自己中執事と生真面目メイド(2)
「このわからず屋! いいから中に入れなさいよ!」押し出されようとしていた女は、身なりに品がなかった。安っぽい耳飾りや腕輪をちゃりちゃりと鳴らし、胸元を大きく開けたドレスを身に着けていた。口調からも慎みがある様子は窺えない。
すかさずバートラムも応じる。
「何度も申し上げている通りです、証拠もないのにおかしなことを仰る!」
証拠という単語に、駆けつけたクラリッサは目を瞬かせた。すると子を抱えた女は小間使いを見つけるなり、こちらに向かって更に叫んだ。
「そこのあなた、この役立たずの執事をどうにかしてよ! わたくしを嘘つきだとのたまうのよ!」
「え……ど、どういうことです?」
水を向けられたクラリッサは執事に尋ねた。ちょうどその時、バートラムが女を容赦なく外へ突き飛ばした。音を立てて扉が閉まる。中から押さえるバートラムの表情が忌々しげだ。
締め出された格好の女は諦め切れぬのか、扉を拳で叩いてくる。
「開けなさい! 開けなさいったら!」
「……バートラムさん、これは」
クラリッサの問いを遮るように、女の声が聞こえた。
「嘘じゃないわ、この子はレスター様の子なのよ!」
子の泣き声が外で響いている。扉を叩く音も続いている。
思わず愕然としたクラリッサに、息一つ乱さずバートラムが言った。
「そういうことだ」
「そんな……そんなの、ご主人様には断じてありえないことです」
血の気が引くのを実感しながら、かぶりを振る。クラリッサの知る限り、レスターとメイベルは仲睦まじい夫婦だった。レスターに他の女がいるとは聞いておらず、そもそも想像したことすらない。ましてあんなに小さな子がいるなどとは。
「証拠が何もないと言うんだ。認められるものじゃない」
バートラムは冷静に言い放った。扉に鍵を掛けながらも崩れた前髪を直している。
その余裕の態度が癪に障り、不要とは思いつつも反論しておいた。
「そもそも旦那様は奥様を愛していらっしゃいました。そのようなことはなさるはずがありません」
「わからないものだよ。君はまだ若いから知らないだろうけどね」
見下すような物言いをされると血の気が戻ってくる。むしろ上ってくる。
「それはバートラムさんが不身持ちでいらっしゃるだけでしょう」
やり返したクラリッサに、バートラムはあくまで笑顔で答える。
「どうだろうね。確かめてみるかい、クラリッサ」
「お断りいたします!」
「身持ちの固過ぎる女も可愛げがないな。もっとも……旦那様の場合はお歳がお歳だった。あんなに小さな子がいるはずはないだろう」
品性で言うならこの執事も、金目当ての連中とさして差がないように思えた。こんな時に馬鹿げたことを言う。クラリッサは眩暈がするほど腹を立てていた。
二人の不毛なやり取りの間も、女の喚き声と子の泣き声、それに扉を叩く音は続いていた。外の女にも、執事にも嫌悪感を募らせるうち、水でも撒いてやろうかという気分にさえなった。
しかし次の瞬間、クラリッサは深く悔やんだ。
思いついたことはいっそ迅速に実行すべきだったのだ。
「二人とも、これは一体何の騒ぎ?」
騒動を聞きつけたのだろう。メイベルが玄関に、不安げな面持ちで現れた。
クラリッサは頬が引き攣るのを自覚した。どうにかして平静を装おうとしたが、不可能だった。
恐らくさすがのバートラムも、多少なりとも動揺はしたのだろう。いつもは軽すぎる口がこういう時に限ってろくに語も継がない。クラリッサは彼を恨み、そして自らの機転の利かなさをも恨んだ。何も知らぬメイベルは執事と小間使いの顔を怪訝そうに見比べる。
そして、
「開けなさい! 入れなさいって言ってるでしょう!」
外の賑々しさは変わらない。女は叫び、子は泣き、扉は強く殴られる。クラリッサは息を呑み、バートラムもすぐには答えなかった。
「どなたなの?」
再度メイベルが尋ねたので、執事は嘆息の後に言った。
「素性の知れないご婦人です。訳のわからぬことを喚くので、帰るようにと勧めました」
「でも、わたくしにご用の方なのでしょう? だったらお通ししてちょうだい」
「いえ、奥様、それは――」
思わずクラリッサも口を挟もうとした。
だがその弁解すら遮って、扉の外では例の女が叫んだ。
「私はレスター様の子供を産んだのよ! 遺産を譲り受ける権利があるでしょう!」
無言のまま、メイベルが瞠目した。
不快さに悪寒を覚えたクラリッサをよそに、横でバートラムが口を開いた。
「ご安心ください、奥様」
その声は今更ながら、場違いなほど落ち着いていた。
「証拠も何も持ち合わせていない輩です。たとえ裁判を起こしても勝てるでしょう。私が追い払って参りますので、奥様はどうぞお部屋へお戻りください」
