Tiny garden

うつろいゆくもの

 まるで夢のように、正月休みが終わってしまった。
 八日間の休みの間、俺はずっと彼女のことを考えて過ごしていた。旅先から届く彼女のメールを待ち、顔が見たいと画像をねだり、無事に帰ってきた彼女と約束をして会った。一緒に食事をし、その後で俺の車に乗ってもらって彼女の部屋へ初めて足を運んだ。
 彼女の方から、キスをしようと言われた。
 唇でもいいと思っていたけど、今日のところは頬にして欲しい、とも。
 喜びと落胆が入り混じった昨日の記憶はまだ鮮明だった。恐らく昨夜、星名さんの部屋を出て自分の部屋まで帰ってから夜明け近くまで眠れぬ時間を過ごした時、最も彼女について深く考えていたことだろう。可愛らしいものと旅の写真が並んだ彼女の部屋も、二人で並んで座ったソファーの軋む音も、彼女の赤くなった頬の柔らかさも、彼女の髪からほのかに感じたいい匂いも、全部五感に焼きつくように覚えていた。おかげで休み明け初日は寝不足のまま出勤することになってしまったが、仕方のないことだ。
 本当に、夢みたいだと思う。この八日間で星名さんに随分近づけた気がする。
 思い出す度に嬉しくて、幸せで、ついにやにやしたくなる。出勤日前日の眠れない夜なんていつもなら厄介以外の何物でもないのに、昨夜の俺はその焦燥感やいても立ってもいられない気持ちにすらしみじみ浸っていた。ほとんど寝つけないまま、夜が明けるのを待っていた。
 次の日になればまた、星名さんに会えるからだ。

 休み明け初日ともあって、俺はあえて早めに出勤した。
 だが早めに会社に着いたにもかかわらず、経理課には人が既にいた。
「……あ。おはようございます、課長」
 星名さんだった。
 まだ暖房が入ったばかりで暖まりきらない室内に、カーディガンを羽織り立っていた。やはり今朝も掃除をしようとしていたみたいで、水を汲んだバケツを提げている。俺と目が合うとそのバケツを床に置き、しっとり微笑みながらお辞儀をしてきた。
「おはようございます」
 こちらも挨拶を返す。昨日のことを引きずっているとは思われたくないから、なるべく普段通りに答えたつもりだった。
 ところが星名さんは、俺にちらっと目を向けてから気遣わしげに尋ねてきた。
「大丈夫ですか? 眠たそうな顔してますよ」
 顔を見ればわかることではあるだろうが、言及されるとどきっとする。
「ま……まあ、少しだけ。でも平気です」
 俺は取り繕うように笑みを返した。そして室内に入り、ドアを閉めた。
 彼女に会いたいと不純な動機を持って出社してきたというのに、いざ会うと妙にそわそわしてしまう。昨日の出来事が思いのほか自分の中で燻っているらしい。中高生じゃあるまいし、あの程度でどぎまぎするのも格好つかない。
 自分の席にまず鞄を置き、それから深呼吸を一つする。
 その後で彼女の方へ向き直ると、星名さんは真剣な顔で布巾を絞っていた。冷たそうに赤らんだ小さな手が力を込めるに従い、白い布巾からはぽたぽたと雫が落ちる。腕まくりをしているおかげで彼女の手首から肘までもが露わになっていて、柔らかそうだ、と場違いな感想を抱いた。
 こういうことを口走るとセクハラ扱いされそうだから断じて口にはしないが、女性が膝をついて布巾を絞る姿は可愛いと思う。家庭的に見えるところがいいのか、スカートに片膝立ちという姿勢の危うさがいいのか、それとも星名さんだからよく見えるのかは俺自身にもよくわからない。
 ただ、黙って見つめているのが本人にばれたようだ。星名さんはこちらを向かずに横顔で笑んだ。
「そんなに見ないでください、課長」
 咎めるような物言いではあったが、柔らかい声だった。
「すみません。つい、見たくなって」
 俺は一応詫びつつも、布巾を絞る星名さんからはなかなか目が離せなかった。仕事でこの人に迷惑はかけたくないから、始業後はそれはもう今まで以上に業務に励もうと思っている。なのでこうして見ていられるのも今のうち、三人目の誰かが出勤してくるまでだ。
「手伝いましょうか」
 じっと見ているだけというのも無様だし、何より彼女の手が冷たそうだから、俺はそう声をかけた。
 すると星名さんは、今度はこっちを向いて目を細める。
「いいんです。課長にそんなことはさせられません」
「でも、手真っ赤ですよ。水も冷たいでしょうし」
 そう口走ってからふと、こんなやり取りを去年もしたなと思い出す。
 彼女も同じように記憶を蘇らせたのだろう。小首を傾げて言われた。
「課長には前にも同じことを言っていただきましたね」
「そうでしたね。お湯を使うと手が荒れるからって伺ってました」
 クリスマス当日、俺が告白と言うか、半ば自爆した時の話だ。
 あの時俺は星名さんが一人で苦労を背負い込んでいるように見えて、つい苛立ってしまった。今はそこまでささくれ立った気持ちはないが、それでも手伝わせてくれたらいいのに、と思ってしまう。
「あいにく、布巾は一枚しか持ってきてなくて。お気遣いなく」
 星名さんは固く絞った布巾を軽く振ってみせた。でもその後、経理課の机を拭き始めながら独り言みたいに付け足す。
「だけどお気持ちは嬉しいです。課長は本当に優しい方ですね」
 別段、意味ありげに言われたわけじゃない。そういうふうに誉められたのも今回が初めてではないし、星名さんも何度目かの実感として呟いてくれたに過ぎないだろう。
 だが俺はその言葉に昨日の出来事をまんまと思い出してしまい、顔が熱くなるのを感じた。まだ暖まっていない経理課は妙に蒸し暑く、そっぽを向きながらコートを脱いだら星名さんにはくすくす笑われた。
 結局三人目が出勤してくるまで、顔の熱を引かせる努力に集中しなければならなくて、掃除を手伝うどころではなかった。

