三月十四日の彼
三月に入ると、私のお腹は目に見えて膨らんだ。今まで持っていた服がだんだんと着られなくなり、急いで買い換えなくてはいけなくなった。
職場で着ていた制服はぎりぎり、お腹を押さえないように身に着けることで凌ぎきることができた。でも終業後、ロッカールームで着替える私服は様変わりしつつあって、お腹周りにゴムが使われていたり、フリルで腹部をカバーするようなものばかりだ。そういう服を目の当たりにすると、直に自分の姿を眺めるよりもよほど身体の大きな変化を感じられた。
私が購入したジーンズはお腹回りがいくらでも調整できるようになっていて、最大まで緩めると私がもう一人入りそうなくらいのゆとりができた。
「何かすごい。ダイエット用品の広告写真みたい」
その姿を自宅の鏡に映して私が笑うと、映さんまでつられて笑ってくれた。
「本当ですね。『こんなに痩せました!』ってあおりをつけたくなります」
そういう変化を今のところ私たちは愉快がっていられたけど、将来的には本当にここまで、それこそ私がもう一人入りそうなくらいにお腹が膨れてしまうかもしれない、ということでもある。今はまだ想像もつかない将来像には好奇心と不安の両方を感じていた。こんなに大きなお腹を抱えて、普通に生活できるんだろうか。皆そうするものだって、うちの母親は平然と言っていたけど。
私に訪れた変化は外側だけではなかった。三月になってからというもの、お腹の中が時々動くのを感じた。お腹が空いた時に震えるのと同じような感覚でぐるぐると動くから、自分以外の誰かがそこにいるのだとはっきり自覚できるようにもなってきた。
ただ残念なのは、お腹の動きは本当にごく短く、また突発的だったので、それをまだ映さんには披露できていないという点だった。
「映さん、動いた!」
自宅にいる時、私はその動きを察知する度に彼を呼ぶようにしていた。
すると彼はそれが何かの作業の途中でも放り出して飛んできてくれたけど、どういうわけか一度も間に合ったことがない。おとなしくなった私のお腹に残念そうに手を当てた映さんは、深い溜息をつきながらぼやいていた。
「どうして俺が駆け寄ると静かになるのかな……」
「きっと恥ずかしがり屋さんなんですよ」
私はそうフォローしてみたけど、案外私に似て気ままな子なのかもしれないな、という予感もしていた。
できれば映さんに似た、真面目な子がいいんだけどな。
そんな中迎えた三月十四日は、私にとってまさに区切りが来たことを実感させる一日だった。
出勤してからずっと、いろんな人に声をかけられた。温かい労いの言葉をたくさん貰った。思い出話もいくつかした。帰り際には同僚たちから花束までいただいて、学生時代以来の卒業気分を味わった。この頃少し感傷的になっているのか、そういうやり取りの合間合間でたびたび、ほろりとしてしまった。
感激しつつ恐縮もしつつ秘書課を後にして、それから私は映さんのいる営業課へと足を向ける。バレンタインデーのお返しもあるし、最終日にも是非顔を出して欲しいと言われていたからだ。自分からお礼を貰いに行くのも何だか悪い気がしたけど、営業課の皆さんにだってお世話になったから、挨拶はちゃんとしておきたい。
先月よりも一層重くなった身体と花束とを抱えて、私は営業課までの階段を上った。エレベーターを使えばいいのにと言ってくれる人もいたけど、歩いておくのも大切なことらしいから、私はなるべく歩いて上るようにしていた。明日からは自分で散歩の時間を決めて、たくさん歩くようにしないといけない。
営業課のドアをノックして、失礼しますと声をかけながらドアを開ける。
と、課内にいた皆さんが一斉にこちらを振り返り、その後やけに慎重に、音を立てないよう席を立った。映さんまでもがそうで、そのスローモーションの動きに私はびっくりしてしまう。
「ど、どうかしたんですか?」
「霧島が、妊婦さんを驚かしちゃいけないって言うんで」
説明してくれたのは石田さんだ。まるで内緒話でもするみたいにひそひそと、私に対して打ち明けた。
「最初はクラッカーを用意しようとか、くす玉仕掛けとこうって話もあったんだよ。けど霧島が猛反対してな。なるべく静かに奥さんをお迎えしようってことに決まったわけだ」
「……映さん、心配性ですから」
クラッカーはさすがにびっくりするかもしれないけど、くす玉くらいなら大丈夫じゃないかな。でも私の為にそこまでしてもらうのも悪いし、こういう歓迎でよかったのかもしれない。
「ゆきのさん、お疲れ様です」
映さんは私の元へ駆け寄ってくると、まず私が抱えた花束に手を差し伸べる。
「それ重いでしょう。家まで持ちますよ」
「大丈夫ですよ。私、持って帰れますから」
