愛情、三ヶ月分
俺と上野の間には、三ヶ月分のずれがある。俺は上野に、ものすごくわかりやすく言ったはずだった。
「お前が可愛くてしょうがないんだ」
それから、こうも言った。
「うちのウェンディがお前にそっくりでさ、めちゃくちゃ好きなんだ」
格好つけようとか、捻ったこと言おうなんて思わなかった。ただ上野に伝わりさえすればいい、そう思って正直に打ち明けたつもりだった。
上野だってその意味がわかっていたはずだ。俺が告白した途端あたふたして、顔中真っ赤になって、潤んだ目を泳がせながら聞き返してきた。
「そ、その『好き』って……どういう、意味?」
唇が震えてて、たどたどしい口調になっているのが可愛かった。うちのウェンディもそりゃ可愛いけど、あいつは上野みたいに赤くなったりしないし、こんなふうにわかりやすく動揺しない。ゆるゆると波打ってる癖のある髪は、上野の方がより艶があって、触ってみたくてしょうがなかった。
ウェンディが世界一可愛い犬なら、上野は世界一可愛い女の子だと思う。
だから俺は、やっぱり正直に答えた。
「俺の全部で上野を好き、っていう意味」
それで上野はますます困った顔をして、赤くなった顔を隠すように俯いてしまった。
でも俺がその柔らかい髪を撫でても振り払うどころか嫌がりもしなかったし、思い切って手を握ってみたら、こわごわと握り返してきた。上野の手はちっちゃくて、柔らかくて、春先だっていうのにすごく熱く感じた。
だから俺はてっきり受け入れてもらったもんだと思ってたわけだ。
何せ俺は全部正直に言った。嘘なんて一つもついてない。はっきり『好きなんだ』って言ったし、冗談っぽく聞こえないように口にしてみたつもりだった。誤解のしようなんてあるはずがない。
なのに上野は完全に誤解していて、俺に告られたとも、あの日から付き合いだしたとも思ってなかったらしい。上野が言うには、俺が告白の際にウェンディの名前を出したのがいけなかったそうだ。
「俺、言ったろ。お前のこと好きだって」
「い、言ってたけど……でもあれって、ウェンディに似てるからじゃないの?」
きょとんとしながら確認された時は、こっちが呆気に取られてしまった。
俺はこの上なくはっきり言ったつもりでいたのに、上野にはちっとも伝わっていなかった。春に告白して夏が来るまでの三ヶ月間、上野は俺が飼い犬の代わりに自分を可愛がっていると思い込んでいたらしい。それじゃまるで俺が思わせぶりな最低男みたいじゃないか。
それで俺は誤解していた上野に改めて『付き合ってくれ』と言った。こっちの方がわかりやすいみたいだと気づいたからだ。上野もそれを受け入れて、俺達は幸せな夏を過ごしていた。
ただそれでも、俺達の間にある三ヶ月分のずれは埋まらないままだった。
そのまま夏休みが終わろうとしていた。
「……鈴木、宿題は?」
上野がノートに走らせていたペンを止めて、俺を睨んだ。
「今、休憩中」
俺はノートの上に肘をついて、そんな上野をさっきからずっと眺めている。
ゆるゆると波打つきれいな髪は夏の間すごく暑そうだったから、今、俺の部屋にはしっかり冷房を効かせてある。外ではうるさく聞こえる蝉の声も、窓を閉め切った部屋の中ではいい環境音みたいなもんだ。午前中にうんと遊んでやったからか、ウェンディは昼寝をしてる。つまりここに、今は俺と上野の二人きりだった。
「全部終わってから休憩すればいいのに」
上野の言うことはもっともだ。夏休みもいよいよ最終週に突入していて、俺達には時間がなかった。宿題の残りは今日一日頑張れば終わる程度で、やり終えてから休むのが一番いいに決まっている。
だけど上野が一緒だと、宿題してる時間すらもったいない気がしてならない。
「休憩したらもっと頑張る」
そう反論すると、上野は不思議そうに瞬きをする。
「鈴木、疲れてるの?」
「そうじゃないけど」
「宿題の途中でサボるなんて鈴木っぽくないよ」
「かもなあ……」
俺だって宿題を片づけたいのはやまやまだ。でも上野がすぐ傍にいるのに、他のことに集中しろっていうのも無理な話だった。
「いっそ上野も休むってのはどう?」
持ちかけてみたら、静かに溜息をつかれた。
「あたしはあんまり疲れてないんだけど」
「頼むから、俺の休憩に付き合ってくんない?」
「まあ、いいけど」
まだ迷うような言い方をしつつ、上野はこくんと頷いた。
それで俺もほっとして、早速お願いしてみる。
「じゃあさ、膝貸して」
「は? 膝?」
「そう。膝枕して欲しい」
「な、何言ってんの鈴木!」
上野が大声を上げかけたから、慌ててその口を塞いだ。俺の素早い行動のお蔭でウェンディは起こさずに済んだけど、真っ赤になった上野には肩を叩かれた。
「駄目? 俺、そういうの一度やってみたかったんだよ」
膝枕してもらうのって、いかにもカップルっぽいじゃん。実際何がいいのかはわからないけど、やってみたらわかるかもしれない。
なのに上野は赤くなった顔を手で覆ってしまった。
「恥ずかしいから、やだ」
「何で嫌なんだよ」
