猫のいる生活(2)
「お前、いつもどんなご飯食べてるの?」二人きりでずっと黙っているのも間が持たない。俺は声に出してクラフティに尋ねた。
クラフティは真琴が置いていった毛糸玉に気づき、俺の膝の上に乗ったまま、それを小さな前足で一心不乱に構っている。俺の問いに答えるそぶりはない。
「猫用の料理なんてあるのかな……」
二言目は完全に独り言だった。
飼い主の田中さんは普段食べさせてるキャットフードの銘柄を教えてくれた。真琴はそれを聞いただけでどんなものか大体わかったようだったけど、俺にはさっぱりだった。スーパーでそういうコーナーの前を通りかかったことはあるから、サクサクしたスナック菓子みたいなものや、ツナ缶みたいな商品があることだけは知っている。
真琴は、『播上は猫のご飯はわかんないでしょ?』なんてことを言っていた。それも事実ではあるものの、料理を愛する者としては若干プライドを刺激される言葉だ。そもそも市販のキャットフードだって食材を調理、加工してあるものじゃないのか。だったら猫用の手作り料理もあってしかるべきだろう。
「……調べてみるかな」
ふと思いついた。
寝室として使っている奥の部屋にパソコンが置いてある。昔みたいに始終パソコンと向き合う機会はなくなってしまったけど、調べ物をする時や印刷物を作る際には今でも使用することがある。
俺は膝からクラフティを下ろし、奥の部屋へ行こうとした。ところがそのふにゃふにゃした胴体を掴んで床に下ろしたところで、毛糸玉に夢中だったはずのクラフティが、うなあっ、と声を上げた。
下ろすな、ってことだろうか。
「向こう行くけど、お前も来るか?」
俺は一応声をかけ、それから奥の部屋に足を向けた。するとクラフティはたたたっと駆け寄ってきて、俺の足元にまとわりつく。危うく踏んづけそうになってその場でたたらを踏んだ。
「わっ、危ない!」
こっちが声を上げたってそ知らぬ顔で俺の足にじゃれついてくる。爪が伸びているんだろうか、靴下に引っかかって生地が伸びる感覚に、思わず溜息が出た。
「わかったよ、連れてってやるから」
何だか駄々っ子の相手をしてるみたいだ。俺は一旦屈むとふかふかの毛に覆われたクラフティを抱き上げ、奥の部屋へと連れて行った。
パソコンを置いた座卓の前に座り、クラフティを抱え直しながら電源を入れる。
検索ワードは『猫、手作りご飯』ってところだろうか。入力してみるとレシピを載せたページが出てくる出てくる、思いのほか充実していた。やっぱり愛猫ともなればなるべく手をかけてあげたいと思うものなのか、レシピを載せたサイトにはそういった飼い主心理をくすぐるような文句が並んでいた。大切な家族に愛情たっぷりの手作りご飯で幸せな食卓を――猫と囲む食卓っていうのも楽しそうだ。どんな感じなんだろう。
レシピの方は意外と言うか何と言うか、肉を使ったものが多かった。猫と言えば魚が好きそうだというのは俺みたいな猫の素人の考えであって、どちらかと言うと鶏肉の方がポピュラーな食材らしい。調味料の類は使わず、柔らかく茹でたり潰したりしたところに食べやすくした野菜を足すのが一般的な手作りレシピのようだ。しかしネギのように絶対食べさせてはいけない食材もあるそうなので注意を払わなくてはならない。おまけに猫も食物アレルギーを持っている場合があるらしい。
「猫にもアレルギーがあるのか」
思わず呟いた後、膝の上のクラフティを見下ろす。
「お前、自分にアレルギーがあるかって……聞いたところで答えられるはずないよな」
クラフティは何も言わずに俺を見上げている。
これが人間相手なら、事前に申告してもらうことでメニュー変更などの対応もできる。でも猫は当たり前だけど自分から申告なんてできない。それでなくても預かりものの猫なんだからおかしな物を食べさせるのはよくない。
「じゃあ作ってやるのは無理だな。残念だ」
俺がそう言うと、クラフティは耳をぴくぴく動かした。何となく不満げな表情にも、差し許すと言いたげな顔つきにも見えたけど、どちらにせよその内心は知りようがない。
それでもしばらくの間、俺はいくつかのレシピサイトをはしごして猫の手作りご飯を調べていた。これまで知りようのなかった猫の食生活は非常に興味があったし、人間相手に作るのとは勝手が違うところも面白かった。
