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一年目(1)

「播上くんって料理、するんだ?」
 いきなり声を掛けられて驚いた。
 昼時の社員食堂はざわめいていたが、その声に聞き覚えはあった。六人掛けのテーブルの右端に座ったばかりの俺は、椅子を一つ挟んだ隣、左端の席に着いていた彼女を見やる。
 彼女は俺の弁当箱を見ていた。さっぱりとしたショートカットの顔には見覚えがあったが、記憶にあるものよりも今の表情は硬い。
 彼女の名前は知っている。清水真琴。俺とは同期で、つまりは同じ新入社員だ。
 入社式の日に他の連中ともども二言、三言は交わした覚えがあるものの、特に親しい間柄ではなかった。お互い頑張ろう、みたいな当たり障りのないことを言い合った以降、ここ一ヶ月ほどは会話した記憶もなかった。俺は総務で彼女は秘書課、所属部署も違うからそもそも接点すらない。同じテーブルに座ったのだって、食堂が混んでいたからで他意はなかった。
 もっとも、料理のことで話しかけられるのは珍しくない。俺は頷いた。
「するよ、料理くらい」
 入社してからずっと、昼食には手作りの弁当を持参している。
 皆、男が料理をすると知ると驚く。お手製の弁当を持ってきていると言うと驚きながら笑う。俺にはどうして笑われるのかわからない。実益も兼ねたいい趣味じゃないかと思う。
 料理も弁当作りも今に始まった話ではなく、学生時代からずっと続けていることだった。大学時代から一人暮らしを始めて、同時に完全自炊の生活も始めた。食費と健康への配慮、それに味のよさを鑑みれば、自炊はまるで苦にならなかった。
 今日の弁当はささみフライだ。変わり衣にしようとごまをまぶしたらなかなか美味しかった。
「お弁当も自分で作ってきたんでしょ?」
 俺の答えに対する清水の声は、どういうわけか不満げだった。
「そうだけど」
「珍しいね。男の子が料理なんて」
 よく言われることだから、俺は首を竦めただけだった。
 ただ今の物言いにはちくりと刺さる棘のような痛さがあった。清水は一体、何が言いたいんだろう。俺はその疑問を解消すべく口を開きかけた。
 が、別の声に阻まれた。
「――でしょ? 珍しいよね、男の人なのにお手製弁当なんて!」
 声を上げたのは俺の真向かいに座る藤田さんだ。
 途端に清水はびくりとして気まずげに相槌を打つ。
「そうですね、あの……」
 藤田さんは総務で六年目の先輩だ。髪を染めていたりマスカラが濃かったりと派手な外見をしているが、それが似合うだけの美貌の持ち主でもあった。俺はこういうタイプの女性は苦手だが、もちろん向こうからも相手にされていない。
「料理が趣味って男の人、リアルでは初めて見た。希少種だよね!」
 この人に逆らうと面倒になるのは既に知っていた。俺は無言のまま、弁当の卵焼きを口に放り込む。
 すると藤田さんはますます勢いづいて俺に尋ねた。
「播上くん、彼女いないでしょ」
「ええ、まあ」
「やっぱりね。料理が完璧に出来ちゃう男って、女の子からすれば近づきがたいって言うか引くよね」
 よくもまあずばりと言ってくれたものだ。
 実のところ似たような物言いで振られた経験もあった。部屋に招いて食事を振る舞ったらその一週間後に別れを切り出された。その時の彼女曰く、『播上くんみたいな人にはどんなご飯を作ってあげたらいいかわからない』とのことで、それ以来はご縁もない。
 俺は別に彼女になってくれる人にまで料理の腕を求めるつもりはない。ないのだが、向こうが引け目を感じると言うんだからしょうがない。
「今は仕事を覚えるのが最優先だと思ってますから」