「だから、恥ずかしいんだって」
「俺しか見てないのに?」
しつこく食い下がる俺を、上野は指と指の間から覗く目で睨んだ。上野の目は時々ウェンディがそうするみたいにうるうるしている。でも潤む理由が全く違うことを、俺はちゃんとわかってる。
「試しに、ほんのちょっとでいいから。上野が嫌になったらやめていい」
そこまで譲歩すると、ようやく諦めがついたみたいだ。上野はスカートをはいた膝をテーブルの下からこちらへ向けたかと思うと、消え入りそうな声で言った。
「言っとくけど、変なことしたら振り落すから」
「しないしない。お邪魔しまーす」
俺は上野の膝に頭を乗せ、仰向けに寝転がってみた。
上野の膝は思ったよりもひんやりしていた。スカートの素材のせいだろうか。もっとふにゃふにゃしているかと思ったけどそうではなくて、頭を預けられる安心感があった。お蔭で結構気持ちよかった。
見上げた先にはブラウスを着た上野の胸があり、その大きさが下からだとよくわかった。更にその先には俺の顔を覗き込んでいる上野の顔があり、波打つ髪がカーテンみたいに垂れ下がって、毛先が触れてくるのがくすぐったい。目が合うと、上野は咎めるように眉を顰めた。
「見ないで」
「何で?」
「下から顔見られるの、恥ずかしい」
「下から見ても可愛いよ、上野」
俺がそう言ったにもかかわらず、上野はまたも両手で自分の顔を隠してしまった。
何だか振られたみたいな寂しい気持ちになって、俺は上野の腰に手を回す。そしてブラウスに包まれたお腹に顔を押しつけてみた。
薄い生地越しに温かさと、柔らかさと、生きている音を感じた。
「ちょっ、何してんの鈴木っ」
上野が声を上擦らせて抗議したけど、しばらくの間そのまま柔らかいお腹にしがみついていた。少しでも上野とくっついていたかったからだった。
俺は上野が好きだ。
どこから見たって可愛いと思ってるし、すごくすごく大切にしたいと思ってて、だけどこうして少しでもくっついてたい、近づきたいとも思う。上野のことが好きだから、望むことは何でも叶えてやりたい反面、彼女が望まないことをしたくなることも時々あって、矛盾してるなあと思う。
俺達が全力ですれ違ってた三ヶ月間、だけど俺はものすごく幸せだった。こんなに可愛い女の子と一緒にいられて、こんなに可愛い子が俺のものになって、俺は世界一幸せな人間だろうって思ってた。それはただの勘違いで、実際はかえって上野を困らせてたわけだけど、その勘違いだって俺達はちゃんと乗り越えて一緒にいる。
だから焦ることなんてないんじゃないかと、今は思ってる。
あと三ヶ月くらいしたら、上野も、今の俺と同じ気持ちになるかもしれない。
でも、女の子だからなあ。俺は自慢じゃないけど女心なんて一切わかんない方だし、はっきり言って犬飼うよりはるかに難しかった。あれだけはっきり『好きなんだ』って言ったのに伝わってないなんてさすがに想定外だった。
あと三ヶ月待って、上野は俺と同じ気持ちになってなくて、だけど俺は上野を大切にしたくて自分の好きなようにもしたい矛盾した気持ちを持ったままだったら寂しいな。だからって俺は切れたり暴れたりよそ見したりするような男じゃないですけど、上野本人には訴えちゃうかもしれない。さっき膝枕をねだったみたいに。
そしたら上野、何て言うかな。
俺は燻ってるものをぶつけるみたいに、ブラウスの生地越しに上野のお腹へ息を吹きかけた。
「くすぐったい」
上野が顔を隠すのをやめて、俺のおでこにチョップする。別に痛くない。
俺は上野のお腹から離れて、下から上野の顔を見て、やっぱり可愛いなと思う。
「なあ上野」
「何?」
「俺達、付き合ってから結構経つじゃん」
「そんなに経ってないよ、まだ二ヶ月だもん」
「まあそうだけど、俺の気持ちはもうじき半年だし。そろそろさ」
「……そろそろ、何?」
その瞬間、上野の顔が強張るのがわかった。
そうなると上野が可愛くてしょうがない俺としては本心を打ち明ける気になれなくて、結局、違うおねだりをした。
「つかさちゃん、って呼んでいい?」
たちまち上野は真っ赤になって、ぷいと横を向いてしまった。
「そういうの、呼ぶ前に聞いて」
「えー駄目? なあなあ、つかさちゃんってば」
「呼ぶ前に聞けって言ってるんだけど!」
上野がまた大声を上げそうになったので、俺は勢いつけて上体起こして、ついでに上野の顔をぐいっと引き寄せてその言葉を遮った。
こんなふうに普通にちゅーとかしてんのに、名前呼びすらまだとかシャイにも程があるよ、つかさちゃん。
でもそれも三ヶ月分のずれのせいなのかもな、とは思う。
上野からしたらたかだか二ヶ月の彼氏だもんなあ、俺。これからの態度次第で上野にとって『紳士的で優しい彼氏』か『自分のことばっかりの横暴彼氏』か分かれるんだろうし、迂闊なことできんよな。そう思うとやっぱ、デカいな三ヶ月って。
俺にとっての上野は世界一可愛くて大切にしたい彼女です。
最初に言った通り、俺は俺の全部でお前のこと好きだから、いつかお前の全部を俺にください。