彼は眼鏡を外さない
霧島さんが眼鏡を外したところは見たことがある。でも、彼が眼鏡を外して『生活している』ところは見たことがない。
初めて彼の部屋に泊まった夜、寝る時にも外さないのだと知って驚いた。
霧島さんの部屋には布団が一組しかなかったから、私達はその夜、一緒に寝た。
当然枕も一つしかなくて、彼は私にそれを譲ってくれた後、自身は柔らかいクッションに埋もれるようにしながら寝ようとしていた。その時、仰向けの姿勢の彼が眼鏡をかけたままでいるのを見て、私は思わず尋ねずにはいられなかった。
「かけたまま寝るんですか?」
やぶからぼうの問いかけに、彼は頭を動かしこちらを向いた。
途端、柔らかいクッションに眼鏡のフレームが当たり、眼鏡がずれたようだ。それを手で直しながら答えてくれた。
「眼鏡ですか? そうですよ」
夜明け前の薄明かりの中でも霧島さんの微笑はよくわかった。いつもと変わらない優しい表情に、自然と心が温かくなる。
彼は微笑を浮かべたまま語った。
「外して寝ると、目が覚めた時にあちこち探し回る羽目になるんです。ただでさえよく見えないのに」
「そうなんですか……でも寝る時に眼鏡があると、邪魔じゃないですか」
さっきも横を向いただけでずれていたし、いかにも邪魔そうに見える。私は眼鏡をかけたことはないけど、例えばアクセサリーを身につけたまま寝ようとするのと同じ感覚じゃないかと想像することはできる。何となく違和感があって、むずむすしそう。
だけど霧島さんは天井を見上げるようにして考え込んでから、私に向き直ってこう言った。
「小さな頃からの付き合いなんで、もう慣れました」
「そんなに昔からかけてるんですか?」
質問攻めにしているみたいで悪いなと思ったけど、そういえば聞いたことがなかった。せっかくこうして彼と夜を過ごしているんだから――そろそろ夜も明けそうな頃合いではあるけど、普段は話さないようなことも話してみたかった。柄にもなく、甘えたいのかもしれない。
霧島さんはそんな私の意図に気づいたのか否か、目を細めて答えてくれた。
「小学生の頃からかけてます。ずっと昔から目が悪かったんです」
「そんなに……すごく長いお付き合いですね」
「腐れ縁みたいなものです。もうかれこれ十五年になりますし」
驚く私に、彼は驚かれ慣れている様子を見せる。
「子供の頃はもっと大きなレンズの、いかにもって感じの眼鏡をかけてたんですよ。年を追うごとにレンズもフレームも細くなってるんです」
人差し指と親指で大きな丸を作って彼が語った。外国映画の、ちょっと気弱な少年がかけているような眼鏡をイメージしたくなる。少年時代の霧島さんにも会ってみたかったな。きっとその頃から優しく、穏やかな人だったんだろう。
「じゃあ、もう身体の一部みたいなものなんですね」
私は布団の中から手を伸ばして、彼がかけている眼鏡のつるに触れた。樹脂の硬くなめらかな感触が指先に伝わる。なぜか、彼のように温かく感じられた。
霧島さんは嫌がるどころか、全く動じずに笑っていた。
「まさしくそうです。これがないとほとんど見えませんし、車も運転できません」
営業職の彼にとって眼鏡はまさになくてはならないもの、生活必需品であるらしい。
だけど、一体どのくらい見えないものなんだろう。運転に支障があるほどとなると相当に思える。
「外すと全く見えないんですか?」
しつこい私の質問に、彼は煩わしさを匂わすことすらせず、快く答えてくれる。
「ほとんど見えませんね。よく聞かれますよ、眼鏡外して『指何本?』とか」
「私も聞こうかと思ってました。そういうのはわかるんですか?」
「距離にもよりますが目を凝らせば、辛うじてわかります」
もう夜とは呼べない時間帯だった。明日も休日、お互いに他の予定もなく朝寝坊をしてもいい日ではあったけど、そろそろ眠っておいた方が体調の為にはいいはずだった。
でも私は眠くなかった。彼の部屋に初めてのお泊まりという事の成り行きが、私から眠気をすっかり奪い取ってしまったみたいだった。