 藤田さんの攻撃をかわそうと、俺は新社会人らしいことを口にしてみた。
「もてない人ほどそう言うんだよね。見栄張っちゃって」
 途端、先輩からは手厳しい反論が返ってきた。
「そうかもしれませんけど」
「かも、じゃなくて事実そうでしょ? 冴えないもんねえ、播上くん」
 やはり俺は藤田さんが苦手だ。
 反論を諦めた俺が黙り込んだ時、椅子を一つ挟んだ左端の席で、がたんという音がした。
 清水が席を立っていた。
 食べかけの弁当箱に蓋をして袋にしまう。手を動かす度に短い髪の毛が揺れ、その隙間からはやや険しい横顔が覗いていた。作業を終えた彼女は藤田さんだけを一瞥すると、会釈と同時にこう言った。
「時間なので、失礼します」
 呆然とする俺と藤田さんを尻目に、清水は食堂を出て行った。一度もこちらを振り向くことはなかった。
 そして結局、どうして俺に話しかけてきたのかわからなかった。
「変わった子だね」
 清水が社員食堂から消えた後、藤田さんがそう言い出した。
 テーブルの上に頬杖をつくようにして、Bランチを箸でつついている。今日のBランチはメンチカツだそうだが、この先輩は何がメインでもいつも半分くらいしか食べない。食堂のメニューがまずいからではなく、太るかららしい。
「秘書課の清水さん……だっけ? 播上くんと同期でしょ?」
「そうですよ」
「何か暗そう。秘書課って感じじゃなくない? じめじめした感じだしさ」
 俺も清水のことをよく知っているわけではないが、悪しざまに言われるのはかわいそうな気がした。
「入社式で話した時は、もうちょっと明るい印象だったんですけどね」
 その時の清水はもう少し爽やかで、気さくなイメージがあった。秘書課に配属されたと聞いて、ああなるほどと思うくらいだった。
「ふうん、仲いい子なの?」
「そういうわけでもないです。入社式の時に話した以来ですから」
「じゃあ何で急に話しかけてきたの? おかしくない?」
「まあ、全く見ず知らずの相手ってわけでもないですしね」
 話し相手がいないから、会話の糸口でも掴もうとしたとか。
 この騒がしい社員食堂で、一人きりの昼食は寂しかったのかもしれない。いろんな年齢、役職の人がやってくる食堂は、新入社員には居心地が悪い。同期の連中が食堂を敬遠しているらしいのもそういう理由かららしい。そんな中で清水は、誰でもいいから話し掛けてみて、気を紛らわせたいと思ったのかもしれない。それにしては棘のある話し掛け方だったようにも思うが、まあ五月の新入社員は誰しもそんなものだろう。緊張が取れないままで次々と仕事に放り込まれていき、他人を気遣う暇なんてない。俺だってそうだった。
「まあ、どうでもいいけど」
 清水への興味を失くしたらしい藤田さんが、顎の下で指を組む。
「ところで播上くん」
 急に声のトーンが上がり、口元に機嫌のいい笑みが浮かんだ。
「渋澤くんは、今日は食堂に来ないの? 何か聞いてない?」
 藤田さんが口にしたのは総務課の、もう一人の新人の名前だ。
 奴に関して聞かれた場合、下手な答え方は命取りになる。俺は慎重に答えた。
「あいつなら、よその課の連中と外に食べに行ってます」
 途端に藤田さんの目が吊り上がる。
「どこの誰と? まさか女じゃないでしょうね?」
「い、いや……同期の連中らしいんで、男も女もいる感じじゃないかと」
「何それ、超うざい。女はどうせ渋澤くん狙いなんでしょ」
 事実、その通りだと思う。
 渋澤瑞希というあの男は、こんな一般企業の支社では浮いてしまうほど端整な顔立ちをしていた。入社当初から同期の女の子にも女の先輩方にも引っ張りだこで、昼休みにはよく食事に誘われているらしい。本人は迷惑そうにしているが、今日は男も数人いたせいか断り切れずあえなく連行されていった。きっと今頃はどこかで女の子にちやほやされているに違いない。羨ましい。
