エバーアフター(1)
最近、渋澤課長の機嫌がいい。勤務中はいつも以上に愛想がよく、忙しい時でも余裕を感じさせる笑みを浮かべている。ふとした瞬間、鼻歌でも歌い出しかねないくらいの上機嫌ぶりだった。
きれいな人が朗らかな態度でいると、ひときわ人目を惹くようだ。繁忙期を抜け、一段落した職場の空気を明るくするのにも一役買っていた。
総務課の皆は課長の機嫌のよさを歓迎しつつ、訝しがってもいる。
声を潜め、
「課長、嬉しそうじゃない?」
「何かいいことでもあったのかな」
などと噂し合う女の子たちもいた。
私もこれといった心当たりは浮かばない。欠勤明けの今週は、皆に迷惑を掛けた分も取り戻すべく仕事に追われていたので、課長の態度に気づくのが遅れたのだ。
一方、渋澤課長は時々、皆の目を盗んで私に目配せを送ってくる。後で聞いてみたら特に用件があるというわけではなくて、単にそうしたいから、らしい。私も皆に悟られないようこっそり微笑み返しながら、課長の上機嫌の理由が気になって仕方がなくなる。
彼が楽しそうにしているのはもちろんいいことだ。だけどどうして楽しそうにしているのかは知りたい。何かいいことがあったんですか、って聞いてみたい。
もし叶うなら、彼にとってのいいことを一緒に共有してみたい。
――なんて言ったら、わがままだろうか。
「そりゃあ、君が戻ってきてくれたからな」
と、彼は私の疑問に答えた。
ハンドルを握る運転中の横顔も、勤務中と同様に上機嫌だった。仕事の後だというのに疲れた様子も見えない。
家まで送ってもらう帰り道。いつの間にやら当たり前になってしまったことに引け目を感じながらも、私は助手席に座っていた。今の返答は予想外で、思わずその横顔に尋ね返す。
「私……ですか?」
「そう。君がいるから仕事も楽しい」
瑞希さんが前を向いたままで顎を引いた。
「君のいない間は辛かったよ。たった二日間がやけに長く感じた。君が総務課にいて、いつでもその顔を見られるってことがどれほど重要だったか、痛感させられたな」
彼の言う通り、私は先週、怪我で欠勤してしまった。
今週はようやく復帰できてほっとしていたところだ。右手首の痛みはもうかなり引いていて、直に気にならなくなるだろう。
とはいえ二日間の欠勤は重大だ。特に繁忙期とあって、職場の皆にも迷惑をかけてしまった。
猛省しながら私は、運転席の彼へと告げた。
「その節は大変、ご迷惑をおかけしました」
「いいよ。お詫びならたっぷり聞いた」
瑞希さんは軽く笑うけど、これはいくら言っても十分ということはないと思う。
「でも業務にも支障がありましたよね? 瑞希さんにも辛い思いをさせてしまって……」
「僕の言う辛さは、君がいなくて寂しかったっていう意味だからな」
私の言葉を遮り、彼は言った。
対向車のライトが差し込む車内で、わずかに首を竦めるのが見えた。
「君のせいで何か迷惑を被ったとかそういうことじゃない。まあ、心配はしたけど。この上なく神経の磨り減る思いはしたけど、君が戻ってきてくれれば全て丸く収まる」
真っ直ぐフロントガラスを見つめる、瑞希さんの表情は穏やかだ。
怪我をしてしまった時は本当に心配してくれていたようで、それも申し訳なかった。だけどこれ以上詫びたら、更に呆れられてしまいそうだ。
「やっぱり、君がいると違うんだ。職場でも、こうして送って帰る車の中でも、視界の隅に君がいると嬉しい。幸せな気持ちになれる。むしろ僕は、君がいないと駄目なのかもしれない」
彼はそんな台詞を気負いもなくさらりと言えてしまう。
言われた私の方がくすぐったくなって、思わず目を伏せた。
「嬉しいですけど……ちょっと照れます」
「照れていいよ。口説いてるんだから」
またそういう物言いが様になる人だ。
私は嬉しいような幸せなような、だけど気恥ずかしいような思いでいっぱいだった。どう応えていいのか、いつものことだけど困ってしまう。
「でも皆も、不思議そうにしていましたよ」
おずおずと視線を窓の外へ向けつつ、私は少し話題を変えた。
「瑞希さんがどうして機嫌よくしているのか、何かいいことでもあったんじゃないかって、総務課全体で噂になっています」
「そうか、まずいな」
ちっともまずそうではない調子で瑞希さんが呟く。
「君のいるいないで態度が違うことに気づかれたら、そこから僕らの関係までばれてしまうかもしれない」
それから口笛でも吹くように明るく言い添えた。
「僕は、それでもいいけどな」
私はその言葉に答えられない。
いいのかどうか、自分ではまだ決めかねていたからだ。
前にも話し合った通り、このまま隠し通すということは不可能だろう。
皆にばれたらどうなるか、その時はどう答えるか、考えておかなければと思う。