一方のクラフティは絵に描いた餅には全く興味がないようだ。写りのいいレシピ画像には目もくれず、やがて俺の膝にも飽きたのか、後ろ足で立ち上がるようにして俺の肩に登ろうともがきはじめた。
「何だよ、高いとこが好きなのか?」
木に登って下りられなくなる猫の話を聞いたことがあるけど、クラフティもどこかに登りたいんだろうか。タンスの上なんかは危ないから勧められないけど、俺の肩の上くらいならまあいいか。そう思って、その毛深い背中に手を置いて、軽く持ち上げてやった。
「ほら、登れ」
クラフティはじたばたしながらも俺の肩によじ登った。最近衣替えをした俺はクルーネックのシャツを着ていたから、クラフティが肩に乗るとふわふわの毛皮が直接首に触れ、くすぐったかった。床屋の羽毛はたき、感触としてはあれに近い。それでいてぽかぽか温かくて、肩がずっしり重くなったにもかかわらず何だか心地がよかった。
俺の肩に乗るほど小さいのに、ちゃんと生きてるんだな。
当たり前のことを実感して温かい気持ちになる。
気がつけば自然とこいつに話しかけてしまっているし、俺はクラフティと過ごす時間を思いのほか楽しんでいるみたいだ。やっぱり今でも飼うわけにはいかないけど、猫のいる生活も悪くないかもしれない。
和む心に口元も綻ぶ俺を、しかし直後、謎の激痛が襲った。
「い、いててて! ちょっ、爪、爪食い込んでる!」
クラフティは俺の肩の高さに満足せず、俺の首の後ろにも登ろうとした。当然、奴の爪が俺の首に刺さる。めちゃくちゃ痛い。
慌てて引き剥がそうとしたけど意外と鋭いクラフティの爪はがりっと皮膚の表面を引き裂き、俺はパソコンの前で猫を抱きかかえたまましばらく悶絶した。
猫のいる生活、やっぱり大変かもしれない。
真琴は三十分ほどで買い物から戻ってきた。
「ただいま! さ、クラフティ、ご飯だよー」
飼い主の田中さんから聞いたクラフティのいつものご飯は、かりかりと硬めのキャットフードだった。真琴はそれを皿に出し、キッチンスケールで正確に計量してから、水を入れた皿と一緒にクラフティの前に差し出した。
クラフティはふんふんとその匂いを嗅いだ後、ためらいもなく食べ始めた。お腹が空いていたのか、かなりいい食べっぷりだ。
「よく食べるなあ」
「だって朝からうちの前にいたんだよ。お腹空いてたんだよ」
俺と真琴はその食べっぷりを傍らで見守った。
人間だってそうだけど、猫の食べている姿もなかなか味があっていいものだ。さっきレシピを調べた時は『調味料を使わない』とあったけど、クラフティが一心不乱に食べている姿は何だかめちゃくちゃ美味しそうだ。心なしか、魚のだしのようないい匂いもする。
程なくして皿は空になり、するとクラフティは覗き込む俺達を黙って見上げてきた。はしばみ色の目を丸くして、どこかきょとんとした顔をしている。
「……足りなかったのか?」
催促の表情に見えて俺が呟くと、真琴が困ったように眉尻を下げた。
「あんまり食べさせすぎるのもよくないんだけどなあ。どうしよう」
「朝から食べてないんだったら、ちょっとくらいおまけしてもいいだろ」
「うーん……それもそうだね」
そこで真琴は空になった皿に少しだけ、大さじ三杯分くらいキャットフードを追加した。
クラフティはそれもあっという間に平らげ、また物欲しそうに俺達を見上げてきたけど、真琴は言い聞かせるように告げた。
「もう駄目だよ。腹八分目が一番いいんだから、あとは明日の朝ね」
彼女の言葉がわかったのかどうか、クラフティはうなあうなあと繰り返し鳴いた。
「駄目ったら駄目。そんなに可愛く鳴いたってもう甘い顔しないんだから!」
むっと真面目な顔を作る真琴が、まるでクラフティの母親みたいに見えた。
「はいはい、もうお皿片づけちゃうからね」
そう言って真琴はクラフティの前からお皿を取り上げ、台所へと持っていく。その後をクラフティが、まだ諦めがついていないそぶりで慌てて追いかけていった。実に微笑ましい光景だ。
さて、猫のご飯も済んだことだし、次は人間のご飯にしようか。そう思って俺も台所へ向かうと、お皿を洗い終わった真琴とその足元に座るクラフティが同時に振り向いた。
