六年目(4)
清水は、店のカウンターにいた。看板ものれんも出ていない、だが照明はしっかりと点いている店内。カウンター席の端っこに、落ち着かない様子で座っていた彼女は、俺が出て行くとたちまち笑顔を浮かべた。
「それが仕事着?」
「ああ」
彼女の目がこちらを向くと、恥ずかしくなる。あまり似合っていないのは自覚済みだ。彼女にはどう見えたのか、真っ先にちょっと笑われた。余計に照れた。
「やっぱり、似合ってないか?」
「ううん。今はまだ、可愛いって感じかな」
下された評価に思わず苦笑してしまう。
「七五三っぽい?」
「そこまでは言わないけど、着られてるようにも見えるなあ。でも直に慣れるよ、きっと」
「清水は優しいな」
精一杯フォローしてくれているのがわかる。その気持ちは嬉しいが、早くちゃんと似合うようにもなりたいものだ。
「ところで、ご注文は?」
カウンター越しに俺は尋ねた。姿勢よく座る彼女が、そこでひょいと首を傾げる。
「何でも食べるよ、私。何でもいいって言ったら困る?」
そう言った彼女の方が困っているみたいだ。すかさず助け舟を出してみる。
「じゃあ食べたい物じゃなくて、これはちょっとパスって注文でもいい」
「そうだなあ、強いて言うなら……」
清水は眉間に皺を寄せた。しばらく間を置いてから答える。
「揚げ物以外なら何でも。あとは、播上の得意な献立でいいよ」
それで俺も献立を決めた。得意と言うほどではないものの、みっちり練習している品がある。父さんと母さんがご飯と味噌汁の用意をしててくれたから、昼飯らしい和定食にしよう。
「だし巻き卵でいいか? 大根おろしもつけるから、あっさり食べられる」
「うん!」
確認すると、彼女が満面の笑顔で頷く。食べる前から美味しそうな顔をしている。
だし巻き卵はここ最近、みっちり作り込んでいる品だった。
父さんは俺の調理デビューの品をだし巻き卵に決めたらしい。まずはこれを上手に、失敗なく作れるようになれ。そう言われていたから、まかない料理として毎日のように練習していた。今のところは焼き時間と巻きのタイミングが課題だ。
「頑張れよ」
浅漬けを小皿に取り、味を見ながら父さんが言う。その横では母さんが、茶碗や箸の用意を始めている。二人ともここで見守るつもりらしい。
「うん」
俺が顎を引けば、母さんがうきうきと励ましてくる。
「大丈夫。いざとなれば料理は愛情って言うでしょう、何とでもなるわよ。あんまり気負わないでね、正ちゃん」
愛情だけで何とかなるなら、世界中の料理人はそれこそどうにでもなると思う。
美味しく食べてもらおう、喜んでもらおう、そんな気持ちだけではどうしようもないから料理は難しい。
ただ俺は、清水のことを知っている。彼女がどんな味を好んで、どんな料理に特別喜ぶか、それはしっかりと理解している。そういう意味でやはり、料理に愛情は有効なのかもしれない。それも生半可な気持ちでは駄目だ。
食材はどれを使ってもいいと言われていた。だし巻き卵以外のメニューは、冷蔵庫と相談して焼きナスと長いも短冊に決める。どちらも手早く作れる品だから、手間の掛かるだし巻き卵と並べるのにちょうどいい。
溶いた卵を一番出汁で延ばし、砂糖と醤油とみりんで味を調える。空焼きを終えた鍋に薄く油を引き、卵液を流し入れる。卵の焼けるいい音と、いい匂いがする。
愛情は、すなわち信頼だとも言える。彼女は俺を信じてくれている。だから俺も彼女の気持ちと、彼女に対する俺自身の気持ちを信じていよう。――そう思うと、自然と気負わずに卵を巻けた。
だし巻き卵が焼き上がった後、ナスを開いて焼く。ナスが焼きあがったら皮を剥いで、鰹節としょうがを乗せる。長いもは皮を剥いてから短冊切りにして、細切りの海苔を掛けておく。最後に卵を切り分け、大根おろしを添える。夏場に相応しい定食メニューの出来上がり。
「待ってました、いただきまーす!」
カウンターに三品とご飯、味噌汁、漬物を並べると、清水が手を合わせる。