「ええ、そうね……」
メイベルがぎくしゃくと顎を引く。何かを考えているような、慎重な動作だった。うろたえているようではなく、むしろクラリッサよりもよほど気丈に振る舞っている。執事に向かってこう言った。
「お帰りいただけるよう、お願いしてもらえるかしら」
「かしこまりました」
執事は一礼し、それから呆然としたままのクラリッサに囁く。
「クラリッサ、奥様をお部屋までお連れするように」
「……は、はい」
普段ならバートラムの言葉に従うのは癪なことだったが、今回ばかりは素直に従えた。この場には留まりたくなかったのだ。でたらめを言う女の声がまだ続く、この玄関には。
扉を叩く音はしばらく続いていた。
自室に戻った後で、メイベルはクラリッサに告げた。
「わたくしは平気よ。夫を信じているもの」
クラリッサが口を開く前に、先んじて言われてしまった。
部屋に戻る夫人に付き添ったクラリッサは、結局慰めの言葉一つ口にできずにいた。何か言わなくてはと思っていたのだが、若い小間使いにそれだけの器用さがあるはずもなかった。レスターを信じているのはクラリッサとて同じだ。だが。
「でも、やはり辛いわね」
メイベルが弱々しく微笑む。
「あの人が残してくれたお金が、こんな騒ぎになってしまうだなんてね。あの人だって静かに眠っていたいでしょうに……」
クラリッサは黙っていた。何も言えなかった。
泣かないようにするのが精一杯だった。
その日は結局、夕暮れ時まで来客が相次いだ。先程の妾を名乗る女はバートラムが何らかの手で『お帰りいただいた』ようだった。しかしその後も様々な客人がやってきた。慈善事業に寄付を募ろうとする者。レスターの恩人だったと言い張る者。遺産を預けてくれれば倍にして返すと口走る者。
メイベルは全ての来客に礼儀正しく対応した。クラリッサはその度にお茶の用意をし、内心では気を揉んでいた。レスターの遺産はメイベルの心の平穏、そしてこの家の平穏を奪ってしまった。他人に狙われる為、残されたものではないはずなのに。
夜が更けると、家の中は耳が痛くなるほど静まり返る。
さすがにこの時分には来客もなく、クラリッサも溜まっていた仕事を片づけることができた。メイベルに軽い夕食を用意し、寝込んでいる他の使用人たちにも食事を運んでいった。クラリッサ自身はパンすら満足に喉を通らなかったが、どうにかスープで押し込んだ。
食事を終えた後はランタンの明かりを頼りに、静寂に包まれた廊下を歩いていた。呼び鈴が鳴らない時間のあることがありがたかった。そうでなければ直に気が触れてしまうだろう。家の主人に似つかわしくない品性下劣な連中に出入りをされるのは堪らなかった。莫大な財産があるというだけでメイベルに擦り寄ってくる人間が許しがたいと思った。
そもそもこの家からして、レスターがメイベルと共に穏やかな余生を送る為に建てたものだった。現役を退いた豪商は残された人生を愛する妻に捧げようとしていたはずだった。片田舎に邸宅を構え、騒々しさや煩わしさのない日々をずっと、八年間も送ってきた。周囲を農園ばかりに囲まれたこの土地は平和すぎるほど平和で、少々退屈なくらいだった。そんな日々がこれからも永遠に続くのだとクラリッサは思い込んでいた。レスターとメイベルの終の棲家は、ひたすら平穏であるだろうと思っていた。
八年間を振り返れば、軽薄な執事に言い寄られた日々も思い出してしまう。顔を合わせるごとに口説かれ、断りもなく手の甲に口づけられたことも数知れず。その度にクラリッサは腹を立て、バートラムへの嫌悪を募らせてきたが、今にして思えばそれすら些細な事件だった。この世にあの執事よりも嫌悪すべき相手が、それも大勢いるとは考えもしなかった。
平穏とはかくも脆いものだ。
レスター亡き後、この家はおかしくなってしまった。莫大な遺産はろくでもない人々を誘い、寄せ集める。静かな片田舎に建てられたはずの家は毎日うんざりするほど騒々しい。今こそ安らぎを必要としているはずのメイベルには、心休まる時がまるでない――。
あまりにも酷い。クラリッサはこの一月の間、ずっと思い続けてきた。眠れぬ夜に、立ち働く昼に、卑しい客人の現れる度に思った。こんなに酷いことが、あの善良な女性の身に起こってよいのだろうか。何も悪いことはしていない。あの人は夫を愛していただけだ。愛する人に付き従って、終の棲家で余生を過ごしてきただけだ。なのに。
クラリッサは思い詰めた挙句、とうとう行動に出た。
茶器を載せた盆を手に、クラリッサはその扉を三度叩いた。
声はせず、扉はゆっくりと開いた。覗いた顔がクラリッサを見るなり、薄く笑った。
「おや。本当にやってくるとは思わなかった」
「……あなたの有能ぶりとやらを拝見に」