私は彼の申し出を断った。せっかく貰った花束を映さんに預けて帰るなんてもったいないし、映さんだって重い鞄を提げて帰ってくるんだから、これ以上荷物は増やせない。そう思ってのことだ。
でも彼はにっこり笑んでかぶりを振り、
「いえ、今日は一緒に帰ろうと思ってたんです」
そう言って、私の手から花束を攫っていった。
ぽかんとする私に尚も笑顔を向けてくる。
「ちょっと待っててください。すぐに支度しますから」
「え? 一緒に帰るって、映さん……」
呼び止める間もなく、彼は花束を抱えたまま自分の席へと舞い戻る。そしてどうやら帰り支度を始めたらしい。机の上を片づけたり、パソコンの電源を落としたりと手早く動く姿を、私はまだ呆然と観察していた。
普段ならこの時期、定時上がりはそうそうないのが映さんのお仕事だった。それはそういうものだって結婚前から、むしろお付き合いを始める前からわかっていたし、大変な仕事だというのも理解している。だから私もそのことについて不満を言ったり、たまには早く帰ってきて、なんて口にはしないようにしてきた。彼がいつ帰ってきてもいいように食事の支度をしておいて、彼がとても遅くなるようなら寝ながら帰りを待つようにするのが当たり前になっていた。
でも今日の映さんは、本当に、一緒に帰るつもりなんだろうか。
「今日は荷物が多いだろうからって、早く上がるつもりだったんだと」
またしても、石田さんがこっそり教えてくれた。驚きに言葉も出ない私を見て、にやにやしながら冷やかしの言葉をかけてくる。
「優しい旦那さんを持って幸せ者ですねえ、奥さん」
「……おかげさまで」
照れながら、私はしっかり頷いた。
「じゃあ、霧島の準備が整ったら、ホワイトデーの贈呈式ってことで――」
それから石田さんは、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。どこかへかけ始めながら、私に対してはこう言った。
「安井が『今回は呼んでくれ』って言ったからさ。せっかくのセレモニーだし、縁のある奴は皆呼んでやれってことで」
セレモニーなんて、何だか大事になってしまったような気がしなくもない。バレンタインデーにもそれほど高価なお菓子を用意したわけじゃないんだし、最後の挨拶にしたって、一言二言できればいいと思ってたくらいなのに。
でも逆に、その大仰なくらいの言葉が、私に最後の日の実感をより強く印象づけたようだ。
また何かが込み上げてきて、急に寂しい気分になってしまった。
そっか。私、今日で本当に最後なんだ。
今は人事にいる安井さんも、呼び出されてすぐ駆けつけてくれた。
「奥さんにはいろいろお世話になったし、挨拶くらいはしたかったからな」
颯爽と営業課に現われた安井さんは私に向かって微笑むと、寂しそうに言い添えた。
「それにしても、霧島夫人からは結局、一度も個人的なチョコレートを貰えなかったな。一度くらいはくれるんじゃないかって期待してたのに」
「そういうの、かえって気を遣わせるんじゃないかと思ったんです」
私が理由を説明すると、彼は少し釈然としないそぶりを見せていたけど。
「気を遣うどころか、真心込めてお礼をしたのに……」
「はいはい。先輩、うちの妻を口説かないでくださいよ」
そこへ映さんが、不満げな安井さんを押しのけて現われた。もうすっかり帰り支度を済ませているようで、先程の花束と鞄を片手で抱えている。
「全くだ。霧島に直接世話してる俺が貰えてないのに、安井が貰えるわけないだろ」
こちらのやり取りが聞こえていたのか、石田さんまで会話に交ざってきた。すると安井さんは呆れたように息をつく。
「お前の言う世話なんて後輩にちょっかいかけてからかってるだけだろ」
「職場には円滑なコミュニケーションが肝要だからな。霧島が構われたそうにしてるから、俺もあえてあいつを構ってんだ」
「誰も頼んでないですよ! 勝手に決めないでください!」
映さんの叫びに営業課には笑いが起こっていたけど、今の私にはそういうやり取りすら何だか懐かしくて、ちょっと切なかった。
私は今よりもずっと前の、営業課の空気を知っている。あの頃は安井さんもここに所属していて、まだ主任になっていない石田さんもいて、そしてようやく仕事に慣れ始めたばかりの、初々しい映さんがいた。三人はいつもとても仲が良くて、こうして三人で賑やかに話をしているところもよく見かけていたっけ。
今でもお休みの日には家族ぐるみでよく会う間柄だから、懐かしむのも変なのかもしれない。でも、時代の流れって言うのかな。変わっていったもの、これからも絶えず変わり続けていくものを、ここで垣間見ている気分になる。
少なくとも、私がこの営業課で、この三人と顔を合わせることはもうないだろう。絶対にないとは言えないだろうけど、多分、ない。そうする必要がない。
