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眼鏡は外さないでいて

 志岐さんはいつも丸い眼鏡をかけている。
「ああ、これ? 伊達だよ」
 本人が言う通り、目が悪いわけではないらしい。
 でもファッションでかけているにしては似合ってない。志岐さんは丸顔だから、丸い眼鏡をかけると何もかも丸く見えてしまう。大きなレンズの黒縁眼鏡は野暮ったくて、志岐さん自身を冴えない大学生に見せていた。
 それでなくてもバイト先ではキッチン担当、いつも白い制服にキャスケット帽で髪を覆っていて、さも素性を隠して働いてる訳ありの人みたいに見える。
 お蔭でバイト仲間からの評判は散々だった。
「志岐さん、眼鏡やめたらモテるんじゃない?」
「せめてもう少しマシなフレームにするとかさ」
 しょっちゅうそんなことを言われているけど、志岐さんは笑い飛ばすばかりだ。
「別にモテたいって思ってないんで」
 そう言い切る志岐さんを、私は密かに尊敬している。
 皆が何と言おうと、野暮ったくて冴えない志岐さんがいい。

 私たちのバイト先『Four seasons』は個人経営のレストランだ。
 看板メニューはとろとろビーフシチュー、個人的なお薦めは自家製ティラミスのバニラアイス添え。
 私は週に四日ほど、土日なら日中に、平日は放課後にホールスタッフとして働いている。志岐さんはオーナーのお孫さんで、その技を盗むつもりでキッチンに入っているそうだ。たまに試作メニューと称して美味しい賄いを出してくれる、とっても優しいバイト仲間だ。

「凪咲ちゃん、今日の賄いは白身魚のグラタンなんだ」
 今日も出勤した私に、志岐さんは真っ先に声をかけてくれる。
「特別にデザートのおまけつき。食べてくだろ?」
「……うん」
 食べたかったのは本当だから、私はちゃんと頷いた。
 ただ、いつも通りの嬉しそうな顔はできなかったようだ。志岐さんも途端に訝しそうにする。
「どうした? 何か元気ないな」
「学祭の準備で疲れてるから、かも」
 曖昧に答えたのは、全部が事実じゃないからだった。
 学園祭がもう来週に迫ってて、準備に慌ただしいのは本当。お芝居に出ることになって、バイトのシフトをずらしてもらっていたところだ。
 でも、私が落ち込んでるのはそれだけじゃない。
「凪咲ちゃん?」
 口が重い私に、志岐さんが眼鏡の上で眉を顰めた時だった。

 お店のドアベルがお客様のご来店を知らせ、
「いらっしゃいませ――あ」
 ホールへ出ていった私の目に、見慣れた制服姿の三人組が飛び込んできた。
 緑のブレザーとチェックのスカートはうちの高校の制服だ。
 その制服がきれいなこととスカート丈の上品な長さ、そして襟につけた学年章から彼女たちが一年だとわかる。それぞれの顔には覚えがあるような、ないような――ただどちらにせよ私は戸惑い、対照的に彼女たちは歓声を上げた。
「ナギサ先輩、ここでバイトしてたんですね!」
 いきなり下の名前呼びですか。
「わあっ、先輩がスカートはいてる!」
 いや学校でだって一応毎日はいてます。 
「急に押しかけちゃってすみません、先輩!」
 謝るくらいならまず声のトーンを落として。
 静かだった店内に彼女たちの声が響くから、私は慌てて声を潜めた。
「君たち、お客様として来てくれたんだよね?」
 彼女たちは揃って頷き、仕方なく三人を席に案内した。
 そしてメニュー表とお冷を運んでいったところで、三人のうち一人が私に小さな手紙を差し出してきた。
「あの、先輩……」
 ――まただ。
 なんて、直感してしまう自分がいっそ忌々しい。
 だけど初めてじゃなかった。口を利いたこともない後輩が目を潤ませて、私に差し入れをくれたり、連絡先を記したメモをくれたり、あるいはもっとストレートなものをくれたりする。
 惜しむらくはうちの高校が女子高だってことだ。
「よかったら、これ、読んでください」
 そう告げてきた後輩の頬は真っ赤で、手紙を持つ両手は小刻みに震えていた。
 彼女の肩を別の子が、支えるように叩いて、
「大丈夫、頑張って渡しな!」
 などと小声でエールを送っているから、こっちはどうしていいのかわからなくなる。
「あのね、私、今バイト中だから」
 やんわり断ろうとしてみたけど、途端に手紙の子が顔を引きつらせ、別の子が口を挟んだ。
「先輩、読むだけでも読んでやってください。この子、先輩のファンなんです」
 受け取らざるを得ない流れって、ちょっとずるいと思う。

