恋人期間のふたり
我が社の創立記念日は三月の半ばにある。もっとも節目の年以外はそれほど大きな行事ではなく、社長からの訓示と永年勤続者の表彰、あとはジュースと軽食が配られる程度のものだった。あとは各部署で乾杯の後、通常業務に戻るだけの日だ。
よその会社では創立記念日を休みにするところもあるそうだ。私もそちらの方がより嬉しいんだけど、残念ながら我が社は休みではない。でもその代わり、この日くらいは残業も控えて早く帰るのが暗黙の了解となっていた。
だけど創立記念の乾杯を前に、私は社内をうろうろ歩き回っていた。
「どっか余ってそう?」
秘書課の二年先輩である園田さんが、困り顔で駆け寄ってきた。
私は首を横に振る。
「いえ、総務部はどこもちょうど届いてるって」
「そっか……参ったなあ、どこ行っちゃったんだろう」
秘書課に届けられた乾杯用のジュースと軽食が、課員の人数分より少なかったのだ。初めは些細な手違いだろうとたかをくくって、まずは一間続きの広報課を覗いてみたものの、こちらは人数分ちゃんと揃っていたそうだ。
その後も総務に人事とあちこち尋ねて回ったものの、どこにも余剰分は存在していなかった。発注段階でミスがあったという可能性も否定できないけど、まずは確認しなくてはならない。
「最悪、ジュースだけでもひとっ走り買ってこよっか」
「ですね。社食の自販機も紙コップのしかないですし」
「紙コップじゃ乾杯が締まらないもんね……あとは、よそで余分に届いてないか聞いてみる?」
園田さんはこの事態に心底憂鬱そうだった。
私も手近なところで片づくトラブルだと思っていたから、予想外の難航ぶりに困惑し始めている。とは言え考えてわかる問題でもないし、動くしかない。
「じゃあ、一つ一つ問い合わせに行きましょう。私、営業見てきます」
すかさず申し出ると、園田さんはほっとしたように表情を緩めた。
「ありがとう長谷さん、助かる!」
「見つかったら連絡します!」
「うん、お願い。私は商品企画の方回ってくるから!」
お互いに声をかけあって、すぐに廊下を走り出す。
営業課は階段を上った先にある。駆け足で辿り着いた先のドアをノックする前に一旦、深呼吸をした。
こんな時に何だけど、真っ先に営業課の名前を挙げてしまう辺り私もなかなか現金だ。
ついでに霧島さんの顔が見たい、なんて思ってるんだから。
彼と付き合いだしてからまだ三ヶ月も経っていなかった。年度末の忙しさもあって、一緒に帰る機会もめっきり減っていた。だからこういう機会は貴重で、逃したくなかった。
営業課のノックをしてからドアを開けると、用向きを告げるより早く、霧島さんは私に気づいてくれた。そして足早に廊下へ出てくるなり、尋ねてくれた。
「どうかしたんですか、長谷さん」
その穏やかな口調と、レンズ越しに私を見る優しい目。逸っていた私の心もたちまち落ち着きを取り戻す。
「実は……」
私が事情を説明すると、霧島さんは開いたままの戸口から一度中を覗き込み、
「ジュースと軽食ですか? うちもさっき届いたばかりなんですが、今確認を――」
営業課内にいた石田さんが軽く手を挙げるのが、私にも見えた。
「数えるからちょっと待ってくれ」
「……だそうです。ここにあるといいですね」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた後、ほんのちょっと申し訳ない気持ちになる。何だかどんどん大事になっていくみたいだ。霧島さんの言う通り、ここで片づくといいんだけど。
「秘書課で缶ジュースが足りないって?」
後から安井さんも廊下へ現れ、霧島さんの肩をぽんと叩く。
「霧島、彼女に男を見せる時だ。お前の分譲ってやれよ」
