この声は聞こえていますか?(1)
春は毎朝、七時十五分に家を出る。学校までは徒歩でおよそ三十分。電車通学には中途半端な距離だし、バスに乗るには大きな通りまで余分に歩かなくてはならないから、諦めて歩くことにしている。届け出さえすれば自転車で通うことも出来るのだが、学校が許してくれても心配性な春の両親は許してくれそうにない。
「今日は雨の予報が出てるわ。傘を持っていきなさい」
玄関で靴を履く春に、母親が折り畳み傘を差し出す。
「ありがとう、お母さん」
礼を言って傘を受け取り、カバンにしまう。それから面を上げれば、上がり框に立った母親はじっとこちらを見ていた。目が合った拍子に聞かれる。
「ねえ、春。今日は早く帰ってくるんでしょう? 雨が降るんですもの」
質問というよりは、懇願に近い口調だった。
春はわずかに視線を逸らして、今日――木曜日の予定に頭を巡らせる。昨日こそ習い事で忙しかった兄だが、今日なら電話も出来ると言っていた。兄は約束を守る人だ、放課後には間違いなく電話をかけてくるだろう。その時は必ず家の外にいなくてはならない。
「今日は、お友達と約束があって」
そう答えると、母が表情を曇らせた。
「でも雨が降るのよ」
「そんなに遅くなりません、ほんのちょっと寄り道をするだけです」
「……なら、いいけど。酷くなったら急いで帰ってくるようにね」
言葉とは裏腹に力なく告げられる。母は娘の寄り道を咎めることはあっても、どこで誰と会っているのかは詮索してこない。春のついた嘘もその度に看破しているのかもしれないが、問い質すことは一度としてなかった。許されているのだと、春は思いたかった。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
硬質の声を背に、春は敷居を越え外へ出る。
空は既にどんよりと曇っていて、天気予報は的中しそうだった。砂埃の舞う道を一人で歩く。コートを着込んできたから、朝のうちでもそんなに寒くない。
春の父親は、春が登校する頃にはもういない。いつも夜が明けてすぐの時分に、スーツを着込んで家を出て行く。父があの屋敷でどんな仕事をしているのかは教えてもらっていないが、どんな仕事であれ大変な勤めだと思う。他人の家に上がり込んで他人の身の回りの世話をするというのだから、その気苦労は想像を絶する。
父がどうして自分を預かることになったのかも、春は知らない。堂崎家の使用人は父一人ではないし、母もかつてはそこで働いていたと聞く。二人がどういう経緯で双子の片方を我が娘として育てるようになったのか、両親からも、堂崎の父からも特に説明はなかった。
ただ、慈しんで育ててくれたと思う。それだけに近頃の両親の態度が春には気がかりで、胸苦しくもあった。
そうして両親のことを考えるうち、いつの間にか堂崎のことに思考が置き換わってしまう。
兄の存在はいつも胸にある。自分と一緒にいない時、どんな風に過ごしているのか、時々考えてもみる。しかし使用人に囲まれた生活というのも、春には想像がつかない。血の繋がりのない他人が当たり前のように家の中にいたら、それが生まれた時からずっとだったら、どういう気持ちになるだろう。堂崎家の跡取りとして将来を嘱望され続ける人生は、一体どんなものだろう。
考えるうちに兄の顔がふと浮かんで、春は、手を繋ぎたくなった。
七時十五分に家を出ると、四十五分頃には道の向こうに校舎が見えてくる。
そして春が校門を潜るか潜らないかのうちに、校門前には黒塗りの乗用車が一台停まり、登校途中の生徒たちが揃ってどよめく。春も皆に倣って足を止め、人混みの中で振り返る。誰が来たのかはもうわかっていた。
ドアを自ら開けて、堂崎が車を降りる。
制服はきちんと着ており、短い髪も意外と整えられている。遠目に見ると普段の冷たさが中和され、代わりにとても大人びて映るから、温子が格好いいと言うのもわかると春は思う。実際、居合わせた生徒のうちの三割ほどは堂崎にきらきらした目を向けていた。
「行ってらっしゃいませ」
ほぼ同時に降りた運転手の一礼を顧みもせず、堂崎はカバンを小脇に抱えて校門を通り抜ける。周囲の視線も緊張も気にしないそぶりで、のろのろと昇降口へと向かう。車のドアが再び閉まる音や、走り去るエンジン音だって聞こえているはずなのに、まるで反応しない。
一瞬だけ、ちらりと視線を巡らせはした。