「今の子たち、何だ?」
 注文を受けてキッチンに駆け込んだ私に、志岐さんが短く尋ねてくる。
「すみません、うるさくして」
 私が代わりに詫びると、彼は何か察したように聞き返した。
「あの子たちか? 凪咲ちゃんが元気ない理由」
 率直に言えばそうだ。
 でも、あの子たちだけじゃない。
 上手く言えずに口ごもった私を見て、志岐さんは首を竦める。
「今日の賄い、必ず食べてけよ。話聞いてやる」

 レストランのバックヤードには休憩室があって、賄いはいつもそこでいただく。
 十人掛けの長いテーブルの隅っこに、私と志岐さんは向かい合わせに座った。そして本日の賄いメニュー、白身魚のグラタンを二人で食べた。
 熱々のグラタンにふうふう息を吹きかけつつ、私は事情を語り出す。
「実は私、モテ期が来てるの」
「モテ期……」
 志岐さんがぽかんとするのも無理はない。
「まあうち女子高だから、全員女子なんだけど」
 悲しいことに十八年の生涯の中で、男子にモテたことはない。中高と女子校だからそもそも男子との接点すらない。
 それはさておき、モテ期が訪れるほんの数ヶ月前まで、私は後輩にきゃーきゃー言われることもないごく普通の女子高生だった。
「前に話してたよね、学祭でお芝居やるの」
「ああ、『トリスタンとイゾルデ』な」

 うちのクラスの演目がそれで、私は主役のトリスタンをやることに決まった。
 何のことはない。部活をやっていなかったのと、クラスで一番背が高いという理由で決まっただけだ。普段の私は男らしさなんて欠片もなかった。
 でもまあ、せっかくだからと生まれて初めてショートにしてみた。
 高校生活最後の学祭だ。どうせならきっちりやり遂げようとお芝居の稽古にも熱が入った。

「その練習を見に来た後輩たちが、何でか私のことを気に入っちゃって」
 私がぼやくと、志岐さんはそこで気遣わしげに笑った。
「何でかって、自信ないのか? 『王子様』役なのに」
「ううん、逆。すっかり本物の王子様扱いだもん」
「俺も見てみたいな、凪咲ちゃんのトリスタンぶり」
「本番見に来る? 周り女子ばっかで居心地悪いかもだけど」
 正直に言えば私だって、王子様ぶりを誉められるのは悪い気がしない。
 だけどそれを、私そのものだって言われるのは複雑だった。
「何かね、後輩たちは私のこと、リアルトリスタンだって思ってるっぽいんだ」
 凛々しくて、情熱的で、恋の為なら倫理さえ踏みにじる王子様。
 私服の八割がスカートかワンピで、月々のバイト代も可愛い服とコスメに費やす私とは、全く正反対のキャラだ。
「だから制服着てるだけできゃーって騒がれるし、可愛い系の女子と喋ってただけで噂になるし、バレーの授業でサーブ外したらどよめかれたからね。『トリスタン様らしくない!』って」
 私だって人間だ。サーブくらいたまに外す。
 でもトリスタンはそうじゃない。そして皆は、私にトリスタンであるよう求めている。
「最近じゃ、結構ガチな告白までされるようになってさ」
「ガチなって……」
「付き合ってください、とかね。連絡先もしょっちゅう貰うし」
 同性愛を否定する気はない。本当に好きになったなら仕方ないって思うから。
 でも、皆が好きなのはトリスタンとしての私だ。凛々しくて情熱的な王子様。私とは全く異なる存在。
「もう、どうしていいのかわかんなくて。悩んでんの」
 志岐さんお手製のグラタンをつつきながら、思わず深い溜息をつく。
 せっかく美味しいものを食べてるのに、悩み事があるってだけで気分が浮かない。それも悔しかった。

 志岐さんも唸るように息をつき、それから少しの間黙った。
 丸顔に丸眼鏡をかけた志岐さんに、険しい表情はあまり似合わない。だけどその難しげな面持ちは、きっと私にかけるべき言葉を探しているからなんだろう。
 ここでのバイトを始めてからというもの、志岐さんはいつでも優しい先輩だった。入りたての頃にしでかした数々の失敗も笑顔で励ましてくれたし、理不尽なクレームに泣いた日は遅くまで涙に付き合ってくれた。テスト勉強で詰まった時、一緒に答えを考えてくれたりもした。
 そういう志岐さんのことを、私は密かに尊敬している。

