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一日二十四時間の彼

 四月も終わりを迎える頃。
 私は待ち構えていたみたいに、霧島さんへと電話を掛けた。

『もしもし、霧島です』
 電話に出る時、彼は必ず名乗る。
 お互い携帯電話で掛けているのだから、誰が掛けて誰が受けるのかはっきりわかっているはずだ。だけど彼は名前を名乗り、少し緊張気味の私も、つられるように名乗ってしまう。
「あ、長谷です。こんにちは」
『こんにちは、長谷さん。お久し振りです』
 土曜日の午後。どちらかと言えば直に聞くことの多い声は、電話越しに聞いても普段通り、穏やかだ。今日は久し振りの電話となったけど、それでも記憶にある通りの声をしていた。
『俺も今日辺り、電話を掛けようかと思っていたところなんです』
 電話を掛ける直前までの緊張が、素早くほぐれていくような、優しい声。
「そうなんですか? 偶然ですね」
 私は笑って、すかさず尋ねた。
「あの、霧島さんは、今日はずっとおうちにいらっしゃいますか?」
 少しの間を置き、彼が答える。
『はい、大変暇を持て余しています。何の予定もありません』
 姿勢を正したのが電話越しにも見えるような、張り切った回答だった。私は胸を撫で下ろし、続ける。
「よかった。実は、実家からうどんをたくさん送ってもらったんです」
『うどん、ですか』
「ええ。それで、よかったら霧島さんにもお裾分けしようかと思って。うどんはお好きですか」
『大好きです』
 今度は即答。これも実に張り切っていた。私はうれしさを堪えつつ、更に告げた。
「なら、お裾分けさせてください。もしよろしければ、霧島さんのおうちにお持ちしましょうか」
『いいんですか? お願いしたいのはやまやまですが……』
 電話の向こうの声が、幾分か申し訳なさそうになる。
『うちまで来るとなると、大変じゃありませんか?』
「平気です。会社に行くよりはずっと近いですよ」
 駅から歩いて五分のところにある、彼のアパート。私の住む部屋からは徒歩で大体二十五分ほど。会社に行くよりも近いし、駅前へ出るよりもまだ近い。
「霧島さんのご迷惑でなければ、お散歩がてらうかがいます。久し振りにお会いしたいですし」
 窓の外は快晴。見事なお散歩日和だった。
 本当のことを言えば実家のうどんもただの口実でしかなく、彼をお散歩に誘いたいというささやかな企みを隠し持っていた。あわよくば明日、日曜日の予定も聞いてしまおうとも企てていたけど――それは状況次第。今日は暇でも、明日の彼は暇ではないかもしれないし、私といるより休んでいたいと思っているかもしれない。ちょうど新年度を迎えたばかりで、ここのところ仕事が忙しかったから。
『迷惑だなんてことはありません。俺も長谷さんにお会いしたいです、是非いらしてください』
 私の言葉にそう応じた後、ふと彼が声を曇らせた。
『でも、何のお構いも出来ないかもしれませんが……』
「あ、気にしないでください」
 場違いなほど深刻な物言いをされたので、危うく吹き出すところだった。霧島さんらしい気の配りようではあるけれど。
「私、すぐにおいとましますから」
『いえいえそんな、お茶くらいはお出しします』
「気を遣わないでください。何でしたら、お外でお茶してもいいですし」
『本当に大丈夫です。是非上がっていってください』
 意外なことに、彼は私を部屋に上げたがっているようだった。ご迷惑じゃないんだろうかと私の方こそ気を遣いたくなったけど、彼が是非にと言い張るので、結局素直にお邪魔することにした。
 実は、彼の部屋を訪ねていくのは初めてだった。

 よく晴れた四月の末。ぽかぽか陽気の中を私は、うどんを抱えて歩いていく。駅から五分のところにある、彼の部屋まで。
 恋人の部屋に初めて上げてもらうというのに、不思議なほど気負いも緊張もなかった。私は当初からうどんを置いてくるだけと思っていたし、彼も彼らしい心配りでお茶を出してくれるつもりのようだ。どう考えても緊張する必要性を感じない。ある意味、非常に私たちらしい経緯だと思う。
 私たちの関係は春の陽射しとよく似ていて、際限なく温かく、穏やかだった。付き合う以前と比べると落ち着いてきたように思う。一時は込み上げてきてしょうがなかった寂しさや離れ難さとも、どうにか折り合いをつけられるようになった。それは四ヶ月目を数える交際期間のお蔭でもあるのだろうし、年度末と新年度を迎えて慌しかった、近頃の仕事のせいでもあるのかもしれない。
 休日に会うのも久し振りなら、ゆっくり顔を合わせるのも久し振りだった。一日二十四時間のうち、一度も会えない日があるのも社会人同士なら仕方のないこと。そういう日を乗り越えていくごとに、私たちの関係は落ち着いた、地に根の張ったものに変化していくように思う。むしろ、そうありたいと思う。
 本当は、今日だって連絡を取るべきではなかったのかもしれない。うどんを口実にして、彼のせっかくの休日に割り込んでいくのは、恋人を思うならするべきではないふるまいかもしれない。出来ればもう少しでもこの気持ちを落ち着けて、お互いの仕事が忙しい間、おとなしく待っていられるような人間でありたいものだけど――。

