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夏が終わる頃

 上野は、夏が嫌いだと言う。
「暑いしだるいし汗掻くし。日焼けするのも嫌」
 俺が見た感じ、嫌いってだけじゃなさそうだ。炎天下では萎れた花みたいに元気がなくなるし、外を歩くだけですごく辛そうにする。きれいな髪を汗で湿らせ、ふうふう息を弾ませながら歩く上野を見ていると、やっぱ犬っぽいよななんて場違いなことを考えたりする。
 そんなわけで夏休みの間も、上野はあまり外に出たがらなかった。二人で会わなかったわけじゃなくて何度か俺の家に遊びに来たし、俺がウェンディの散歩のついでに上野の家まで押しかけたこともある。一度だけ、夜に電話をしたら上野がコンビニにいるって言って、慌てて会いに行ったこともあった。だから会い足りないなんてことはない。
 でも振り返ると、俺達は夏っぽいことをしてないんじゃないかって気がついた。
 ちょうど宿題もすっきり片づき、夏休みもあと二日で終わろうとしていた。最後に何か夏っぽいことしたくなって、俺は上野を誘った。
 夏っぽいことと言えば、ぱっと思い浮かぶのは水泳か花火だ。
 どっちがいいか聞いてみたら、上野は花火がいいと言った。
「夜だし、日差しないし、日焼けしないから」
 それで俺は有り金はたいて手持ち花火を買い込んだ。それをリュックに詰めて、終わった花火を突っ込む用のバケツを自転車に括りつけて、もちろんライターも忘れずに持って、同じく自転車の上野と落ち合った。
 時刻は日も沈んだ午後七時過ぎ。
 行き先は、海水浴客がいなくなった海だ。

 三十分近く自転車を漕いで辿り着いた海は、静かだった。
 砂浜には誰もいない。真っ暗な海を背景に、波が打ち寄せる音だけが響いている。三軒並んで建ってる海の家も明かりが消えていて、中には人がいないようだった。
「夜の海って寂しいね」
 上野が肩で息をしながら呟く。
「その分、二人きりだけどな」
「まあね、まるで貸し切り状態だよ」
「ここまで走ってきた甲斐あったな」
 八月なんて日が落ちても涼しいはずがなく、ここまで自転車を飛ばしてきたせいで俺も上野もすっかり汗を掻いていた。上野の波打つ髪は汗でしっとり湿っていて、頬は夜でもわかるくらい赤いし、呼吸だって乱れてる。そういう上野は犬っぽくて、でも犬じゃないからどきっとする。
「結構、遠かったけどね」
 上野は髪を鬱陶しがってか、一旦解くと少し高めに結び直した。
「ポニテの上野も可愛いな」
 俺が誉めると、戸惑ったように瞬きをする。
「な、なんで急に誉めるの」
「可愛いからだよ。俺はポニテの上野も好きだ」
「力説されても困るんだけど……」
 目を逸らされた。それはそれで、照れてる感じが可愛かった。
 俺達はがらんとした駐車場に自転車を停め、砂浜へ下りるとまずバケツに水を汲んだ。それから花火セットに付属していたロウソクに火をつける。持ってきたライターが役に立つ。
「鈴木、ライターなんて持ってるの?」
 俺の手の中にあるオイルライターを見て、上野は訝しそうにする。
「持ってる」
「なんで持ってるの、まさか」
「いや違うから。従兄に貰ったんだよ、昔」
「ふうん……」
 俺を見る上野の目は疑わしげだった。
 実際、高校生が何の理由もなしに一個五千円はするような金属製のオイルライターを持ってるなんておかしいのかもしれない。だけど現実には、何の理由もなしに『格好いいから』って理由だけでライターを持ってる男なんて山ほどいる。神に誓って俺は煙草なんて吸ったことない。ウェンディがいるなら尚更だ。
 このライターは元々は従兄が持ち歩いてたやつで、煙草に火をつける度にその蓋がいい音を響かせてるのが格好よくて、俺も兄ちゃんと同じものが欲しいって欲しいと親にねだった。もちろん親がいいと言うはずはない。だけど従兄は『そんなに欲しいなら、高校受かったら進学祝いに一つやる』と言って、俺が高校生になった時には本当に一つ譲ってくれた。
 昔から一目惚れしやすいって言うか、気に入ったものは欲しくてしょうがなくなる性分だった。
 ウェンディもそうだし、上野もそうだ。
「ライターで火、つけれる?」
 上野の問いに俺は即答した。
「もちろん」
