どこまで続くか誰も知らない(2)
一行は安全かつ信用の置けそうな宿を見繕い、部屋を取って荷物を預けた。そして浮かれるメイベルに急き立てられるようにして、その足で街の聖堂へと向かう。
クラリッサは船旅を終えたばかりの女主人を案じ、聖堂を訪ねるなら部屋で少し休んでからの方がいいと進言していた。バートラムも同意見で、二人がかりで夫人に休養を勧めたのだが、メイベルはまるで聞き入れない。平気だと明るく言い張った。
「こんなに元気なのに休んでいなくてはならないなんて、もったいないじゃない」
そう主張するメイベルは頬を薔薇色に染めて、瞳も星の光のように輝いていた。元気だという言葉には嘘はないようだ。だが少し気が高ぶっているようにも見え、クラリッサとしては夫人の明るさを手放しで喜べないのだった。
「奥様がはしゃぐのも無理はない。大切な思い出の地だからな」
結局折れたバートラムが、クラリッサに小声で告げてきた。
「こうなったら我々で、いつも以上に奥様を見ているより他あるまい」
「……かしこまりました」
クラリッサは頷き、はしゃぐ女主人とそれを案じる二人の従者は聖堂への道を歩き始める。
レスターとメイベルにとっての思い出の地は、非常に美しい街でもあった。
通りの道には石畳が整然と敷き詰められ、建ち並ぶ家々も古く趣のある石造りだ。ところどころ苔生しているところにこの街が経てきた長い年月を感じられる。幅の広い道は人だけではなく馬車の通行も多く、速度を落とした二頭立ての馬車が行き来する度、蹄鉄が石畳を打つ小気味よい音が辺りに響いた。
道の向こうには天を貫く高さまでそびえ立つ二本の尖塔があり、それがどうやら目指している聖堂の鐘楼であるようだった。重厚で堅牢な造りの尖塔に華美さはなく、六角形の屋根は遠目からは薄い緑色に見えた。アーチ型の鐘架は首を伸ばしてようやく見えるほどの高さにあり、中にあるはずの鐘の姿は目を凝らしても確認できない。
「聖堂の鐘の音はとても美しいのよ。ここにいるうちにたくさん聴けるでしょうけど」
道すがら、メイベルはクラリッサとバートラムに思い出を語った。
「聖堂の中で聴くと身体中にがらがらと響いて、まるで鐘の音の海をたゆたっているような気分になるの」
夫人は未だ興奮の最中にあり、普段よりも一層口数が多かった。
「見知らぬ土地での結婚式で、親しい人もレスターの他にはいなくて、心細さも少しあったの。でもね……式を終えて二人で聖堂を出たら、聖堂前には大勢の街の人たちが集まってくれていたのよ。レスターがわたくしを元気づける為に、見ず知らずの人たちに声をかけてくれたんですって」
メイベルがくすくすと楽しそうに笑うのを聞き、クラリッサは今は亡き主人を思う。
レスターとメイベルは本当に仲睦まじい夫婦だった。二人の愛は最後まで――それどころかレスター亡き今も尚損なわれずに存在している。それがこの地から始まったのだと思うとしみじみ、胸に迫るものがある。
そして同時に一抹の寂しさも覚えた。クラリッサにはどうにもできないことだが、二人の式をこの目で見てみたかったと思わずにはいられない。
「街の人たちがわたくしとレスターに向かって、花びらを撒いてくれてね」
夫人の思い出語りは続く。次第に近づいてくる聖堂を見つめながら、大切な言葉を口にするようにゆっくりと語る。
「ほら、結婚式の後と言えば花を撒くものでしょう? それもレスターが式の前に花屋へ駆け込んで、用意をしていたんですって。街の人たちも急に花を手渡されてさぞかし面食らったことでしょうけど、事情を話したら快く引き受けてくださったんだって聞いたわ」
結婚式を終えて聖堂を出てきた夫婦に花を撒くのは古くからある風習だった。新しい夫婦の先行きを祝い、いつも美しいもので溢れ、満たされているようにと、彼らと彼らの歩く道に花を撒く。夫婦は人々に幸いを祈られ、望まれながら新たなる人生へと踏み出す。