「この程度で見せられる男なんて大したものじゃないですよ」
霧島さんは肩を竦め、私も恐縮しながら口を挟んだ。
「そういうのは悪いですから。きっと、どこかへ余分に届いてるんだと思うんです」
「もしかしてずっと探し回ってるんですか?」
「そうなんです、手分けして探してるんですけど……」
携帯が鳴った様子はなかったけど、一応ポケットから出して確かめておく。案の定、園田さんからの連絡はまだなかった。
「ほら、長谷さんが困ってるぞ。助けてやれよ」
安井さんはむしろ霧島さんを困らせたくてたまらないという顔つきで笑んだ。
その顔が少し疲れているようにも見えたのは、時期のせいかもしれない。ただでさえ慌ただしい年度末、安井さんは営業課からの異動も控えていると聞いていた。
「無闇に煽るのやめてください。長谷さんがかえって困ってるじゃないですか」
霧島さんはきっぱりと言った後、ふと思いついたように私に尋ねた。
「ところで長谷さん、缶ジュースと軽食はどのくらい足りないんですか?」
「それが……三人分なんです」
私はその後の反応を想像しながら、おずおずと答えた。
途端に霧島さんと安井さんは顔を見合わせ、
「どうするんです、安井先輩。男見せるんですか」
霧島さんの問いかけに、安井さんは素早く頷いた。
「いいよ。俺とお前と石田で我慢すればちょうど三人分だな」
「やめときましょうよ、その程度で見せられる男なんてむしろしょぼいですよ」
「だが秘書課のお嬢さんがたに感謝されるというオプションつきだ」
「恩を売る気ですか、缶ジュースごときで!」
やっぱり想像いつもながらの会話に私が笑いを堪えていると、確認を終えたらしい石田さんが中から顔を出した。
「残念、うちに届いた分もちょうどある。どこ行ったんだろうな」
「そうでしたか……お手数おかけしました」
どうやらいよいよ難航してきたようだ。私は改めて詫びた。
すると安井さんが石田さんに向かって、
「石田、足りないのはちょうど三人分だって。俺達で長谷さんの苦境を救ってやらないか」
「神の采配かってくらいちょうどいい不足だな。俺達の男気が今試されてるわけか」
石田さんもすぐさま乗っかるように真面目な顔を作る。吊り目がちな石田さんがちらりと霧島さんを見やると、霧島さんは呆れた様子で眉を顰めた。
「先輩がた、そうやってプライドに訴えかけてくるの好きですよね」
「好きとかじゃない。俺達は常に男とはどうあるべきかを考えてるんだよ」
「そういうことだ。あとはいかにして美しい女性に貸しを作って今後に繋げるかをな」
「百パーセント下心じゃないですか!」
霧島さんの鋭いツッコミに、聞いている私が思わず吹き出した時だ。
手にしていた携帯電話が鳴り始めた。園田さんからだ。
『あったよー長谷さん! 商品部に余分に届いてたって!』
開口一番の嬉しい知らせに、私も思わず胸を撫で下ろす。
「よかった! 園田さん、持ってこれそう? 手要ります?」
『ううん大丈夫。長谷さんはそのまま秘書課戻ってて、私もすぐ帰るから』
「わかりました、お疲れ様!」
『お疲れ様ー!』
やり取りを終えて電話を切った時にはもう、目の前の三人にも事の次第が伝わっていたようだ。
「よかったですね、長谷さん。ちゃんとあって」
「ええ。ありがとうございます!」
霧島さんが我が事のように喜んでくれたのが、私も嬉しかった。結局手間を取らせてしまっただけだったけど、霧島さんの顔が見られたのもよかった。
「本当にお手数をおかけしました。お蔭様で見つかりました、ありがとうございます」
数えてくれた石田さんにもお礼を言うと、手を軽く振って押し留められた。
「どうってこたない。長谷さんが来てくれたお蔭で霧島もすっかり興奮してるしな」