 藤田さんも渋澤を引っ張りたがる一人だ。俺に協力しろと言い、上手くいかないと八つ当たりをされる。
「播上くんも止めてあげればよかったじゃない。どうせ乗り気じゃなかったんでしょ、彼」
「さあ……好きで行ったのかもしれませんし」
「あーあ、ついてない。私だって渋澤くんと一緒のお昼ご飯がよかったのにな」
 長い溜息の後、仏頂面になった藤田さんは、ふと気づいたように尋ねた。
「ところで播上くんは、同期の子達と行かなかったの?」
 同期には全員声を掛けたらしく、俺も誘われてはいたが断っていた。
「弁当がありましたから」
「あっそ」
 藤田さんがそっぽを向く。興味がないなら聞かなきゃいいのに。
 社会人一年目の五月、何かにつけてぱっとしない滑り出しだった。

 仕事を終えると、寄り道はせずに帰宅する。
 夕飯のメニューは電車に揺られながら考える。家にある食材を思い出しながら――そういえば、キャベツをそろそろ食べてしまわないといけなかったな。豚肉があるから、野菜炒めでもしようか。後は朝作っておいた卵焼きがあるからそれと、酢の物でも作るかな。きゅうりがあったよな、確か。
 大体の買い物は土日のうちに済ませてある。賞味期限に気を付けつつ、冷凍庫も活用しつつ、楽しい自炊の生活を送っている。
 帰宅後はまず着替えをし、手洗いうがいをした後で食事の支度を始める。
 今晩の献立は野菜炒めときゅうりの酢の物、弁当を作る時に余分に焼いておいた卵焼き、それから菜の花の味噌汁。昼食が揚げ物だったことを踏まえれば、まあ悪くないバランスじゃないだろうか。
 何を作るか考えて、料理をして、そして出来上がったご飯を食べている時が一番幸せだった。美味しい料理には人を幸せにする力がある。辛いことや憂鬱を忘れさせてくれるような力が。今の俺には一番必要なものだ。
 俺以外の同期は皆、仕事を楽しんでいるように見える。渋澤以外にも、今日食事に誘ってきた他の課の連中も、新生活が楽しくてしょうがないって顔をしているように見えた。
 昼食の誘いを断ったのは弁当があるからだけじゃなかった。
 人間関係だって仕事だって、誰もが最初から完璧に出来るわけでもない。わかっているつもりだったが。


 夕食を食べ終えて一息ついていると、電話が鳴った。実家からだ。
『――あ、正ちゃん? お母さんです』
「……母さん」
 第一声にがっくり来た。俺は床に寝転がりながらぼやく。
「俺、もう二十二なんだけど。ちゃん付けは止めてくれないかな」
『いくつになったって、親にとって子供は子供よ。いいじゃない』
 母さんはあっけらかんと言い返す。
 親元を離れてから既に五年目だというのにまだこの調子だ。外で知り合いに聞かれたらと思うとぞっとする。実家は遠くにあるし、両親がこっちへ尋ねてきたことはほとんどないから要らない心配だが。
『ところで、仕事はどう?』
 ごく軽い口調で問われたから、ぎりぎりのところで嘘をつくことができた。
「別に普通。今のところ、何の問題もないよ」
『よかった。お父さんも心配してたのよ、すぐに音を上げるんじゃないかって』
「心配しなくても大丈夫だよ」
 俺はそっと苦笑した。見抜かれてるのかもしれない。
「父さんにも言っといて。心配要らないからって」
『自分で言ったらどう? たまにはそっちからも電話掛けてきなさい』
 それはお互い様だ。大学時代からずっと、父さんが電話を掛けてきたことは一度もない。父さん本人は電話が嫌いだと主張しているが、単に照れ屋だからだろう。
 父さんに似たのかどうか、俺も実家に電話をする気にはなれなかった。
