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イリスとピアの甘い蜜月

「イリス、手紙を書きたいの」
 ピアのその一言に、イリスは目を瞬かせた。
 幼い妻の言うことはいつだって唐突だ。
 夫婦の寝屋に置かれた机を指差し、必死に訴えてくる。
「お願い、インク壺とペンと紙をください」
「構わぬが、誰に宛てて書く?」
「父さんと母さんに。きっと私を案じていると思うから」

 妻の答えを聞いたイリスはふうむと唸った。
 彼女が自分の元に嫁いでから半年が過ぎようとしている。人にとってそれは長い時間なのだろうし、親許に便りを届けたいという思いはイリスにも理解できた。
 問題は二つ。
 一つは、十八歳のピアには字が書けぬこと。
 そしてもう一つは、夫婦が人里離れた山奥で暮らしている為、手紙を届けるのが難しいということだ。

「文を書きたいのなら教えよう」
 イリスはそう告げ、机に向かってさっと手を振る。
 するとどこからともなくインク壺と羽ペン、それに丸められた大きな紙が現れた。
 たちまちピアは二つの瞳を輝かせる。
「ありがとう、イリス!」
「ただ、どう届けるか。そなたの故郷まで私が出向くのはな」
「イリスが行ったら、故郷のみんなが驚いちゃうよ」

 ピアの物言いは屈託ないが、それは事実だ。
 イリスがこれまで人前に姿を晒したのはほんの数えるほどだった。
 他者の手に頼らなくとも欲しいものは全て生み出せる。ひとたびその手を振るえば、蓄積された膨大な知識を現実の存在として顕現することができる。

 だがそんなイリスにも、命あるものを生み出すことはできない。
 できるのはわずかな間だけ操れる使役獣を生み出すことくらいだ。

「仕方ない、こやつに運んでもらうか」
 イリスがその手を宙にかざすと、顔のない蝙蝠のような使役獣が現れる。
 それは凧のようにゆっくり滑空してから、ピアの指先にちょこんと留まった。
「この子、山を下りて街まで行ける?」
「もちろん。そなたの生家の窓辺まで、きちんと務めを果たすだろう」
「素敵! イリスは何でもできるのね」
 ピアが使役獣に見入って感嘆の声を上げる。
 そんな妻の頭を、イリスは手を伸ばしてそっと撫でてやった。
 ピアの髪は美しい金色で、若草と同じくらい柔らかい。この感触をイリスはとても好んでいる。
「そなたの為なら何でもしよう、我が妻よ」
「嬉しい……あなたが夫でよかった」

 ピアの方は、夫に頭を撫でられるのがたまらなく好きなようだ。
 その手に触れられる度、頬をりんごのように赤くしてはにかむ。
 イリスも妻のとろける表情を見るのが楽しく、毎日のように撫でてやっていた。

 山々の中でも一等高い岩山の、中をくり抜き美しく仕上げた城が二人の愛の巣だ。
 頂には雪を冠し、いつもミルクのような靄に覆われたこの山はとても冷える。だがイリスがその手で温めてやるから、ピアが寒がることはない。

 イリスは城の空き部屋に立派な書斎机と椅子を作り、ピアを座らせた。
 そして細い手にペンを握らせると、その上から巻きつけるように自らの手を重ねる。
「私が導いてやる。どんな文にするか、声に出してみるといい」
「それだと恥ずかしいんだけど……」
「夫婦の間に何を秘めることがある。さあ、ピア」
 もじもじするピアを促せば、彼女は照れながらも口述を始めた。
「『大好きな父さん、母さん』……書き出しはこんなふうでいい?」
「ああ、そんなものだろう」
「『私がイリス様の元へ嫁いで、もう半年が経ちました。イリス様がとても優しいので、私は毎日幸せです』」

 そこまで述べてから、ピアはちらりとイリスを振り返る。
 イリスは彼女を見つめつつ、手を動かしてその通りの文章を記した。

「『私の結婚は突然のことで、ちゃんとお別れも言えませんでしたね。花嫁に選ばれた時はお父さんもお母さんも泣いていましたけど、私も本当は不安で、寂しくてたまりませんでした。街のみんなの為でなければ、そしてお父様お母様の頼みでなければ、私は山に登らず逃げ出していたかもしれません』」
 ピアが小さく息をつく。
 別れの時を思い出し、辛くなったのかもしれない。
 だが再び夫を振り返った時、その顔は恥ずかしそうに微笑んでいた。
「『でも、夫であるイリス様は怯える私を温かく迎えてくれました。今は山奥で、何一つ不自由のない生活を送っています。それも全て、イリス様のお蔭です』」
「親に宛てたものとは言え、少々誉めすぎだな」
 あまり称賛されると、今度はイリスがきまり悪い。
 そんな夫をピアは愉快がるようにくすくす笑う。
「本当のことを書いちゃいけない?」
「私のことは書かなくていい。かえって不安にさせるだろう」
「父さんたちなら、私の夫がどんな人か知りたがるよ」
「それは『人』ならばの話だ」

 イリスは人ではない。
 この地方で神として崇められる存在だ。
 もっともイリス自身にその認識はなく、これまでも気まぐれに麓の人里を守り、祝福を与えた。それでも人々は神の手の介在を確かに感じ取り、イリスの名も知らぬまま畏怖と敬意を募らせてきた。