「志岐さんって、格好いいよね」
 私が唐突に褒めたからだろうか、
「……えっ」
 志岐さんがうろたえたのが、丸眼鏡越しに見開かれた目でわかった。
「な、何だよ急に」
 声まで裏返ってるのがおかしくて、笑いを堪えながら続ける。
「いや、本気で思ってるよ。志岐さんって自分を曲げないじゃん」
「そうか?」
「眼鏡のこともさ。あれだけ皆に外せとか変えろとか言われてるのに、モテなくてもいいって言い切るとこ、潔くて格好いいと思うよ」
 誰が何と言おうと、私は野暮ったくて冴えない志岐さんを格好いいと思う。
「誉めても何にも出ないぞ」
 照れたのか、志岐さんが顔を隠すようにキャスケットを被り直した。
「別にお世辞じゃないって」
 私は言い添えてから、溜息まじりにぼやく。
「だって私は、そういうふうにはできなかったよ。何だかんだで皆の目が気になって、普段通りに振る舞えなくってさ。最近、めっちゃ窮屈」
 スカートをはいてると変な目で見られるから、下にジャージをはくようになった。
 クラスの友達とも、一対一では喋らないようになった。
 そして後輩たちからの好意を拒めないまま、ずるずるとこんな状況に陥っている私がいる。
「このまま学祭終わるまで待てばフェードアウトするんじゃないかって、告白の返事一切してないんだ。自分がされたら絶対嫌なことしてるって、自覚あるけど」
 でもあの子たちだって、どこまで本気なのかわからない。
 案外こっちが真面目に断ったら『えっこの人何マジに取ってんの』って思われるかもしれない。そういうのが怖くて、貰った手紙も連絡先も一読しただけだった。
 だけどもし、本気だったら――。
「私、トリスタン並みに酷い奴じゃん」
 グラタンを食べ終えた私は、休憩室のテーブルに突っ伏した。
「トリスタンって酷い奴だったっけ?」
 志岐さんがちょっと笑ったのが頭上に聞こえる。
「酷い奴だよ。お薬キメて主君の奥さんになる人寝取ったんだよ」
「……名作をそういうふうに評するのはやめなさい」
 軽く私をたしなめた後、彼は続けた。
「まあ惚れ薬の件は倫理的にどうかっていうんで、『もともと惹かれあってた二人が媚薬に背中押された』って筋書きにしてるお芝居もあるらしいな」
 そうだとしてもトリスタンのやったことは裏切りだ。不義密通だ。
 それは私がやってることと、どっちがどのくらい悪いことだろうか。
「ある意味、似合いのキャスティングだったのかもね」
 何度目になるかわからない溜息をつくと、
「相当参ってるな……ちょっと待ってろ」
 志岐さんは私の頭をぽんと叩いてから、休憩室を出ていった。

 程なくして戻ってきた彼の手には、ティラミスが盛られた皿があった。
 それを私の前に置き、慰めるように言った。
「ほら、特別サービスだ。これ食べて元気出せ」
「あ、ありがとう、志岐さん……!」
 うちの店の自家製ティラミスは絶品だ。土台はしっかり目のケーキ生地、そこにエスプレッソを染み込ませて、マスカルポーネチーズの濃厚なクリームと何段も重ねてある。ココアパウダーと合わせてビターな味わいだから、バニラアイスとの相性もばっちりだった。
「美味しい……。今日のはまた格別に美味しいよ!」
 私は志岐さんの優しさに感激しつつティラミスを頬張った。
 元気が出るかどうかはわからないけど――もうちょっとだけ頑張れそうな気はしてくる。とりあえず学祭が終わるまでは。告白の返事をどうするかは、まだ悩むけど。
「そうだろ。今日のは特別いい出来なんだ」
 志岐さんは満足げに、食べる私の顔を眺めている。
 それから何かを思いついたように、考え考え切り出してきた。
「凪咲ちゃん。王子様扱いが嫌なら、いっそ彼氏作れば?」
「え? 彼氏?」
「そうしたら周りの子たちも、凪咲ちゃんが『王子様』じゃないってわかるだろ」

 それはそう、かもしれない。
 私はトリスタンじゃないし、男の子でもない。人から好かれるのはいいけど、男の子の代わりを務めるつもりはない。そういう意思は確かに伝わるかもしれない。