 休み明けの気だるい空気の中、こんな調子で新しい年の業務が始まった。
 全員が出勤してきた後で、星名さんは旅行のお土産を皆にも配っていた。お土産の品はあのカード型の匂い袋だった。それぞれ匂いは同じだが西陣織の模様が違うとのことで、女性陣が多い課内は一時、可愛い可愛いと模様を見せ合う華やかな空気に包まれた。やはりこういう品物は、女の子にとっては嬉しいものらしい。
「課長はもう貰ったんですか?」
 課の女の子の一人が、この場でお土産を渡されていない俺に気づき、そっと尋ねてきた。
 その質問が来ることは予想していたから、何気ない調子で答えておく。
「朝のうちにいただきました。ほら」
 そして名刺入れから薄い青色の匂い袋を取り出して見せると、皆はそれだけで納得し、特に追及されることもなかった。星名さんもその場では何も言ってこなかったが、後で皆の目を盗むようにこっそり笑いかけてくれた。
 やはり特別扱いは気分がいいものだ。俺は新しい年の始まりを気持ちよく迎えられていた。
 しかし休み明けというのもいいことばかりじゃない。
 と言うか休みが明けてしまってもいいことなんて、星名さんに関わる事柄の他にはさほどない。お土産で盛り上がっていられるのも朝のわずかな時間だけで、これからすぐに業務は始まる。一月のうちに新年会もやってしまわなければならないし、どこもそうだろうが経理課にとっては特に慌しい決算期もこれからやってくる。三月を境にどっと押し寄せてくる決算業務はまさしくデスマーチと呼んでも大げさではないし、通常の経理業務と平行しての決算作業なんて、想像すればしただけ気が滅入る。
 夜毎に星名さんのことを考えてにやにやしていられるのも今のうちだけで、そのうち迂闊にも眠れぬ夜を過ごそうものなら、寝不足で朝を迎えた自分を呪いたくなるほど激務の日々を迎えるのだ。

