menu

六年目(1)

「正信、ハガキが来てたぞ」
 父さんが言って、居間のテーブルの上にそれを置いた。
 俺はその時、店で着る甚平にアイロンを掛けていたところだった。手が離せなかったので、ちらと横目でだけ見た。どこかの山の景色がプリントされた絵ハガキのようだ。
「いつもの人だな、昔の先輩だったか」
「うん」
 夏場のアイロン掛けは、六月の時点で既にきつい。店は夜からだから昼間のうちに済ませておかなければならず、余計に堪える。終わる頃には背中まで汗を掻いていた。
 もっとも、会社勤めの頃だってアイロン掛けは欠かせなかった。掛けるものが変わっただけだ。ワイシャツを着る機会はもうしばらくないだろうが、だからと言って俺のすべきことが大きく変わるわけでもない。
 実家へ戻っても、仕事の中身ががらりと変わっても、俺は自分のペースを保っている。
 アイロンの後片づけを終えてから、俺はようやく絵ハガキを手に取った。
 差出人はやはり藤田さん――訂正、『旧姓』藤田さん、だ。
 俺は会社を辞めて故郷に戻ることをあの人にも知らせた。そうしたらあの人は絵ハガキを送ってくれるようになった。表面に記されているメッセージはいつも短く、だからこそあの人とも文のやり取りなんてものが成立するのかもしれない。
 今日のハガキにはこうあった。
『結婚する時は知らせてよね、待ってるから』
 そっけなく見える文面。俺は少し笑って、手が空いたら返事でも書こうかなと思う。そのうちに報告すべきことが出来るはずだった。
 ハガキを手に部屋へ戻ろうとした俺を、父さんの低い声が引き留める。
「それで、いつにするんだ。結婚は」
 問われて、俺は振り向いた。
 父さんはこちらを見ずに、床に座ったまま遠くを見ている。南向きのベランダから射し込む光を眺めている。
「いや、まだ決めてない。お互いに都合がよくなったらと思っているけど」
 首を傾げて曖昧に答えれば、やはり俺の方は向かず、ぼそりと語を継いできた。
「早めにした方がいい。逃げられるぞ」
 冗談でもない口調だった。
「大丈夫だよ」
 こっちに帰ってきてから、父さんは俺と清水のことをよく尋ねてくるようになった。こうして先行きについてずばりと尋ねられるのもしょっちゅうで、生真面目な父さんが息子の色恋沙汰に興味を示すとは意外すぎた。それだけ心配されているようだから、そのうちに安心させられたらいいと思う。
 気に掛けてくれているのは父さんだけではない。藤田さんだってそうだし、あいつもそうだ。

 近頃、渋澤からはよく電話が掛かってくるようになった。
 支社と本社で離れていた頃より、現在は更に物理的距離が開いている。なのに度々連絡をくれるのが何だか不思議なものだなと思う。
 今日も、昼過ぎに電話があった。土曜日だからあいつは休み、掛けてくるんじゃないかと思っていたら大当たりだ。
『――女心って、難しいな』
 やぶからぼうにそんなことを言い、渋澤が溜息をつく。
 奴からの電話はここのところ始終湿っぽい。俺は苦笑いを噛み殺しながら応じる。
「そうだな、難しいよな」
『播上はいいだろ、清水さんと相思相愛なんだから。僕なんかどうにも……』
「その分だと、相変わらずみたいだな」
『そうなんだよ。彼女は本当に手強い』
 春先からずっと、渋澤はこんな調子で溜息ばかりついている。
 聞いたところによると奴は、同じ職場で働く女の子にすっかり惚れてしまったらしい。相手の女の子は渋澤にとっての部下に当たるらしく、その辺りがネックになっているのかどうか、相手からは今のところ色よい反応を貰えていないのだそうだ。
