強請ってみせてよ(2)
せっかく彼女がきっかけを作ってくれたんだから、俺も急いだ方がいい。というわけで、その日のうちに彼女に声をかけた。仕事の後で呼び止めて、こっそり『家まで送るよ』と囁くと、彼女も察したようですぐに頷いてくれた。
人目を避けながら彼女を車に乗せ、会社の駐車場からさっさと走り出る。
どこで話をしようか、ハンドルを握る俺が考えていると、助手席からいち早く声がした。
「あの……本当に、ごめんなさい」
郁子さんが詫びてきたから、俺はこっそり苦笑した。
「運転中に話す? 落ち着いてからの方がよくないかな」
「あっ、ご、ごめんね」
そう指摘すると彼女は気まずそうにした。その声にはどことなく切羽詰まった雰囲気もあって、そうは言っても謝らずにはいられなかったのだろう、とも思う。
「ただ、改めて謝っておきたくて……」
たどたどしく彼女が続けた。
それで俺も、なるべく明るく応じておく。
「俺の方こそ。一昨日は言いすぎたよ」
「そんなことない」
即座に、郁子さんは俺の言葉を否定した。きっぱりと断じる口調だった。
「間違ってたのは、私。私の方だよ。泰治くんがああやって言ってくれて、よかった」
そう言うと彼女は俯いたようだ。視界の端にわずかに見えた。
車は明かりの点る夜道を走る。道路沿いに何本も立つ街灯の光が、走る車内に差し込んではまた通り過ぎていく。その光が彼女の横顔をどんな風に照らしているのか見られないのが残念だが、ちょっとだけ、まるで映画のワンシーンみたいだと思った。
喧嘩と呼べるほどでもない行き違いの後、お互いに罪悪感を抱きつつも、ほのかな光明を見出している。
夜だけど、車内の明かりは消えているけど、場面としてはちっとも暗くない。
「郁子さんが布巾を二枚、持ってきてくれてよかったよ」
今朝の出来事を思い出し、俺は運転しながら言った。
くすっと、エンジン音の合間に笑い声が聞こえた気がした。
「うん。私も、よかったって思う」
郁子さんは俺に同意を示した後で、
「だけどちょっと、幼かったかな。大人のすることじゃないよね、ああいうきっかけ作りって」
軽くぼやいてみせた。
そんなものだろうか、と俺は心の中で首を傾げる。俺だって一昨日、昨日と延々悩んで、大人になったって変わんないなと痛感させられたばかりだ。彼女の取った手段はむしろ普通の、大人だって十分するようなことじゃないかという気がする。
きっといくつになったって、恋の悩みは変わることなく尽きずにあり続けるんだろう。いくつになっても、悩まない楽しいだけの恋なんて、ありはしないんだろう。
「それでも私、どうしても、泰治くんと話さなきゃって思ったから……」
彼女が一つ、溜息をつく。それから顔を上げたようだったが、やはり運転中の俺はよく見ることができなかった。
「考えてみたの。あれからも」
郁子さんは多分、俺の横顔を見ているんだろう。頬の辺りに視線を感じていた。
「私、泰治くんと一緒にいるのが楽しかった。ずっと一人でいたのが嘘みたいに感じるくらい楽しくて、好きになってもらえてよかったって、何回も思った」
車を運転しているからというのもあるが、俺は何となく相槌が打てなかった。
彼女が喜んでくれたことはもちろん嬉しい。だがそれが今回の行き違いを引き起こしたのだから、酷な話だとも思う。
「だから私も、泰治くんの為に何かしてあげたかった。どうしたら泰治くんは喜んでくれるだろうって考えた。考える方向、大分間違っちゃったけどね」
自嘲気味に彼女は言い、恥ずかしそうに笑うのも聞こえた。
「本当に大切なことは、何かしてあげたいとか、喜んでもらいたいって思うこと、そのものなのに」
彼女の言う通りだ。
誰かに恋をした初めのうちは、自分本位な気持ちしかない。
一緒にいると楽しいからもっと一緒にいたいとか、傍にいて幸せな気分になりたいとか、そういうことばかり考える。
でも気持ちが進むにつれ、だんだんと相手のことまで考えるようになる。
どうせなら一緒に楽しくなりたいとか、幸せにしたいとか、もっと笑顔が、喜ぶ顔が見たいとか。
思えば俺が、映画館で彼女にキスをした時。