 使ったことはないけど、従兄の真似をして格好よく火をつける練習はした。いざって時の為の練習が今日初めて役立った。
 きん、と理想通りの音が響いてライターの蓋が開き、俺はロウソクに火をつける。温い潮風に揺られて、オレンジ色の炎はロウソクの芯を舐めるように炙る。やがてロウソクに火が灯ると、上野はずっと止めていたらしい息を火にかからないよう吐き出した。
「風強くない? 火消えちゃわないかな」
 心配そうな顔が、柔らかいオレンジ色の炎に照らされている。
「消えたらまたつけりゃいいって」
 俺はそう言うと、買ってきた手持ち花火を早速手に取った。
 考えてみれば花火をするのも久し振りだった。昔はよく家の庭で手持ち花火をやったけど、さすがにこの歳にもなると小うるさい親の監視下で花火なんてやってられない。かと言って友達とやるには場所がない。公園なんかでやったらすぐに苦情が来る。こうして海まで来ればその心配もないけど、自転車で三十分の道程を走ってまで花火がしたい奴なんてそうそういないだろう。
 でも上野はそれに付き合ってくれた。
「花火って、なんで夏のものなんだろうね」
 細い手でほっそい筒の先に火をつける、上野の腰は引けている。火が怖いなんてますます犬みたいだと思う。
 やがて花火の先端に火がついて、しゅうっと音を立てながら光と火花が吹き出すと、上野は砂に足を取られないようにロウソクから離れた。次は俺の番。
「冬だと寒いからだろ、外でやるの」
 俺は両手に花火を持って、両方の先端に火をつける。ロウソクの火は小さくて、二本同時じゃなかなか点火してくれない。
「寒いから? それだけ?」
「わかんないけど多分。寒いと火つけにくいとか」
「冬の方が空気が澄んでて、きれいに見える気もするけど」
 上野は不思議そうに首を捻りながら、自分が持った筒の先端から迸る光を見つめている。手持ち花火の光は白く明るく、上野の表情を浮かび上がらせるように照らしていた。あまり日焼けしていない上野の肌が、今は一際白く、透き通って見えた。顔だけじゃなく、Tシャツの袖から覗く二の腕も、ショートパンツをはいた脚も白かった。
 しばらくその姿に見入っていたら、俺の手元でも花火がしゅうしゅう言い始めた。俺はロウソクから離れ、両手に持った花火をでたらめに振り回す。
「上野、絵描くから何描いたか当てて」
「え!? ちょっと難易度高いんですけど!」
「これ、なーんだ!」
「だからわかんないってば!」
 俺が花火で宙に描いた犬の絵を、上野は五秒も見ずに切り捨てた。そのくせすぐに声を上げて笑い出す。
「花火ってそうやって遊ぶもんじゃないよ」
「じゃあどうやって遊ぶんだよ」
「普通に光るのを見て楽しむんじゃない?」
「そんだけじゃ地味だろ、せっかくの花火なんだしさ」
 って言っても所詮は安物の手持ち花火、打ち上げ花火なんかに比べたら全然しょぼい。だからますます見てるだけじゃつまんないだろって思う。
 だけど、上野は黙々と花火をする。
「ほら、普通にしててもきれいでしょ」
 一本一本、花火に火をつけてはそこから放たれる光と火花をじっくり眺める。俺みたいに何本もまとめて火をつけたりしないし、振り回したり、走り回ったりもしない。じっと眩しい光を眺める顔はうっすら微笑んでいて、楽しそうで、幸せそうだった。
 上野が花火をとても大切にしているように見えたから、俺もそこからは一本ずつ楽しむことにした。
「うん、きれいだ」
 花火と一緒に、光に照らされる上野の笑顔を見ていた。

 花火を二人で分け合って少しずつ楽しんでも、やがて全部尽きてしまう。
 線香花火の最後の一本の火が消えた後、俺はその燃えかすとロウソクをバケツの中に突っ込んだ。水を張ったバケツには俺達が遊んだ花火の筒がぎっしり詰め込まれている。暗い中で見てもわかるくらい水は黒く濁っていた。
「いっぱい遊んだな」
 俺が声をかけると、上野も寂しそうにバケツを見下ろした。
「遊んだね」
 打ち上げ花火に劣る手持ち花火とは言え、終わってしまった後の妙な静けさ、物寂しさは一緒だ。火薬の匂いと煙を温い潮風が押し流すと、砂浜は波の音だけになる。
 誰もいない海。
 夜空にはたくさんの星が出ている。
「次は何する? 海で泳ぐか?」