 それにしても、あんなにもてる男を袖にする女の子とは一体どんな子なんだろう。渋澤の話を聞く限りでは真面目な子のようだが、俺からすると『袖にされる渋澤』というのがまず想像出来ない。俺の知っている渋澤瑞希という男は、社員食堂でも飲み会でも女の子に囲まれているのが常だった。それがたった一人の子に振り回されているというんだからわからないものだ。
『女の子って、何でああも鈍感なんだろう』
 俺の思案をよそに渋澤がぼやく。
『面と向かって口説いたところでこっちの言葉を素直に受け取らないし、それならと思って搦め手で行けば、知らん顔してすり抜けていくんだからな』
 その辺りはわからなくもない。俺は面と向かって言えたためしはなかったが、彼女も彼女で鈍感だったよなと思う。
「わかるよ。女の子って揃いも揃って鈍いよな」
『違うだろ。お前と清水さんの場合は二人とも鈍かった』
 失礼な言い種だと、こっちはこっちでむっとした。
「俺はそんなことない」
『ある。お互い自分の気持ちに気づくまで何年掛けたんだ? なかなかいないぞ、お前達みたいなのんびり屋は』
 そうかな。俺は三年掛かったが、そのくらいは普通じゃないか。清水なんて五年も掛かった。俺より彼女の方が鈍いのは確実だ。五十歩百歩かもしれないが、とにかく。
「俺達のことはいいよ」
 やぶ蛇と踏んで、俺はそこで話題を戻した。
「渋澤も頑張ってくれ、上司と部下ならいろいろ難しいかもしれないけど」
『そんなことは、僕は気にしない』
 言い切ったな渋澤。そこは多少気にしておくべきじゃないのか。俺の懸念をよそに奴は続ける。
『それより何か方法はないか。彼女に僕の気持ちを受け入れてもらう手段は』
「お、俺に聞かれてもな。むしろ聞くなよ」
 愚痴を聞くだけならともかく、恋愛経験という点で俺が渋澤に敵うはずがない。聞く相手を間違っている。
「悪いけど、そういうのはわからない。俺だって女心には疎い方だし」
 そう答えると、渋澤が鼻を鳴らしたのが電話越しにもわかった。
『何を言うんだか。付き合ってもいない清水さんにいきなりプロポーズしたくせに』
「いや、だからそれは……」
『それで上手くいっといて、何の手練手管も使ってないなんて言わせないぞ播上』
 むしろ疎いから、ああまで単純に出来たのだと今は思う。あれは相手が清水だから通じたやり方だ。
『それで、いつ頃結婚するんだ?』
 渋澤がストレートに尋ねてくる。
 俺は父さんに聞かれた時と同様、曖昧に答える。
「わからない。お互いに落ち着いてからだと思う」
『そうか。遠距離恋愛、辛くないか?』
「寂しくないとは言わないけど、まだ辛いってほどじゃないな。こっちはこっちで忙しいし、彼女も仕事がある」
 日中は店の仕込を手伝い、時間があれば父さんから料理の基本を習っている。夜は店が開くからその手伝いをして、寝つくのはいつも日付が変わってからだ。清水とは毎日のようにメールを交換しているが、時々声が聞きたくもなるし、電話をすればしたで顔が見たくなる。
『よくやってるよ、播上。店の方だって大変なんだろ?』
「そりゃあな。でもまだまだ、大変なのはこれからだ」
『すっかり落ち着いてるな、立派じゃないか』
 渋澤に誉められて、内心照れた。
 立派と言われるほどのことはしていない。店でもまだ下働き扱いだし、清水のことだって結局は何も出来ていないのに等しい。彼女は文句の一つも言わずにいるものの、寂しい思いをさせている罪悪感もある。
 だからもう少し、どちらの面でも出来ることを増やしたかった。
『僕は駄目だ。寝ても覚めても彼女のことを考えてしまって、とてもじゃないけど播上のように泰然としてはいられないよ』
 俺も泰然としているわけではないのだが、渋澤はそう言ってまた溜息をつく。
『何かいい手はないかな、播上』
「だから俺に聞かれても。女心についてなら、いっそ清水に聞けばいいじゃないか」