 だけど問題は、
「そもそも私、好きな人いないんだけど」
 女子高という環境上、ご縁が一切ないことだ。
「そんなもん、付き合ってから好きになればいいだろ」
 志岐さんは意外にも軽い調子で勧めてきたけど、きっぱりとかぶりを振っておく。
「私、そんなことできないよ。初めての彼氏はちゃんと好きになった人がいい」
 だからこそ皆がしてくる告白が不思議なんだ。
 本当に私のこと好きなんだろうか。トリスタンじゃない私のことが。
「真面目なんだな、凪咲ちゃん。いいことだ」
 志岐さんが頷く。
 真面目な奴が他人の告白を疑ってかかるかどうかはさておき――彼はもう少し考えてから、こう言った。
「なら、偽の彼氏を作ればいい」
「偽の……? いないのに、いますって言うの?」
「それだけじゃない、一緒にいるとこ見せて回るんだよ。それこそ学祭あたりで」
 確かにそれも意思表示にはなるだろうけど、やっぱり似たような問題がある。
「私、男友達もいないんだけど、頼める人いないよ」
 すると志岐さんはすかさず自分を指差し、
「俺がなってあげようか、偽彼氏」
 と言った。
「えっ、志岐さんが!?」
「何だよ。俺じゃ不満か」
「不満はないけど……志岐さんこそいいの?」
「嫌なら言い出さないよ、こんな案」
 それから志岐さんは明るく笑って言い添えた。
「どっちにしろ、凪咲ちゃんのトリスタンは見に行きかったからな」
 そういうことなら好都合なのかな。
 他に頼める相手もいないし、志岐さんだったら普通に話せるから偽物だってばれないかもしれない。何より皆の熱狂を鎮めることができるなら、すごくありがたい。
「じゃあ、是非お願いします」
 私が頭を下げると、志岐さんも深々と下げ返してきた。
「こちらこそ。ちゃんと恥ずかしくない格好で行くから心配するな」
 バイト仲間に指摘されてる、野暮ったさを気にしてそう言ったのかもしれない。
 だから私は笑い飛ばした。
「心配なんてしてないよ。いつも通りの志岐さんで十分だからね」
 皆はあれこれ言うけど私は、今の志岐さんが優しくて、格好いいと思う。

 志岐さんはどう思ったんだろう。
 またキャスケットを目深に被り直したせいで、丸眼鏡の奥の表情は見えなかった。

 学園祭当日は、まず根回しから始めた。
「今日、彼氏が見に来てくれるんだ」
 劇本番を控えた朝、衣裳や舞台セットの最終確認を終えた後、クラスの友達にそれとなく打ち明けた。
「彼氏いたの!?」
 返ってきた反応はこうだ。当たり前だけど驚かれた。
「つい最近できたの。バイト先の先輩で、大学生で――」
 嘘っぽくならないよう真実も織り交ぜて語ると、友達はおめでとうを言ってくれた後で苦笑した。
「ファンの子たちが泣いちゃうね。本気で王子様だって思ってるっぽいし」
 まさにそれが目的だ。
 私は王子様じゃないってこと、男の子の代わりにはなれないってこと、皆に知ってもらわなくちゃいけない。

 志岐さんからは、学園祭開始直後に電話があった。
『今着いた。正門くぐったとこだ』
 彼の声だけじゃなく、学園祭らしい賑やかなざわめきも通話口から聞こえてくる。開場直後とあって正門付近は人でごった返しているに違いない。
「じゃあ迎えに行くよ」
 段取り通り、私は告げた。
『頼む。俺、すごく浮いてる』
 女子高の空気に慣れないんだろうか、志岐さんの声は少々物憂げだった。笑いを堪えつつ電話を切り、急いで正門まで足を向ける。
「凪咲の彼氏来てるの? 絶対見たい!」
 クラスの友達が数人、大はしゃぎでついてきた。普通なら同伴はお断りするところだけど、今回は証人が必要だ。私も特に止めはしなかった。