クラリッサもあの片田舎で暮らしていた頃、何度か花を撒いたことがある。結婚式の知らせがある度に庭の花を摘み、かごいっぱいに花びらを集めては村中を練り歩く新しい夫婦の来訪に備えた。あまり早くに摘んでしまうと花びらが色褪せてしまう為、結婚式の終了に合わせて手早く作業を進めなければならないのが厄介だった。それで一度、作業に手間取り焦るあまり薔薇の棘を指に突き刺してしまったことがあり、どういうわけか手当てを買って出たバートラムに歯の浮くような台詞を言われたのも覚えている。
『君の手は花を摘むよりも、人に撒いてもらう方が合っている。近いうちに我々も式を挙げよう』
その台詞に何と答えてやったかはよく覚えていない。ひと睨みで済ませたかもしれない。
むかむかするような余計な思い出が蘇ってきたところでクラリッサは思考を現在へと戻し――そこでふと、小さな疑問を抱いた。
なぜ旦那様と奥様は、どちらの故郷でもないこの地で結婚式を挙げられたのだろう。
見ず知らずの街の人々に祝福される結婚というのも決して悪いものではないはずだ。だがその為にレスターはさぞかし奔走したのだろうと想像がつくし、撒くだけの花を大量に買って人々に配るのも簡単なことではなかっただろう。知己の多い土地で式を挙げたならそういった手間も省けたのではないかとクラリッサは思うのだ。
かつてレスターは多忙な商人であったから、一つところに落ち着いて式を挙げていられなかったのかもしれない。クラリッサはそう解釈しているが、疑問は疑問のまま、しばらく胸に燻っていた。
「旦那様の深い愛情が伝わってくるお話です」
バートラムが感想を述べると、そこでメイベルははっとしたように瞠目し、はにかんだ。
「そうね。あの人はいつだってわたくしを思い、尽くしてくれたわ。わたくしがそれにきちんと返せていたかどうか、今となってはわからないけれど……」
「いいえ、奥様の献身的な愛も我々の知るところでございます」
執事の言葉にメイベルは、照れながらも嬉しげに微笑んだ。
「ありがとう。レスターもそう思ってくれているといいのだけど」
「旦那様なら必ずやそうお思いでしょう。私からすれば羨ましくなるほどの夫婦愛です」
恭しく言ったバートラムが、その後でちらりとクラリッサの方を見た。
特に何か言われたわけではないが、彼が何を言わんとしているかはおおよそわかってしまうのが悔しい。
それを認めるのも癪なので、クラリッサは黙って顔を背けておいた。
真正面から眺めた聖堂は、二本の尖塔と同じように重厚な佇まいだった。
古い石を積み上げて作った聖堂は真正面から見ると左右対称になっており、いくつもの飛梁が身廊の高い天井を支えていた。張り出した翼廊の背後にそびえる尖塔は、真下から見上げると首が痛くなった。
中へ立ち入ると広々とした身廊が奥まで続いており、祭壇の前には参拝者の為の長椅子が何十列と並んでいる。高い天井に設けられた天窓からは眩しい陽光が真っ直ぐに降り注ぎ、まるで天へと続く階のように床の上まで伸びていた。
振り香炉の清らかな鈴の音が響く堂内を、メイベルは慎重な足取りで進んでいく。そのすぐ後ろにはバートラムが控え、更に後ろをクラリッサが辺りを見回しながら歩いた。村の小さな聖堂には祭事の度に何度も足を運んでいたし、孤児院にいた頃もその街の聖堂に連れて行かれたことはあった。だがこれほど大きな聖堂に立ち入ったのは初めてで、天井の果てしない高さと堂内の広さ、そして荘厳な空気にすっかり飲まれていた。
もっとも臆しているのはクラリッサだけのようで、そのうちメイベルは聖堂の司祭に声をかけられ、バートラムも交えていくつか話をし始めた。
メイベルよりは少し若く見える初老の司祭は、メイベルが訪ねてきた事情を聞くと慈しむように目を細めた。
