優しい嘘に呑まれないように(9)
堂崎の母親は大きな誤解をしている。彼女と彼女の双子の妹――春の養母とが実際にどんな姉妹だったかはわからない。堂崎家のきょうだいの宿命が二人にどれほどの影響を及ぼしたのかも計り知れない。もしかすると二人は、これまでの血塗られた歴史よりも幾分かはましな関係を築けたのかもしれないし、だからこそ堂崎の母親は、春と堂崎の関係をも前向きに捉えているのかもしれない。
だが、春の記憶に焼きついていたのは、つい先刻に見た兄の背中だった。
とても大切な問いかけに答えられなかった妹を、兄は置いていってしまった。突き放されたのか、単に逃げ出してしまったのか、どちらにしても夢で見たより呆気なく、追い縋る暇さえなかった。春は今になってようやく、切なく思っている。
「……仲良くなんかないです」
春は先の問いに、そう答えた。
「私たち、仲良くないです。きっと今までと同じです、この家に生まれたきょうだいたちと」
その回答は堂崎の母親を酷く驚かせたようだ。表情がたちまち凍りつき、それがぎこちない苦笑に変わるまではやや時間がかかった。問い返す言葉までにも大分間があった。
「そんなことないでしょう? あなたと新はお互いをとても大切にしていて、いつでも案じ合っているって、私は知っているわ」
大切なのは、確かだ。春にとっての堂崎は誰よりも大切な人だった。
でも違う。大切でも、いつも案じていても、春は最も重大な裏切りを犯している。
「いいえ」
どうしようもなく暗い声が出た。
「私、新さんには嘘をついてます。嘘をつかなかったら、こんな風には出会えなかったんです」
堂崎との再会はあくまで計画的なものだった。その話が持ちかけられなければ会いたいとさえ思わなかった。たとえどこかで偶然の出会いがあったとしても、かつての春なら兄を避けていたことだろう。
「新さんがこのことを知ったら、きっと酷く傷つくと思います。騙されてたのかって思うかもしれないし、私を嫌いになるかもしれません。憎むようにだって、なるかも」
可能性の話だとしても、想像するのは辛かった。嘘をついた自分が悪いのだとしてもだ――自分だけが悪いと思うのも、春には難しいことだった。嘘をつかせたのは誰か。つかなければいけなかったのは何のせいか。そこまで考えると頭がぐらぐらしてくる。訳がわからなくて、衝動的に叫び出したくなる。
私のせいじゃない、そう思いたかった。
でも一番悪いのは春だ。自分の意思で、兄を騙すことを引き受けたのだから。
「最初に堂崎さんから新さんについてのお願いをされた時から、こうしなきゃいけないんだって思うようにしてきました。私に許されたのは新さんと会うことだけで、本当のきょうだいみたいにはいられないんだって……二人きりでいる時は双子に戻れた気でいましたけど、その間でさえ私は新さんを騙してました。そんな私が新さんときょうだいらしく暮らすことなんて出来ないと思います」
感情を切り離した口調になった。春ではない誰かが台詞を読み上げているようだ。正しいのかどうかもわからない答えと、それでも揺るがしがたい事実とを。
「もう遅いんです」
深呼吸を一つ、
「今更、仲のいいきょうだいになんてなれないです」
静かに春が告げると、堂崎の母親はまるで深く傷ついたような顔をした。
「……そう。あなたはそんな風に思っていたのね」
もっとも、素の表情はすぐに繕われ、気まずげな苦笑に取って代わる。
「あの、そのことは、あなたには申し訳ないと思っているわ。私たちのせいであなたに辛い思いをさせて、嘘までつかせて、監視役みたいなこともさせているんですものね」
弁解しながらも堂崎の母親には、どこか場違いな明るさがあった。大した問題でもないと心の奥では捉えているような。春の気のせいかもしれないが、だとしてもこんな会話の最中でさえ笑おうとしている彼女が解せない。こんな時だからこそ、大人にはちゃんと聞いて、受け止めて欲しいのに。
「でも……きょうだいだって嘘くらいつくわ」
堂崎の母親は、春の内心を酌んではくれない。無邪気なまでの口調で言い切る。
「嘘も方便って言うでしょう。あなたのついた嘘は、結果としてあの子の為になるものだった。あなたの存在があの子を救ったのよ。だから引け目に思う必要なんてないし、それどころかあの子を立ち直らせようとしてるって、胸を張ってていいの」
嘘をつくことが正しいかどうか。春も全く幼いままではないから、そのくらいは考えられるし呑み込めるつもりでもいた。必要な嘘もある。誰かを欺いた結果、その相手をより傷つけずに済む場合だってあるだろう。
ただ、兄には嘘をつきたくなかった。それだけだ。
「正しいこと、なんでしょうか」
春が力なく呟くと、対照的にはきはきとした返事がある。
「ええ、そうよ。あなたはあの子の為に頑張ってくれた。あの子は少しずつだけど、まだ全てがよくなったわけではないけど、確かに変わった。それが答えじゃない」
嘘をついた代わりに、兄の為に何が出来ただろう。そう思って今日までを振り返ってみても具体的な事柄はあまり浮かんでこなかった。授業を抜け出す回数が減ったことや、課題を済ませる機会が増えたことくらい。兄の求めに応じて二人きりで会うことはあっても、それが兄をいい方向へ変えているのか定かではない。
一方で、春の方は堂崎からたくさんのものを貰った。手を繋いだ時の温かさ、抱き締められた時の安心感、それからいつでも繋がっていられる手段――あの携帯電話は、今はここにはないものの。