 生徒玄関を抜けると、秋晴れの空の下にそびえ立つ正門が見えた。
 バルーンアートでカラフルに飾り立てられたその門を、今まさに大勢の来校者がくぐり抜けているところだ。そのほとんどが私服で、年齢層も性別も様々なところが非日常的だった。
 志岐さんもこの辺りにいるはずだと、私は周囲を見回した。
 すると、
「凪咲ちゃん、こっち!」
 どこかほっとしたような志岐さんの声が私を呼んだ。
 その声は正門の内側、ビラ配りに勤しむ生徒たちが居並ぶ歩道から聞こえてきた。見ればそこに小さな人だかりができていて、生徒たちからビラ攻勢を受けたと思しき男性が、慌ててこちらへ駆けてくるところだった。
 大量のビラを握り締めたその人は、私を見るなり安堵の微笑を浮かべる。
「出迎えありがとう。すぐに来てくれて助かった」
 かけられた感謝の言葉は、聞き間違いようのない志岐さんの声をしていた。
 だけど目の前に立つその男の人には、まるで見覚えがなかった。
 髪はダークブラウンのふわふわショート。形のきれいな眉の下には黒目がちな、少し垂れ気味の目が瞬きを繰り返してる。鼻筋の通った顔立ちになめらかな丸顔の輪郭には確かに見覚えがある――けど、目の前に立つベビーフェイスの美青年が、私の知ってる志岐さんとはまるで結びつかなかった。
 っていうか、いつもの丸眼鏡がない。
「女子高ってすごいな、エネルギーに満ち満ちてる」
 受け取らざるを得なかったらしいビラを両手でまとめた後、その美青年は私を見てにっこり笑った。
「まだ制服着てるんだな。凪咲ちゃんの舞台って何時から?」

 呆気に取られていた私は答えられなかった。
 私の知ってる志岐さんは丸眼鏡で、いつもキャスケット被ってて、それらでも隠しきれないくらい丸顔で、そのせいかちょっと野暮ったい。でもだからといって内面の優しさ、温かさは何一つ損なわれないし、私はそういう志岐さんを尊敬している。
 でも今、目の前にいる志岐さんは野暮ったいどころか、文句のつけようがない美青年だ。

「この人が凪咲の彼氏?」
 ついてきてくれた友達が、目を輝かせて私に尋ねる。
「びっくりしたー! すっごい格好いいじゃん!」
 うん、私もびっくりしてる。
「ね、紹介してよ。彼のことなんて呼んでんの?」
 肩をゆさゆさ揺すられて、ようやく現実に立ち返った私は、皆に向かって彼を紹介した。
「えっと、志岐さん。バイト先の先輩で……」
「声ちっちゃ! 凪咲、照れてるでしょ!」
 いや照れるとかいう次元の話じゃなくて。
「志岐です。いつも凪咲ちゃんがお世話になってます」
 私の言葉を引き継ぐように志岐さんが名乗ると、その優しい笑顔に皆が冷やかすような歓声を上げた。いつの間について来てたのか、悲鳴を上げてる後輩たちもいた。
 何か、思った以上に騒ぎになっちゃった。戸惑う私に、志岐さんが向き直って手を差し出す。
「ずっとここにいても往来の邪魔だし、移動するか」
 目を奪われるような笑顔とは違い、その手はいつも見慣れている手だ。美味しい料理や賄いや、私お気に入りのティラミスを作ってくれる手だ。
 だけど私はその手を取れず、彼が怪訝そうに目を瞬かせる。
「ほら、凪咲ちゃん。せっかくだから二人で見て回ろう」
 その誘いも事前に相談していた段取りのうちだというのに、私はまるでデートに誘われたような気分で頷いた。
「わ、私でよければ……」
「他に誰もいないだろ」
 丸眼鏡のない志岐さんが、朗らかに笑って私の手を握る。
 本物の王子様が現れた。そんな気がした。

