優しい嘘に呑まれないように(1)
次の水曜日、春は堂崎の父親とあの喫茶店で会っていた。いつものように一番奥の、窓から離れた壁際の席に向かい合って座り、お互いに同じ日替わりブレンドを注文する。今日のコーヒーはやや酸味の強い味だった。
春は堂崎の父に掻い摘んで事情を打ち明けた。――今週の土曜日に堂崎と約束をしていること、堂崎家に来るよう言われたこと、その件についての返事はまだ保留にしてあるが、以来事あるごとに催促されていること。
一通り話し終えると堂崎の父は苦笑を浮かべて、まず呟いた。
「せっかちな奴だ」
そのぼやきに春が瞬きをすれば、軽く首を竦めてみせる。
「つい最近、稽古に本腰入れ始めたばかりだっていうのに、もう君に披露したいって言うんだろう。あいつは物事を性急に進めすぎるのがいけない」
「稽古に……ということは、茶道ですか」
「そうだ」
堂崎の父は呆れたような口ぶりだったが、表情はどこか優しかった。頷いてから続ける。
「私が口外したと知ればあいつは怒るだろうが、仕方ない。――君の為に一度、お茶を点てたいと考えているようだ」
「お茶を……」
春はその単語を反芻し、それからふと気づいて念を押す。
「新さんには秘密にします。堂崎さんが教えてくださったということ」
「ああ、頼むよ。私も知らないことになっているからな」
ほっとしたのか、堂崎の父の頬がそこで緩んだ。堪えきれないといった様子で吹き出して、
「しかし、つくづく困った息子だよ。いつもは生意気な口を利くくせに、君の話となると子供じみたふるまいしかしない。すぐに目に見える結果を求めようとするのが、あいつの一番悪いところだ」
しばらく喉で笑い続けた。
それでも春が反応に困ったのを察してか、じきに真面目な顔に戻る。
「……春さんからすれば笑い事でもないんだな。君を酷く悩ませてしまったようだ」
「すみません」
確かに悩まされている。図書室で会った日以来ずっと、兄に対してどう答えればいいのかを考え続けてきた。堂崎家へ行くことだけに限定して考えるなら、堂崎の父の意見に従えばいいだろう。だが、そろそろこの先についても考えなくてはならない。
兄は春が堂崎家に戻れると、戻そうと考えているからこそ、学校の授業にも茶道の稽古にも熱を入れ始めたのだろう。それが叶わないと知れるのはまずい。叶わないことをわかっていて、春が堂崎の更生を図ったのだと知れるのもまずい。春のついている嘘は、兄妹の絆を楔よりも無残に断ち切ることだろう。あの悪い夢のように。
八方塞がりだった。
息苦しさを覚えた春が溜息をつくと、堂崎の父は眉を顰めた。
「君は会う度に痩せているようだ」
「そう、でしょうか」
春は小首を傾げた。ここ最近で体重が落ちたということはないから、やつれて見えるということなのかもしれない。あるいは悩みが顔に浮かび上がっているのか。
「辛い思いばかりさせているな」
次にそう言われた時は、迷わずかぶりを振った。
「平気です。そんなに辛くはありません」
「その言葉はありがたいが、私が君に言わせているのかもしれない」
堂崎の父は肩を落とす。この人はいつも穏やかな面差しをしていて、感情を強く表すことがない。その分、告げられた内容が印象深く響いて、春を戸惑わせることがよくある。
きっと、『言わせている』のは事実だ。春に他の答え方が出来るはずもない。
「いいんです。私も、新さんといるのはとても楽しいですから」
春の回答に堂崎の父は、そうか、と表情を明るくした。春自身は今の発言をおりこうさんなだけの、可愛げのないもののように感じていたが、嘘をつかずに済んだのは救いだった。
その堂崎は春の答えを、今もひたすら待ち続けているはずだ。
「それで、十四日のことはどうしたら……」
「うん。そのことなんだが」
息継ぎの代わりに堂崎の父はコーヒーを飲む。
静かに啜ってから、息をつくように切り出してきた。
「春さん。君さえよければ、新の望むようにしてやってくれないか」
きょとんとした春は、思わず聞き返す。
「でも、そんな。いいんですか?」
「私の方は構わない。新にも無茶はさせないよう、あらかじめさりげなく釘を刺しておくつもりだ」
微かに笑んだ堂崎の父からは、重大な決断をしたというそぶりは全く垣間見られない。むしろそう難しいことでもないみたいに話すので、春は例によって戸惑う。
こんなに容易く許可が下りるとは思わなかった。てっきり、堂崎を懐柔し諦めさせる方向に話が動くと思っていたのに。
春もコーヒーを一口飲み、気を落ち着けてから語を継ぐ。
「私が堂崎さんのお宅にお邪魔すると、よくないことが起こると聞いていました」
次を続けるかどうかは少しためらったが、確かめておきたかったので結局、意を決した。
