8:どうにかしてよ!
公園傍のファミリーレストランへ、伊瀬とふたりでやってきた。びくびくする私とは対照的に、彼は顔を隠したり人目を忍んだりということは全くなかった。でも幸いにして、到着するまでに知り合いには出くわさずに済んだ。
窓側の席を陣取って、あの頃みたいに向かい合って座った。座り心地のいいソファーとテーブルに置かれたメニュー、天井で回るシーリングファンすらなつかしい。
あの頃と違うのは、他の友達が誰もいなくて、ふたりきりだってことだ。
「本っ当、何にも変わってねえな」
メニュー表を眺めて苦笑いする伊瀬を、私は複雑な思いで見つめていた。
いつから、なんてわからない。
ただあの頃から私は、伊瀬のことばかり見ていた。
だけどふたりだけで出かけることなんてなくて、こうして傍で見つめているだけだった。一度だけ手を繋いだこともあるけど、あれは友達といる時、たまたまふたりではぐれてしまったからだった。その時さえ、私は何も言えなかった。
高校時代から、この気持ちに踏ん切りがつかずにずっと引きずってきた。伝えるチャンスも覚悟もなく、そのまま放ったらかしにしていた。そろそろ整理してしまうべきなのかもしれないけど――。
「キク、何にする?」
私の感傷をよそに、伊瀬の関心は食べることばかりへと向いているようだった。さっさとメニューを開いて覗き込んでいる。
なんかこう、久々にここに来てなつかしいね、みたいな気持ちはないものなんだろうか。
内心で溜息をつきつつ答える。
「アイスコーヒー」
「だけかよ?」
「うん。食欲なんてないよ、こんな時に」
「だから、こういう時こそ食っとけって。体力持たねえぞ」
伊瀬は呆れた顔をしたけど、食欲のある人の方が絶対おかしいと思う。そういえば昔から本番に強い奴だった。
「オムライスは? 昔っから大好物だったろ」
あの頃と同じように、伊瀬がからかうように笑った。
「卒業式の後でもさ、他の子がみんなおいおい泣いてるのに、キクだけ平然とオムライス食ってたじゃん。うまいうまいってうなりながらさ」
「……覚えてないよ、四ヶ月も前だし」
そっぽを向いてはみたけど、本当は覚えてる。
あの時、本当は悔しかった。いっそみんなと一緒に泣けてたらよかったのに、って思って。
私はちっとも泣けなかった。泣くどころじゃなかった。伊瀬と離れてしまうタイムリミットが迫っていたから、絶対に想いを告げなきゃ、伝えなきゃって思って――でも結局、怖くて言えなかった。伊瀬の制服のボタンが欲しいって、言えなかった。
泣いてる他の子たちを伊瀬が笑顔で慰めていて、私はそれをオムライス食べながら見守っていた。あの時のオムライス、食べ慣れていたはずなのにどんな味かは覚えていない。
「俺、あん時思ったんだよな。キクの漢っぷりにゃ敵わねえってさ」
「そうですか」
にやにや笑いを横目でうかがいつつ、私は適当に返事をした。褒められたのかもしれないけど、喜べる気はしなかった。
伊瀬は私のことをどう思ってたんだろうな。
帰省して真っ先に会いに来てくれるくらいにはいい友達でいられたはずだ。ずっと会っていなかったのに『変わってない』と言われるくらいには覚えてくれてもいたんだろう。恋愛対象ではなかったにせよ、22になっても友達として扱ってくれることには感謝すべきなのかもしれない。
それを純粋にうれしいと思うには、もう少し時間が必要そうだ。
「そんなに怒んなよ」
笑う声がして視線を戻せば、伊瀬の愛想笑いが待っていた。
「悪かったよ、ちょっと言い過ぎた」
「そうだね。今日は誰の奢りなのか、忘れないで欲しいかな」
複雑な思いはできる限り抑え込んでしまうことにする。
平静を装うのは簡単じゃなかった。だけど伊瀬ひとりをごまかすことはできたみたいで、彼は笑いながら両手を合わせる。
「ごめんな、忘れてない。ちゃんと覚えてるよ、だから――」
「何?」
「オムライス大盛りで頼んでいい?」
上目づかいでそう言われた。
呆れるを通り越して度肝を抜かれた。
「え……そんなに食べる気?」
「だって俺、朝から食ってねえし……頼むよ、な?」
伊瀬は子犬みたいな目で懇願してくる。