 お芝居は午後からなので、それまで志岐さんと校内を回る手はずになっている。
 できるだけ隅々まで歩いて、彼氏持ちアピールをこれでもかとしておく予定だったんだけど――。
「凪咲ちゃん、見ろよ。お化け屋敷だ」
 志岐さんが展示の一つを指差して、楽しげに声を弾ませる。
「学祭の醍醐味だよな。平気なら入ってみないか?」
 だけど私はお化け屋敷どころではない。さっきから志岐さんに目が釘づけだ。
 本当に誰だ、この美青年。いや志岐さんなんだけど。眼鏡かけてない志岐さん、こんな顔なんだ……。
「凪咲ちゃん? お化け苦手なのか?」
 改めて尋ねられて、慌てて答えた。
「ううん。でも今はお化けに集中できない気がする」
「何だそれ」
 志岐さんはおかしそうにしていたけど本音だ。今ならお化けが出てきても、志岐さんの顔しか見れない気がする。
「どうして眼鏡してこなかったの?」
 人で混み合う廊下を移動しながら、声を落として尋ねた。
 すると志岐さんも身を屈め、私に顔を寄せて答える。
「『彼氏』が野暮ったかったら、凪咲ちゃんが恥ずかしい思いするだろ」
「そ、んなこと、ないけど」
 近づいた顔にどぎまぎしつつ、否定しておく。
 私は別にいつもの志岐さんだって――と言いつつ、目を奪われてるのは否定できない。現金。超現金。
「けど俺、眼鏡外すと童顔だからさ。着るものにはいつも悩む」
 そう語る志岐さんはデニムシャツにスキニーパンツ、それに革のローファーという服装だった。バイト先で私服姿を見ることはあまりないし、あっても仕事上がりの暗い夜道とかだ。こうして明るいところで観察すると、何かどきどきする。
「もしかして、童顔なの気にして眼鏡してた?」
「……それもある」
 私の問いに曖昧に答えた志岐さんが、繋いでいた手を軽く引く。
 肩がぶつかって息を呑む私に、彼は言う。
「で、俺の彼女はどこに行きたいんだ」
「え!? な、何でそんなこと聞くの?」
「何でって。彼女のご要望には応えたいだろ、男として」
 もちろんそれは『偽彼女』なわけだけど。
 志岐さんに言われると、演技そっちのけでうろたえてしまうから困る。

 私の動揺はさておき、校内を練り歩く作戦はそれなりに捗った。
 廊下や模擬店、あるいは教室展示で私と志岐さんを見かけた後輩たちは上手い具合に噂し合ってくれたし、悲鳴を上げる子もいた。
「先輩、その人誰ですか!」
 なんて、わざわざ詰め寄ってくる子もいて、むしろ好都合とばかりに説明した。
「私の彼氏。学祭見に来てもらったんだ」
 さすがにそれで泣かれるということはなかったけど、走り去っていく後輩にはちょっとの罪悪感も抱いた。
 そして作戦を遂行するうち、注目を集めるのにくたびれてきた。ありがたくないモテ期の私に美青年の志岐さんが並んで歩いてたら、注目を集めるのも仕方ないんだろうけど――どこかで腰を落ち着けたいと思った時、ちょうど文化部の展示がある一帯に差しかかった。
「ここならゆっくり座れそうじゃない?」
 私が志岐さんを誘ったのは、天文部のプラネタリウム展示だった。

 空き教室の中に、段ボールで組み立てたかまくらみたいなドームがある。
 お客さんはその中に入って、映し出される星々を座って眺めるという仕組みらしい。
 ドームに入ってみて驚いた。天井はあまり高くなく、背の高い私は中腰じゃないと頭をぶつけそうだ。おまけに広くもなくて、私と志岐さんが並んで座ると、あとは二、三人は入れるかどうかだった。
 幸いにして私たち以外のお客さんはいないまま、照明が落ち、上映が始まる。
 足元に置かれた小さな投影機が、ドームの天井に小さな星座を映し出す。天頂に輝くのは秋の四辺形――ペガスス座とアンドロメダ座、だっけ。授業で習ったから覚えてる。そういえばアンドロメダにもペルセウスって王子様がいたはず。颯爽と助けに来てくれる、強くて勇敢な王子様。トリスタンとはまた違うタイプだ。
「きれいだな」
 隣に座る志岐さんが、ぽつりと呟く。

 そちらをこっそり盗み見たら、志岐さんの横顔にも星の光が降り注いでいた。
 本当に、きれいだった。
 童顔ってそれほど気にすることじゃないと思う。整った印象のベビーフェイスはむしろ素敵だし、言動の男らしさとのギャップもいい。モテなくてもいいとか言ってたけど、むしろ絶対モテるはずだ。

