ランチタイムリスペクト
播上と私の関係を一言で表すなら、メシ友だ。私たちは入社五年目の同期で、入社してすぐに意気投合し、仲良くなった。と言っても休日に会ったり、二人で飲みに行ったりするほど親しい間柄ではなく、単に昼食を一緒に取るだけの関係。それが四年以上も続いているんだから、お互いにこの関係を好ましいと思っているんだろう。少なくとも私の方はそう思っている。
昼休みになると、私たちは連れ立って社員食堂へ向かう。食堂の隅の方の席に並んで、持参したお弁当を開ける。
蓋を開けるその瞬間は毎度のことながら緊張する。播上の、色気のない金属製のお弁当箱をちらと見遣りながら、私は自分のお弁当を披露する。自慢じゃないけど毎日手作りだ――播上の前では、本当に自慢にならないけど。
「へえ、美味そう」
播上が私のお弁当を覗き込んで、声を弾ませる。でもその言葉は勝者の余裕に満ちていた。私は私で、期待とちょっとの悔しさを胸に、播上のお弁当の蓋が開けられるのを見守る。何せ播上のお弁当と来たら、毎日パーフェクトな出来だから。
「播上のだって美味しそうじゃない」
悔しさを抑え込みながらそう言えば、彼はさも当然といったそぶりで頷いた。
「もちろん、美味いよ」
いつだって播上のお弁当には、失敗という単語が存在しなかった。何を作っても美味しそうに見えたし、実際いつも美味しかった。唐揚げは大きいのに中まで火が通っているし、フライは冷めていても十分に美味しい。きんぴらごぼうは柔らかくて、切り干し大根は味が染みていて、卵焼きは常にベストな焼き色を保っている。別容器に収められたサラダもしゃきしゃきしていて、作り立てみたいな味がした。
「いいよねえ、料理上手」
呻く私のお弁当は、残念ながらいつも播上に敵わない。こう見えても一人暮らし歴が長いし、自炊だってちゃんとやっている。料理が好きだったし、毎日自分でお弁当を作っていることがささやかな自慢でもあった。
だけど播上の方がもっとすごかった。何でも実家が小料理屋をやっているそうで、子どもの頃から料理には慣れ親しんでいたんだそうだ。そのお蔭か作ってくるお弁当は味、見栄え共に貶すところが見当たらない。一人暮らしで自炊もしていて、毎日お弁当を作ってくるところは一緒。その上、味にかけては私よりもはるかに美味しいと来れば、そもそも競い合うことからして無意味だ。
最初のうちは、男のくせに、なんてことを僻み根性で思ったりもした。男のくせに料理上手で、毎日手作り弁当とかどうなの、なんて。でもそんな思いはすぐに消えてしまった。どう頑張っても敵わないし、敵わないと落ち込むくらいなら少しでも勉強させてもらった方がいい。彼の手作りの味を教えて貰いつつ、精進していく方がいい。
幸い、播上はすごくいい奴だった。お弁当をきっかけにいろいろと話をするようになり、こうしたらもっと美味しくなるとか、隠し味はこれがいいとか、そういった知識を惜しげもなく教えてくれた。播上の詳しさったらなくて、所詮趣味レベルの私が敵うはずもない。
潔く敗北を認めた瞬間から私たちの関係は始まった。むしろそれから張り合いも出てきた。こうして一緒に、手作りのお弁当を引っ提げて、ランチタイムを過ごすようになった。
「清水、何食べたい?」
お弁当箱を開いてすぐに、播上が尋ねてくる。
私はそのお弁当箱を覗いて、やはりすぐに答えた。
「全部食べたい」
「了解。蓋、借りるよ」
答えを聞くが早いか、播上は私のお弁当箱の蓋を取り上げて、そこに自分のお弁当のおかずをちょっとずつ、載せていく。今日のメニューは豚の角煮と大根の煮物、炒り卵にさやいんげん、それにポテトサラダとミニトマトだ。全部美味しそうに見えて、間違いなく本当に美味しいだろうから実に羨ましい。
