ビューティアンドビースト
「芹生さん、君が好きだ」渋澤課長が、脈絡もなくそう告げてきた。
その声は夜のオフィスにしんと響いて、私は思わず眉を顰める。
「は……い?」
思わず尋ね返しつつ、まさかと思う。
終業後の総務課に私と課長と二人きり。急に告げられた謎の言葉。考えようによれば、もしかすると愛の告白的な状況なのかもしれない。
だけど正直、考えようもないことだった。
「君が、好きだ。胸が苦しくなるくらいに」
課長が繰り返す言葉は熱を帯び、表情も真剣だ。冗談らしき気配は見当たらない。
だけど私はすぐに飲み込めず、しばらくぽかんとしていた。
渋澤課長は二十七歳。
責任感が強く、仕事もできて真面目一徹な我が社の有望株だ。今日も仕事が残っていた私を快く手伝ってくれた、とても頼りになる上司だ。
だけどそれだけ。恋愛対象には考えられないし、今まで考えたこともなかった。
上司だからとか、年上だからとか、私が入社二年目の小娘だからとかそういう理由ではなくて、もっと違う意味で考えられない。
どう反応していいのかわからず、私はその真意を確かめることにした。
「どういうことでしょう、課長」
すると課長は私をじっと睨めつけるように見た。
「言葉通りに受け取って欲しい」
「はあ……ええと、あの」
「僕と付き合ってくれ。もちろん、恋人としてだ」
口調は仕事の時とは違い、男の人らしい力強さに満ちている。
そして表情も見慣れた『渋澤課長』の顔ではなく、熱に浮かされたような強い意思と欲求がありありと浮かんでいた。椅子に座った私と目線を合わせ、焼け焦げるような眼差しを注いでくる。
その真剣さに、私はむしろいたずらを疑い始めていた。どこかに隠しカメラが潜んでいて、壮大などっきりを仕掛けられているとか――そうじゃないなら、今の言葉が本気だとしたら、課長はどうかしている。
私はついさっき二人で仕上げたばかりの、机上の書類をまとめ始めた。その作業の合間に尋ねる。
「まさか、本気で仰ってるんですか?」
すかさず、課長の言葉が返る。
「もちろん、本気だ」
疑われるのは心外だと言わんばかりの口ぶりだった。
「嘘でしょう?」
「嘘じゃない。僕の目を見て、信じて欲しい」
そう言って課長は私の顔を覗き込んでくる。距離が詰まると射抜くような眼光が否応なしに視界に入り、とっさに逸らしたくなった。
確かに、渋澤課長がこんな嘘をつく人だとは思えない。私も上司としては彼のことを信頼し、尊敬してきた。部下を騙したり、からかったりするような人では断じてない。
だけど内容が内容だけに、簡単にも信じられなかった。
「一体、どういうつもりなんですか。私のことを好きだなんて」
私はまとめた書類を机の上に置くと、改めて課長を見上げた。
怖いくらい真剣な課長の顔がそこにある。
「おかしくはないだろ。君の目が好きだ。君の、仕事をする時の表情が好きだ」
語気を強めて訴えられれば、こちらはつい腰が引けてしまう。
「とどめは先日の、社内バレーボール大会だ。君のサーブを打つ姿に惚れてしまった。あれは本当にきれいで、素敵だった……」
「あの時の、ですか」
高校時代にはバレーボール部に所属していた。フォームがちゃんとしていることに掛けては自信がある。だけど何とも奇妙な理由だと思う。
「あの日からだ。ずっと君の姿が頭から離れなくて、どうしていいのかわからなかった。こうして告げる機会をずっと待っていた。ようやく言うことができたな」
と言って、彼は一度、視線を床に落とした。
「そりゃ、社内恋愛なんて言うのはおおっぴらにするものじゃないだろうし、僕が君を口説けば、まるで上司の横暴のように見えるだろうけど」