 特に案も浮かばずそう言えば、渋澤からは挑発的な物言いが返ってくる。
『いいのか? 僕が個人的に、清水さんと連絡を取り合っても』
 ほんのちょっと、どきっとした。
「……べ、別に。俺はそういうのは、ちっとも気にしない」
『今の微妙な間はどうした。嘘はいけないな嘘は』
 一応、嘘ではないつもりだった。
 が、俺の提案は結果的に立ち消えとなった。
 それにしても、あの渋澤が恋煩いとは世の中わからないものだ。
 あいつも意地の悪いところとしつこいところはあるものの、基本的にはすごくいい奴だ。相手がどんな子かは話でしか知らないが、いつか上手くいけばいいと思う。片想いの辛さは俺だって身に染みているから、心から思う。
 そして、渋澤との通話を終えると、いつも清水のことを考える。
 無性に彼女と会いたくなってしまうから、恋心には伝染性があるのかもしれない。

 うちの店が開くのは午後五時だ。
 夏場なら、まだ辺りの明るい頃。暮れ出した空の下、点在する水銀灯がぽつぽつ点り始める頃。
 外へ出した看板にも明かりを点せば、お客さんもぽつりぽつりとやってくる。
 間接照明の柔らかい光の中、壁や天井は白粉を叩いたような淡い色合いで照らされている。内装は飾り気こそ少ないが無骨ではなく、掛け軸や花瓶に至るまで父さんと母さんが念入りに選んできたものだった。隅々まで気の配られた店内へ、仕事着の甚平を着て立ち入ると、俺も否応なしに気が引き締まる。
 カウンターや小上がりを含めてもお客さんが二十人が入れるかという広さで、そのせいか週末はすぐに満席となってしまう。一方で平日の夜にはカウンター席しか埋まらないこともあったりする。静寂も賑わしさも似合う店、というのが俺の印象だ。いろんな匂いもする。焼き物、煮物、揚げ物、それから酒の匂い。小さな頃から嗅ぎ慣れている、美味しいものの幸せな匂い。
 今日は土曜日だった。騒々しくなる店内で父さんは料理の腕を振るい、母さんはてきぱきと配膳をする。そして俺は、確実に出来る範囲内の仕事をこなす。今のところはビールのケースを運んだり、配膳に皿洗いにと下働きが主だ。俺の料理はまだ人前に出せるものではなかった。

 常連さんの中には、俺のことを覚えている人もちらほらいた。
 戻ってきたのがほぼ九年ぶりとあってか、俺の顔を見る度に驚かれた。
「へえ、正信くんも大人になったもんだ。昔はひょろっとしてたんだがねえ」
 さすがに十年近く昔と比べられれば面映い。俺だってもうじき二十八だが、年上の人達からすればまだまだガキでしかないんだろう。
「大将も安心したでしょう、正信くんがお店継いでくれるんだから」
 カウンター席の常連さんに声を掛けられ、父さんは平然と答える。
「まだ安心は出来ませんよ。今の腕じゃあ店なんて譲れませんからね」
 そんな時の父さんは実に嬉しそうな笑みを浮かべている。
「そうそう、まだまだなんですよ」
 母さんが相槌を打つ。お客さんのところへ瓶ビールを運んでいきながら、うきうきした声で続けた。
「まだ甚平に着られてるありさまですもの。まずは似合うようになってくれないとね」
 皿を洗う俺は、その言葉にそっと苦笑する。
 久し振りに袖を通したせいか、あるいはこの間までスーツにネクタイという生活を送っていたせいか、俺の甚平の似合わなさといったら酷いものだった。着続けていれば向こうが合わせてくれるわよ、とはうちの母さんの弁だが、今のところは店内でも唯一浮いているのが現状だった。
「それに正信も、お店を継ぐより可愛いお嫁さんを貰う方が先だものね?」
 母さんは、店では俺のことを『正信』と呼ぶ。お客さんの前だからということらしいが、だったらどうして普段からそうしてくれないのか非常に疑問だ。