そしていそいそと、箸を持って食べ始めた。相変わらずの健啖家ぶりは見ていても気分がいい。出汁の染み出す卵を食べて、すぐに表情を緩めるのも可愛い。
「美味しい!」
「よかった、そう言ってもらえて」
信頼はしていたが、胸は撫で下ろしてしまう。彼女に美味しい顔をしてもらえて本当によかった。しばらくカウンター越しに、清水の食べっぷりを眺めていた。
やがて視線に気づいてか、清水がはたと箸を止めた。俺も慌てて目を逸らす。
「あ、悪い。じっと見てた」
「ううん、それはいいんだけど」
彼女は一度言葉を区切って、それから静かに言葉を継ぐ。
「ただ、すっかり料理人になっちゃったんだなあって」
「まだまだだよ。そんなふうに言ってもらえるほどじゃない」
「でも私の知ってる播上は、いつもネクタイ締めてたから」
視線を戻すと、清水はどこか複雑そうな面持ちでいた。
「スーツにネクタイじゃない播上を見るのって、すごく嬉しいような、ちょっとだけ寂しいような、変な気分。本当にお店の人って感じなんだもん」
俯き加減の彼女を、俺も少しだけ複雑に思う。
カウンター越し、客席と調理場の距離は思いのほか大きい。もしかすると片道六時間、三百キロよりずっとずっと遠いのかもしれない。この距離を乗り越えようとする方が、遠距離恋愛よりもはるかに難しいのかもしれない。
だが、決して縮められない距離ではない。
「じゃあ、清水もこっちに来るといい」
俺はそう思って、告げた。
顔を上げた彼女が怪訝そうにする。
「清水にも『お店の人』になって欲しい。前も言ったけど」
続けた俺の目の前で、清水はゆっくりと瞬きをした。何か言いたげに口を開き、しかしふと、店の奥の方を見やる。気がついたような面持ちで、ちらと頬が赤くなる。
俺も彼女の視線を追い、奥から顔だけを覗かせている母さんを見つけた。
ああ、そういえば、まだいたんだっけ。
「あら、お母さんお邪魔だったかしら」
母さんは冷やかすように微笑んでいる。
「そう思うなら外してくれよ」
俺が溜息をついても聞こえていないそぶりだ。
「何だか昔を思い出すわあ。お父さんとお母さんにもこんな頃があったのよ。お母さんだって昔は、清水さんに負けないくらい可愛かったんだから。ねえお父さん? ……あら?」
父さんに同意を求めようとした母さんが、そこできょろきょろする。
「お父さーん? さっきまでいたのに……一体どこへ行ったのかしら?」
そういえば、父さんの姿が調理場にない。店にもない。水を向けられることを予期して逃げ出したのかもしれない、漠然と思った。
まあ、あの二人のことはともかくとして。
「こんな騒がしい店でよければ、来てくれないか」
母さんが父さんを捜しに戻った隙、俺は清水に告げた。
清水は間髪入れずに頷いた。
「素敵なお店だよ、本当に」
そして再び、美味しそうにご飯を食べ始めた。
一泊二日は、俺にとってもあっと言う間の出来事だった。
清水が向こうの街に帰る日、俺は見送りも兼ねて彼女の車に同乗した。せっかくだから二人で過ごす時間も欲しかった。彼女もその気持ちを酌んでくれたのか、駅前の駐車場で一度、車を停めてくれた。
「ここなら播上の家からも近いし。私も道に迷わないから」
エンジンを切った後、清水がそう言って苦笑する。
「この街の地理は全然ないから、駅から国道に乗るルートしかわからないんだよね」
「もっとあちこち、案内してやれたらよかったんだけどな」
昨日は結局、店で彼女に昼飯を振る舞っただけで時間がなくなってしまった。今日ももうじき午前が終わる。そうしたら彼女は向こうに帰ってしまう。また会えるとわかっていても寂しさはどうしようもない。だからせめて、わずかな残り時間を楽しく過ごしたかった。
「いいよ、今度来た時にするから」
彼女は首を横に振る。それから思いついたような顔で、再びエンジンを掛けた。
「あ、ごめん。窓開けた方がいいね」
コンパクトカーの窓が四つ、唸り声を上げながら一斉に開いた。エンジンが切られると、駅前の喧騒と潮風の立てる音が聞こえてくる。炎天下の駐車でも、窓を開けていればいくらかは涼しかった。