あの時の気持ちは本当に自分本位で、身勝手なものだった。俺は自分のことしか考えていなかったし、映画の途中で寝入った郁子さんに腹を立てていた。デートなのに、俺はあなたのことが好きなのにって、馬鹿みたいに単純にかっとなった。
今も、俺は郁子さんが好きだ。だがもう無断でキスしようなんて馬鹿な真似はしないし、俺と同じように彼女にも、俺といる時間に幸せを感じて欲しいと思っている。
一昨日の件はやはりかっとなったのもあるが、でも俺が彼女を大切にしたいと考えていること、彼女には何よりもまず俺を好きになって欲しいと願っていることは、伝わっているといい。
「久し振りだから、なんていうのは、言い訳にもならないだろうけど」
郁子さんは言う。
「でも私、そんな基本的なことすら忘れてたんだね」
呟くような声で、ぽつりと、寂しげに言う。
俺は彼女の言わんとしていることを察していたし、その気持ちを素直に嬉しいと感じていた。だが今は運転中で、これ以上何か彼女がいいことを言ってくれたとしても集中できないような気がしたし、運転の方に集中できなくなったらそちらの方が厄介だ。
だから、あえて話題を少しずらした。
「郁子さんのアパートの前に車停めていい?」
「いいよ。エンジン切ってれば大丈夫」
彼女は答えた後、恐る恐るといったふうに尋ねてきた。
「それとも、私の部屋に上がってく?」
「いや。今日はもう遅いから、車の中でいいよ」
お互い仕事の後でくたびれているし、部屋に上がれば彼女だってお茶くらいは入れますと言いそうだし、かえって気を遣わせる羽目になってしまうだろう。
それよりも大切なことだけ話し合って、明日以降、これから更に忙しくなる日々の為にわだかまりを残さないようにしたい。
もっと言えば、そんな日々の励みになるような何かを俺たちの間に見出したい。そんなことを思う。
彼女のアパートの前に車を停めると、俺はエンジンを切った。
それからシートベルトを手早く外す。
助手席を見れば郁子さんも既にシートベルトを外していて、身体ごとこちらへ向き直っていた。
ぱっと車内灯が消えると、車の中は夜らしい青みがかった薄闇に覆われる。その中で郁子さんの瞳は小さな光を浮かべたように潤み、揺れていた。
俺は運転席から両手を伸ばし、彼女の頬にそっと添えた。俺の手に包まれた彼女の頬は柔らかく、そしてほんのりと熱を持っていた。郁子さんは一度瞬きをしてから、少し真面目な顔つきで俺を見上げてくる。じっと、目を逸らさない。
「話したいことがあるの」
乾いた唇を動かして、郁子さんは俺に訴える。
知っていたから、俺は頷いた。
「何でも聞くよ、郁子さん」
すると彼女はいくらか安堵したように表情を緩めた。
目元もわずかに、間違い探しみたいにほんの少しだけ和らげた後、俺に向かってこう言った。
「私、あなたが好き」
彼女の言葉は、思いがけないほどシンプルだった。
正直、予測もついて期待もしていた俺が、すぐさま息を呑むほどに。
この言葉を俺は、どれほど夢に見たことだろう。想像だってしてみた、虚しくなってすぐやめたが、それでもいつか直に聞けたらいいと心から思っていた。
でも本当に聞いてみて、その言葉は想像していた以上に胸に響き、俺の呼吸を妨げた。心臓が高鳴り、嬉しいのと驚いたのでどんな顔をしていいのかわからなくなる。多分しばらくの間、自分のしたい顔なんてさせてもらえないことだろう。
「もっと、大人っぽく言えたらよかったんだけど」
郁子さんは照れ笑いを浮かべた後、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「それと。もっと早く、気づけたらよかったんだけど」
「き……気づいてくれただけで、嬉しいよ」
俺はここぞとばかりに余裕ある男の態度を示そうとしたが、声が上擦ってしまって逆効果だったことだろう。
でもそれを聞いて笑う郁子さんも、その笑い声は震えて、緊張しているみたいだった。
「簡単なことなのにね。その人の為に何かしてあげたい、喜ばせてあげたいって、好きな人に対して思うことだって皆知ってるのに。私、そんなことも見落として、あなたの前で年上ぶることに必死になってた」