「便りのないのはいい便りっていうじゃないか」
 自分から言うのもどうかと思ったが、ともかく俺はそう言った。
「とにかく元気でやってるからさ」
『ならいいんだけど。会社の人も皆、優しいんでしょう?』
「まあね。前に話した通りだよ、先輩は親切だし、同期の連中はいっぱいいるし……」
 話しながら脳裏に浮かんでくるのは、藤田さんの八つ当たりする時の顔。渋澤を筆頭に、何やら楽しげな同期の連中の顔。それから――。
 今日の昼休みに見た、清水の険しい横顔だった。
『もしお仕事が大変になったら、いつでも戻ってきていいからね』
 母さんの声は穏やかだ。それだけで実家の様子が窺い知れた。
「……店、上手くいってるの?」
『お蔭様でね。あと二十年は正信にも譲らん、ってお父さんは言ってるわ』
「継ぐなんて誰も言ってないのに」
 実家の小料理屋は父さんが開いたもので、地元ではそれなりに名の知られた店だった。父さんと母さんは俺に後を継がせようと考えているらしいが、俺にはその気がなかった。
 料理は人を幸せにする。その幸せに代金を貰うとすれば、生半可な腕では駄目だと思う。俺には到底それだけの実力は身につけられない。それに、父さんがせっかく軌道に乗せたあの店を、俺の代で落ちぶれさせてしまうのは嫌だった。
 俺には経営だの接客だのも向いていない。もっと地道な生き方をするのが合っている。
 そう話した時、父さんは賛成も反対もしなかった。好きにしろとだけ言った。でも内心では俺がいつか戻ってきて、店を継ぐと思っているらしい。
『はいはい、わかってるわよ。気が変わったら戻ってらっしゃい』
 母さんは母さんで、全てお見通しみたいな言い方をする。実際はどこまで見通せているんだろう。
『ところで正ちゃん、ご飯はちゃんと食べてる?』
「食べてるよ。今日の弁当はささみをごまの衣で揚げてみた」
『あら、美味しそうね。ごまは身体にもいいけどストレスにもいいんですって』
「ストレス?」
 思わず聞き返す。それが本当なら、まさに俺の必要な栄養素かもしれない。
『そうなの。セサミンって精神の安定にも働きかけるんだそうよ。お昼の番組でやってたもの。五月病の予防にもなるかもね』
「へえ」
 それはいい話を聞いた。明日の弁当のおかずにも、ごまを取り入れてみようか。ちょうどストレスが蓄積し始める時期だろうから。

 母さんとの通話を終えると、俺は再び台所に立つ。
 食器を洗って、それから明日の弁当の仕込み。やはり料理をしている時が一番楽しい。何のかんの喧しい連中はいるけど、好きでやってることだから放っておいて欲しい。もてなかろうが付き合い辛かろうが関係ないだろうに。
 そんなことを考えながらフライパンでごまを炒る。今日の豚肉の残りでごま味噌焼きを作るつもりで、その下ごしらえとして練りごまを作っていた。仕事のある日の夜、こんなに余裕があるのも今のうちだけだろうから、楽しんでごまを練ろうと思う。
 炒り終えた胡麻を鉢に入れ、すりこぎで擦っていると、ふと清水のことを思い出す。
 ――播上くんって料理、するんだ?
 ――珍しいね。男の子が料理なんて。
 そして疑問も抱いた。彼女が俺に話しかけてきたこともそうだが、何よりも、彼女がどうして社員食堂にいたのか。外に食べに行った同期の連中は、皆に声を掛けると言っていたはずだ。清水にも声を掛けたに違いないのに、彼女は食堂に一人きりでいた。
 俺には、本当は何の用だったんだろう。
 清水は弁当を自分で作っているんだろうか。
 どうでもよさそうな疑問まで浮かんできたから、考えるのは止めた。練りごまに集中することにした。
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