瑞希さんには公表したいという気持ちさえあるようだったし、私の方でも瑞希さんとの関係を、皆の前でもちゃんと認めるつもりはある。でもはっきりと認めて、その後で――皆にも認めてもらうにはどうしたらいいだろう。美女と野獣の組み合わせでもおかしくないと思ってもらえるだろうか。難しそうだ。
あるいは、上手く隠し通していくのが一番いいのかもしれない。きっと恐ろしく気を遣っていかなくてはならないけど、本当は秘密のままにしているのが賢いやり方なのかもしれない。だってこのきれいな人に恋人がいるなんて、それも相手が私だなんて、誰も知りたくはないだろう。
だけどこの期に及んで、皆にこの関係を知られてしまうという懸念が、まだ私の中で現実味を帯びていない。どうにも考えがまとまりそうになかった。
「一海」
ふと瑞希さんの声がして、私は現実に引き戻される。
窓の外を流れる光、夜の町並み。音を絞ったカーラジオ。二人きりの静かな車の中で、彼はそっと話しかけてきた。
「少し、寄り道をしてもいいかな」
「え? 寄り道、ですか?」
私はその言葉を不思議に思う。
仕事帰りにお互いの部屋へ立ち寄ったこともあったから、今日も真っ直ぐ帰らなくたって構わない。だけど寄り道、と言うからには行き先も違うところだろう。お互いの部屋ではないところ――どこだろうか。
考えてみても心当たりはなく、私は問い返した。
「構いませんけど、どこへ行くんですか?」
すると瑞希さんは横顔で微笑んでみせた。
「そうだな、思い出の場所、ってところ」
程なくして私たちは、人気のない高台へと辿り着いた。
瑞希さんは特に説明もせず、そこで車を停めた。
室内灯が消えるとフロントガラスの向こうに、夜空と、一面の夜景が広がっていた。あちらこちらで瞬いている、星よりも強い光が眩しかった。
住み慣れた街の夜の景色は、前に来たときと同じように美しく、煌々としていた。
こうしてまた二人で眺めることができるなんて、あの頃はちっとも思えなかった。思い出の場所と言った瑞希さんの表現に、私は心から同調している。
ここは思い出の場所だった。
初めてのデートで連れてきて貰った場所だ。
エンジンを切った車内はとても静かで、二人揃ってしばらく黙り込んでいた。でも嫌な沈黙ではない。静寂さえも楽しめるような、穏やかな空気が流れているのがわかる。
ふと運転席に視線を向ければ、ドアに頬杖をつく瑞希さんもこちらを見ていた。表情はやはり機嫌がよさそうで、少し照れているようにも映った。
「懐かしいだろ?」
目が合うとそう尋ねられ、私はゆっくり頷く。
「はい。以前来た時のことを思い出しました」
「僕もだ。いろいろ、記憶が甦ってくるよ」
思いを巡らせるような間を置いて、瑞希さんは再び話し出す。
「あの頃は随分と余裕がなかった。不安だらけで、どうしたら君に振り向いてもらえるのかって、そんなことばかり考えてた」
落ち着いた声は空気に溶け込むように聞こえた。
「今は……不安も、あまりない。君が僕を見てくれていること、君の心が僕にあること、ちゃんとわかっているから。でも」
静かな空気の中、彼が微かに笑ったのがわかった。
「やっぱり僕は、欲張りなんだろうな。君が傍にいても、もっとたくさんのものが欲しくなる。君が持っているいろんなものを、僕も手に入れたくて堪らなくなる」
以前にも聞いた。瑞希さんが欲しがっているものは、私の過去だと言っていた。
だけどそれはどうしても手に入れようのないものでもある。
だから過去の代わりに、未来が欲しいのだとも言っていた。
不意に瑞希さんが身を起こした。
助手席の私へと近づいて、私がまだ締めたままだったシートベルトをするりと外す。それから私の背中に手を置いて、抱き寄せる。
「一海、お願いがあるんだ」
そう言って、私の手を取って、優しく握る。
彼の一連の動作を、私はぼんやりと受け止めていた。
「私にできることでしたら、何でも」
「君じゃなきゃできないことだ」
瑞希さんが私の耳元に囁く。
「今度の週末、指輪を買いに行くから、付き合ってくれ」
「指輪……ですか?」
縁のない単語を聞いて、思わず瞬きをする。
指輪なんてどうするんだろう。私はそういうものをする趣味はないから、瑞希さんがするつもりなんだろうか。
「そう。君に一番似合う指輪を買う」
どうやら私の指輪を買うつもり、みたいだ。アクセサリーなんて腕時計くらいしかしたことがないのに、どうしてそんなことを言い出したんだろう。そもそも誕生日でもないのにプレゼントしてもらう理由も見当たらず、何より唐突な提案に思えた。
指輪を、買う。
――ということは、まさか、もしかして。
ぼんやりしていた頭に、ふと予感が過ぎった。彼の欲しいものはなんだろう。私の未来が欲しいのだと言った彼が、そうして望むのはなんだろう。言われたその時にはよくわからなかった彼の言葉を、私は今になってようやく理解し始めていた。急速に、目が覚めるように。
戸惑う私の顔を、瑞希さんが覗き込んでくる。