思えば、彼女が始めて部屋に招いてくれた時、頬にキスさせてくれたのも、恐らく彼女なりの、『年上ぶった』譲歩だったのだろう。あの時、彼女はキスを望んでいたわけではないのかもしれなかった。
俺たちはお互い、初手から随分と間違いを犯してきたような気がする。大人になって恋が上手になるわけでもなく、しかし大人になったせいで頭が固くなってしまったんだろうか。こうしなければならない、こうでなければならないといった固定観念に囚われて、何だか遠回りをしてきたようにさえ思える。
「思えば私、泰治くんのこともよくわかってなかった」
郁子さんが省みるように肩を落とす。
「だから結局、先入観って言うのかな。私の知ってた、もう古い、かなり昔の記憶にあったような男の子たちのイメージであなたを見ていたのかもしれない。部屋に呼んだら喜んでもらえるとか、キスしたら喜んでくれる、みたいに」
その先入観は実のところ、そう間違ってもいない。俺だって郁子さんの部屋に招かれた時は嬉しかったし、キスさせてもらえた時はもっと嬉しかった。男なんていうのはやっぱりそんなもんだ。
ただ俺は、郁子さんが好きだから、郁子さんにも俺を好きになって欲しかった。
「でも、寝てる間にキスしましたとか言われたらさ。誰だってそういう男だと思うだろ。それは俺が悪いし、郁子さんだけの思い込みってこともないよ」
フォローするつもりで俺が最初の過ちについて触れると、郁子さんは目を細めた。
「どうしてあの時、キスしたの?」
「え、いや、どうしてって……」
予想外の質問に俺は言いよどんだ。今更答えにくい話題でもないが、聞かれるとも思っていなかった。
「俺はデートだと思ってたんだよ。脈ないってわかってたけど……でもそれにしたって、郁子さんがあっさり寝ちゃうからさ。何か、腹が立ったんだ」
身勝手な行動だったとわかっている。
そんなことをしたところで、彼女が手に入るわけでもなかった、ってことも。
だがどういう因果かどんなご縁か、あのキスを発端として俺たちは今こうして二人でいるし、お互いに好きだという非常にシンプルな想いも抱き合っている。つくづくどう転ぶかわからないものだ。
「そっか。ごめんね、あの時は」
郁子さんは小首を傾げて詫びると、でも、と慎重に続けた。
「でもね。あの時のキスがなかったら……正確には、キスしてくれたことを泰治くんが教えてくれなかったら、私は、あなたと楽しく過ごせなかったと思うな」
「そうかな。上司に誘われただけじゃ楽しめない?」
聞き返したら即刻頷かれた。そしてお互いに、ちょっと笑った。
「『後藤課長』は若くても仕事をちゃんとされてる、立派な方だけどね。プライベートで会うとなったら真面目そうだし、緊張しちゃいそうだなって、前は思ってた」
くしくも彼女は、俺が以前まで彼女に対して持っていた感想と同じものを、上司としての俺に対して見ていたらしい。お互いに真面目で話しにくいって思っていたわけだ。
「幻滅してない?」
一応聞いてみる。彼女は微笑みながら、また頷いた。
「私もね、知れば知るほど好きになってるの、あなたのこと」
それはとても嬉しくて、幸せな言葉だった。
俺は何だか胸がいっぱいになって、彼女の頬に添えていた手を使い、ゆっくりと彼女に上を向かせた。にわかに緊張した面持ちの郁子さんを安心させるべく、軽く笑いかけておく。
「俺も、郁子さんが好きだ。だから、郁子さんのことをもっと知りたい」
「……うん」
彼女が声だけで応じる。
「俺だって、郁子さんがどうしたら喜んでくれるのか知りたいんだ。そして俺にできることなら、何だって叶えたい」
これからはお互いが、相手を幸せにしていけばいい。いつぞやのキスも一昨日の喧嘩もよくあるような行き違いだったが、いつか笑って話せるような思い出にしてみせよう。あれがあったから、今の俺たちがあるんだって、反省しつつも思えるように。
「今度からはちゃんと教えてよ。郁子さんが俺にどうして欲しいのか。郁子さんが望んでないことを、俺は、するつもりなんてないから」
約束をしよう。
この恋はもう独りよがりの身勝手なものじゃない。二人で共有するものだ。