 俺が冗談半分で尋ねると、上野には睨まれた。
「夜の海は真っ黒で怖いよ。それに水着持ってきてないし」
「水着も持参にすりゃよかったな。上野の水着、超見たかった」
「持参って言われたってスルーするし」
 上野はそう言いつつ、やがて砂浜に腰を下ろした。三角座りして俺を見上げる。
「ちょっとだけ、海見てかない?」
「真っ黒で怖いんだろ? 大丈夫かよ」
 俺の言葉がからかいに聞こえたんだろうか。上野はそこで、拗ねたような顔をした。
「名残惜しいから言ってるのに……」
「わかってるって。拗ねるなよ、上野」
 それで俺も慌てて、上野の隣に腰を下ろす。
 昼間、日が照ってる間は踏むと暑いくらいの砂も、今はひんやりと冷たく感じた。ただ涼しいと感じるほどではなく、じっとしてても汗が滲んでくる。
 上野は膝を抱えたまま、しばらく寄せては返す波打ち際を眺めていた。ポニーテールにした髪が潮風に揺れ、その度に癖のある髪がきらきらと光った。うなじがきれいのも印象的だった。
「やっぱいいよな、ポニテ」
 俺が満足して呟くと、上野は目だけ動かしてこちらを睨む。
「鈴木の言い方、なんか下心あるっぽく聞こえる」
「付き合ってる彼女に下心ない方が変だろ」
 当たり前みたいに、俺は上野をそういう目で見てる。上野は犬みたいに可愛くて、でも犬じゃない。ウェンディにするのとは違う感じで触りたいとか、撫で回したいとか、可愛がりたいって思ってる。もちろん同時に、上野を大切にしたい、怖がらせたり嫌な気分にしたくないって気持ちもあるし、それ以前に一緒にいるだけで楽しいって気持ちだってある。俺はそういう気持ちの全部を否定的に捉えたことなんてないし、この先だってそうだろう。俺の全部で上野を好きなんだ。
 でも、上野がどう思ってるかはまだ掴みきれてない。自信がないんじゃなく、どこまで同じ気持ちか知らない。何せ初っ端からお互い読み誤ってたわけだし、約三ヶ月分のずれはなかなか埋めようがない。
「逆に上野はないの? 俺に下心」
 聞き返してみたら、むっとされた。
「あるわけないじゃん」
 噛みつくみたいな勢いで言い返した上野が、すぐに溜息をつく。
「でもさ、下心じゃないけど……何か違うことは思ったりするよ」
「違うことって何?」
 早速突っ込んで尋ねてみた。上野が思ってることを知りたい。それを聞けるチャンスかもしれないと思った。
 すると上野は考え込むように眉根を寄せ、
「何て言っていいのかわかんないんだけど。最近鈴木といるとね、ほっとする」
 自信なさそうに言った。
「鈴木が会いに来てくれたり、こうやって遊びに誘ってくれると安心する」
 それは、『安心』って表現するのが正しいんだろうか。俺は不思議に思って聞き返す。
「……何か、不安なことでもあった?」
「ううん、ないよ。そうじゃないの」
 上野は首を横に振った。
 それから、ぎゅっと膝を抱え直す。
「自分でもよくわかんない。でも、鈴木があたしを好きでいてくれることにほっとする」
 上野が自分でよくわからないと言う気持ちを、俺が理解することなんてできるだろうか。俺は黙って上野の唇が動くのを見つめていた。
「今日も夏休みが終わりで寂しくて、花火が終わっちゃうのも寂しかったけど……鈴木がいたら大丈夫って言うか、寂しくないなって思った」
 でも上野はわかっていないなりに、心から俺を頼りにしてくれているみたいだった。俺にもそれだけはわかった。
 そういう気持ちをなんて言うんだろう。信頼? 甘え? それとも――。
「夏休み、終わるね」
 上野が同意を求めるように言った。
 俺も、すぐに応じた。
「終わるな。最後に海まで来れてよかった」
「あたしも。花火楽しかったし」
「だよな、もっと買っときゃよかったかも」
「十分だったよ。あれ以上やってたら、帰り遅くなっちゃうし」
 その言葉で、今は何時かなってふと思う。俺は別に遅くなってもいいけど、上野は女の子で、門限があるからそうもいかない。
 だけど俺も上野も、時間を確かめようとしなかった。
 お互い携帯電話は持ってるのに、身じろぎもせずに見つめあっていた。
「……帰りたく、ないな」
 ぽつりと、上野の唇がそんな言葉を零した。
 寂しそうな、切なげな声だった。
「帰んなきゃいいじゃん」
