一日千秋の彼女 前編
営業のついでに指輪のカタログを貰ってきたまではよかった。それなりに気に入ったデザインのを絞り込んで、目星をつけてから、初めて指輪の作法を知った。
何でもエンゲージリングとマリッジリングは違うものだそうで、通常プロポーズの時に渡すのが、宝石のついたエンゲージリング。結婚式にて交換するのがマリッジリングだとのこと。なんてややこしい。お揃いの指輪なら問題ないだろうと単純に考えていた俺は、ここで一つ目の壁にぶち当たった。
しかし二つ目の壁の方がより高かった。――指輪のサイズという奴は意外と細かく定められているものらしい。そして俺は、彼女の指のサイズを知らない。
「指輪って、プロポーズの後に買ったら駄目なんですかね」
飲みに行った際、思い切って相談してみたら、サンマの塩焼きをつついていた石田先輩には鼻を鳴らされた。
「まだ買ってなかったのか? ぼけっとしてるな、お前も」
「思いのほか考えることが多かったんですよ」
「この期に及んで何だよ考えることって」
「……いろいろです」
指輪にここまで細かくサイズがあったなんて知らなかったんです、とは言いにくい。
女の人の指なんて、男の指から比べたら誰も彼もそう大差ない気もするのに。彼女の指はどうだったかなと思い出してみるけど、普通としか言いようがない。特別太くも、細くもなかったような気がする。すべすべしているから、手を握ると気持ち良いのは知っている。
「考えてる暇があったら買ってこい。もう二年過ぎてんだろ」
ごく当たり前のように答える石田先輩の真向かいで、安井先輩も苦笑している。
「とっととしないと誰かに掻っ攫われるぞ、あんなに可愛い人なのに」
「そ、そういう心配は全くしてませんから!」
「なら何をためらうことがある?」
口調の割には幸せそうな安井先輩は、ざる豆腐をものすごいスピードで平らげている。ぐうの音も出なくなった俺は冷やし中華を啜ってからビールのジョッキに手を伸ばす。
俺たち三人はつまみの好みがてんでばらばらで、外に飲みに行く場合の選択肢はメニューの豊富な居酒屋に限られていた。あと某先輩が遠慮会釈なく品性に欠ける話題を口にしたりもするから、ざわざわと喧しい居酒屋の空気はそういう意味でも都合が良かった。
時は九月。繁忙期を乗り切った解放感で一杯の頃でもあるし、春にやってきた可愛い新人さんが大方の指導を終え、いよいよ営業デビューを控えた頃でもあるし、酷暑が食欲の秋へとちょうど切り替わる頃でもある。毎年この時期になると、三人で揃って飲みに行く機会が増える。もっともここ二年ほどは、居酒屋以外の選択肢として『俺の部屋に彼女を呼んで四人で飲む』機会も着実に増えてきた。ちなみに彼女の手料理なら、たとえ好みぴったりのつまみじゃなかろうと誰も文句を言わない。彼女はいいお嫁さんになる、というのが俺たち三人の共通認識である。とっとと本物の嫁にしろと先輩がたは思っているらしく、俺としてもその辺りに異存はない。
ただ、いざとなると案外手順が多いものだ。
「やっぱり高い買い物ですから、慎重には慎重を期したいんです」
俺がそう言うと、先輩がたは揃ってにやっとした。
「何言ってんだ、失敗する可能性なんて考えてないくせに」
「石橋も叩き過ぎると渡る前に壊れるぞ、霧島」
「ま、まあ、そうなんですけど……」
ご指摘の通り、俺は彼女――長谷さんへのプロポーズが失敗するとは思っていない。かれこれ二年以上も波風立てずに付き合ってきたし、その過程で結婚に関する話題も何度か話していて、彼女の反応はそう悪くもなかった。結婚を決意したきっかけもまとまった貯金が出来たからと、彼女と毎日一緒にいたいなという気持ちと、あとは繁忙期を無事に終えた九月だからという程度で、それほど大きなきっかけもなければ、気負いもないつもりだった。
それでもやっぱり、失敗はしたくない。指輪の購入以外でも慎重に慎重を期して、なるべくいいプロポーズにしたい。彼女の前で格好悪いところは見せたくない。今までに彼女の前で、俺が格好良かったことなんてちっともなくて、最初のきっかけからしてちっともスマートじゃなかった。だから余計に思ってしまう。
「もっとも、二人で指輪を選びに行くっていうのも悪くはないよな」
ふと、安井先輩が首を竦める。
「一緒に指輪を買いに行きませんか、がプロポーズの言葉になっても、それはそれでアリじゃないか」
「なるほど……いいですね、それ」
さすがにそのままいただくつもりはないけど、いいアイディアだ。指輪を一緒に選ぶのも俺たちらしい気がする。
「だよな。所詮霧島のセンスじゃ不安だからな」
石田先輩はからかう調子で言ってきた。確実にやっかみである。
「いや、霧島は女の子を見る目だけはあるよ」
すると安井先輩はそんなことを言い出して、脅すように低く続けた。
「営業課のアイドルと呼ばれた長谷さんを幸せにしないと、地獄に落ちるぞ」
「そうだな。俺たちが地獄に落としてやるから覚悟しろ」