クラリッサが答えると、バートラムは満足げにしながら大きく扉を開けた。
「君がここへ来るのは初めてかな」
「以前、旦那様にお夜食を届けに来たことはあります」
「そうか。散らかっているが、旦那様への冒涜だとは言わないでくれよ」
執務室の机は、確かに紙の束で溢れていた。折れ目の付いた紙が何枚も積み重ねられていて、触れれば今にも崩れてきそうなほどだ。室内もやや埃っぽい。何日も掃除をしていないのだろうか――クラリッサが目を瞠っていると、当の執事が言葉を添えてくる。
「毎日のように手紙が来てね、返事を書くのに追われているよ」
「手紙……?」
「自分の足でここへ来ることさえ面倒くさがる連中もいるんだ。旦那様もそれを見越してこんな田舎に家を建てられたのかもしれないが……奥様がこの役目は任せてくださって助かった。こんな手紙、奥様には見せられん」
バートラムは言いながら、紙の一枚をクラリッサに差し出した。手にとって目を通せば、学のないクラリッサにも内容はすぐ理解できた。生前のレスターに大金を貸したので、利子も含めて返して欲しいのだと文面は訴えていた。
「証拠を出せと返事をしたら、それきり音沙汰がない」
顔を上げたクラリッサに、バートラムはそう言った。
「結局そういう連中ばかりだ。浅知恵しか働かず、楽して金をせしめようとし、そのくせ他人を不快にさせることにだけは長けている。愛する人を亡くされた奥様の胸中など推し測ることもない」
「あなたがそんな風に仰ると、少し複雑です」
率直に、クラリッサは語を継いだ。バートラムのような男がメイベルを案じているはずもないと思っていたからだ。しかし執事は首を竦める。
「そう思うだろう? 君からすれば私は、奥様の胸中を推し測っても、慮ってもいないように見えるはずだ。案じているのもこの仕事に見合った給金が支払われるかどうかだと、そう思うだろうね?」
率直さで言えば彼の方が上だった。最早不快さすら空しいと思えてきたクラリッサは、逆に問い返した。
「でもあなたは有能だから、次のお仕事なんて容易く見つけられるのでしょう? そう仰ったのを記憶しています」
「今のところ、ここより金払いのいい仕事はないだろうからね」
「じゃあ……奥様をお守りしたいと、そうお考えなのですね?」
クラリッサは急き気味に確かめた。相手からの返事は一呼吸も待っていられず、心を逸らせながら語を継ぐ。
「わたくしも何とかしたいと思っております。奥様を、この窮状を何とかして差し上げたいと。早く手を打たねば、きっと奥様まで倒れてしまいます」
これも率直に、本心から告げたのだが、バートラムはふと微笑を消した。青い目でしげしげとクラリッサの顔を見る。普段のようにからかうそぶりはなく、鋭い眼光で検める目つきだった。
訝しく思ったクラリッサが眉を顰めると、取り成すように笑み直す。
「クラリッサ。君は私に、奥様をお守りする為の策があると思っているのかね?」
「少なくともわたくしよりはずっとご存知でしょう」
「なぜそう思う?」
重ねて問われて言葉に詰まる。根拠があるわけではなかった。それでなくとも普段から毛嫌いしている相手だ。バートラムがメイベルに不遜な態度を取るように、クラリッサもまたバートラムに対しては不遜な振る舞いを続けていた。こんな時ですら頼りにしたくなるのも奇妙なことだと思う。
正直なところ、クラリッサ自身にもよくわからなかった。思い詰めた末の行動にしても、角突き合わせているバートラムの元を訪ねていくというのは道理に合わない気がしていた。それもこんな夜遅くに訪ねる気になったのだから、自分でも不思議だった。
ただ、わかっていることがある。
「わたくし一人では駄目なのです。わたくしは学がなく、よい案が浮かびませんし、分別だってありませんもの。一人きりでも奥様を支えられたら、そう思っておりましたけど……」
目を伏せたくなった。
メイベルの力になりたかった。支えになりたかった。その思いとは裏腹に、クラリッサには何の力もない。茶を入れたり食事を用意したりするのがせいぜいで、メイベルの代わりに客人の応対をしたり、バートラムのように厄介な客を力ずくで追い出すこともできない。嘘つきからの手紙を検めることも、それに礼を失しない返事を書くこともできないだろう。
「奥様がどうお考えでも、奥様をお守りする為、あなたが必要なのには変わりないと思います。何かよい知恵があれば、授けていただけませんか」
クラリッサはしおらしく告げる。
悔しさは当然あった。こんな時でなければバートラムになど頼りたくもなかった。けれど自分では駄目なのだと思っている。頭の回る、もっと言えば如才ない人間の力が必要なのだ、あの善良な女主人の窮地を救うには。