「やめてくださいよ犬か何かみたいな言い方。普通に『喜んでる』って言ってください」
「さらっと惚気んな、この」
石田さんは苦笑しながら霧島さんの額を弾く。
「いたっ。暴力反対ですよ先輩!」
霧島さんも額を押さえて大袈裟に痛がってみせたものの、口元は笑っているのを私はしっかりと見ていた。私といる時はしない表情。可愛かった。
「秘書課のお嬢さんがたにお礼を言われる機会がなくなって、残念だ」
ただ一人、安井さんは心底から気落ちした様子だった。もしかしたら霧島さんに持ちかけていたことも、半分くらいは本気だったのかもしれない。
「ちゃんと『営業課の皆さんにもお世話になりました』って言っておきます」
私はフォローのつもりで告げたけど、これはちょっと気休めみたいな言葉だったかもしれない。
案の定、安井さんは微妙な顔をしていたし、それを霧島さんに仕返しとばかりに指摘されていた。
「安井先輩、打算でものを考えるのはよくないですよ。これを機に改めましょう」
「霧島お前、俺にとどめを刺す気か。自分が幸せだからって」
「いや、そういうわけじゃないですけど……」
言いよどんだ霧島さんが、条件反射みたいなタイミングで私を見る。否定はしていたけど、確かに幸せそうな顔をして笑んでいた。
私もすぐに笑い返し、それから告げる。
「じゃあ私、戻りますね。いろいろとお世話になりました」
「はい。じゃあ、また」
霧島さんが軽い会釈をすると、階段を下りる私を温かく見送ってくれた。
もちろんその両側を固めるが如く、石田さんと安井さんが霧島さんを茶化しにかかっている。石田さんはいたずらっ子みたいににやにやと、安井さんはどこか恨めしげに、私を見送る霧島さんをつっついていた。
「なーにが『また』だよ夫婦みたいなやり取りしやがってこの野郎」
「しかもこの顔の緩みっぷり。目の毒だ、縫いつけてやろうか」
「鬱陶しい絡み方やめてください。いいじゃないですか緩んでたって」
背後から聞こえてくる会話に、私もまた笑い出しそうになった。
と、
「あ、そうだ。長谷さん!」
不意に霧島さんが私を呼び止め、振り返った私の目に、右の脇腹を肘でつつかれ左の頬をつねられてもなお笑顔の彼が映る。
「今日、早く上がりますから。できたら一緒に帰りませんか?」
その笑顔で、霧島さんは私に言った。
即答したかったけど、一瞬遅れてしまった。
「――は、はい。是非! 創立記念日ですし、私も定時で上がります」
「よかった。では本当にまた後で!」
私の答えに霧島さんはほっとした様子で手を振る。その間にも両側からの攻撃は続いている。
「でれでれしてんじゃねえよ霧島! しかも何だ、先輩の前で見せつけやがって!」
「そんなに羨ましがられたいのか! 今でも十分羨ましいのにもっとやっかまれたいのか!」
「先輩がた本気で鬱陶しいんでやめてください! いいじゃないですかこのくらい!」
先輩二人にからかわれ、霧島さんが声を上げて笑う。
その笑い声を聞きながら、私は胸が高鳴るのを感じつつ階段を下りた。
霧島さんは優しい人だ。それは十分知っていて、だから私は彼に恋をした。
でも彼にはまだ私の前では見せてくれない顔があって、あの先輩がたにだけ見せる笑顔もあったりして、私はそれを更に見たい、知りたいと思っている。
付き合いたてってそういうものなんだろう。相手に対して貪欲になって、もっと会いたい、もっと一緒にいたいと思う頃なんだろう。一日五分間じゃ足りないくらい――。
そこまで考えてふと、園田さんと話していた時の私は彼の目にどう映ったのだろうと思う。
彼も私と同じように思って、私を誘ってくれたんだったら嬉しい。
どうせ一緒に帰るのだから、あとで美味しいラーメン屋さんでも調べておこうかな。