 おとなしく待つことまではなかなか出来ない、私は彼の部屋のチャイムを押す。
 インターフォンを繋がずに、彼はすぐドアを開けてきた。
「……長谷さん、いらっしゃいませ」
 私の顔を見た後、言葉を発するまでに僅かなためらいがあった。はにかむ笑顔の霧島さんを見ていると、私の方まではにかみたくなる。
「お邪魔します」
「ええどうぞ、上がってください」
 Tシャツにジーンズと普段着姿の彼は、気安く私を招き入れてくれた。私もお招きに与り、部屋へと上がり込む。
 彼の部屋はすっきりとしていた。テレビにテーブル、それと電話台。リビングで目につくものはそれだけで、床もテーブルの上も片付いている。奥には閉ざされたドアが一枚あったけど、その向こうも恐らく片付いているんだろうなと思わせた。
 フローリングの床の上、彼が座布団を敷いてくれた。勧められて腰を下ろせば、すぐさまキッチンから麦茶の注がれたコップを運んでくる。霧島さんはやはり、気配りの人だった。
「あの、お構いなく」
 私は頭を下げ、コップを卓上に置いた彼はかぶりを振ってから、私のすぐ隣に座った。
 こうして並んで座るのも久々で、それだけでうれしくなる。目が合うと更に心が弾んだ。どきどきしてくる。
「お会いしたかったです」
 沈黙を作らないよう、私は率直に告げた。
 霧島さんも微笑んで、言ってくれた。
「俺もです。せめて一緒に帰れる日がもっとあればよかったんですけどね」
「仕方ないですよ。年度が替わればあちこち忙しくなりますし」
 五分間だけ一緒の帰り道も、近頃では揃って辿ることが少なくなっていた。けれどそれも、一時的なものと思うことにしている。忙しい時期を過ぎれば、また以前のように一緒に帰るようになるだろう。出会った頃と同じ、梅雨の時期にもなれば。
「あ、これ、件のうどんです」
 紙で包んだ乾麺を差し出す。彼は笑顔で受け取ってくれた。
「へえ、稲庭うどんですか」
「そうなんです。切り落としですけど、美味しいですよ」
「どんな風にいただくのが一番いいですか」
「ええと、うちの母はお鍋に入れるのが好きだと言ってます。でも私は冷たいざるうどんにするのが美味しいと思います」
 私は答え、うどんを手にする霧島さんが興味深そうな顔をするのを見た。彼は少し考えるような沈黙の後で、こう尋ねてくる。
「天ぷらうどんでも美味しいですか」
「はい、絶対美味しいです」
「じゃあ……」
 と、眼鏡の奥で彼の視線が横に動く。テレビの下、ビデオデッキの時刻を見たようだ。午後一時半だった。
 私が視線を戻した時には、彼は既に私を見ていた。うどんの話をするにしては真剣すぎる眼差しで。
「よかったら」
 躊躇するような切り出し方で告げられた。
「夕飯にこのうどんを、一緒に食べませんか」
「え? 夕飯に?」
 びっくりして、思わず声を上げてしまったけど、すぐに悔やんだ。霧島さんも気まずそうな顔をしている。せっかく誘ってくれたのに、あんまりな返し方だと我ながら思う。
 だけど、昼下がりの時分から夕飯に誘われるとは思わなかった。まして彼の部屋で食事なんて、迷惑にならないんだろうか。
「すみません」
 霧島さんは詫びる必要もないのに詫びてきた。むしろ私の方が謝らなくちゃいけないのに。慌てて頭を下げる。
「いえ、こちらこそすみません。私は構いませんけど……」
「せっかくですから、夕飯をご一緒したいと思いまして」
 彼は穏やかに続ける。
「外に食べに行くのもいいかと考えていたんですが、長谷さんの顔を見たら気が変わりました。二人きりでいられる方がいいです」
 今度は声も出なかった。
 真っ直ぐな視線を受け止めるので精一杯だった。
「それに、今から申し込んでおけば、夕飯の時刻まではずっと一緒にいられますよね」
 霧島さんが言って、同意を求めてくる。私がぎくしゃく頷くと、ほっとしたように笑ってくれた。
「よかった。久し振りにお会いしたから、なるべく長くいて欲しかったんです」
 その何でもない言葉に、今までは影を潜めていた意識が浮かび上がってくる。――彼の部屋にお邪魔したのは今日が初めてだ。今更みたいにどぎまぎ、緊張してきた。

 そうと決まると、私たちの行動は早かった。
 二人で駅前のスーパーへ出かけ、天ぷらの材料を買ってきた。霧島さんは出来合いのものでもいいと言ったけど、そこは個人的に妥協出来ない。せっかくなので手料理を披露したかった。天ぷらとうどんだけで手料理と呼んでいいかどうかはともかく。
「長谷さんの手料理が食べられるなんて、うれしいです」
 彼が本当にうれしそうにしているので、私も俄然張り切ることにした。
「頑張ります。失敗のないように」
「失敗してもいいですよ。俺は食べます」
 多分本当だろうなと思うので、余計に失敗は出来ない。

 駅前から彼のアパートまでは歩いて五分。あっという間に着く距離だった。
 以前はこの距離を物寂しいと思ったことがあった。この距離より更に長く一緒にいても、離れ難いと思ったこともあった。今も私は寂しがり屋で、口実を作り出してまで彼に会おうとするくらい、待つことが苦手だ。だけど五分間なんて目じゃないくらい、長く長く一緒にいられるから。
「考え事ですか」
 ぼんやりしながら歩いていたら、霧島さんにそう尋ねられた。
 私は小声で答える。
「霧島さんとずっと一緒にいたいなって、思っていたんです」
「俺も同じ事を考えてました」
 隣を歩く彼が顎を引き、照れたように笑った。
「どうしたら、長谷さんを帰さずに済むか、そのことばかり考えています」
 今更みたいに緊張してきた。私も自然と照れてしまって、笑いたくなる。
 じゃあ、今日はずっと一緒にいましょうか。一日五分間と言わず、二十四時間ずっと――そんな言葉を切り出す直前、彼のアパートが見えてきた。
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