兄の愛情に見合うだけの行動を、嘘という罪を償って余りある努力を、果たして春はしてこれただろうか。
「私には、正しいとは思えません。少なくとも新さんは、私のことを許してくれないんじゃないかって思います」
「そんなこと……。あの子にとって、あなたは特別よ。そんな嘘も一緒に暮らせる幸せを知ったら、きっと笑い飛ばしてしまうはずよ」
堂崎の母親は断言した。楽観的な人なのか、あるいは相当自信があるのか。どちらにしても春はここでのやり取りに不毛さを覚え始めていた。この人には春の懸念や不安が理解出来ないのかもしれない。この人はあくまでも、堂崎と同じ立場の人だから。
離れてから初めてきょうだいらしくなれた。――彼女はさっき、そんなことを言っていた。
春と堂崎は、どんな風に出会っていたらきょうだいらしくなれていただろう。もし、高校生でなかったら。堂崎がもう少し大人で、気が短くなくて、春に答えを急かすようなふるまいをしない人だったら。春がずっと大人になって、嘘をつくことに罪悪感を持たず、むしろ兄の為にと無心に尽くせていたなら。この再会はもしかすると早すぎたのかもしれない。もう少し、遅くだったら――。
と、その時疑問が浮かんだ。そういえば春は知らない。こうやって自分と兄とをこのときに結びつけてしまった、そもそもの発端を。
なぜ、今だったのだろう。
着物の帯辺りで十指を組み、恐る恐るその疑問を口にする。
「新さんはどうして、私のことを知ったんですか?」
二人きりのはずの部屋が、ふと不自然に静まり返った。
「ずっと秘密にしていたって聞きました。私のこと……私が存在していること、新さんには隠していなきゃいけないんだって。なのにある時知ってしまって、それから荒れるようになったって。それはいつ、どんなきっかけでなんですか?」
いつの間にか雨は止んでいたらしく、畳に体重のかかる微かな音がした。
堂崎の母親の身体がわずかに揺れたような気もした。表情はまだ苦笑で塗り固めている。ただ紅を引いた唇は開かれなかったから、春は自ら語を継いだ。
「どうして秘密のままにしておかなかったんですか。出来なかったんですか?」
明かされないままの方がよかったはずだ。春の存在を知った堂崎にとって、何かいいことがあっただろうか。両親に裏切られたような気分になって、精一杯の反抗をして、学校でも腫れ物扱いを受けて、そしてようやくめぐりあった妹にはその場しのぎの嘘でいつも欺かれている。
この再会は正しかったのだろうか。十六の春にはわからない。
「新さんが私のことを知らなかったら、知らないままだったら、今のようにはならなかったんじゃないですか。私が、妹がいるって知ったから――」
「あなたのせいじゃないわ」
矢継ぎ早に問おうとしていた春を、やがて堂崎の母は制した。口元からはようやく偽物の笑みが消え、とても聞き覚えのある張り詰めた声でもう一度、
「あなたのせいじゃない。それは本当よ」
念を押してきた。
それだって春は到底呑み込みかねたが、更に尋ねられる空気ではないようだった。堂崎の母親はうってかわって硬い面持ちになり、緊張感溢れる口調で続けた。
「お願いだからそんな風には思わないで。あなたに嘘をつかせてる私たちが言うのもおかしいでしょうけど、新にはあなたが必要だったの。本当なの。だからあなたも、自分を責めたりしないで。これからもあの子の傍にいてあげて」
「でも……さっきみたいなことを聞かれたら、私、どう答えていいのか……」
「そのことは、私からあの子に言っておくから。もう問い詰めたりしないでって、だから大丈夫」
表情の硬さは例によって長く続かず、直に笑顔を取り戻した堂崎の母が、がらりと明るい声で言う。
「あなたたちはやっぱりとても仲のいい双子よ。この家で一緒に暮らすのだって、あなたたちならきっと平気よ」
欲しいのはそんな言葉ではなかった。疑問に対する答えだって貰えてないままだ。きっと答えては貰えないのだろう。
込み上げてくる何かの感情に春は唇を結び、それを間違った受け止め方をしたのだろう、やはり場違いな声が追いかけてくる。
「あなたたちの幸せの為なら私も、何だってするから。新は、あの子はせっかちなところがあるから答えを急いでいるようだけど、でもゆっくり考えてくれていいの。あなたたちがずっと一緒にいられる、一番いい方法をね」
違う。取り繕って欲しいわけじゃない。
教えて欲しいだけなのに。
きょうだいらしくいる、とはどういうことなのか。嘘をついているのは正しいのかもしれない、だが春が兄の願いと向き合えない限り、二人がきょうだいらしくいることは出来ないのだと思う。そして兄の思うきょうだいらしさとは、この家で二人で暮らすことだ。
兄は自分を見放してはいないだろうか。嘘つきの妹でも見放さずにいてくれるだろうか。そしてあの問いかけに、嘘をつくことを課せられた自分はどう答えるべきなのだろうか。どうしたらこれから、きょうだいらしくなれるだろう。あるいは、なるべきではないのか。
「今日は、もう帰る?」
黙考を制するようにそう聞かれ、春は迷う。
「あの。でも、新さんに黙ったままでは――私、話をしないと」
「さっきも言ったでしょう? あの子にはちゃんと説明をしておくから、大丈夫よ」
堂崎の母親は無邪気に笑いながらも、有無を言わさぬ調子だった。
その笑い方は兄の方が似ている。養母にはあまり似ていなかった。