だから俺は郁子さんの意思を尊重するし、彼女を大切にする。郁子さんも、そういうふうに思ってくれるだけでいい。
「うん」
もう一度声だけで、でもはっきり聞こえる声で郁子さんは答えた。
その後で彼女はためらいがちに、
「じゃあ……あのね。一つお願いがあるんだけど」
「いいよ。言ってよ」
「こういうの、大人になっても言うのかな? 私、久し振りだからよくわからないんだけど……」
ねだるような口調で言ってきた。
「泰治くん。――私と、付き合ってくれる?」
俺の答えなんてもう、端から決まっていた。
「もちろん、いいよ」
いいよ、って言うのも妙かな。諸手を挙げて大歓迎! って本当は言いたいところだ。
「大人の恋愛でも、付き合うとか言うのかな。変じゃない?」
郁子さんは自分で言ったことに自信がないようだったけど、俺は笑い飛ばしておく。
「変じゃないよ。って言うかさ、大人だからって言っちゃ駄目なこともないと思うな」
「そう? あんまり子供っぽい物言いだと、場の空気が壊れちゃうかなって」
「そんなことないよ。むしろ嬉しかったよ、さっきの」
俺は郁子さんにだったら、どんな物言いをされたって嬉しい。仮にさっきの台詞が古式ゆかしい『第二ボタンください』だったとしても、俺はスーツの上着のボタンを二つ返事で献上していたことだろう。
込み上げてくる嬉しさと、こんな時に限って浮かんでくる馬鹿な妄想とで、俺はすっかりにやにやしていた。
顔を引き締める努力もさっさと放棄していた俺を、郁子さんはまだじっと見上げている。幻滅されないか心配だったが、彼女はふと、こう言った。
「それと……あともう一つ、お願いがあるんだけど」
「何? 何でも聞くよ、郁子さん」
すると彼女は睫毛を伏せ、押し殺したような息を一つつく。
そして次の瞬間、完全に目を閉じてしまってから言った。
「キスして欲しい、……かな」
こわごわとした、決してなめらかではない口調だった。閉じられた彼女のきれいな瞼から睫毛にかけてが震えているのも見えていた。夜闇の中で見る彼女のその顔立ちを、俺は感慨と不安を抱きながら眺める。
「本当に、いいの?」
俺が確かめると、郁子さんは目を閉じたままで微かに笑んだ。
「うん。でもやっぱり緊張するから、ほっぺたにして」
やっぱりそう来るか。
もっとも、今回ばかりは彼女から望まれてすることだ。お互いの総意あってのキスだ。
今までのどんなキスよりも特別で、最高で、幸せだった。
俺は彼女の頬から片手だけを外し、空いた柔らかい頬に唇で触れた。俺がずっと触れていたせいか、彼女の頬は温かくて、心地よかった。
わずか数秒のキスが終わって俺が顔を離すと、郁子さんはぱちっと目を開けた。
「ありがとう。……私も」
言うが早いか俺の肩に手を置いて、今度は彼女が、俺の頬にキスしてくれた。ほんの一瞬、感触すら掴み取れたかどうかという短さだったが、俺は噛み締めながらそれを受け取る。
その後、彼女は俺の首に両腕を回してしがみついてきた。
「また会ってくれる?」
耳元で尋ねられ、俺は彼女の背を抱き締め返しながら答える。
「当たり前だろ。時間見つけて、また誘うよ」
郁子さんはその答えを俺にしがみついたままで聞いていた。俺に顔を見せたくないのか、もしかしなくても彼女らしく照れていたのかもしれない。次の言葉はますます恥ずかしそうだった。
「できればずっと、離さないでくれると嬉しいな」
「離さないよ」
それも当然だ。俺は彼女の耳に唇を近づけ、聞き間違いのないようにそう告げた。
くすぐったそうに身じろぎをした郁子さんが、零れるような笑い声を立てた。
彼女が車を降りる頃には、車内の窓という窓が白く曇ってしまった。
だから俺は部屋に戻る彼女を見送るべく、彼女と共に一旦車を降りた。
郁子さんはアパートの階段を静かに上った後、俺に向かって大きく手を振ってきた。俺も車の脇から手を振り返し、彼女が部屋へ入っていくのを見守った。
夜分遅くとあってお互い声は出さなかったが、でも十分に彼女の気持ちは伝わってきた。
ドアが完全に閉まるまで何度手を振り合ったかわからない。誰かに見られたら年甲斐もないって言われそうだ。だがそういうのが、今の俺たちにはすごく楽しかった。