「星見ないのか?」
 不意に志岐さんの横顔がほころぶ。
 視線に気づかれたことにぎくりとして、私は無理やり天井を見上げる。
「な、何かさ。プラネタリウムってちょっとアレだったかも」
「アレって何だよ」
「カップル向けのムーディさだったかな、みたいな……」
 我々のような偽カップルにはいい雰囲気すぎる。そう言いたかったんだけど、志岐さんは首を竦めた。
「ならちょうどいいだろ、カップルなんだから」
 まあ、建前上はそうなんだけど。
 そわそわしてきて、私はスカートの裾を気にしながら膝を抱え直す。プラネタリウムでも、やっぱり星より志岐さんを見てしまいそうだ。
 その志岐さんが、ふと溜息をついた。
「さっき、童顔なの気にして眼鏡かけてるかって聞いたよな」
「うん」
 そしたら志岐さんは『それもある』って言ってた。
 ということは、他にも理由があるんだろう。
「あれ、顔を隠す為なんだ」
 志岐さんはどこか物憂げに答えた。
 それで私は思わずその顔を覗き込む。
「そんなに気にしてるの?」
「そこじゃなくて」
 美青年の顔が気まずそうに歪んで、彼は続けた。
「この顔、目立つだろ。知らない人が俺の顔を知ってる、っていうのが嫌だった」
 確かに、目立つことについて異議はない。
 あの伊達眼鏡がなかったら行く先々でモテモテに違いない。それで知らない人にいきなり名前呼ばれたり、バイト先に来られたり、何の前置きもなく告白されたりして――あれ、何か似てるな。
「昔な、友達に頼まれて代理告白しに行ったことあるんだよ」
 志岐さんは辛い記憶を思い出したみたいに首を振った。
「で、相手の子は俺を知ってた。知らない子だったのにずっと見てたって言われた。めちゃくちゃ拗れたし友達も失くした」
「……辛かったね」
 私は、そうとしか言えなかった。
 志岐さんが静かに頷く。
「だから大学入ってからはずっと眼鏡で通してる。別にモテたいなんて思わないし、野暮ったいって言われる方がよっぽど楽だからな」
 それであの丸眼鏡なんだ。
 皆がもったいないっていう気持ちもわかる。だけど志岐さんにとって、あの眼鏡は人の目から守ってくれる鎧なんだろう。
 そこまで考えた時、私は重大な事実に気づく。
「そしたら今日、やばかったんじゃない? 思いっきり外して歩き回ってたじゃん」
「さっき言っただろ。凪咲ちゃんには恥かかせたくなかった」
 志岐さんが苦笑している。
「憧れの先輩の彼氏が野暮ったい男だったら、文句いう奴出てくるって」
「でも、だからって志岐さんに無理させて――」
「そこまでじゃないよ、心配しなくていい」
 そう言われても気にせずにはいられなかったけど、志岐さんにはもっと言いたいことがあったらしい。
「何よりな、凪咲ちゃんが他人事とは思えなかったんだよ」
「モテ期のこと?」
「ああ。知らない人が凪咲ちゃんのことを知ってて、当たり前みたいに近づいてくる。いい気分はしなかっただろ?」
 実を言えば、すごく。
 私がぎこちなく頷くと、志岐さんもわかってるみたいに目を伏せる。
「他の人に言えば自慢でしかない話だ。でも傷ついたことがある人間にはわかる。嫌なものは嫌だよな」
 本当にそうだ。
 好かれているのに文句は言えない、みたいに思ったこともある。嫌われるよりはいいのかもしれないって。
 だけど――嫌なものは嫌だ。だって私、トリスタンじゃない。
「俺なら凪咲ちゃんの痛みがわかる。そう思って、助けに来た」
 志岐さんは穏やかな面持ちで言い放つ。
 神話をなぞる星の光が照らすその顔を、私は黙って見つめ返した。

 本物の王子様ってこういう人のことを言うんだろう。志岐さんは格好いい。顔だけじゃなくて、全てがだ。
 でもそれに気づいて、私は――。

 天文部を出た後、私はお芝居の為にクラスへ戻ることにした。
「客席から見てるからな」
 志岐さんがそう言ってくれたから、私は胸を張る。
「うん。頑張るから、楽しんでってね」
 この為に髪を切ったし、稽古だってたくさんした。
 何より今の私は、トリスタンになりきれる自信がある。
「ああ、楽しみにしてるよ」
 頷いた志岐さんが、私の頭をぽんと一回、軽く叩いた。
 それから会場となる講堂へ、一足先に歩き出す。
 私は彼の背中を見つめて、思う――今ならトリスタンの気持ちがわかる。媚薬を飲まされた後ってきっとこんな感じだったんだろう。募る想いのぶつけようがなくて、今すぐ駆け寄りたい、離れがたい気分になった。
 もっと志岐さんと一緒にいたかったって、その後何度も思った。舞台に立っている間でさえ。

 だから学園祭の後、私は告白してきた後輩たち一人一人に、断りの返事を告げに出向いた。
 彼女たちの反応は様々だった。志岐さんと一緒にいるところを見て『知ってました』という子もいたし、やっぱり『本気じゃなかったのに』って顔をする子もいた。泣かせちゃった子もいて、それはさすがに胸が痛かった。
 でも、ちゃんと返事をした。
 好きな人がいるから、ごめんなさい、って言った。