「角煮、自分で煮たの?」
愚問だろうけど私は尋ねて、それを箸でつまみあげる。口に運ぶとびっくりするほど柔らかくて、美味しかった。塩気もご飯にちょうどいい。
「ああ。昨日、休みだったから。夕飯の残りを持ってきたんだ」
播上は衒いもなく頷く。毎度のことながらマメすぎる。最早僻む気すらない私は素直に言った。
「作り方教えて」
「いいよ。後でメールで送る」
「ありがと。あと、こっちのポテトサラダも。マヨネーズだけじゃないでしょ?」
「牛乳も入れてる」
なるほど、酸味が強くないのはそのせいか。勉強になる。
「清水は? 今日は酢豚弁当?」
播上も遠慮もせず私のお弁当箱を覗く。こっちも慣れたものだ。
「ううん、これ鶏肉。食べてもいいよ」
「いただきます」
ひょいと箸が横から出てきて、酢鶏を攫っていく。お弁当のおかず交換なんて、まるで小学生の遠足みたいだけど、これが結構楽しい。特にお互いの作ったものとなれば、食べる楽しみだけじゃないから。
「へえ」
私のお手製酢鶏を食べた播上は、感心したように笑んだ。
「美味いな、これ。昨日の晩、鶏の唐揚げだった?」
「そう、よくわかったね。播上からこないだ教わったやつ、作ってみたんだ」
唐揚げの残りを使って作ったってこと、すぐにわかってしまう辺りが播上のすごいところ。これじゃ対抗意識も芽生えない。いろいろ教えてもらえるメシ友の存在が実にありがたい。
「清水も腕を上げたよなあ」
播上を唸らせただけでも満足だ。今日のお弁当は大成功。にやりとしながら、私は播上から貰ったおかずを口に運ぶ。この角煮は作り方教わって、絶対試してみよう。むちゃくちゃ美味しい。
「毎回、播上には敵わないけどね。プロ並みだもん」
本心からそう応じたら、播上は首を竦めてみせた。
「この分だといつか追い抜かれそうだ。俺もうかうかしてられないな」
そうかな。そんな日、来るだろうか。
別に来なくてもいいけどね、播上から教えてもらう方が楽しいから。追い駆けていく方が張り合いもある。これからも追い駆け続けたい。
メシ友の関係ってやつは割とドライで、一緒にいるのはお弁当を食べている時間だけだった。
食事を終えるとどちらからともなく席を立ち、そこで解散。終業後にメールでレシピ交換はするけど、それだけ。後はお互い干渉し合わない。ちょっと寂しいけどそんなものだ。
そんな関係でも職場の噂になったりはしてるらしく、何度か『播上と付き合ってるの?』なんて聞かれたこともあった。でも、本当に何にもないから否定するしかない。
だって実際問題、自分よりも料理の上手い男と付き合えるかって話ですよ。ご飯作るたびに劣等感抱くようじゃ、いろいろと疲れてしまうだろうし、何作らせても例外なく上手なんだもの、播上は。趣味レベルの料理くらいしかとりえのない私は、お株を奪われっ放しになるのが目に見えている。彼には同じくらい料理の得意な子か、或いは劣等感の持ちようもないくらい全く料理の出来ない子がぴったりだと思う。私みたいに、中途半端にプライドの高い女じゃ合わない。私たちはあくまで、よき友だ。
「それじゃ、午後も仕事、頑張ろうね」
今日は私の方が先に食べ終わった。お弁当箱を閉じて、席を立つ。そのまま食堂を出ようとしたら、ふと。
「清水」
播上が、私を呼び止めた。
何だろう、怪訝に思って振り返れば、少し躊躇するような間を置いてから言ってきた。
「明日……なんだけどな」
「明日?」
「お前の分の弁当も作ってくるから」
真顔で言われて、私は驚いた。――何でまた、いきなりそんなことを?