天気のいい日だった。
七月の半ば、日曜の正午前。強い陽射しのせいで気温は容赦なく上昇している。風が多少あるのが救いだ。
「潮風って、やっぱりいいな」
清水が座席に寄りかかり、心地よさそうに目を閉じる。その言葉で、ああ、と俺は思い当たった。
「海が好きなんだよな、清水。どうせなら海まで行けばよかったか」
「それも今度でいいよ。明日は海の日だし、今日辺りは海辺も混んでるんじゃない?」
「かもな」
もうじき夏休み期間だ。縁がなくなってから久しいが、街中が賑々しくなるのはよくわかる。うちの店も観光客のお蔭で稼ぎ時となる。しばらくは忙しいかもしれない。
「そうだ、七月って言えば」
彼女は急に目を開けたかと思うと、身を起こして俺に尋ねてくる。
「播上の誕生日プレゼントを買いたいと思ってたの。今から行かない?」
「ああ、プレゼントか」
相槌を打つと、清水は難しげな顔で続けた。
「今年は手作りケーキ持ってくってわけにもいかなかったし、かと言って栄養ドリンクなんて今更、色気もないし。そもそも播上がどんなふうにお仕事してるか知らなかったから、何をあげていいのかわからなかったんだ。どうしようかちょっと悩んだんだけど」
その口ぶりだと、もしかして相当悩ませてしまったんじゃないだろうか。別にいいのに、プレゼントなんてなくても。
「だからどうせなら、播上に選んでもらった方がいいかなって。どうかな?」
「いや、気持ちだけで十分だ」
だから俺はかぶりを振った。清水が目を丸くするから、照れつつも言い添えておく。
「お前がこっちに来てくれただけで、いいプレゼントになった」
でも、清水は唇を尖らせて反論してくる。
「私の誕生日には貰ってたのに、お弁当箱」
「俺はちゃんとわかってるからな。何をあげたら、清水が喜んでくれるか」
「あ、私が全然わかってないような言い方してる」
ますます清水が拗ねてしまう。彼女は今年の五月、去年と同じプレゼントでも全く気にせず喜んでくれた。さすがに模様は違うのを選んだが――二羽の小鳥の柄にした。去年よりは落ち着いた、でも可愛いデザインだった。
「本当に、会えただけでも幸せだった」
俺は念を押しておく。だから誕生日プレゼントなんて要らない。清水がいてくれたらそれでいい。
彼女もようやく表情を和らげてくれた。
「じゃあ……遅くなったけど、お誕生日おめでとう、播上」
「ありがとう。二十八だな、お互いに」
「そうだね」
何が楽しいのか、ふふふと笑う彼女。とびきり明るい笑い方は、初めて会った頃とちっとも変わっていない。
「初めて会ったのは二十二の時だっけ」
偶然にも、清水も似たようなことを思い出していたらしい。
「そうだな。入社式の時だ」
「そっか。いろいろあったよね、あの頃から五年……今年が終わったら六年かあ」
いろいろ、なんて言葉では表せないくらい、本当にたくさんの出来事があった。
六年目の今、こんなふうに二人で思い出を振り返る時が来るなんて、あの頃は想像もつかなかった。
「最初のうちは、思ってた」
俺はぼそぼそと打ち明ける。
「一生、清水の為だけに料理を作りたいって。俺は、清水に食べてもらうだけに料理をして、そして美味しいと言ってもらえたら、それだけでいいと思ってた」
彼女がくるりとこっちを向く。くすぐったそうな顔をしている。
今度は俺までくすぐったくなったから、目を逸らして、続けた。
「でもその後で、思い直した。清水とは、一緒に料理を作る方がいいって。食べてもらうだけじゃなくて、二人で作って、二人で一緒に食べるのがいいはずだって。――昨日も思った」
カウンター越しの距離だって縮められるはずだ。彼女なら。二人でなら。
「だから、これからも一緒に……」
「うん」
最後まで告げる前に、彼女が返事をしてくれた。目の端に見た横顔は穏やかだった。
「嬉しいな。播上に認めてもらえたなんて」
「俺の認定なんて大したものじゃないよ」
「そんなことない」
きっぱりと彼女が言い切る。