「四十年前と言えば……私が当時の司祭の侍者を務めていた頃です。あいにくと祭事には携わらなかった為、あなた方にお会いした記憶はございませんが……」
それから手を合わせて頭を垂れ、深く祈ってみせる。
「あなたが再びここへ足を運ばれたのも、神のお導きと愛する方の加護あってのものでしょう。あなたの愛する方に魂の安らぎが訪れますよう」
「ありがとうございます、司祭様」
メイベルも同じく手を合わせ、頭を下げた。
クラリッサはさして信心深くはない質だが、レスターとメイベルの熱心な信奉者ではある。やはりレスターの魂の安息を願い、共に手を合わせておいた。香の匂いで鼻がむずむずしたがどうにか堪えていた。
「実はもうじき、ここで夫婦の誓いを立てる方々がおられるのです」
一通りの祈りが済んだ後、司祭が穏やかに口を開いた。
「もしこの街にしばらく滞在されるというのであれば、いかがです。あなたの後に続く新たな夫婦の幸いを共に祈ってはいただけませんか」
「まあ……また結婚式があるのですね」
そう答えた時、既にメイベルの表情は明るく輝いていた。
まるで親の機嫌を窺う子供のようにバートラムの方を振り返り、
「ねえ、それまでここに滞在してもいいかしら。もう一度ここで結婚式が見られるなんて素敵だわ」
縋る口調で尋ねた。
「もちろん、奥様のお望みであれば」
バートラムは即答し、確認するようにクラリッサに目を向けてくる。
クラリッサにメイベルの意に背く判断ができるはずもない。むしろここに長く留まることでメイベルが休養を取れるなら、その方がよりいいと思う。そこでクラリッサは黙って頷き、バートラムも満足げに目礼を返してきた。
「我々は奥様のお気持ちに寄り添う所存でございます」
改めて答えたバートラムと、黙って頷くクラリッサに、メイベルはゆったりと微笑みかけた。
「嬉しいわ。わたくしのわがままを聞いてくれてありがとう、二人とも」
メイベルの幸福はクラリッサの幸福だった。向けられた笑顔に自然とクラリッサの心も温かくなる。
それに、結婚式そのものにも大変興味があった。ただの結婚式ではない、主人夫妻がかつて同じことを同じ聖堂にて経験した式である。きっとメイベルは自らの思い出をなぞるが如く式を眺めるのだろうし、クラリッサも同じようにかつてのレスターとメイベルの面影を見つけたいと思っている。
その時、広い身廊に別の来訪者があった。腕を組んで歩く若い男女の二人連れと、その後に続く従者らしい数人の姿が見える。
途端に司祭がメイベルたちに告げた。
「おお、噂をすれば。あちらの方々がこの度夫婦となるお二人です」
そして司祭は幸せな男女の元へと歩み寄り始め、クラリッサたちもその動きを視線で追った。
視線が長い身廊の通路を辿り、件の男女へと行き着く。男の方は栗色の髪をした人懐っこい笑みの青年、女の方は金髪の美しい娘――。
クラリッサは目眩を覚えた。
しかしその視界を、今度は長身の背中が遮る。気がつけばバートラムがクラリッサの前に庇うように立っており、こちらを振り向いて目配せをしてくる。
「あの、わたくしはそこまで堪えているわけでは」
クラリッサは小声で訴えた。目眩というのもどちらかと言えば忌々しい運命に悪態をつきたいだけで、別にあの青年の結婚話に何がしかの思いがあるわけではない。メイベルにはできればまともな結婚式を見せたかった、とは非常に強く思うところだが。
「今度は逆だよ、クラリッサ」
バートラムは珍しく、にこりともせずに応じた。
メイベルにも聞こえないような声でそっと、
「私はあの男に、君の姿を見せたくはない」
その間にも司祭は若い男女の元へと辿り着き、
「アルフレッド様、ソフィア様。ようこそお越しくださいました」
港で聞いたのと全く同じ名前を口にした。