「子供が二人いてはいけないと聞いたんです。きょうだいがいたら、争いになるから」
春の台詞に、堂崎の父は皺に囲まれた目を瞠る。
「それは、……君のお父さんが?」
「はい。父が言いました」
「桂木さんならそう教えるだろうな。確かに間違ってはいない」
その時、寂しげな色が表情に滲んだ。ひとまず彼は否定せず、更に続ける。
「だが、私は君たちなら大丈夫だと思っている。新と春さん、君はとても仲がよく、今まで一度も喧嘩をしたことがない。君がうちにやってきたからと言って、よくないことが起きるとは私には思えない。どうだろうか」
どう、と言われても困ってしまう。春からすれば、桂木の父の教えは信憑性を疑う以前のところにある刷り込みのようなもので、事実であろうとなかろうと拭い去ることは出来そうになかった。
それに、春の深刻さと比べると、堂崎の父の物言いはまるで楽観的で迷いがない。何事もないことを信じきっているように見えるが、本当にそうなのだろうか。
春は黙り込む。
堂崎の父はやがてまごまごし始める。
「あ……君にしきたり通りの生き方を強いた私が言っても、説得力はないだろうな」
「いいえ、そういうわけでは」
即座に否定したものの、これも言わされているような気がした。
「だが、私も精一杯フォローに回ろう。君の身によくないことが起きないよう、出来る限り取り計らおう。だからどうか、今回だけは……」
白髪交じりの頭を深々と下げられ、春はいよいよ苦しんでいた。
堂崎と堂崎の父の為には、ここで頷くのがいい。あの家に行くと一言答えれば、両方を安堵させられる。とりわけ、待たせてしまっている兄をほっとさせられるのは、春にとってもうれしいことだった。
だが、あの家に行けば春の両親がどう思うか。たとえ『よくないこと』が何も起きずに、春が無事に帰ってきたとしても、決していい顔はしないだろう。
厳しくも温かかった桂木の両親は、春が堂崎と再会したのをきっかけに変わってしまった。春以上にあの二人が苦しんでいるはずだった。安堵させたいのは、両親に対しても同じだ。
春は誰の顔色を窺えばいいのだろう。大切な人の全てを救えないのだとしたら、何を優先すればいいのだろうか。
そして本当に、自分があの家に行っても、何も起こらないのだろうか。
「一つ、お願いがあります」
頭を捻った春は、条件を出すことで堂崎の父を救おうとした。
テーブルの向こう側、皺だらけの顔がにわかに明るくなる。
「何だろう。私に出来る事柄なら何でもしよう」
「うちの両親のことです」
春はそう前置きしてから畳みかけた。
「堂崎さんのお宅にお邪魔するのは……構いません。新さんが喜んでくれるなら、そうします。でもこの件を、うちの両親には知られたくないんです」
胸には両親の姿が過ぎる。堂崎が桂木家を訪ねてきた時も、春が堂崎と約束をして帰りが遅くなった日も、両親はあからさまに緊張していた。小さな家に張り巡らされるぴりぴりとした空気が苦痛だった。
もし堂崎家に行くと知ったら、二人がどう思うか、春は想像すらしたくない。
「知られないようにすること、出来ますか。それなら私は伺います」
提示された条件に、堂崎の父はやや難しい顔つきをする。
「出来なくはないだろうが……春さん、君は知っているな。桂木さんは私の家で働いている」
「はい」
もちろん知っている。春の父は堂崎家の使用人だ。堂崎の元を訪ねれば、場合によっては仕事中の父と顔を合わせることにもなりかねない。
「桂木さん、のお仕事が何かは、知っているのか?」
ぎこちなく問われ、春はすなおにかぶりを振った。
「いいえ。教えてもらったことはありません」
「なら、私も言わない方がいいだろう」
まだ難しい顔のまま、堂崎の父は腕組みをする。じきに溜息が零れて、唇には微笑が戻る。
「わかった、約束しよう。君がうちに来ることは、君のご両親には秘密にする」
「ありがとうございます」
今度は春が頭を下げた。
と同時に、あの家に行くのだという事実がじわじわと重く圧し掛かってきた。今の、この瞬間までは実感などまるで湧かなかったが、本当に行くことになるのだ。行かなければならない。そこへ行けば兄は喜んでくれるし、春もいつものように楽しい思いが出来るかもしれない。
ただし、よくないことが何も起きなければ、の話。
「やはり君には、辛い思いばかりさせている」
春が面を上げた時、堂崎の父は力なく言った。皺だらけの顔は温和だったが、諦めが混在しているようにも映る。
「せめて歓迎させて欲しい。君が何の憂いもなく、我が家を訪ねてこられるように……力を尽くすよ」
その時、春は目の前の人に兄の面影を探したが、どうしても見つからなかった。