おかず交換、及び情報交換はしたことがあっても、お弁当をまるまる作ってきてもらったことなんてない。私も毎日お弁当を作ってくるのが習慣になってたから、まさか人に作ってもらうなんてこと、考えもしなかった。そりゃあ、播上のお弁当なら文句も問題もないけど。
「何で?」
失礼かなと思いつつ、すかさず聞き返す。すると播上は一瞬だけ言いよどんでから、答えた。
「いや……ちょっと、ご馳走してやろうかと思ってさ」
「別にいいけど……いいの? 大変じゃない?」
「ちっとも。一人分作るのも、二人分作るのも、大して変わんないよ」
播上はそう言って、笑う。どうしてか笑顔がぎこちない。
どういう風の吹き回しでそんなこと、考えたんだろう。不思議に思ったけど、追及するのも野暮かと思って、結局私は頷いた。
「わかった。じゃあ、ご馳走になっちゃうよ」
「ああ、任せとけ」
どことなくほっとした様子で、播上も頷く。態度の不審さはあったものの、彼に作ってもらうお弁当は純粋に楽しみだった。明日も勤務だけどちょっと気分よく取り組めそうだ。
終業後、帰り道は必ずスーパーに立ち寄る。夕飯と明日のお弁当の材料を買って帰るのが習慣だった。元々料理好きだったのもあるけど、こんな習慣がすっかり身についてしまったのも、播上のお蔭。どんなに疲れていても、毎日欠かさず料理をするようになった。経済的でいい。
播上からは角煮とポテトサラダのレシピが、メールで送られてきていた。ありがたや。よし早速、今日の夕飯はポテトサラダにしよう。
――そういえば、明日のお弁当は要らないんだっけ。播上が作ってきてくれるから。ってことは、買って帰るのは夕飯の材料だけでいいのか。サラダの他は何にしようかなあ。
しかし本当に、播上はどういうつもりで私にご馳走してくれるって言うんだろう。日頃の感謝を込めて、とか? いやいや、世話になってるのはこっちの方だし、何かしてあげた覚えもない。かといって私の誕生日はまだ先だし、祝ってもらうようなこともない。ちっとも心当たりがなかった。
あとは――そうだ、あの日が近い。
スーパーの催事コーナーに用意されているのはチョコレートの山。
平凡な板チョコからキャラクターもの、ウイスキーボンボンに至るまで、それなりに取り揃えられている。バレンタインデーはもうすぐだった。
まさか播上は、バレンタインのチョコ代わりにお弁当を作ってくれるとか……なんて、まさかだよね。普通に考えてこっちは貰う方じゃないし、貰う理由もない。もしくは、チョコレートの催促をする気だとか? あ、そうか。そういうこと?
メシ友の関係でも、いやむしろそういう関係だからこそ、バレンタインデーにチョコをあげたことはなかった。というのも我が社では、女子社員がお金を出し合ってチョコレートをまとめ買いするという、よく言えば効率的、ぶっちゃけるとロマンのかけらもないようなチョコ贈呈式が執り行われていたからだ。私は毎年素直に出資していたし、播上もそのチョコを貰っていたはずだから、個人的にあげる必要もないなと思っていた。
でも、播上としては個人的なチョコが欲しかったのかもしれない。つまり、メシ友の製菓の腕を見る為に――なるほど。そう考えると納得もいく。バレンタインデーに向けて、『俺は弁当を作ってくるからお前はチョコを作れ、但し全力で!』という挑戦を寄越す気なのかもしれない。ちょっとずつ腕を上げてきた私を、試してやろうって気になったのかもしれない。だとしたら光栄だ。その挑戦、受けて立とうじゃないの。
もし万が一、その推測が的外れでも、まあまずいことはないでしょう。手作りだけど深い意味もないチョコレート、播上なら気楽に受け取ってくれるはず。それにバレンタインデー当日に渡す訳じゃない。フライング気味だけど明日、お弁当と交換で渡すってことにすれば、余計な誤解もさせずに済みそうだ。
私は意気揚々と、バレンタインデーの為の材料を買い込んだ。
明日はお弁当の代わりに、チョコレートを持っていこう。そして播上を驚かせてやろう。