 そして店で俺のことを話の種にするのもやめて欲しい。
「あれ、正信くん。もしかして決まった相手でもいるのかい」
 早速、常連さんの一人が食いついてきて、俺より早く母さんが答えた。
「そうなんですよ。正信ったら、向こうで彼女を作ってきたんですって」
「ちょ、ちょっと母さん……!」
 制止を口にしようとしても時既に遅し。お客さんは次々と話題に乗っかってきた。
「おお、そりゃめでたいね!」
「やっぱり将来は女将さんになって貰うんだろうね?」
「可愛いお嫁さんが店に出るなら、通う楽しみも増えるなあ!」
「どんな子なんだろうな。早く連れといでよ正信くん!」
 囃し立てられた俺は黙って母さんに抗議の視線を送った。しかし母さんはどこ吹く風で、カウンター越しに父さんへと水を向ける。
「お客さん達も若い女の子の方がいいんですって。ここは早いうちに身を固めてもらわないとね?」
 包丁を持つ父さんは少しだけ笑う。
「そうだな。早いうちに貰ってきた方がいい」
 母さんの言葉を否定したり、咎めたりはしない。
 例によって父さんは、俺が清水に愛想を尽かされないかがいたく心配らしい。
 当然、早いうちの方がいいのは俺だって同じだ。遠距離恋愛は辛くはないがどうしても寂しいし、メシ友として毎日顔を合わせていた時間がいかに貴いものだったかを思い知らされている。早く彼女と一緒に店に立てたらと、一番強く思っているのは俺自身だった。

 店が閉まるのは日付が変わった午前一時頃だ。
 のれんや看板をしまい、洗い物などの後片づけをして、自分の部屋に戻る頃には大抵二時を過ぎている。この生活リズムにもようやく身体が慣れてきた。
 俺の部屋は実家の二階、階段を上がってすぐのところにある。向こうの仕事を辞める前、何度か帰省していた頃からきれいにされていて、お蔭で引っ越しの荷物を運び入れやすかった。今はその荷物も片づき、すっかり生活スペースとしての環境が整っている。健全なる生活は衣、食、住の充足から。その心がけを今も忠実に守っている。
 就寝前の日課は、携帯電話に届いたメールをチェックすることだった。
 ベッドにごろりと横になり、眠気を堪えつつ受信メールを確認する。返事を打つのは一眠りして、朝が来てからでなければいけない。なぜかと言えば彼女はこの時間、とっくに寝入っているはずだからだ。
 小料理屋で働く俺と会社勤めを続けている清水とは、当然のことながら生活の時間帯が合わない。電話が出来るのは土日の日中くらいだ。
 そして、こんな風に物理的距離が離れてからも、俺達のメールの内容はあまり代わり映えしなかった。俺は父さんから習った料理の話や、日常で起きたごく些細なことを彼女に教え、彼女はその日の弁当の中身や、夕飯の献立などを送ってくる。清水が言うには、仕事の話は毎日ほとんど変わりなく、特に報告することもないのだそうだ。ただ時々、堀川を始めとする会社の人間と、俺についての話をしたと教えてくれたりもする。この間は会議の為に出張してきた渋澤と顔を合わせたと言っていた。何にせよ、メールの内容はお互い色気に乏しかった。今更そんなものを含ませるのも、俺としてはいささか気恥ずかしくもあった。彼女も多分そうだろう。
 その代わり、電話をすればよく喋る。電話の為にメールの分まで話題を溜め込んでおいたのかというくらい話してくれる。だから俺もするなら電話の方が好きだ。
 今日のメールにはこうあった。
『明日、電話してもいいかな。都合のいい時間を教えてね!』
 送信時刻は午後六時過ぎで、俺が店で働いていた頃だ。
 返事は明日だ。清水はもう寝ている頃だろうし俺だってそろそろ眠い。もう少しだけ我慢すれば、明日には電話で彼女の声が聞ける。
 そう思うと、やけに幸せな気分で眠りに就くことが出来た。
top