蛍光灯の白い光が溜まる床の上、課長は私の顔を覗き込んでいる。それでいて一定の距離を保ったまま、決して私に触れようとはしない。宙に浮いた手は何かを堪えるようにきつく握り締められていた。
「だけど――どうしても君が好きなんだ。打ち明けずにはいられないくらいに」
きっぱりと言い切った課長はどうやら、本当に本気らしい。真っ直ぐに私を見つめ、後は答えを待つように唇を結んだ。
二人きりのオフィスが水を打ったように静まり返る。
私の答えは既に決まっていた。
イエスと言えるはずがない。
だって相手が渋澤課長なら、そんなこと考えられやしない。申し訳ないけど釣り合わない。私と課長とでは不似合いにもほどがある。
「すみませんが、お断りします」
私もきっぱりとそう告げた。
直後に課長は目を見開き、私は畳みかけるように理由を述べる。
「課長、ご存知ですか? 課長と私は、社内の一部の方々から『総務課の美女と野獣』と呼ばれているんですよ」
「美女と……野獣?」
ゆっくりと反芻する課長の声に、深く頷いた。
「ええ、そうです。廊下を一緒に歩く時、あるいは他の部署を回る時など、よく噂されています。並んだ様子がまるで対照的な、美女と野獣のようだって」
それは陰口のように、時には憚りもせずに告げられる言葉だった。
皆が当たり前みたいに言っている。私の耳にも入ってくる。それらの言葉を無視することなどできなかった。
「つまり、僕と君とじゃ釣り合わないって?」
渋澤課長は気分を害したように眉を顰め、次いで吐き捨てた。
「どこの誰がそんなことを言ってるんだ」
「口にはしなくても、皆が同じように感じているんだと思います」
私はなるべく感情を乱さないように語を継ぐ。
誰もがそう思っている。私たちはまるで美女と野獣だから、恋人同士になったりしたらそれこそおかしいって。
少しの間、課長は不機嫌そうに黙り込んでいた。
思案に暮れている様子でもあったけど、やがて何かの結論が出たのだろう。険しい面を上げた。
「君は、人目が気になるのか」
「ええ」
私は即答した。
当たり前だ。有望株で評判もいい課長とは違い、入社二年目で学歴も誇れるほどではない私が、社内でしがみついていられるものはそう多くない。どうしても悪評の立たぬようひっそりと、目立たないようにしている他なかった。そうは言ってもこの容貌じゃ、どこへ行っても目立ってしまうけど。
「僕じゃ、駄目ってことなのか」
課長がもう一度、尋ねてくる。
その質問に答えるのは心苦しかった。
「……ごめんなさい、課長」
本当は、嫌いじゃない。
課長のことを恋愛対象として見たことはなかったけど、嫌いじゃなかった。
仕事熱心で、真面目で、部下にも優しい人だった。彼のことをむしろ好きにならないように、恋をしたりしないように肝に銘じていたくらいだ。
私たちは見た目が不釣合い過ぎる。課長は、私が好きになっていいような相手じゃない。だから断ってしまうけど、本当にこの人を傷つけるのは辛くて、仕方がなかった。
告げてから恐る恐る視線を上げると、課長は表情を辛そうに歪めていた。
「課長……」
呼びかけてはみたものの、それ以上の言葉が見つからない。
課長が溜息をつく。長く、重たい吐息だった。
「そうか。済まなかったな、急にこんなことを言って」
低く抑え込んだ声が言った時、胸の奥がずきりと痛んだ。
だけど私は何も言えずに、そっと唇を噛むだけだ。
「でも、嘘じゃないことだけは信じてくれ。君のことが本当に好きだ。たとえ君と僕とじゃ不釣合いでも、身の程知らずな恋だとしても、君のことが好きなんだ。それだけは、信じていて欲しい」
とつとつと課長が語る。
反射的に、私はかぶりを振っていた。
「いえ、駄目です。やっぱり信じられません。課長と私では不釣合いにもほどがあります。お願いですからそんなこと言わないでください」
すると課長は眉を逆立て、