至近距離の視線はいつものように優しくて、だけど緊張したように硬い声が、言った。
「結婚しよう、一海」
漠然と予感は抱いていたけど、さすがに、驚かされた。
とっさに声も出なくなり、慌てて一度、深呼吸をする。それから、それから――どうしようか。どうしたらいいのかよくわからない。何しろ初めてのことだった、当然ながら。
瑞希さんはじっと私を見つめている。すぐ近くで息を潜めるようにじっと、待ってくれている。私の心の内を覗き込もうとしているのか、形のいい瞳は瞬きもしない。
私は返答に窮していた。むしろ、自分の意思さえ見失っていた。何をすればいいのか、そのことすらわからない。
ただしきりに呼吸を繰り返しては、目の前にいる彼の、眼差しを受け止めるだけだった。
「驚いてる?」
やがて、瑞希さんが尋ねてきた。
私の反応が思ったものと違ったからだろう。浮かべた微笑がぎこちなくて、胸が痛んだ。
「……はい」
私の声はかすれた。頷こうとしても首が動かなかった。
「そうだろうな。びっくりした顔してる」
少し寂しそうに彼が語を継ぐ。
「僕ももう少し後にしようかと思ってた。君は僕よりも若いし、そういうことはまだ考えないだろ? 僕だってまだ切羽詰まる年齢でもないから、もう少し先の話かもなって、ちょっと前までは考えてた」
彼の視線が私の手に落ちた。緩い力で握られている左手の、指先に。
「でも、この間のことで気が変わった」
この間。
私が目で尋ねると、軽く笑われた。
「君が怪我をした時のこと」
あ、と思う。
「君の身に何かあっても、離れたところで心配してるだけしかできなかった。君が連絡をくれるまで、僕はといえば一人でやきもきしてるだけで、神経が磨り減ってどうにかなりそうだった。君から怪我の具合を聞いたら、もういてもたってもいられなくなった。なのに君と来たら、僕の助けは要らないって言うだろ」
それは、だって、瑞希さんも忙しい時期なのに呼びつけたりしたら悪いなと思ったから。
――そんな反論も声には出せず、私は彼の言葉の続きを聞いた。
「そういう心配も、一緒に住んでたらなくなる。君、ちょっと放任なところがあるからな、僕に対しては」
放任、でしょうか。また目で尋ねてみた。
瑞希さんはしっかり受け止めて、もう一度笑った。
「そうだよ。もっと頼ってほしいのに、いつも甘えてもくれない。君がしっかりしてるから、僕の方もちっとも甘えられないだろ」
ひょいと首を竦めた彼は、その後でまた優しく繰り返した。
「だから、結婚しよう。一緒にいられる時間をもっと増やそう。お互いに一緒にいるのが当たり前みたいになって、お互いのことをもっと頼れるようになりたい」
優しい言葉を、重ねてくれた。
「そしてお互いに、幸せになろう」
私はその全てを受け止めながら、だけどまだぼんやりとしていた。
夢見心地、というのかもしれない。こんなにぼうっとしていて、返事の一つもできていない。何と言っていいのか、やっぱりわからない。
初めてのことだ。そもそも、考えたことさえなかった。
結婚。私が人生のうちで、一度でも誰かと結婚するだなんてこと、考えもしなかった。
まず縁がないだろうと思った。アクセサリーやきれいな服や流行のコスメなんかより、ずっとずっと縁遠いもののはずだった。自分の身にそんな話が降って湧くとは思ってもみなかった。
それも、相手は瑞希さんだ。仕事も出来て、頼りがいもあって、優しくて、その上とてもきれいな人。皆が美女と称するような、素敵な人。私にとってももちろん、世界で一番大切な人だった。
「私で、いいんですか」
ようやく発せられた声は、意思よりも先にそう尋ねていた。
まだ実感が湧かない。
「君がいいんだ」
と、彼は言う。聞き間違いようのないはっきりした口調だった。
「――でも」
私は、強い不安に駆られる。
「重大なこと、ですよね」
「そうだろうな」
「一生を左右すること、です」
「僕もそう思うよ」
同意を貰っても、そこはかとなく認識の違いを感じた。
瑞希さんは本当に、私と、結婚する気でいるんだろうか。
「こういうことって、その、慎重に決めた方がいいと思います」
恐る恐る告げてみると、彼は困ったように笑う。
「一応、僕なりに熟慮したつもりだけどな。短絡的に見える?」
「いいえ、そういうわけじゃ……」
「子供じゃあるまいし、いい加減な付き合いはしたくない。君に対して真剣なんだってこともきちんと示したかった」
とても真摯な回答を得て、私の考えはますますまとまらなくなる。
私がどんな人間かは言うまでもなく、それでも瑞希さんは私を好きでいてくれた。
私のことを好きだと言ってくれた。そして遂には、結婚まで考えてくれていた。彼の好意を受け入れたい、彼の望むようにしてあげたい。
――でも。
本当に、彼の奥さんになる人は、私なんかでいいんだろうか。