好奇心は誰を殺すのか(3)
初めて奥の部屋に通された。リビングの隣にあったのは、郁子さんの寝室だった。
およそ六畳あるかないかという室内にはアンティーク調のデスクとベッド、それに木製のクローゼットがあるだけだった。木の天板を古びた金属のようなパイプが支えるデスクの上には、いくつかの本とペンケースが置かれているのが見えた。本は全て大判の旅行ガイドや地図のようだ。ベッドはリビングにあるソファーと同様に生成り色のカバーがかけられていて、やはり古びた色合いに塗られたパイプが往年の映画に出てくるようなアンティークな雰囲気を連想させた。
色合いも穏やかにまとめられたその部屋に立ち入ると、郁子さんは黙ったまま、素早くベッドに腰を下ろした。カバーをかけられた布団が、彼女を受け止める柔らかい音を立てて沈み込む。
郁子さんはそのまま俯いていたが、俺がその前で立ち尽くしているのに気づくと、顔を上げずに問いかけてきた。
「座らないの……?」
彼女の声は疑いようもないくらい震えていた。
そのせいで俺は迷ったが、ぼうっとしていても埒が明かないし、ひとまず彼女の隣に座る。ベッドが軋む音を立てる。
郁子さんとの距離は、握り拳一つ分くらい空いていた。いつでも詰められるほどの、手を伸ばせばすぐ届きそうなくらいの隙間しかない。でも今はその距離を縮めていいものかどうか、困惑していた。
ちらっと横目で見れば、郁子さんはまだ下を向いている。淡いピンクのセーターを着ているのに、細い肩はまるで寒がっているみたいに震えていた。両手は膝の上に、白いスカートの上に置き、ぎゅっと握り合わせている。その手からは血の気が引いて真っ白になっていたから、思わず尋ねてみたくなった。
「郁子さん、大丈夫?」
「大丈夫って、何が?」
彼女は笑おうとしたみたいだった。もしかすると、俺の懸念を笑い飛ばそうとしていたのかもしれない。ただその試みは成功したとは言いがたく、かえって心細げな問いに聞こえた。
仕方なく、俺は俯く彼女の顔を覗き込んでみる。
こちらの動きに気づいてか、郁子さんも目だけ動かして俺を見た。途端に恥ずかしそうな、困ったような笑みを浮かべる。
「ごめん……やっぱり、緊張してるように見える?」
「緊張してるだけ、ならいいんだけど」
以前とは違うって言ってもらったばかりだった。それでも俺は懸念を拭いきれず、彼女の顔色を窺うより他ない。本当にいいのかと思ってしまう。
「それだけだよ」
郁子さんは震える声で、だが思いのほかきっぱりと言い切った。
すぐに顔を上げ、俺の方を向く。顔色は悪くない。むしろ熱があるみたいに真っ赤だ。それでいて唇は震えている。口紅が落ちて、薔薇色になったきれいな唇が、どうにかして笑いの形を作ろうと懸命になっている。目は今にも涙が零れ落ちそうなくらい潤んでいて、俺は思わず息を呑む。
「緊張してるだけ。好きな人といるんだから、当然じゃない?」
彼女は恐る恐る聞き返してきた。
俺が黙って瞬きをすると、彼女は更に言い募る。
「私だって、好きな人とこうやって、一緒に夜を過ごすのかなって思ったら、緊張くらいするから。どきどきして、どうしていいのかわからなくなるの。もう大人だから平気だろうって思ってたけど、そうでもなくて、自分でも意外なくらい……」
潤んだ郁子さんの瞳は、でも確かな光を湛えている。そこには瞳を覗く俺の影が映り込んでいて、すっかり囚われてしまっているようにも見えた。
好きな人、なんて。彼女から一番言われたいと思っていた言葉だ。こんな表情で語りかけられると頭がくらくらしてくる。
前は、そんなふうには言ってもらえなかった。彼氏だとも言われなかった。今はそうじゃないんだって、何だかしみじみ幸せだった。嬉しい。嬉しいのにどうして、胸の奥が痛むんだろう。
「でも、それでも、泰治くんと一緒にいたい」
縋るように訴えてくる彼女から目を逸らせない。
俺の答えはずっと前から、それこそ今日ではなく何日も前から決まっていたようなものだった。踏みとどまらせているのは理性ではなく、彼女を傷つけたくないという別の意味での恋心だ。俺は郁子さんを大切にしたい。
だから、もし、彼女が望むなら――彼女も望んでくれているなら。
「俺も郁子さんと一緒がいい」
胸の痛みに背を押されて、俺は答えた。
答えた時、彼女がほっとするのが表情から窺えた。張り詰めていた何かが解けて、彼女を安心させたようだった。
「好きなんだ、ずっと前から……今でも」
そう告げて、俺は彼女の赤みの強い唇に指先で触れてみた。そのままでも十分きれいだ。それに柔らかくて形もいい。指先で何度か押してみたらキスしたくなってきて、そのタイミングで彼女の方が先に目を閉じた。
