ウェディングドレスにまつわる教訓
目の前にずらりと並んでいるのは、世にも美しいドレスたち。染み一つない白のドレスはそれぞれにデザインが違い、気まぐれに一着手に取ろうとしても目移りするほどだ。
また素材にも違いがあって、ドレープが作る陰影さえつややかなサテン、見るからに柔らかで手触りのよさそうなシフォン、ふわふわと宙に浮くようなチュールとどれも甲乙つけがたい魅力がある。
『この中から好きなドレスを選んで、着てみてもいい』
そう言われて、果たして迷わない人間がいるだろうか。
少なくとも私にとって、今日は人生で最高に迷える日になりそうだった。
「ご新婦様はとてもおきれいですから、きっと何をお召しになってもお似合いかと思います」
おまけに私たちを出迎えたコーディネーターさんは、のっけからずいぶんな誉め殺しモードだ。
「それでお肌もきれいでいらっしゃいますし、いかがでしょう。思い切って肩や背中を出したビスチェタイプでも――」
「ええと、そうですね……」
私はつい照れてしまう。
同じく接客応対を担当している者として、これもいわばセールストーク、お客様へのサービスなのだとわかってはいる。だけど面と向かって、それも同じ女性に誉められると男性に誉められる以上に照れてしまうから困った。
「お式はチャペルで挙げられるとのことですね」
「はい。でもあまり格式張ったものにはしないつもりです」
尋ねられて私は答えた。
チャペルと言ってもブライダル専門の施設であって、隣には披露宴会場となるレストランが併設されている。私も霧島さんも厳かな式にしたいとは思っておらず、かといって贅を尽くしたゴージャスなものにも興味はない。
お互いにのんびりした性格の私たちには、とにかくゆったりくつろげるような結婚式が一番いいと思っている。
となると、ドレスの方もクラシカルすぎないものの方がいいのかもしれない。
「地味すぎず派手すぎず、あまり冒険もしない程度にきれいなドレスがいいと思っているのですが……」
私の無茶と思える注文にも、コーディネーターさんは慌てず騒がず微笑む。
「かしこまりました。何着か、ご希望に合うものを揃えて参ります」
それから彼女はにこやかなまま、私のすぐ隣に視線を向けた。
「ご新郎様の方からは、何かご要望などございますか?」
すると霧島さんは少し困ったように沈黙した後、真面目な顔でこう答えた。
「私は全くの門外漢でして、本日は写真係として参りました。門外漢なりに、彼女のドレス選びの手伝いができたらと……」
「真面目な方なんですね」
コーディネーターさんが驚いたように彼を誉める。
その点に関して、霧島さんの右に出る人はいないと私も思う。
ドレスの試着は予約制で、お店の滞在時間もしっかりと区切られている。
この日私は長くない制限時間内に四着のドレスを試着した。
まず一着目は花束のようなラッフルが美しいプリンセスライン、二着目は光沢あるシルクのスレンダーライン、それからふわふわしたチュールのAラインドレスと、もう一着Aラインを試した。
何を着ても、コーディネーターさんは私を絶賛してくれた。
「素敵! 大変よくお似合いです!」
担当のコーディネーターさんの他に、試着を手伝ってくれるスタイリストさんがいて、その方と二人がかりでずいぶんと誉められてしまった。
「ご新婦様のお顔立ちには華やかなドレスが一段と映えますね!」
「お身体のラインがお美しいので際立たせるのもよろしいかと!」
「そちらのドレスだと気品も加わりまして、まさにお姫様のようです!」
「少し歩いてみてはいかがでしょう? ……後ろ姿も実にお美しいです!」
正直な話、全ての誉め言葉を覚えきれてはいなかった。
ただ誉められる度にのぼせてしまった。薦められるドレスは確かにどれも美しく、私としてもどれが一番と決められないほどの魅力があった。選んでいただいた通りにどれも自分には似合っていると思えたし、だけど式で着る予定なのは一着だけだ。この中からどれを選べばいいのか、のぼせた頭では判断がつきかねた。ウェディングハイというものなのだろうか。
「ご新郎様はいかがですか?」
コーディネーターさんは試着の度、霧島さんにも水を向けた。
写真係を立派に務める彼は、問われる度に携帯電話を一旦下ろし、分厚いレンズ越しに私を眺める。
そして彼らしい真面目さで答えてくれた。
「何を着ても似合うので目移りしちゃいますね。いや、同じ人に目移りというのも変な話ですが……」
その一言がとどめだった。
体温が急激に上がった私は、もはや真っ当な判断をすることさえできなくなっていた。
試着を終え、お店を後にした後、私と霧島さんは適当なカフェに入った。
何か冷たいものでも取ってクールダウンする必要があったからだ。
「疲れたー……」
私が思わず溜息をつくと、霧島さんがおかしそうにする。
「誉められ疲れですか? 長谷さん」
だとしたらなんて贅沢な疲労だろう。