翌日。昼休みに入るとすぐ、播上は私を呼びに来た。
「清水、行こう」
「うん」
私は頷いて、こっそりチョコレート入りの包みを手に取る。それを後ろ手に隠して、播上の後に続いた。
社員食堂は毎日大盛況だ。お弁当持参の私たちは、いつも隅の方の席に座るようにしている。
チョコレートを播上に見えないようにテーブルの上に置くと、私は差し出されたお弁当箱に目を向けた。いつも播上が持ってくるのと同じ、色気のない金属製のお弁当箱だった。
「今日も自信作?」
そう尋ねると、播上は胸を張る。
「もちろん、美味いよ」
そこで私はいそいそと蓋を開け、中身を確認した途端、にやっとしてしまった。ハンバーグ、アスパラのベーコン巻き、ほうれん草のオムレツ、コーンサラダ。これでもかと居並ぶおかずはどれもこれも美味しそうだった。ちょっとカロリー高めだけど、今日は気にしない。
「美味しそう!」
思わず手を叩けば、隣で播上も肩を揺らしてみせた。
「だから、美味いって。食べてみれば?」
「そうする。いただきまーす」
「どうぞ」
早速、いただく。――今日もまた外れなく美味しい。ハンバーグもアスパラベーコンも柔らかくて、オムレツはコショウが効いていた。コーンサラダはほんのり甘くて、箸休めにぴったりだ。隙のない美味しいお弁当を、私は存分に堪能する。
「さっすが播上、とびきり美味しいよ」
「そっか。よかった」
胸を撫で下ろした播上も、自分のお弁当をつつき始める。メニューは全部同じだった。でも心なしか、いつもよりゆっくり食べている。のろのろとした箸は時々止まって、何かを考えているようにも見えた。
播上、何か変。いつもと様子が違うみたいだ。
そういえばこのお弁当のことも、まだ聞いてなかったな。どういう経緯で私に作ってこようと思ったのか。バレンタインデーは関係あるのか、否か。気になったから、すぐに尋ねてみることにした。
「ところで、播上さあ」
「ん?」
はっとしたように播上が面を上げる。その時、箸は完全に止まっていた。
私はそれに気付かないふりで、ちょっと笑いながら尋ねる。
「どうして私に、お弁当を作ってくる気になったの?」
別に迷惑だった訳じゃないし、うれしかった。それにもちろん、美味しかった。だから感謝はしている。
だけど、何か理由があるのかなって気もしたから――別にないならいいんだけどね。とりあえずお礼の用意は出来てるし。催促ならいつでも来いだ。
返事を待っていた。
ところが、播上はなかなか答えない。視線を上げて窺えば、お弁当を見下ろす横顔が強張っている。どうしたんだろう、やっぱり様子がおかしい。
「播上?」
私が名前を呼ぶと、播上はこちらを見ずに、ああ、と答えた。それから、騒がしい食堂では拾いにくい、微かな声で言ってくる。
「――清水」
「何?」
「俺、さ。清水には、早めに言っとこうと思ったんだけど」
言っとこうって、何を?
瞬きしている間に、播上が続けた。
「……俺、辞めるんだ。この仕事」
周囲の騒がしさがその時、さあっと引いていった。
私はぽかんとしていたけど、もちろん、その言葉が理解出来ない訳じゃなかった。ちゃんとわかっていた。誤解のしようもない言葉だった。
播上が――辞めるって。会社を。同期入社で、ずっと仲良くやってきた播上が。大切な、メシ友が。
「年度末で辞めることになってる。辞表も出してきた」
私にだけ聞こえるような声で、播上は言う。私はそれを、決して、聞きたかった訳じゃないけど。
聞きたくない言葉だった。だって。
「ずっと迷ってたんだけどな。この仕事も楽しいし、悪くなかったけど、やっぱり……他にやりたいこともあったからさ」
播上は少し、笑ったようだ。そんな風に聞こえた。
「仕事辞めて、店、継ぐつもりなんだ」
ああ、そうだっけ。播上の家は小料理屋をやっているんだ。だから播上は子どもの頃から料理をやっていて、すごく上手くなったんだ。播上ならちゃんとお店を継げるだろう。何の問題もなくやっていけるだろうと思う。
「清水にはいろいろ世話になっただろ? まだ皆には言ってないけど、お前には言っとこうと思って」