「あ、播上。ご飯作る?」
「そのつもり。予定より遅くなったし、ささっと作るよ」
俺は念入りに手を洗い、夕飯の支度を始める。
その隣に並んだ真琴が、ふと声を上げた。
「あれっ、首のとこどうしたの? すごい傷がついてるよ」
彼女が軽く背伸びをして、俺の首の後ろを覗き込む。ついさっきつけられたばかりの傷なのでまだひりひり痛んでいたけど、そういえばどんな具合になっているか確かめていなかった。
「結構目立つ?」
「うん。思いっきり爪立てられた感じになってる」
「まずいな……クラフティに引っかかれたんだよ、俺の肩から首に登ろうとして」
俺はそう言って、床の上の犯人ならぬ犯猫を軽く睨んだ。当の本人はもちろんそ知らぬ顔をしている。
それから視線を真琴へ戻すと、彼女は複雑そうな顔つきで俺につけられた爪痕を見ていた。あんまりじっと見てくるから、そしてその表情がやや不穏そうでもあったから、俺は弁解みたいに言い添える。
「……猫だよ、猫。別にそういうのじゃない」
朝にはなかった傷なんだから浮気を疑われても困る。そもそもそんなことしない。
俺の言葉に真琴は即座に頷いた。
「うん、それはわかってる。そうじゃなくて」
「何?」
聞き返せば彼女はうっと詰まり、うろたえながら答える。
「何て言うかその、手当てして、隠しといた方がいいんじゃないかな」
「ああ、まあそうかもな。目立つみたいだし」
仕事着でも隠れるものじゃないし、父さん達にまであらぬ疑いをかけられたら困る。特に母さんはうるさそうだ。
俺はそう思ったが、彼女の考えは違ったようだ。
「普通、私がつけたって思われるから……お義母さん達に見られたら恥ずかしいよ」
真琴は言葉通り恥じらってか、ふと目を逸らした。
それを俺が黙って見つめていると、赤くなった顔で言った。
「とにかく、消毒してから隠さないと! 救急箱取ってくる!」
彼女はいつになく大慌てで踵を返し、台所を飛び出していく。まるで逃げていく猫みたいなスピードだった。
その背中をぽかんと見送った俺は、ふと視線を感じて足元を見る。
クラフティは俺達のやり取りを聞いていたのか、何か言いたげにこっちを見つめている。
俺はその場でしゃがみ込み、クラフティに向かって囁いた。
「うちの奥さん、可愛いだろ」
なあっ。
クラフティの返事は肯定とも呆れているとも取れる、何とも威勢のいい声だった。
その後、クラフティは午後七時過ぎに寝ついてしまった。
起きてる時はあんなに入るのを嫌がった段ボール箱の中、くるんと丸まって寝息を立てている。
「……寝顔も可愛いね、クラフティ」
真琴は布団に寝そべり、枕に頬杖をつきながらその姿を覗き込んで、嬉しそうににこにこしている。
今日は店が休みだから、俺達も日付が変わる前に床に入った。クラフティのことはどうしようか迷ったけど、夜中に目を覚まして誰もいなかったらかわいそうだと思い、ダンボールごと寝室へ運び込むことにした。今は俺達の布団の枕元にいる。運ぶ間も全く目を覚まさなかった。
「きっと疲れてるんだろうね。知らない人の家に来て、神経使っただろうし」
彼女はしみじみと言ったけど、それは、俺としては若干異論がなくもない。クラフティと来たら神経を使うどころか自由気ままに過ごしていたようにしか見えなかった。
もっとも、そのお蔭で俺達も猫のいる生活を楽しめたとも言える。
「明日には帰っちゃうんだなあ、寂しいな」
何度も何度も繰り返しながら、真琴は名残惜しげに眠りに就いた。
俺は首の後ろに貼った大きな絆創膏の違和感から、彼女ほどすんなりとは眠れなかった。明かりを消して真っ暗になった部屋の中、横を向いて片肘をついて、真琴とクラフティの寝顔を交互に眺めて過ごした。傷の痛みはそれほどでもなかったけど、二人――正確には一人と一匹の寝息だけが聞こえる静けさの中、懐かしい胸の痛みが蘇ってきた。
子供の頃の俺がどうしてペットを欲しがったかと言えば、夜を一人で過ごしていたからだ。
父さんと母さんは夜遅く、日付が変わってもまだ店にいることが多かった。もちろん放ったらかしにされてたわけじゃない。夕飯は父さんが作った賄い飯を母さんと一緒に食べたし、夜寝る時間になるとちゃんと着替えたかどうか、歯を磨いたかどうか見に来てくれた。でも真夜中に目が覚めた時、家の中に誰もいないと、やっぱり寂しかった。