「嘘じゃない! 僕は君にちっとも釣り合わない、不足だらけの男だ。それでも本当に――」
切羽詰まった様子で声を張り上げた。
その瞬間、私の胸に違和感が過ぎった。
課長は何かを誤解している。今の言葉から、そんな気がした。
それで私は慌てて彼の言葉を遮った。
「違います、課長」
彼が訝しげに口を閉ざし、瞬きをする。何事だというその表情、目を瞬かせる様子、仕種の一挙一動が全てにおいて絵になる人だった。
注視してくる瞳に対し、私はおずおずと告げる。
「課長、もしかして誤解されてはいませんか」
「……誤解?」
「ええ。不釣合いだと言うのは、課長に対して、私が、ということですよ」
不足だらけなのは、課長じゃない。私の方だ。
「何を……」
まだ課長が怪訝そうなので、私ははっきり言ってしまうことにした。
「もしかして、課長は、『美女と野獣』のどちらがご自分のことなのか、おわかりになっていないのでは」
「いや、わかるよ。僕が野獣だって言うんだろう?」
「違いますよ。『野獣』は私です」
自覚している。
悪い意味で目立つ容貌の私が、怖いくらいきれいな顔の課長に宣告した。
「そして『美女』はあなたのことです、課長」
美女と野獣。その形容は実に的を射ている。
渋澤課長はとてもきれいな人だった。その凛々しさ、整った姿は男性でありながら『美しい』としか言いようがない。
顔立ちの端整さはもちろんのこと、無造作に仕上げた髪の艶も、肌のなめらかさも、スーツを着た時の均整のとれた立ち姿も、凛とした姿勢の良さも、何かをする時の所作の一つ一つに至るまでが常にきれいで、整っていた。
だからこの人は『美女』なのだ。
そして私はその傍らで異彩を放つ『野獣』だった。
しばらくの間があった。
渋澤課長は私の言葉を噛み砕こうとしていたようだ。そしてややあってから、憤懣やる方ない様子で口を開いた。
「どこの誰だ、そんな失礼なことを言ったのは!」
「ですから、皆がそう思っているのであって――」
「皆じゃわからない。芹生さん、言いなさい!」
急に課長の口調に戻って怒鳴るものだから、こっちも首を竦めたくなる。
怒られようと、それが世間の評価というものだ。目つきの悪い女は決して好かれはしない。愛嬌のない冷たい顔立ちに微笑を浮かべてみたところで、そのぎこちなさを笑われるのがオチだった。私も自分の顔のきつさはよくよく知っているから、今更『野獣』呼ばわりされたところで腹を立てたりはしない。
「君のような愛らしい人を捕まえて、何て言い種なんだ」
課長は私の為に憤ってくれている。
だけど私は慣れていたから、首を竦めて反論した。
「でも、課長。私のあだ名は『猛獣注意』なんですよ」
「そんなことまで言われているのか。失礼なことを言う奴もいたものだ」
「平気です。慣れてます」
私は笑った。
課長は、笑わなかった。
代わりに、椅子に腰掛ける私の頬へ、ためらいがちに手を伸ばしてきた。
触れた指がひんやりしている。すべすべした、なめらかで心地よい手だ。
傍目にはどう見えるのだろう。野獣に手を伸ばし、頬を包んで、その目を覗き込もうとする美女の姿は。この上なくきれいな人が、この上なく醜い女を好きになるのは、他の人の目にはどういうふうに映るのだろう。
私には、やっぱり信じがたいこととしか映らない。
「君の目が好きだ」
身を屈めた課長が、吐息交じりの声で言う。
「いいんですか。野獣なのに、私」
こんなに目つきが悪いのに。この目を、課長は好きになってくれたんだろうか。
「好きなものは好きなんだ。君の顔も、君自身も全部」
「猛獣注意って呼ばれてるような女なのに」
課長の手は、私の言葉を咎めるようにそっと頬を撫でてくる。
「バレーボール大会の君も素敵だった。凛々しくて、真剣で。どうして君の魅力に、もっと早くから気づけなかったのかと思った」