そう言って、播上は私の方を見た。ぎこちない笑みが浮かんでいる。昼休みの見慣れた顔。大切な友の顔。
「上には話通ってるけど、皆にはまだ黙っててくれ」
播上の硬い笑顔を、私はぼんやりと見つめていた。メシ友の新しい門出の時を、祝うことさえ出来なかった。
そりゃあ、播上なら何の心配もないだろう。料理を本職にしたって立派にやっていけるだろう。間違いなく成功する。メシ友として、私が太鼓判を押してやる。
でも、私はどう? これから先、播上のいない昼休みを過ごすこととなる私は、ちゃんとやっていけるだろうか。寂しくないだろうか。
播上がいたからお弁当作りだって続いた。料理、上手くなってやろうと思えた。毎日がすごく楽しくて、張り合いもあった。播上と過ごす昼休みが好きだった。昨日だって播上の為に、チョコレートを用意しようって気にもなった。
そういう気持ちは全部、これからも保ち続けていられるだろうか。
しばらく、気の抜けたようになっていた。何か言ってあげるべきなのに、何も言葉にならなかった。播上の笑顔に応える気力さえ、ない。
「清水? 怒ってるのか?」
やがて、播上が不安げに尋ねてきた。
まさか。怒る理由なんてない。前もって話しておいてくれたらなと思わなくもないけど、メシ友の間柄じゃそんな義務もないでしょう。私たちの関係なんてそんなものだ。播上は別に、悪くない。
怒ってなんかない。
ただちょっと、泣きたくなってしまっただけだ。
「播上、これ、あげる」
私は彼に向かって、隠していたチョコレートを差し出した。
「バレンタインデーのチョコ。少し、早いけど」
ロマンのかけらもないチョコレートとは違う、初めての、個人的なチョコレートだ。
当然、播上にはびっくりされた。目を丸くして、私とチョコレートとを見比べている。
「開けてもいいのか?」
その問いに私が頷くと、播上はゆっくり包みを解いた。
中から現れたのは定番のチョコブラウニー。もちろん、美味しいはずだった。播上の為に作るものだから、絶対に手を抜いたりはしなかった。
播上がチョコブラウニーを一切れつまんで、口に運ぶ。少ししてから、言ってくれた。
「美味しい」
よかった、大成功だ。堪らなくうれしかった。
やっとのことで、私は笑うことが出来た。精一杯笑いながら、お弁当そっちのけでチョコブラウニーを食べてくれた播上に言った。
「チョコのお返しに、連絡先教えて。お店、絶対行くから」
これからも播上の作った料理が食べたい。これからは、もうタダって訳にはいかないんだろうし、メシ友なんて間柄でもいられないんだろうけど、ちょっとでもいいから繋がっていたかった。播上の作ったものが食べられるなら、どこへだって行くつもりだった。これからも追い駆けたかった。
播上は何か言いたげに、私の顔を見つめ返してきた。それから、やっぱり周りに聞こえないよう、微かな声で言ってきた。
「清水、お前さ」
「……何?」
「女将になる気、ない?」
真剣な眼差しがぶつかってくる。
その言葉が理解出来ない訳じゃなかった。けど。
「女将?」
ぼんやりしながら尋ね返せば、播上はちらと目を逸らして、気まずそうに続ける。
「今、すぐじゃないけど。……いつか、一緒に店、やれたらなって」
理解出来た。ちゃんとわかっていた。ある意味、誤解のしようもない言葉だった。
でも、答えには詰まった。嫌じゃない。ちっとも嫌じゃないし、うれしかったし、これからも播上を追い駆けていけるならそれでよかった。一緒にいたかった。
つまりは、メシ友期間が長かったから。長すぎたかもしれない。そのせいで、答えははっきりしているのになかなか言えなかった。
しかも、
「か、考えとく。前向きに」
さらりと答えたかったのに、声、裏返った。
一瞬間を置いて、播上は笑い出した。
すぐに私もつられて笑って、それから二人で、残りのお弁当とチョコブラウニーを食べ始めた。
ランチタイムは残り僅かだけど、ちっとも寂しくなんかない。張り合いがあるっていうのは本当に大事なことだと思うよ、実際。