それも車を気にしたわけではなく、きっと自分を探してくれたのだと春は思う。毎朝、堂崎が車で乗りつける時間に合わせて登校しているから、こうして遭遇するのもいつものことだった。挨拶すら交わせないのは寂しいものの、こっちを見てくれるだけでもうれしかった。そうでなければわざわざ時間を合わせたりしない。
しかし人が多かったせいだろう、今日は目が合わなかった。堂崎はやがて視線を真正面に戻し、そのまま昇降口に消えた。校門周辺の空気は乾いた風に掻き混ぜられ、澱みがどこかへ溶けていく。動きを止めていた生徒たちもざわめきながら歩き始める。
春も押し流されるように、小さな一歩を踏み出した。
その時、
「――つくづく、漫画みたいな奴だよね」
すぐ傍で友人の声がして、思わず息を呑む。
気がつけば真横にはすらりとした影が、美和が立っていて、驚く春をよそに堂崎の消えた方向へ厳しい目を送っていた。
彼女がいつから隣にいたのか、春はさっぱり知らなかった。兄に気を取られていたせいだろう。
「お、おはよう、美和」
誤魔化すように挨拶をすると、彼女はやっと春を見て、愛想よく笑んだ。
「おはよ、春。……しかし朝一であいつに出くわすとは思わなかった」
「堂崎のこと?」
「他にいないでしょ? 噂には聞いてたけど、本当に車で通ってんだ」
美和の物言いはいつでも堂崎に対して厳しい。もっともそのシニカルさは、堂崎一人というよりもこの名門校そのものへの不満や疑問と見る方が自然なのかもしれない。春と同じく外様の美和は、ご子息ご令嬢の集う名門校においてはあくまでマイノリティだ。
そもそも車で通学しているのも堂崎だけではなく、昨今の物騒さを反映してか校門まで乗りつける車は日ごと増加傾向にある。学校側もそういった流れをほぼ容認していて、自転車通学よりもよほどハードルが低いとさえ言われている。それでも車が停まるだけで周囲の足を止め、良かれ悪しかれ注目を集めるのは堂崎くらいのものだろう。
「運転手さんつきで登校なんて、絵に描いたようなお坊ちゃんじゃない。さっきの見た? 行ってらっしゃいませ、とか言われちゃっててさ。偉そうに返事もしないでさ」
鼻の頭に皺を寄せる美和を、春は何とも言えぬ思いで見つめる。答える声も自然と沈む。
「そうだね。他の車で通ってる子は、お父さんお母さんの運転でってこと、多いもんね」
堂崎の父は自分で車を運転するのに、堂崎を学校まで送らないのだろうか。もっとも、堂崎の方が父親の送迎を拒んでいる可能性も考えられるが――何にせよ、皆の関心を引いてしまうのもやむを得まい。
「だよねえ、あいつの家どうなってんだろうね。運転手さんがいるってことは、他にも何かいるんだろうけど」
「いるだろうね。お手伝いさんとか」
「うんうん、あとほら、執事とかもいたりして?」
美和は冗談半分で口にしたようだが、堂崎の家には執事がいる。お手伝いさんもいる。春はそのことを知っているので上手く笑えず、話題をわずかに逸らしておく。
「執事さんがいるとしたら、やっぱりおじいさんなのかな」
「じゃないの? 現実には若くていい男の執事なんてそういないでしょ」
「でも、夢は欲しいよね」
「春も女の子だねえ。ま、私も格好いい執事なら見てみたいと思うけど」
そこまで言うと美和は首を竦め、ぼやく。
「どっちにしたって、私らには縁のない世界の話だけどね」
その通りだ、と春は胸のうちでだけ同意した。
執事だのお手伝いさんだの運転手だのに囲まれる生活を、堂崎はごく当たり前のように送っている。そこには春の父親もいて、どういう勤めにせよ堂崎家の為に働いているのだ。身近なようで、繋がっているようで、実際には何も知らない、見たこともない世界。そこには兄だけが存在を許されていて、自分の居場所はない。
「うちも普通のリーマンじゃなくて、もうちょいお金持ちの家だったらなあ。一度でいいから絵に描いたようなお嬢様生活、してみたいよ」
一緒に昇降口へと向かいながら、美和はまだ堂崎の話を引きずっている。
春はやんわり笑って応じる。
「私は普通でいいけどな」
「えー、そう?」
「うん。家に人がいっぱいいたら、私なら息が詰まっちゃうと思う」
正直に、兄の日々に思いを馳せながら答える。
すると美和も、ちょっと考えてから、
「それもそっか。格好いい執事なんて傍にいたら、あくび一つ出来ないもんね」
いかにも腑に落ちたように口元を綻ばせた。