「物騒な言い方を……ちょっとは背中を押すとか温かく激励するとかしてくださいよ!」
この先輩がたに激励なんてものを期待する俺も俺かもしれない。長谷さんの件については最早今更だ。
だけど、先輩がたと話していると、確かに彼女を幸せにしなくちゃいけないと強く思う。やっかまれたりからかわれたりするのとは別の意味合いで。プロポーズもせめて、先輩がたに不安がられないよう格好良く済ませたいものだ。
結局俺は、指輪を用意しなかった。プロポーズの後で一緒に買いに行ってもらおうと決めた。
肝心の決行日には、レストランに予約を入れた。
『――展望レストラン、ですか?』
デートの誘いを持ちかけた電話越し、彼女の声も普段通りに聞こえた。
「はい。眺めも雰囲気もいい店を教えてもらったんです」
俺も、せめて口調だけは気負いのないように告げる。
「ここ一ヶ月ほどはゆっくり会う時間もありませんでしたし、久し振りですから、ちょっと奮発しようかなと」
『別に気を遣わなくてもいいんですよ、霧島さん』
「いえ、こういう時こそ遣わせてください。久し振りですから」
デートの間が空いたことを強調したら、やがて彼女もくすっと笑って、弾む声で賛同してくれた。
『じゃあ……素直にごちそうになっちゃいます』
「ごちそうします、喜んで」
まずは誘い出せたことにほっとする。
こんな気分もそういえば久し振りだな、とふと思う。二年以上の交際期間で、二人で会うのもいつの間にやら当たり前のようになっていたし、土日を互いの為に空けておくのも何も言わないうちから普通のことになっていた。
俺は電話を持ち替えて、自分の部屋の片付き具合をざっと目で確かめる。九月に入ってからようやく掃除をする余裕が出てきた部屋も、決行日までにはもうちょっときれいにしておきたい。外で会う約束をしても、部屋を片付けておく習慣もまた当たり前になっていた。ここ二年で俺の部屋には彼女の持ち込んだ私物も増えていたし、ふらっと一晩泊まっていけるくらいの備えは常にある。
だけど繁忙期の間は、部屋では会わないようにするのも当たり前のことになっていた。合鍵は渡していたものの、忙しい時期には彼女も訪ねてこない。掃除していない部屋を見られるのはまだ抵抗があって、そういう気持ちを彼女も理解してくれているらしい。お互い勤めに出ているのは一緒だから、仕事のせいでデートの間が空くくらいどうってこともなかった。
『その日は、泊まっていってもいいですか』
長谷さんが尋ねてきたので、俺は素早くこう答えた。
「頑張って掃除をしておきます」
『そんな、頑張らなくてもいいですよ。無理はしないでください』
「無理でも何でもします、長谷さんの為なら」
久し振りだから、土曜一日だけでは足りない。ましてその日はプロポーズの決行日でもあるのだから、出来る限り長く一緒にいられたらと考えているし、当日も同じように思うはずだ。となるとやっぱり、部屋の掃除が必要だった。
『私はちょっとくらい散らかってても気にしないです』
小さく笑った後で、長谷さんは柔らかく言い添えてきた。
『でも楽しみにしてます。本当に、久し振りって感じがしますね』
彼女の言い方は幸せそうでも、甘えるようでもあった。電話越しではなくて、直に耳元で聞いていたい声でもあった。
俺たちの言う久し振りとはたかだか一ヶ月超の長さで、その間も全く顔を見ていない訳でもない。顔が見たいだけなら受付に行けばいくらでも見られるし、電話やメールでやり取りもしている。良く出来た彼女の長谷さんは、時々残業する俺の為にお弁当を作って、手渡してくれたりもした。この一ヶ月超ですら繋がり自体は途絶えていなかったのに、本当に長い間会っていなかったような気がするから不思議だ。約束の土曜日が急速に待ち遠しくなってきて、一瞬、プロポーズについても指輪の件も遠くへ吹っ飛びかけた。まずい。
デート自体が楽しみなのも事実ではある。あるけども、『久し振り』を失くす為の約束をしに行くのだと思えば、肝心のことも忘れずに済むだろう。どうってことない、なんていうのも所詮は男の痩せ我慢に過ぎない訳だから。
「俺も、楽しみにしてます」
万感の思いを込めて応じると、彼女はもう一度笑ってから予告してきた。
『じゃあ私、ノースリーブのワンピースを着ていきますから』
「――是非お願いします。大変楽しみにしてます!」
我ながら食いつきの良過ぎる答えだと思った。でも久し振りなんだし、好きなんだから仕方ない。
彼女との通話を終えてから、俺はもう一度自分の部屋を目で確かめた。
忙しくなると途端に荒れ出す室内。今は先月よりはいくらかましだ。でも結婚するということは、繁忙期の生活態度を彼女に晒すということでもあるんだろう。
プロポーズが上手くいかない可能性は考えていないけど、実際に結婚するまでに生活態度の方は改めておこう。
結婚に至るまでの手順は案外多いものだ。時間が掛かるのもしょうがない。