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センチメンタルジャーニー

 秋の半ば頃、就職が決まったので、春は堂崎に連絡を取った。
 関西の大学に通っている兄は我が事のように喜び、ひとしきり祝ってくれた後で言った。
『なら、お祝いにスーツでも買ってやるよ』
 当然ながら春は慌てた。兄とは言え同い年の双子だ、高価な贈り物をされるのは気が引ける。
 それにスーツなら、就職活動用として親から買ってもらったものがあった。
 そう告げてみたのだが、兄の方も譲らない。
『何着あっても困るものじゃないだろ』
 恐縮する春を最後には押し切った末、こう続けた。
『そういうわけだからお前、今度の連休こっち来い』
「そっちで買うの? 関西なんて修学旅行以来なんだけど」
『だったら観光ついでにちょうどいいな』
 堂崎は近年鳴りを潜めていた傲岸さで言い放つ。
 しかも約束をした数日後には新幹線のチケットを取り、ホテルの予約まで済ませて連絡をくれた。
 兄の強引さを笑いつつ、そこまでしてくれたのだからと春も気分よく出かけることにした。

 二人きりで会うのは久しぶりのことだった。
 もちろん会うだけなら、堂崎とは夏休みに顔を合わせている。
 高校を卒業した後、春は地元の大学に進み、堂崎は遠い関西で進学した。離れ離れにはなってしまったが、堂崎は長期休暇どころか連休の度に帰ってきた。
 そんな時は春も旧友を誘い、堂崎の帰郷を歓迎した。夏休みの間もそうやって何人かで会うことがあったから、離れてしまったという実感もないほどだった。
 ただ、二人で会う機会はほとんどなくなっていた。

 新幹線に乗り、春は一人で兄が暮らす街へと向かった。
 到着初日は手配されていたホテルに泊まり、堂崎とは翌日の朝に落ち合う約束をしていた。
 待ち合わせ場所はホテル一階にあるラウンジだ。淡い照明が灯る落ち着いた雰囲気の空間には、ビジネスマンと思しき姿が多く、二十代そこそこの春は少々浮いていた。席に着いてコーヒーを注文した後、まだ空っぽの向かいのソファーを黙って眺めた。
 高校時代、父と――実父と、こんなふうに会っていた頃の記憶が蘇る。
 喫茶店に呼ばれて、クラスメイトだった堂崎の学校での様子を尋ねられた。それが自分の役目だとはわかっていたが、血の繋がった父という人と二人で会うのは奇妙なものだった。出かけていく度に養父母が複雑そうにするのも胸に痛かった。

 あれから実の両親とは、堂崎の家を訪ねた時に何度か対面している。
 二人とも態度こそぎこちなかったが、春を『息子の友人』として迎えてくれた。それでいいと春自身も思っている。

 コーヒーが運ばれてきて、春がそれを一口飲んだところで堂崎が現れた。
「悪かったな、待たせた」
 彼はスーツを身に着けていた。
 高校時代から整った顔立ちをしていた兄は、二十歳を過ぎてすっかり立派な青年へと成長している。スーツ姿も既に社会人のようにしっくり馴染んでいて、春は密かに感心した。
「ううん、待ってないよ」
 春がかぶりを振ると、堂崎も微笑んでソファーに腰を下ろす。
 向かい合わせに座った彼はコーヒーを注文した後、早速尋ねてきた。
「ホテル、どうだった。気に入ったか?」
「うん。朝ご飯のビュッフェ、すごく美味しかったよ」
 春は心から感激した上で答えた。
 にもかかわらず、堂崎はそこで呆れたように苦笑する。
「まずそこかよ……。部屋は? いいとこだっただろ?」
「すごく広いお部屋だった。ベッドも大きかったし」
「エグゼクティブダブルだからな」
 堂崎は何でもないように言った。

 だが外泊と言えばそれこそ修学旅行くらいの春にとって、今回のホテル宿泊はカルチャーショックだらけだった。
 ホテルの高層階に位置するエグゼクティブフロアはもてなし一つとっても洗練され尽くされている。旅慣れない春が専用ラウンジでのチェックインに戸惑い、ベルマンに荷物を運ばれて戸惑っている間も、にこにこと笑顔で接してくれた。案内された客室は春の自室の三倍の広さがあり、足を踏み入れた瞬間は少しの後ろめたさも覚えたほどだ。
 それも兄の厚意と思えば無下にもできず、結局は心ゆくまで堪能したのだが――堂崎家の裕福さを改めて思い知った春だった。

「私一人じゃもったいないくらいだったな……」
 部屋の広さ、ダブルベッドの柔らかさを思い出して春が言うと、堂崎はおかしそうに笑う。
「だったら誰か連れてくればよかったじゃねえか」
「そういうわけにも、ちょっとね」
 ただの旅行なら、誰かを誘っていたかもしれない。
 だがこれは違う。

