていた。
 招待者としてアルフレッドがごく短い挨拶を述べた後、めいめいが好きな物を飲み、食べ、話に花を咲かせたり音楽に聴き入ったりと自由に過ごし始めた。
 クラリッサも早速茶器を借り受け、メイベルの為に茶を入れた。メイベルはカップと皿を手に立ったまま茶を飲み、楽しげに頬を綻ばせる。
「茶会と言うよりはパーティね。そういうのも好きだけれど」
「お疲れになりましたらお申し付けください。すぐに椅子をお持ちします」
 バートラムがそう進言すると、メイベルは広間の様子を一度眺めてから小首を傾げた。
「そうね、でもしばらくはこの空気を楽しみたいわ。だって久し振りなんですもの」
 程なくしてアルフレッドが再びメイベルの元に現れ、他の招待客に紹介するといって広間の中央へ連れ出した。客人たちは遠方からの旅行者を興味を持って見つめ、直に夫人は会話の中心となって茶会を大いに盛り上げた。中でも屈託のない口調で語られたこの地で結婚式を挙げた際の逸話は皆の心を捉えたようだ。
「ではあなたの旦那様は、わざわざお花を自分で買って、街の人たちに配ったのですか?」
「素敵ね……愛を感じるわ。あなたの旦那様ってどんな方だったのかしら?」
「結婚式の後はどちらへ? この辺りは保養地もありますし、新婚旅行にもってこいでしょう」
 話し終えたメイベルが客人たちに質問攻めに合う姿を、クラリッサは広間の隅から眺めていた。
 一時、旅に出るよりも前――レスターがまだ存命で、あの片田舎で暮らしていた頃に戻ったような気がした。あの頃は毎日が平穏で、少々退屈で、けれど不安は何もなかった。メイベルも今のようにずっと笑顔を浮かべていた。そして彼女の隣にはいつも年老いたレスターがいて、二人は仲睦まじく、いつも幸せそうに余生を送っていたのだ。
 目に焼きついていると思っていたその記憶も、いつしか遠い日の思い出になりつつある。メイベルは一人きりでも笑っている。レスターの話をしながら、楽しそうに、とても幸せそうに。
「クラリッサ」
 バートラムが近づいてきて、ぼんやりするクラリッサに呼びかける。
「君も今日は招待客なのだから、ここで突っ立っているのはもったいない。何かいただいてはどうかね」
 それでクラリッサが視線を上げると、気遣わしげに微笑むバートラムが小さな皿を差し出してくる。リンゴの包み焼きを載せたその皿を、クラリッサはおずおずと受け取った。
「ありがとうございます。……お気を遣わせて、申し訳ありません」
「気に病む必要はない。私にはな」
 彼は感謝だけ受け取るように小さくかぶりを振った。それからじっと、皿を手にしたままのクラリッサを見つめてくるので、クラリッサも渋々それを食べた。香ばしく焼かれた生地と甘く煮たリンゴは美味しいはずだったが、緊張のせいかよくわからない。
「ところで君、飲み物は?」
 クラリッサが一つ食べ終えたのを見計らい、バートラムが尋ねてくる。
 包み焼きの最後のひとかけらを喉に詰まらせかけたクラリッサは、とっさに答えられなかった。それを見て彼は笑う。
「では何か持ってきてあげよう」
「い、いえ、わたくしが自分で取って参りますので――」
「いいから、君は待っていたまえ。こういうことは男に任せておくべきだよ」
 やんわりと制したバートラムが、飲み物の並ぶ卓へと歩き出す。人の行き交う大広間を足早に潜り抜けていくその背中を、クラリッサは呆然と見送った。
 優しくされるばかりというのも落ち着かないものだ。
 細い溜息をつき、クラリッサは広間の中へ視線を巡らせる。メイベルは相変わらず大勢の人に囲まれて楽しそうにしている。バートラムは相変わらず優雅な手つきでカップに飲み物を注いでいる。見知らぬ大勢の客人たちの中に見知った姿を認めると、それだけで無性にほっとするものだった。
 だが、もう一人見知った姿が、
「――クラリッサ嬢」
 辺りを見回すクラリッサの視界に飛び込んできた。
 栗色の髪をかき上げながら穏やかに笑んでいる、アルフレッドだった。
 唐突に現れた彼の姿に、クラリッサは思わず息を呑む。だが口を開く必要はなかった。アルフレッドはクラリッサの肩に手を置き、声を落としてこう告げてきた。
「約束通り、あなたに素晴らしいひと時を差し上げましょう。どうぞこちらへ」
 クラリッサは、今度は意識的に言葉を呑み込んだ。彼に対し今すぐ言ってやりたいことが山ほどある。一時とは言え彼の誘いに乗るようなそぶりをしなければならないのが屈辱だった。
 だが、バートラムにも言われた通り、この件は穏便に片づけなくてはならない。ここでは駄目だ。それこそ彼と二人きりになってからでなければ。
 それでクラリッサはアルフレッドに誘われるがまま、賑やかな大広間を一旦離れた。だが一瞬だけ、心細さを覚えて振り返ってしまった。
 その時、カップを二つ持ったバートラムの姿が見えた。
 青い瞳を瞠る彼に目で状況を訴えた直後、クラリッサは急に手を引かれて廊下へ連れ出され、一呼吸もしないうちに小さな部屋へと押し込まれた。

 後から入ってきたアルフレッドが音もなく扉を閉じる。
 彼が浮かべているのは、期待に彩られた満面の笑みだ。
「ようやく二人きりになれましたね、クラリッサ嬢」
「……あいにくと、そのようですね」
 クラリッサは精一杯の虚勢で応じた。
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