あの時、他の人にはいろいろ言われた。
私の目つきが獲物を仕留めるようだとか、見かけの通り獰猛だとか、鬼気迫るものがあったとか――いろいろと。
それらの声も当たり前のように笑い飛ばしてきた私のことを、課長だけが違う見方をしてくれている。それは奇跡だろうか。それとも、まやかしだろうか。
きれいな顔が少しぎこちなく笑んで、
「人の目なんて気にしなくていい。誰よりも僕の言葉だけを信じて、どうか僕のものになってくれ」
彼は、改めて告げてきた。
私はほんの少しだけ迷った。
迷うと言うより、答えは端から出ているのに、浅ましい思いがそれを邪魔して、なかなか答えようとしてくれなかった。
でも、答えは一つしかない。
「ごめんなさい」
やっぱり、そう言うしかない。
「私では駄目です。課長には釣り合わなくて、不釣合い過ぎて、きっと一緒に笑いものになってしまいますから。社内の評判も落ちてしまいますよ。お互いに、いい影響なんてないと思います」
嫌いではなかった。課長のこと、好きにならないようにしようと繰り返し思うくらい、嫌いではなかった。だから、答えは一つだった。
「僕は気にしないのに」
課長は優しく言ってくれたけど、でも、
「じゃあ、呪いが解けたら、考えます」
「呪い?」
「そうです。野獣は呪いに掛けられて、まやかしの醜い姿になってしまったんです。もしかしたら奇跡が起きて、呪いが解けることがあった時、私の顔も少しはましになっているかもしれませんから。皆に悪く言われないくらいには」
そうでもしなければ釣り合わない。本当に呪いが解けるなんてあり得ないけど、起こり得ないだろうけど、気休めみたいにそう答えた。内心、信じてみたい気持ちもあった。
この人に似合うくらいの、釣り合うくらいの姿に生まれてきたかった。叶うべくもない願いだけど、少しは思ってみたりもする。そうしたら、この人を苦しめたり、傷つけたりすることもなかったのに――本当に叶えばいいのに。
「呪いだなんて、そんなこと……」
息をつくように課長は呟いた。
しかしその後で一転、端整な顔が光差すように輝いた。
改めてもう一度、私の目を覗き込んでくる。
「芹生さん」
「……はい」
「呪いを解く方法、わかったよ」
課長の言葉に、私は当然だけど呆気に取られた。
あるはずがない。
だってほとんど口実だった。呪いがどうこうなんて、本気で信じて貰うつもりもなかった。
解けるはずのない呪いのせいで、課長が私を諦めて、もっと釣り合いの取れるきれいな人を選んでくれたらと思っていた。
それなのに、課長は真剣な眼差しで、
「呪いを解くと言えば、王子様のキスじゃないか」
「な、何ですか、それ」
「僕が王子様なら、君の呪いを解けるはずだ」
「い……いえ、それってその、違う話だと思います」
私の抗議の声も聞かずに、ぐっと顔が近づいてくる。美女と呼ばれるくらいきれいな顔が、吐息がかかるほどの至近距離にある。
「違うって、何が?」
「ですから、課長のおっしゃってるのは『美女と野獣』の話じゃなくって……」
「いいんだよ。どうせ口実なんだ」
「え? あの、ちょっと――」
私の言葉は柔らかい唇と、その後に続く熱烈なキスに遮られた。
美女に迫られた末、野獣は強引に唇を奪われた。
おとぎ話なら普通は逆だ。美女にきつく抱き締められて、困惑したまま繰り返しキスを受ける野獣なんて聞いたことがない。変だ、おかしい、そう思っているのに、私は彼を押し退けられない。拒めない。
だけど彼は――何度キスしても一向に呪いの解けない野獣を見たら、美女であり王子様でもある渋澤課長はどうするのだろう。
この様子だと諦めずに、一晩中かけても呪いを解こうと試みそうで、私は困り果てている。