 高校時代にした決断以来、堂崎と春は血の繋がりを誰にも打ち明けないまま、よき友人として接してきた。
 その仲の良さを勘繰る者はいくらかいたが、双子だと見抜く者はいなかった。
 二人きりで会うことがなくなったのもその頃からだ。友人同士と名乗っていても、男女が二人で会えば余計な噂が立ちかねない。友達の温子が堂崎に好意を寄せていたこともあり、大勢で遊びに行く機会ばかりが増えていった。
 今回の旅はそれを覆す一人旅だ。
 堂崎は兄として春を呼び寄せたのだろうし、春も妹として、祝われる為にここへ来た。
 もしかしたら、兄妹として会える最後の機会かもしれない。そうも思っていた。

「就職先、地元なんだってな」
 運ばれてきコーヒーを飲みながら、堂崎は穏やかに尋ねてきた。
 彼はコーヒーに砂糖もミルクも入れない。春と同じだった。
「うん、離れたくなかったからね」
 春としても、養父母にはもっと親孝行がしたかった。
 高校時代の友人たちもほとんどが地元に残ることを決めていて、各々が適した就職先を見つけ始めている。
「堂崎も卒業したら帰ってくるんでしょ?」
「帰らないわけにもいかねえしな」
 彼は肩を竦めたが、嫌々というふうには見えなかった。
「家でやってる会社があるだろ。戻ったら経営に携わる予定だ」
「大変そう。でも堂崎なら大丈夫かな」
「ま、やるだけやってみる」
 頷く兄の顔は、すっかり大人の落ち着きを備えている。
 そして妹を見る目は昔と変わらず温かい。
「帰ってくるって言ったら、皆も絶対喜ぶよ」
「だろうな。吉川がうるさくなるのは想像つく」
「うん、きっと飛び跳ねて喜ぶと思うな」
 春はその様子を思い浮かべて少し笑った。
「それと温子たちもね。また会いたがってたし」
「あいつらか……会う度にうるせえよな、お前の友達」
 溜息こそつきつつ、気乗りがしないというわけではないようだ。
 友の恋を後押しする計画は未だに継続中だった。六年越しになるだろうか、春は微笑ましい思いで見守り続けている。

 もっとも春自身、初恋の記憶は未だに胸にしまわれていた。
 手放したことを後悔はしていないし、今は純粋に兄の幸せを願っている。あれから違う人を好きになったこともある。
 それでも時々は思い出すことだろう。
 たとえこの先、何年経っても。
 春が結婚することになっても、それからもずっと――。

「次のお祝いは、お前の結婚祝いだろうな」
 くしくも堂崎が、そんなことを言い出した。
 彼もまた過去と未来に思いを馳せていたのかもしれない。 
「そんな、気が早いよ」
 春は照れたが彼は構わず続ける。
「決まったらちゃんと知らせろよ。できる限り祝ってやる」
「今回十分お祝いしてもらったし、気持ちだけでいいったら」
「これはこれ、また別の話だろ」
 堂崎はきっぱりと言い放った。
「むしろこのくらいするもんなんだよ、普通は」
「だったら私も、堂崎が結婚する時にはお祝いしないとね」
 庶民の春にとって、彼と同じようなお祝いができるとは思えない。
 だがそれでも精一杯恩を返せたら、そして祝福ができたらと思う。
 大好きな兄の為に。

 コーヒーを飲み終えた後、二人はホテルを出て駅前のデパートに入った。
 そして春の為のスーツを見繕うことにした。
 堂崎は当初『オーダーメイドで』とさえ言っていたのだが、そこまでしてもらうのは申し訳ない上、仕立ての後に取りに来る手間もある。すぐ持ち帰れる既製品をとねだり、彼にもどうにか納得してもらった。それでも買ってもらったスーツは春が当初考えていた予算の倍であり、春は兄孝行の大変さも改めて思い知っていた。
「どうやって返そうかな……」
「そんなこと考えなくていい。お前はいてくれるだけでいいんだ」
 そう言って、兄は妹の頭に手を置く。
 仲睦まじい二人の姿に、婦人服売り場の店員が微笑んだ。
「仲がよろしいんですね。ご兄妹ですか?」
 何気ない世間話のつもりだったのだろうが――堂崎と春は思わず顔を見合わせた。
 それから、
「はい。双子なんです」
 堂崎の方が先に答えて、春に向かって笑いかける。
「やっぱり! よく似ていらっしゃいます」
 店員がそう続けたので、思わず春も笑って、頷いた。
「ありがとうございます、嬉しいです」

 旅先でできた、心に残る思い出の一つだった。
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