別にそのくらいのお金は持ってきたし、困っているんだから奢るのは構わない。ただこの異常事態に置かれてもなおそれだけ食べられる神経の図太さに感服している。本当に伊瀬らしい。
どちらにせよ好きな人から上目づかいで頼まれたら私は弱い。
「いいよ、なんでも頼みなよ」
「あとフルーツパフェも頼んでいいか。キクにも半分やるから」
「……私はいいから、好きなだけどうぞ」
そんな食べっぷりを目の前で見ているだけで十分、お腹いっぱいになりそうだった。
注文を終えると、伊瀬は自分の財布からキャッシュカードを取り出した。
見慣れないデザインのカードには伊瀬が暮らす県名を冠した銀行の名前が記されている。未来のデザインなんて言うとまるでSFみたいだけど、事実そうなんだ。ちょっとどきどきする。
「ここの口座、作ったの一昨年なんだよな」
伊瀬は悔しそうにカードを見つめる。
「一昨年って言うと、2004年?」
「そ。だからやっぱ、金は下ろせねえよな……」
「無理でしょうね」
私は目の前の、ほぼ無一文の元クラスメイトを見つめた。
お金のことだけはいまだ学生の身分の私にだってどうにもできない。少しくらいなら貸してあげることもできるだろうけど、この先ずっと面倒を見るのは無理だ。かと言ってうちの両親に借金を申し込むにも理由がちゃんと説明できない。
何か解決策を考えないといけない。
でも、どうやって? それがわからない。
「どうにかしてよ」
ぼやくように私は言った。
伊瀬がなだめるようにへらへら笑う。
「わかってるって、俺だって一応考えてんの。このままだとキクに世話んなりっぱなしになるよな、とか。そうならないためにはまず、俺が未来に帰ること考えないとだろ」
表情はどうあれ言ってることはまともだ。
そりゃあ私だってわかってる。伊瀬に文句を言ったってどうしようもないことなんだって。
解決の糸口さえ見えない、摩訶不思議、奇想天外、想像を絶する事態なんだって。
昔から伊瀬は行動力があって、頼もしくて、すごくがんばり屋さんだった。ついには未来から過去へやってくることもできたくらいだ。その調子で今度は未来に帰ってくれたら――。
帰ったら、きっと伊瀬は幸せになれる。
「未来には彼女が待ってるんでしょ?」
だから私は、ごちゃごちゃ澱む複雑な気持ちを全部飲み込んでしまってから、言った。
「伊瀬は絶対に帰らなきゃだめ。待ってる人がいるんだから、あきらめないでがんばろうね」
私はあきらめてしまうけど、でも、伊瀬を応援する。
ようやく覚悟が決まった。
一方、伊瀬はそこで変な顔をした。私が何を言っているのかわからないとでもいうように眉をひそめてから、視線をテーブルに落とす。そこにはまだお冷のコップくらいしかないけど、そこに溜息をついてみせた。
「わかった、がんばっとく」
ずいぶんと気のない返事だ、と思った。
「う、うん……がんばろうね、お互い」
私は拍子抜けしていた。
昔の伊瀬なら空元気でも大声出して、『がんばろうな!』とでも言ってくれるところなのに。
そういう爽やかさはどこかへ忘れてきたように、伊瀬はぼんやりと窓の外を見ている。ミルクティー色の髪の隙間にピアスいくつも並べた耳が覗いていて、やっぱり変わっちゃったのかなって思う。
「なんとかなるだろ、そのうち」
いつになく投げやりに、伊瀬は言った。
なんとかしてみせるって言ってくれたらよかったのに――そう思うのは、私もこの事態に救いや支えが欲しいから、なのかもしれない。
どうして22歳の伊瀬がここにいるのか。
私たちは結局その答えがわからないままで、お互い途方に暮れているようだった。
こんな調子で本当に、帰る術なんて見つけられるんだろうか。私まで暗い気持ちになってきた時、お店の人がオムライスを運んでくるのが見えて、伊瀬がはっと振り向く。
「――来たな」
「反応早っ!」
「だって腹減ってんだってば、おーうまそう!」
テーブルの上に置かれた湯気立つオムライスを、伊瀬はとびきりの笑顔で迎えていた。
そんなにお腹空いてたんだ。さっきのやる気のなさもそれかな、私はなんだか脱力してしまった。