「変な質問ばかりしちゃってごめんなさい」
私は眠くなくても、彼は疲れて眠たがっているかもしれない。そう思ってひとまず会話を締めくくろうとしたら、霧島さんは横たわったままかぶりを振った。
「何でも聞いてください。俺はほら……先輩がたと違って、口八丁の人間じゃないですから。言葉が足りないこともあるかもしれません」
照れ笑いを口元に滲ませてから続けた。
「でもその代わり、あなたに嘘はつきません。聞いてくれたら正直に答えます」
「本当ですか? なら……」
私は『嘘をつかない』と言った霧島さんへの質問を考えてみたけど、思い返せば彼が変な嘘や誤魔化しを私に対して告げたことなんてほとんどなかった。むしろ上手い嘘がつけなくて悩むような人だ。彼の言葉は今なお率直で真摯だ。そういう人でなければ私も、こうして彼の部屋で夜を過ごしたりはしなかった。
だから、今更彼の真意を探るような質問をする必要がない。私達がこうして夜明け前、一緒に眠りに就こうとしている、それだけでお互いに対する心情は全て理解できてしまう。私が知りたいことはもっと表面的な事柄だった。もっとたくさん、霧島さんのことを誰よりもたくさん知っておきたかった。
「眼鏡をかけたまま寝て、壊しちゃうことってないんですか?」
それで私が眼鏡に話を戻すと、彼は拍子抜けしたのか短く笑った。
「ないですね、不思議と。眼鏡してるって思うと、身体が自然と仰向けになるのかもしれません」
「鍛えられてる感じがしますね」
私がつられて笑うと、霧島さんは頷いた。
「そうですね。でも……本音を言えば眼鏡なんてない方がいいです」
そしてかけていた眼鏡を指でつまむようにして外してみせる。
「煩わしくないわけではないんです。眼鏡なしでものが見られたらどんなにいいか」
眼鏡を持つ手を布団から出し、軽く持ち上げてから睨んだ。眼鏡を外した霧島さんの横顔は凛々しく引き締まっていた。
「寝る時もお風呂に入る時も眼鏡が手放せないなんて、よくよく考えれば重大なハンディキャップですからね」
私は黙って彼の横顔を見つめていた。
普段、眼鏡をかけている時の彼の表情は、とても優しい。今、こうして少しだけ険しい顔つきをしているのは目が悪いせいなんだろう。見慣れないからか、胸の動悸が激しくなった。
「だけどこれがないと、目覚めた時にあなたの顔が見えませんから」
そう言って、霧島さんは外していた眼鏡をかけ直した。いつものように優しい微笑が戻ってくる。
私の心もふっと解ける。安堵のような、温かい幸福にたちまち満たされた。
「もしかして、かけたまま寝る理由ってそれですか?」
優しさを返すつもりで、私は声を潜めて尋ねた。そして彼が答えるより早く語を継いだ。
「それなら大丈夫です。今夜は――もうそろそろ朝ですけど、目が覚めてもずっと隣にいますから」
布団の中で彼の手を探して軽く握ると、彼も同じように握り返してきた。眼鏡のフレームに囲まれた彼の目が、熱心に私を見つめている。
私はその目に向かって顎を引き、告げた。
「今夜くらい、外して寝たらどうですか? 霧島さんが起きてから眼鏡を探す時、私も手伝いますから」
きっとその方が彼もよく眠れるに違いない。そう思って提案すると、彼はまた少しだけ考え込んでから言った。
「いえ、いいんです。さっきも言いましたけど俺は慣れてますし、それに」
彼はやっぱり笑って、でもためらいなく言い切った。
「寝ている間に何かあった時、眼鏡を外していたら、あなたを守れませんから」
意外な言葉だった。
「隣で眠っている人を守れないなんて、男として駄目でしょう」
そういう言葉を、さも当たり前のことみたいに言う人だとは思わなかった。
私が瞬きを止めたのに、眼鏡をかけたままの彼も気づいたのだろう。すぐに天井を見上げて、照れ笑いを浮かべて、独り言みたいに言った。
「ちょっと、格好つけすぎましたね。断じて嘘ではないんですけど」
「……嬉しいです」