「料理人なんてまだまだだって、播上は昨日言ってたけど……それを言ったら私なんて全然だもん。もっと頑張らなくちゃいけないのはわかってる」
六年目の清水もものすごく負けず嫌いだ。俺は笑いたいのを堪えた。
でも、彼女のそういうところがいい。
「播上と一緒なら、いくらでも頑張れる気がするよ」
その清水が強気な笑顔で言ったから、負けず嫌いの気持ちごと、支えていけたらいいなと思う。俺は俺で、今もいろんな気持ちを彼女に支えてもらっているから、そうやって二人で夢を追っていけたら。
「そういえばさ」
夢という言葉でふと、思った。
「清水の夢も、いつか叶えられたらいいな」
俺に叶えることが出来たらいい。そう思って言ったのに、運転席の清水には、なぜか訝しそうにされた。
「私の夢?」
「そうだよ。前に言ってただろ、自分で」
「え、何だっけ。ごめん、思い当たらないや」
昨日の頼もしさはどこへやら、清水はあどけない顔をする。
俺は苦笑しながら答えを口ににした。
「ほら、お母さんになりたいって言ってたじゃないか」
「……あ」
「清水はきっと、いいお母さんになれるよ」
言ってしまってから、俺は急に恥ずかしくなった。
そもそも清水がお母さんになるってことは、お父さんもいるってことじゃないか。当たり前だ。それが俺だとしたら、俺の子なんかでいいのかとも思うし、結婚している自分すら想像出来ないのに子供のいる自分の姿なんてイメージのしようもない。大体、そうなったらうちの両親はお祖父さんお祖母さんになってしまう。それもまた違和感がある。うちの父さんが嬉々として孫を抱いている姿を思い浮かべそうになって、ないよな、と思い直した。
未来の話は想像の中ですら曖昧で捉えどころがない。俺が照れ笑いを噛み殺していると、隣では呻くような声がした。
「そっか、そうだね。子供の話とか、普通にするようになるんだよね」
「え?」
俺は彼女に目をやって、彼女がいつの間にかハンドルに突っ伏していることにやっと気がついた。短い髪の隙間から覗く耳が、やけに赤い。夏だからか。
「どうした、清水」
尋ねると、低く、清水が答える。
「今更なんだけどね」
「ああ」
「私、播上の奥さんになるんだなあって、実感したとこ」
「本当に今更だ」
少し呆れる。鈍感なのは清水らしいが、あまりにも今更過ぎる。
「でもほら、私達、昨日初めて手を繋いだくらいだから」
そうだった。実はあれが最初だ。
「何かその……あんまり恋人らしいことって言うか、そういうのって想像出来なくて、何て言うか」
彼女はもごもごと弁解らしいことを口にする。
「何か、照れるよね。こういうのって」
清水にまごつかれると、こっちまでうろたえたくなるから困る。子供の話を出したくらいでこうなんだから、手を繋ぐ以上のことをしたらどうなるのか――でもちょっと見てみたいかもしれない。
内心、割と狼狽しつつ、俺は彼女の肩に手を置いてみる。ハンドルに上体を預けていた彼女が、おずおずと顔を上げたタイミングで身を乗り出し、赤い頬に唇で触れた。
一瞬だった。清水の頬が柔らかいのかどうかすら、わからないくらいだった。味見にしても味がわからないような、ごく少々のキスだった。
それでも、清水にはてきめんに効果を発揮した。
「車の中って丸見えなのに!」
真っ赤な顔で叫ばれた。
「いや、一瞬だっただろ。大丈夫だよ、多分」
「窓だって開いてるのに!」
「そんなの、清水の方が大声出してるじゃないか」
「するならするって言ってよもう!」
駄々を捏ねるように文句を言った後、彼女は再びハンドルに突っ伏す。その後で、消え入りそうな声で言われた。
「これから、車運転して帰らなくちゃいけないのに」
「あ。それは、悪かった。是非とも安全運転で帰ってくれ」
「そう思うなら気をつけて欲しいなあ……次は」
彼女が帰っていった後、向こうに着いたと連絡があるまで、本当に気が気じゃなかった。
そこで思う。キスは時間のある時に、余裕を持ってすべきことだった。次は気をつけてと言われたから、必ずそうしよう。
あとは次の機会がどのくらい先にあるか、それが問題だ。