唇にキスしたのはいつ以来だろう。とても久し振りのような気がする。
でも考えてみたら久し振りなんてことはなくて、俺たちはほんの数ヶ月前まではただの上司と部下だったんだ。こんな短い間に随分と悩んだりすれ違ったり苦しんだり、起伏の激しい恋をした。別に大した事件があったわけでも、大きな苦難を乗り越えた恋でもないっていうのに、まるで十代の子みたいに振り回されていた。
短いキスの後で、俺たちはほぼ同時に目を開ける。すると当然視線が真正面からぶつかって、郁子さんが照れ笑いを浮かべた。その笑いは直に俺にも伝染して、二人でもじもじする羽目になった。
「何か、恥ずかしいな……」
郁子さんが今更のように呟く。俺を上目遣いに見て、
「よ、よく考えたら。私、結構大胆なこと言ったのかなって……ね、泰治くんこそ平気? 私が変なこと言い出して、引いたりしなかった?」
「引かないよ。むしろ、嬉しかった」
慌てる郁子さんが可愛くて、俺は心から答える。
それから、彼女の細い肩に手を置いてみる。郁子さんは一瞬だけ身体を強張らせたものの、すぐに深呼吸して、自ら気持ちを落ち着かせたようだ。身体の震えも止まっていた。
「でも、ほら、怖くなったらいつでも止めるから。ちゃんと言ってよ」
俺の言葉を聞いた彼女は、今度はおかしそうに吹き出した。
「泰治くん。私、そこまでは子供じゃないよ」
今更大人ぶられても、何だかこっちがおかしい。
「ならいいけど。郁子さん、さっきまで相当緊張してたみたいだから」
からかうつもりで言ってみたら、郁子さんはむっとしたようだ。薔薇色の唇を尖らせたから、宥める為にもう一度キスしておく。
その後で、拳一つ分の距離を一気に縮めて、彼女をぎゅっと抱き締めた。
ベッドに倒れ込んだ時、金属製のパイプがぎし、と軋んで揺れた。
それが思ったよりも大きな音だったから、俺は押し倒した直後の彼女を見下ろし、彼女も俺を窺うように見上げてくる。
「このベッドって、二人で寝ても大丈夫?」
何となく心配になって俺は尋ねた。
郁子さんは瞬きをしてから、枕に頭を預けた姿勢のまま首を傾げる。
「ごめん、わからない。私、一人でしか寝たことないから」
「まあ、シングルだからって大人二人支えられないこともないだろうけど……」
そうでなくては大変困る。俺はひとまず郁子さんのベッドを信用することにして、彼女にも笑いかけておいた。
「郁子さんは細いから、一人と半分くらいの計算でもいいかもしれないな」
「実は、そうでもないんだよ」
神妙な声で郁子さんは言うが、実際彼女は小柄だし、とても細身の女性だった。手首なんか乱暴に掴んだら折れてしまいそうだから、優しく押さえておかなければいけない。
「そうでもないってどの辺が?」
俺は見下ろした彼女の身体に視線を走らせる。俺の身体の影にすっぽり収まるような彼女の全身は、服を着ている分にはどこも細くて、華奢に見えた。
「正直に言ったら泰治くん、『見てみたいから見せて』って言うんでしょう」
郁子さんが俺の影の中でこちらを睨んでくる。
どうしてわかったんだろう。俺は思わず苦笑した。
「言おうと思ってたよ。何でわかるの、郁子さん」
「そういうこと言いそうな人だなって、実は密かに思ってた」
何てことだ。郁子さんの中での俺は紳士的どころか、随分なむっつり野郎みたいにイメージされているようだった。それが事実とそうかけ離れていないのはさておき、郁子さんがそういうふうに俺を捉えていたのは少々残念だ。
「何だよ。俺のこと、真面目そうな上司だって思ってくれてたんだろ?」
拗ねたくなる気分で確かめると、郁子さんもわずかに頷いてみせる。
「思ってたよ。前はね」
仰向けに横たわる郁子さんは、前髪が浮いて白い額が露わになっている。きゅっと眉を顰めたのもはっきりわかった。
「でも真面目な人は、寝ている女の人に無断でキスしたりしないよね」
そして鋭い指摘をされてしまったから、俺はがっくり項垂れたくなる。
「それはその……返す言葉もございません」
「別に責めてるわけじゃないのに」
と言いつつ、郁子さんは愉快そうな顔をしていた。笑いを含んだ声で続ける。
「それに、あくまでもそういうこと言いそうって想像してただけだからね」
「もっといい想像してて欲しかったけどな、俺としては」
「じゃあ、本当の泰治くんが何て言うのか、これから教えて」
郁子さんが俺にねだってくる。
こちらを見上げる顔は楽しそうに、幸せそうに微笑んでいた。
俺は彼女に身体を重ねるようにして、でも体重をかけすぎないように両腕で自分を支えつつ、彼女の額にキスをする。それから赤くなっている頬と、それよりも更に赤々として見える唇にも。