そういう時、他に誰かがいてくれたらいいのにって思って、だから俺は猫を飼ってみたくなった。
金魚ならいいって父さんは言ったけど、金魚じゃ起きてるか寝てるかもわからない。呼べば返事をしてくれるような、寂しくならない誰かに傍にいて欲しかったんだ。一人っ子だったから余計にそう思ったのかもしれない。
大人になって、一人暮らしをするようになって、いつの間にかそういう寂しさのことは忘れていた。
でもふとした時に甘酸っぱいような、切ないような記憶だけが蘇ってきて、大人になったはずの俺を何とも言えない気分にさせる。
こうして寝つけない夜、あるいは夜中に目が覚めた時、すぐ傍に誰かがいる生活は幸せだ。
真琴は布団から片手だけを出し、こちらを向いてすやすや眠っている。
俺は手を伸ばして彼女のその手を軽く握ると、どうにかして眠ってみようと目を閉じた。
そうしたら、案外とすんなり寝入ることができたようだった。
翌朝、クラフティの飼い主である田中さんは駅からタクシーを飛ばして駆けつけた。
あれだけ人懐っこかったクラフティも、飼い主の姿を見た途端、俺達には見向きもしなくなった。飛びつくように飼い主の腕の中へと戻っていった。つくづく猫とは賢い生き物だ。
出張帰りの田中さんはスーツ姿にもかかわらず、クラフティを抱き上げ嬉しそうに顎の下を撫でていた。するとクラフティは聞いたことのないごろごろという声を立てた。
「ごめんな、クラフティ。でもよかったな、いい人に見つけてもらえて」
それから田中さんは俺達に平謝りで詫び、クラフティの世話にかかった費用を謝礼込みで払うと言い出した。でもこちらとしても大した世話はしてないし、何より楽しかったので、金銭の受け取りはやんわりお断りした。
それならと出張先で購入したという菓子折りを差し出されたので、そちらは素直にいただいた。代わりに昨日購入したキャットフードを差し上げ、ぺこぺこお辞儀をする田中さんと彼に抱かれて満足げなクラフティを表まで出て見送った。
そして家の中へ戻ると、クラフティがいた痕跡はタオルを敷いたダンボールくらいしか残っていなかった。
空っぽになった箱の脇に座り、何気なくその中を見下ろしていたら、真琴も隣に座った。
「播上、寂しい?」
「まあ、少しはな」
たった一晩いただけなのに、いないのがちょっと寂しくなった。きっとすぐに忘れる寂しさだろうけど、別れた直後に感傷的になるのも無理のない話だ。
可愛い猫だったな、クラフティ。
俺の答え方をどう思ったんだろう。真琴は少しの間、瞬きもせずに俺を見つめていた。やがて、すすっと俺の傍にくっつくと、消え入りそうな声で言った。
「にゃ、にゃー……」
クラフティの鳴き声よりも可愛い声だった。
でもって、自分で鳴いといてめちゃくちゃ恥ずかしそうだった。
彼女は言わなきゃよかったという顔をしながら俺を見る。
「は、播上が寂しがってるみたいだから……」
「そうか、ありがとう」
「何かごめん、めちゃくちゃ外したみたいでごめん」
「そんなことない、可愛いよ」
正直、笑いを堪えるので必死だった。気遣ってくれたのが嬉しいのは当然だけど、その発想はなかった。確かに真琴は猫っぽいところ、あるけど。
だからクラフティがされていたみたいに、くっついて座る彼女の顎の下をくすぐってみた。
真琴はごろごろとは言わなかったけど、くすぐったそうに目を閉じた。
「にゃー……」
おまけにクラフティに負けず劣らず満足げだ。
俺は彼女をくすぐりながら尋ねる。
「今日の夕飯は何がいい?」
「いいお魚があったら、魚介パエリアなんて食べたいにゃー」
「まだ混ぜご飯ブーム続いてるのか。わかった、いいよ」
「えへへ……播上が優しい旦那さんでよかったにゃー」
真琴は目を閉じたまま、幸せそうに微笑んだ。
一体、いつまで猫のふりをするつもりなんだろう――まあ、たまにはいいか。
自分で言っといてこんなに恥ずかしがる真琴、滅多に見られないし。
猫のいる生活っていいものだ。
もちろん結婚生活だって、文句のつけようがないくらい、いいものだ。