 俺はすぐさま言い返したけど、そうはいかないのもわかってる。俺達はまだ大人じゃないし、夜にこうして会うのも制限がある。帰りたくないから帰らない、なんてできっこない。
 でもそういう理屈を取っ払った本心では思う。
 帰りたくないなら帰んなきゃいい。ずっと俺の傍にいればいい。
「そういうわけにはいかないよ」
 予想通り、上野は自分から言っておきながら困ったようだった。
「俺だって帰したくない」
 駄目押しみたいに言うと、今度は目を伏せられてしまった。
「鈴木に言われると、本当に下心あるっぽく聞こえるんだけど……」
「あるよ。けど、上野を好きだからそういうふうに思うんだ」
 俺は俺の全部で、上野のことが好きだ。きれいな気持ちもそうじゃない気持ちもひっくるめて、全部で。
「だから早く大人になりたい。こうして会った後、帰さなくて済むからな」
 そう続けると、上野は何か想像でもしたのか頬を赤らめた。
「す……鈴木はもう結構、大人じゃない? ライター持ってるし」
「そんだけで大人だとは言わないだろ、普通」
「でもあたし、びっくりしたよ。鈴木があのライター持ってて」
「さっきも言ったけどあれ、従兄がくれたものだからな」
 あのオイルライターは貰いものだ。あれを自分で買うようになったら『大人だ』って言えるのかもしれない。
 でも、俺にはライターなんて一つあれば十分だ。従兄がくれたものを大切にしたいし、そもそも煙草は吸わない。上野と花火をするくらいでしか使わない。だから俺が大人になったって思うのは、実感するのは、もっと別な理由からになるんだろうって気がする。
「あたしなんて鈴木に比べたら、まだ全然子供っぽいけどさ」
 上野が、恥ずかしそうに話を続ける。
「けど花火が終わったみたいに、夏休みが終わるみたいに、あたしもそのうち大人になるよ」
 それから、光の揺れる潤んだ目で俺を見る。
「その時、鈴木があたしのこと、今と同じように好きでいてくれるといいな」
 心がとろけていくような、甘い言葉だった。
 今、俺の目の前にいる上野は俺にとって、世界で一番可愛い女の子だ。大人になったってその気持ちはずっと変わらない。俺が欲しくて欲しくてしょうがないと思ったものの一つだ、一生大切にする。
「俺の気持ちは変わらないよ。大人になっても、ずっと上野を好きだ」
 断言する俺の前で、上野はほっとしたように表情をほころばせた。
「もしかしたら今以上に好きになって、めろめろかもしれない」
 更に言い添えたら、可愛いはにかみ笑いが返ってきた。
「うん……あたしも、そうかも」
 そんなふうに言われたらもうたまらなくなって、俺は隣に座る上野の肩を掴んで、強く引き寄せた。上野は三角座りのまま傾くみたいに俺の胸にぶつかってきて、驚いたように顔を上げた瞬間に唇を重ねたら、触れ合う唇の間に微かな息が零れるのがわかった。
 唇を離した後も、上野は俺の胸に寄りかかっていた。顔を真っ赤にしながら、波打つ髪を俺の手に梳かれて気持ちよさそうにしながら、犬みたいに従順に目をつむっていた。そういう上野を、俺はやっぱり世界一可愛いと思う。
「なあ、『つかさちゃん』って呼んじゃ駄目?」
 この間微妙な反応をされたけど、俺はそろそろ上野を名前で呼びたいと思ってる。上野つかさ、名前まで可愛いなんて奇跡だ。夏休みが終わる前に、その可愛い名前で呼べるようになりたい。
 だけど上野は目を開けて、俺を見上げて眉を顰める。
「その呼び方、子供っぽくてちょっとやだ」
「駄目か……可愛いと思うんだけどな」
「呼び捨てがいい。大人っぽいから」
 上野が真剣な顔で訴えてくる。
 早く大人になりたいのは、俺だけじゃなかったらしい。
「つかさ」
 俺は少し浮かれて、早速試しにその名前を呼んでみた。
 呼ばれた本人は自分で要求しておきながら返事もせず、恥ずかしそうに俺の胸に顔を伏せてしまった。ポニーテールにしてるせいで、真っ赤な頬や耳たぶが露わになってて、そこにキスしたら怒られるかなあなんて場違いなことを考える。

 夜の砂浜には俺達しかいない。俺達の声以外は、波の音しかしない。
 夏が終わる頃、ほんのちょっとだけ大人になれたような気がした。
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