小声で答えるのがやっとの私が、繋いでいた手に力を込めると、霧島さんも安堵したように深く息をついた。
それから繋いだ手ごと私を引き寄せて、二人で身を寄せ合った。
誰かに守ってもらいたいと思っていたわけじゃない。
お互いにいい大人で、同じ速さで歩けるような恋をして、こうして一緒に夜明けを迎えたりもして――そういう関係で私は十分すぎるほど幸せで、それ以上のことを彼に求めようとは思っていなかった。
だけど彼が私を『守る』と言ってくれた時、以前も思ったことを改めて、確信した。
私は、この人でよかったんだ。
私は、この人がよかったんだ。
選び取った、なんて偉そうなことが言えるはずがない。だけど惹かれるがままに恋をして、それが正しかったのだとわかる、その無上の幸福に満たされていた。彼の傍にいると決めたこと、これからも一緒に歩きたいと願うこと、それらは何も間違っていなかった。
私達は一つの布団の中で手を繋いだまま、寄り添いながら眠りに落ちていった。
どちらが先に寝入ってしまったかは覚えていない。私の記憶にないということは私が先だったのかもしれないし、ほぼ同時だったのかもしれない。
ただ目が覚めたのは私の方が先だった。
意識がはっきりするより先に、慣れない枕と布団の感触に、ここが霧島さんの部屋だと思い出した。そして何度か瞬きを繰り返しながら目を開けた時、仰向けの姿勢で眠る彼の寝顔をすぐに見つけた。
まだ目を閉じている霧島さんは、やっぱり眼鏡をかけたままだった。起きている時と同様に穏やかな、険しさのない寝顔だった。そして起きている時と同じように、少しのずれもなくそこにある眼鏡を見た時、私はつい笑い声を立ててしまった。
すると彼もうっすら目を開け、起きていた私に気づくと無理やり意識を叩き起こそうとするみたいに眉根を寄せた。
「あっ、おはよう……ございます。もう起きてたんですか」
「たった今、目が覚めました」
私が正直に答えると、彼はまだ寝惚けたような顔で微笑んだ。
「じゃあ俺も起きます」
「いいんですよ、今日はお休みですし。霧島さんはもうちょっと寝てたって」
「長谷さんが起きてるのに悠長に寝てられないです」
「何でしたら、私ももう一度寝ますから」
ちっとも眠くなかったけど、そう言ってみた。
眠れなかったら彼の寝顔を見ていればいいのだし、きっと退屈しない。
でも彼は眼鏡を外し、その下にあった目を手の甲で軽く擦った。それから眼鏡をかけないままで言った。
「駄目です、時間がもったいない。せっかく目覚めてすぐに、あなたの顔が見られるのに」
そうは言っても眼鏡を外していたら、すぐ隣にいる私の顔さえ見えないんじゃないだろうか。まだ顔も洗っていないから、見えないでいてくれる方が私としてはいいのかもしれないけど――自分は散々寝顔を見ておいて、こんなことを思うのもずるいだろうけど。
「じゃあ今は、起き抜けの顔を見られずに済んでいるんですね」
思わず私が本音を零すと、彼は軽く眉根を寄せて私を見た。
その後で眼鏡はかけないまま、額が触れ合うほどの距離まで顔を近づけてきた。 「えっ……」
「ほら。このくらいまで近づけば、かろうじて見えるんですよ」
と彼は言う。
私はその言葉に、顔の近さに身動ぎもできなかった。キスされるかもしれない距離まで近づかれたら、誰だってうろたえるし息を呑む。
霧島さんはそのことに、一分間ほどかけてようやく気づいたようだ。急に慌てて身を離し、少し赤い顔をしながら眼鏡をかけ直した。
「すみません、あの……朝から変なことしてしまって」
「そんなことないです……びっくりはしましたけど」
お互いに赤くなって照れてしまって、その後しばらくはくすぐったい思いでいっぱいだった。
いい大人同士の恋だって、初めて迎える朝はどうしても恥ずかしいものだ。
それからも霧島さんは、滅多に眼鏡を取らなかった
特に私が彼の部屋に泊まる夜は、必ずかけたまま眠りに就いていた。
私はそんな彼の寝顔を見ているのが好きで、そして傍にいるととても安心できるのが、幸せだった。