「それでは、ホワイトデーのお返しの贈呈でーす」
石田さんの音頭で、拍手の音と共に営業課の冷蔵庫の扉が開かれる。そこから白いケーキの箱が取り出されて、私の目の前まで運ばれてくる。
「さっぱりしたものがいいと思って、フルーツタルトにしたんです」
映さんがどこか得意そうに語る横で、安井さんも胸を張っている。
「今回は俺も出資してるんだ。今までお世話になったからな」
お世話なんて、私の方が皆さんに優しくしてもらってばかりだったのに。
営業課の皆さんは本当にいい人ばかりだ。同じ会社に勤めているとは言え、映さんがいなければあまり接点もなかった人たちばかりだろうけど、こうしていい思い出ばかりができたのはその優しさのおかげだと思う。
それからもちろん、映さんのおかげだ。
ケーキの箱を受け取った時、やっぱり私はほろりとしてしまって、涙を隠すのに苦労した。せっかく皆が楽しそうにしているんだから、湿っぽい空気になるのは嫌だった。
隠しきれていたかどうかはわからない。
けど、映さんと二人で営業課を出て行く際は盛大な拍手と囃し立てる声を贈られてしまって、さすがに笑わずにはいられなかった。
駅を出て、彼の住む部屋までたった五分の道のりを、惜しむように歩いたのはもう何年も前のことだ。
今は違う最寄り駅を使っているし、そこから家までの距離は五分なんかじゃ到底辿り着けないほどだった。
でも今の私たちは同じ家に帰っている。五分間だけではなく、一年中ずっと同じところで暮らしている。もちろんこれからの人生だって、変わらず一緒にいることだろう。私たちはあの頃よりも長く、確かな幸せを手に入れたのだと思う。
ただ、そんな未来が訪れるなんて、あの頃の私には想像もつかなかった。
人生ってわからないものだな、と、隣を歩く映さんの顔を見ながら心の中で呟いてみる。彼は自分の鞄と花束、それに私のバッグまで持ってくれている。私はケーキの箱だけを、厳重に、転ばないように運ぶ役目を仰せつかった。私も自分の現在の立場は理解しているから、粛々とその役目だけを果たすことにした。
お礼に家へ帰ったら、とびきり美味しいご飯を作ることにしよう。
「……どうかしました?」
映さんも私が見ているのに気づいたようだ。眼鏡のレンズ越しに視線がすうっと動いて、私を見る。優しくて真っ直ぐな眼差しは、昔と何ら変わりない。呆気なく暮れた三月の空の下、街の明かりがその表情を穏やかに見せていた。
私は途端にはにかみたくなって、適当に答えておく。
「ううん。何か、幸せだなって思ったんです」
最後の日にこうして、昔みたいに一緒に帰ることができて。
そういう気持ちは口にしなくても伝わったようだ。映さんも微笑んだ。
「俺もです。今日は一緒に帰りたいって思ってたから」
でもその後で残念そうな顔をして、
「本当はもっと、毎日でも二人で帰りたかったんですけどね。なかなか叶える機会がなくて、すみません」
「いいんです。それはわかってますから」
私は笑って首を横に振る。営業のお仕事が大変なのはもう知っている。
きっとあの頃だって一緒に帰れたのは幸運と、彼の努力が重なった結果だった。私の帰る時間に合わせてくれたことも相当あったみたいだから。今ならわかる。
そんなささやかな『五分間』の積み重ねの先に、今日という未来がある。
「これからはもうちょっと早く帰れるよう頑張りますよ。ゆきのさんを長い時間一人にしておくのも心配ですし……」
彼が真面目な口調でそう言うと、その声が聞こえたのか、私のお腹がひとりでに、少し動いた。
「……あ」
思わず声を上げた。
それで映さんも察したんだろう。慌てて自分の鞄だけを放り出し、私に駆け寄って服の上からお腹に手を当てた。私は彼が手を当てやすいよう、腕を伸ばしてケーキの箱を高い位置に持ち上げていた。その間にもお腹の中では私ではない、誰かの動く気配がずっとあって、しみじみと不思議な感じがしていた。
「動きましたね」
映さんが感嘆の言葉を漏らす。その後で吐息のような笑い声を立て、私を見て目を細めた。
「何か、嬉しいな。俺の声が聞こえたのかな……」
「そうですよ、絶対」
私は頷く。そうとしか考えられない。
聞こえてきたお父さんの声がとても優しそうだったから、きっと喜んでくれているに違いない。
それから私たちは家までの道を、昔よりも長く、のんびりと歩いた。
遠くない未来で私たちは、今度は三人で歩くようになるのかもしれない。あるいはもっと家族が増える可能性だってあるだろう。未来のことはなかなか想像がつかないものだ。
でもどんな道のりでも、私たちなら幸せに歩いていけるだろう。
隣を歩く映さんは嬉しそうだ。いつもにこにこしているけど、今夜は一層幸せそうにしている。
その顔を見ていたら私の心も弾んで、次は、早く顔を見せてあげたいなと思った。