「笑わないでくださいよ、本当に恥ずかしかったんですから」
そう言って、私はアイスコーヒーのボトルを火照った頬に当てた。
実際のところは単純に迷い疲れというところだ。四着もドレスを試着しておきながら、私は一つに決められなかった。半分に絞り込むことさえ不可能だった。
もちろん一日で決めようなんて思っていたわけじゃない。一生に一度のことだし、お金だって使うのだから、慎重にならなければいけないのもわかってる。
でも、もしあっさり決められたらそれはそれでいいかな、時間に余裕ができるなと思っていたのも事実で――。
「できることなら、二着くらいには絞り込んでおきたかったんですけど」
私は肩を竦めた。
「絞り込むどころか、全部いいなって思えるほどで……この分だと次回も決まるかどうか。何だかそわそわしてきます」
すると霧島さんはたしなめるようにかぶりを振った。
「焦りは禁物ですよ」
「それは、わかってますけど……」
結婚を控えた私たちには、ドレス以外にも決めなければいけないことがたくさんある。
霧島さんの衣裳もそうだし、当日の式次第、プログラムもそう。招待状もそろそろ送らなくてはいけないし、もちろんその間にもお互い仕事がある。
私自身、優柔不断な方ではないと思っていたから、まさかこんなにも迷う羽目になるとは思わなかった。
きらびやかなドレスたちに目が眩んでしまったんだろうか。
「どうせならたくさん時間を掛けましょう」
霧島さんは穏やかに言う。
「一生の思い出になることです、少しの後悔もない方がいいですよ。俺もじっくり付き合いますから」
私はカフェのテーブル越しに、黙って彼の顔を見つめた。
焦りの色なんて少しもない、優しい表情だ。
私たちは揃ってのんびり屋だから、このままいけばよく似たのんびり夫婦になることが確定している。だけど私以上に、霧島さんの方がずっとのんびりだ。
そんな彼と肩を並べ、歩幅を合わせて歩いた日々がある。
同じ時間を過ごすようになって、それがどんなに幸せかと実感したことも数え切れない。
ともすれば日々の忙しなさに押し流されそうになる私を、霧島さんはいつだって穏やかに引き戻してくれる。
今までも。そしてきっと、これからも。
「……そうですね」
そわそわした気持ちがふっと凪ぎ、クールダウンされたようだった。
頷く私を見て、霧島さんが眼鏡の奥の目を細める。
「それに、時間を掛けてくれた方が俺としてもいいんです」
「そうですか? 私に付き合うの、大変じゃありません?」
「ちっともです。いろんなドレスを着た長谷さんを見られて、何と言うか、得した気分ですよ」
そういう言葉を、ちょっと面映そうに告げてくるのも彼らしい。
私は何だかほっとして、そこでそういえばと思い出す。
「霧島さん、写真撮ってくれてましたよね。見せてもらえませんか」
「ええ」
霧島さんは携帯電話を取り出すと、写真フォルダを開き、私にも見えるように画面を傾けてくれた。
そこには純白のドレスをまとった私の姿がいくつもいくつも――ざっと数十枚はある。向きを変え、ポーズを変えて撮ってくれたので、ドレスの詳細を改めて観察することができた。
そしてその画像のうち、一枚が私と彼の目に留まる。
「あれ、このドレス……」
「最後に着たものですね」
私が四番目に着たAラインのドレスだ。
ビスチェは真珠色に輝くスパンコールで覆われていて、それがお店の照明の光できらきらと輝いている。スカート部分は薄いレースをいくつも重ねた優美なデザインで、鏡越しに見た時は見過ごしていた美しい刺繍も、写真でならくっきりと鮮明に眺めることができた。
いいな、と直感的に思った。
画像の中の私は髪も自分で結ったシニヨン、化粧も普段よりほんの少し派手めにしただけで、まだ花嫁らしく装ったとは言えない。だけどそんな私を、そのドレスは見るからに華やかにしてくれていた。
「このドレス、すごく長谷さんに似合ってますよ。一番かもしれない」
霧島さんもそう言ってくれて、私は思わず身を乗り出す。
「実は私も写真見て、これがいいって思ってたんです」
「写真、撮っておいてよかったですね」
興奮する私とは対照的に、彼はあくまでも穏やかに続けた。
「次の予約の時に、もう一度そのドレスを着せてもらいましょう。長谷さんには後悔も、妥協もして欲しくないですから」
のんびりしていて優しいけど、その言葉はとても頼もしい。
こんな人と夫婦になれる私は、世界一の幸せ者かもしれない。
この日、私はウェディングドレスについて三つの教訓を学んだ。
一、即断即決しないこと。
二、ドレスを着たら必ず写真を撮っておくこと。
三、ドレスショップの店員さんは得てして誉め上手だが、決して妥協はしないこと。
もちろん結婚は一生に一度のことだ。教訓を得たところで次なんてあって欲しくはないし、絶対ないと信じてる。
だからこの教訓は、次に結婚する誰かに活かしてもらえたらなと思う。