唇にキスした時、少しだけ彼女が身体を震わせた。離れてから、細く弱々しい吐息と共に言われた。
「私、泰治くんのことをもっと知りたいと思ってたの……」
俺だってそうだ。郁子さんのこと、知りたいと思っていた。
彼女がどんな恋を望んでいるのか。彼女が俺にどうして欲しいのか。
郁子さんを大切にするって、一体どういうことなんだろう、って点についてもだ。
今夜はそれらが全て詳らかになって、理解できるのかもしれない。いや、わかったような気になってはみるものの、後からまた悩んだりあれこれ考えたりするのかもしれない。でもそれならそれで今夜から徐々に、少しずつ知っていけばいいんだろう。
恋がままならないものだって、もうとっくにわかっている。
そのいかんともしがたい感じも、俺たち二人で乗り越えていけばいい。
「俺も、郁子さんを知りたい。知らないところはないってくらいに」
言いながら、彼女の白くほっそりした首に唇で触れてみる。
彼女は身を竦め、呼吸を堪えるように唇を結んだ。しばらくしてからふっと解き、俺の首に腕を巻きつけてくる。セーターのさらりとした感触を肌に感じて、こっちがくすぐったくなる。
「泰治くん、知ったら、後悔しない?」
郁子さんが俺の耳元で、なぜか不安そうに聞いてきた。
「しないよ。何で?」
逆に聞き返すと、彼女は恥ずかしそうに語を継ぐ。
「私、男の人から見たら、あんまり魅力的じゃないかなって……胸とか、ないし」
そうかな。俺は、郁子さんの身体つきだって結構好きなんだけどな。胸は大きければいいってものでもない。それに郁子さんはまず脚がきれいだ。俺的にはそっちの方が肝要。何よりも郁子さんの顔立ちの、例えば瞼のなめらかさとか、唇の柔らかさとか、頬の赤さに惹かれてしまう。これから彼女はこの顔にどんな表情を浮かべるんだろうって、考えるだけでも頭がくらくらする。
――という内心を今ここで打ち明けると、郁子さんに後悔されそうだからやめておこう。
代わりに彼女の耳元へ、こう言っておく。
「見てみないことにはわかんないよ、郁子さん」
そうしたら彼女は恥ずかしがりながらも、言うと思った、と呟いて笑った。
当たり前のことかもしれないが、彼女の部屋のパイプベッドは予想以上に丈夫だった。
突如として底板が抜けて俺たちが床に叩きつけられた、なんていうこともなく、二人仲良く寄り添ったままで無事に朝を迎えた。シングルベッドで大人二人はさすがに狭かったが、楽しかったし幸せだったのでどうってこともない。
翌朝は郁子さんがお風呂を沸かしてくれて、二人でのんびり浸かったりもした。
「郁子さんのお化粧してない顔、そういえば初めて見たな」
バスタブに身を沈めながら彼女の顔を覗くと、郁子さんはうろたえたように立ち昇る湯気の中、視線を泳がせた。
「そんなに見なくていいから……。自信ないの、私」
「そうかな。あんまり変わらないよ、化粧してる時とさ」
俺がフォローするつもりで言えば、今度はおかしそうにころころ笑う。
「変わらなくはないと思うけど。でも、ありがとう」
実際、化粧をしていない郁子さんもすごくきれいだ。目元がいくぶん穏やかに見えて、でも頬の赤みは変わりなくほんのりしていて、唇は口紅を塗っていない時よりも更にきれいに見える。いつものピンクベージュの口紅もそりゃ似合う。だが俺は郁子さんの素の唇の色が、何だかすごく好きだった。
昨日の晩から今朝にかけて、俺は今まで知らなかった郁子さんを、随分たくさん教えてもらえたように思う。
「郁子さんのこと、いろいろ教えてもらっちゃったな」
それでつい呟くと、俺の膝の上に座る郁子さんが、首を捻って俺を見上げてきた。
「私だって、泰治くんのことたくさん知っちゃった。思ってた通りだったけど」
「思ってたって、どんなふうに?」
また、あんまりいいイメージじゃないふうに思われてたのかな。俺がこわごわ聞き返すと、郁子さんはそこでなぜか顔を伏せた。耳まで真っ赤にしながらぼそりと言った。
「えっと、優しい人だろうなって、思ってた通りで……」
それなら、普通に、さらりと言ってくれればいいのに。
わざわざ赤くなって言うから、彼女が何を考えていたのか、あるいは思い出していたのかがわかって、俺にまで赤面と狼狽が伝染してしまった。
「何言ってんの、郁子さん……!」
「ご、ごめんなさい。何か、思い出しちゃって……!」
しかもそこまで言っちゃうか。
浴槽にたゆたいながら二人、揃って撃沈されてしまった。
おかげで危うくのぼせるところだった。いや、ある意味既に茹蛸だった。
郁子さんはやっぱり、俺を殺しにかかってるんじゃないかな、なんて時々思う。
これは惚気です。あくまでも。