 志岐さんとは翌日、バイトの時に店で会った。
「お芝居、すごかったな。情熱的なトリスタンだった」
 丸眼鏡をかけた彼が、そう言って私を誉めてくれた。
「あれ見れば、そりゃ誰だって参るよな……迂闊にも女子の気持ちになったよ」
 キャスケットを深く被り、丸眼鏡をかけた志岐さんにも、美青年の面影はわずかにだけ残っている。なめらかな輪郭と鼻筋の通った顔立ち。丸眼鏡の奥にある垂れ目はわかりにくくて、せめて四角いのだったらなと思う。
 でも志岐さんは、どんな姿でも格好いい。
「よく頑張ったな。これは俺からのご褒美だ」
 バイト上がりの後、志岐さんは休憩室で自家製ティラミスをごちそうしてくれた。
「やったー! ありがとう志岐さん、いただきまーす!」
 私は志岐さんが見守る中、大喜びでティラミスをいただいた。エスプレッソがたっぷり染み込んだケーキ生地とマスカルポーネチーズのクリーム、そしてビターなココアパウダー。添えられたバニラアイスと合わせて、今日もとびきり美味しい。
 だけど――と思う。
 だけど、ご褒美を貰えるのは嬉しいけど、本当なら私の方こそ志岐さんにお礼をしなくちゃいけない。

 難しい恋をしちゃったなと思う。
 素顔を見せてもらった後で『好きです』っていうのは、逆に志岐さんを傷つけやしないだろうか。
 志岐さんの全部が格好いいって思ってるし好きなんだって、どうしたら上手く伝えられるだろう。

「……あのさ」
 悩みつつも切り出してみる。
「学祭の時のお礼がしたいんだけど、何かない? 欲しいものとか」
 私の言葉に志岐さんは、少しの間だけ考えてから笑った。
「いいや、特にないな」
「ないの?」
「ああ。これからも俺の料理を美味しいって食べてくれたらそれでいい」
 そんなことでいいんだ……。
 志岐さんの答えを聞いて、がっかりしたのはちょっとある。だってそんなの簡単だ。志岐さんの作る賄いはいつだって美味しい。
 でも諦めきれなくて、今度は違う方向から攻めてみる。
「志岐さん、前に『モテなくてもいい』って言ってたじゃん。あれってどんな子でも同じ?」
「ん? どういう意味だよ」
 よくわからないって顔をされたから、どうにか説明を添えた。
「どんな子だったら、モテてもいいって思うのか知りたいの」
 すると志岐さんは丸眼鏡の奥でその瞳を見開いた。
 それから何か納得したような表情で、微かに笑って答える。
「好みのタイプだったらさっき言った」
「え、いつ? 覚えないんだけど……」
「普通に考えて、何とも思ってない子に『彼氏役やってやろうか』なんて言わないだろ」

 その言葉の意味を理解するのに、私はティラミスを食べる手を止めなければならなかった。
 それでも結構時間かかったし、ようやく理解した時、志岐さんは安心したように溜息をついていた。
「逆に聞くけど、凪咲ちゃんは?」
「何が?」
「どういう奴にモテたいって思ってる?」
 志岐さんに真っ直ぐ聞き返されて、私は、覚悟を決めて答える。
「私は、志岐さんがいい」
 次のモテ期はそういうのがいい。
 たった一人、志岐さんに好きになってもらえたらそれでいい。
「……そうか。それなら」
 私の答えに志岐さんはますますほっとしたようだ。急に席を立ち、座ったままの私の傍までやってきた。
 差しかかる影の上、志岐さんは迷うように眼鏡のつるに手をかける。
 私は忘れずに言っておく。
「でも。眼鏡は外さないでいて」
「何で?」
「見慣れてなくてどきどきしちゃうから」
 こういうの伝えるのも恥ずかしいな。どきどきする。
 でもせっかくだから言いたいことは言っておく。
「私、志岐さんの全部が好きだよ。眼鏡してても格好いいよ」
 すると志岐さんは眼鏡のつるから手を離し、困ったようにぼやいた。
「凪咲ちゃんには、むしろ見惚れて欲しいんだけどな……」
 それから身を屈めて、不意を突くように顔を近づけてくる。

 声を上げる暇もないうちに、眼鏡が当たるかちりという音がした。
 唇が動いて、志岐さんが呟く。
「……俺のティラミスの味がする」
 その動きが、めちゃくちゃくすぐったかった。
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