 だからというわけではないが、そろそろもう一歩踏み込んでみようと思う。
 俺の気持ちは星名さんに既に伝えてある。
 それなら次は、彼女の気持ちを聞いてみたい。
 別にまだ好きになってもらっていなくてもいい。頬にキスさせてくれただけでも十分だし、それが好意か彼女なりの歩み寄りかなんて、匙加減一つでいくらでもひっくり返しようがあるものだ。
 ただ、確証が欲しかった。
 もっと簡単に言えば、安心しておきたかった。彼女が俺との関係をもう少し前向きに考えてくれていること、今すぐではなくても将来的には関係を進展させてもいいと思ってくれていること、今は他の相手を探す気もないこと。この辺りを確かめておきたい。もし仮に彼女がそこまで思っていない場合は、そう思ってもらえるように話を進めたい。
 客観的に見れば俺は余裕のない男なのかもしれない。器の大きい男ってやつはこういう時、もうちょっと女の子を好きにさせておいて、きちんと振り向いてもらえるまでどっしり構えて待つべきなのかもしれない。
 だが俺の余裕のなさなんて初めから露呈していたし、この期に及んで取り繕ったところで誤魔化せるものでもないはずだった。星名さんも俺のそういう迂闊さはもうわかっているだろう。時々、まるで俺をからかうようなことを言ってくるから、そう思う。俺は彼女にからかわれるのも、面白がられるのも嫌ではなかったが、やられっぱなしで悔しい気持ちもあったし、何より曖昧な関係でいるのが嫌だった。
 人の気持ちは時間と共に移ろいゆくものだ。この命題を曖昧なままほったらかしにしておいて、何もせずに好転する可能性などなきに等しい。まして俺たちはこれから繁忙期を迎えるのだから、頭の中と毎日のスケジュールが仕事の慌しさで埋め尽くされる前に、吹けば消し飛びそうなはっきりしない関係を、はっきりさせておきたいと思うのも当然だろう。
 彼女の好意か歩み寄りか、あるいはもっと気まぐれかもしれない気持ちが、どこかへ移ろう前に。

 幸いにも、仕事始めの後も星名さんとはメールのやり取りが続いていた。
 メール自体はごく短く、退勤後に、
『本日もお疲れ様でした』
 とか、
『これから忙しくなりますからゆっくりお身体を休めてくださいね』
 とか、
『インフルエンザが流行ってきましたのでご用心なさってください』
 といった、心遣いはとても嬉しいが上司と部下の関係を逸しない内容のものが多かった。
 星名さんからそういうメールを貰う度、がっかりはしなかったが、もう一言何かあってもいいのになと思いながらいつも返信をしている。
 そうなると俺からもあんまり下心を匂わせたメールは送りにくくなる。
『星名さんこそお疲れ様です。この時期に体調を崩しては大変ですから、暖かくして休んでください』
 みたいな文面を送りつけた後、もっと何か書きようはなかったのかと一人煩悶する羽目になったりもした。俺だって星名さんにはもう少し言いたいことがある。たくさんある。だが向こうがこっちを真面目な上司だと思い、メールでもそうやって扱ってくる以上、あんまりふざけた内容は送れないのが厄介だった。
 そこで一月下旬、新年会をその週の金曜に控えたある晩、こちらから打って出ることにした。
『新年会の後、ご都合がよろしければ、また二人で飲み直しませんか?』
 鉄は熱いうちに打て。
 星名さんの気持ちが移ろう前に、俺は改めてメールでデートの誘いを持ちかけた。
 彼女からの返信は少し間を置いてから訪れた。
『私でよければご一緒します。新年会ではあまり飲まないよう、気をつけておきますね』
 いい返事が来たことに喜びつつ、俺は内心で呟く。
 別に、酔っ払うほど飲んでくれたって構わないのに。
 酔ってしまった星名さんも見てみたい。前回は見られなかったから、次はもう少し酔わせてみたい。好きな人に対してそんなふうに考えるのは当たり前のことだ。だから俺は素直に、そう思った。
 思ってから、新年会の後の約束を楽しみに待つことにした。  
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