 その結果、ピアは神の花嫁としてここへ送られることになった。

「里に帰りたいと思うことはないか?」
 時々、イリスはそう尋ねたくなる。
 彼の中にうずたかく積み重ねられた知識が、人は故郷を恋しがるものだと教えている。
 だがピアはいつもかぶりを振った。
「ここがいい。私が帰れば、父さんと母さんが罰を受けるから」
「そうならぬよう、お前の両親以外を滅ぼすこともできる」
「だめ! イリスはすぐそれを言う!」
 ピアは語気を強めて夫を叱る。
 それでイリスが気まずげに黙り込むと、彼の手を一本だけ取って、柔らかい手のひらで撫でた。
「私が望んでるのはそんなことじゃないの。イリスにこの手を汚して欲しくない」
「もともと綺麗なものでもあるまい」
「ううん、素敵な手だよ。私にとっては誰よりも、優しい手」
 そう言うと、ピアはイリスの三十六本目の手に口づけた。
 彼の手はその全てがぬめったような光沢を帯びていたが、触れるとうっすら繊毛が生えているのがわかる。その触り心地は天鵞絨のようで、いつもピアの頭を優しく撫でてくれる。

 人であるピアから見れば、イリスは異形の夫に違いない。
 四十二本の触手で囲まれ宙に浮かぶ大きな右目、その虹彩は闇より深い黒色で、瞳孔は存在していない。触手は自由に長さを変えられ、水中をたゆたうように止めどなく揺らめいている。かつてはこの辺りの山脈ごと飲み込めるほどの大きさをしていた頃もあったが、今は妻の頭と同じくらいの大きさを留めている。
 その方が話しやすいとピアが言うからだ。

「神様のお嫁さんなんて、ただの生贄なんだと思ってた」
 ピアがイリスの瞳を見つめてくる。
 彼女には瞳が二つあるが、夫婦になってからはいつでも、両方の目でイリスを見つめてくれる。
「でも違った。イリスは私を大切にしてくれたし、本物のお嫁さんにもしてくれた」
「そもそも私は一度として、贄を欲したことなどない」
「里長は神様がお怒りなんだって言ってたよ」
「人の所業くらいで腹を立てたりはせぬ。立てる腹もないしな」

 イリスの言葉は真実だ。
 気まぐれに目をかけてきた麓の里は、イリスが眠りに就いている間に深刻な飢饉に見舞われていた。
 里長はそれを神の怒りと決めつけ、それを鎮める為に『花嫁』を捧げることにした。

 花嫁は里の中でも貧しい家の娘から選ばれた。
 表向きは巫女の神託によってとされていたが、ピアの生家の屋根に矢を突き立てた者がいたのは事実だ。
 ピアの両親は一人娘を失う悲劇を嘆いたものの、里長に贈る賄賂もなく、結局は娘を手放すしかなかった。

 そして幼いピアは泣きながら、たった一人でイリスが住まう山を登り始めた。

 その時にはイリスも麓の騒ぎを聞きつけ、事の次第を見守っていた。
 娘が行き倒れぬよう迎えには出たものの、異形の姿を見せれば気が触れるかもしれない。だが放ってもおけず、結局は彼女の前に出た。
 そしてピアは涙で曇った双眸にイリスの姿を映し、息を呑んだ。
『か……かみさま、お願い、殺さないで……!』
 ひざまずいて助命を乞うピアは、怯えてがたがた震えていた。
 イリスは命を奪う気はないことを言葉で伝えようとした。
『娘よ。私はそなたの命に興味などない』
 だが知識の塊であるイリスも、絶望に打ちひしがれる娘から恐怖を取り除く言葉は知り得ない。
 いくら言葉を重ねても、異形の姿では彼女を落ち着かせることなどできなかった。

 だからイリスは膨大に蓄えた知識の中から、人同士がどうやって励まし合い、慰め合うかを引き出した。
 そしてその通りに――たくさんある手の一本を伸ばし、うずくまるピアの頭を撫でた。

 その時感じた金色の髪の柔らかさを、イリスはよくよく覚えている。
 おずおずと顔を上げたピアが真っ先に見せた、きょとんとした表情も。
『神様は、私を食べたりしない?』
『私はものを食べぬ。強いて言うなら知識が糧だ』
『じゃあ助けてくれるの?』
『そなたが望むならな。里まで連れ帰って欲しいならそうしよう』

 だがピアが帰れば生贄としての役目を放棄したことになり、ピアの両親が厳しく罰せられてしまう。
 彼女がそう訴えたので、イリスは彼女を自らの城へ連れ帰った。
 ピアはしばらく悲しみに沈んでいたが、その度にイリスは彼女の頭を撫でて慰めた。ピアも次第にそれを喜ぶようになり、笑顔を見せてくれるようにもなって――程なくして二人は夫婦になった。

「出会った時から、イリスはずっと優しかったね」
 手紙を書きながら、ピアはしみじみと思い出に耽る。
「私はここに来たばかりの頃、里のみんなを恨んでた。父さんと母さんのことも許せないかもって思ってた。でもイリスのお蔭で冷静に考えられるようになったの。だってそうしないと、イリスが里を滅ぼすって言うんだもん!」
 そして声を立てて笑うから、イリスもまだ真新しい記憶を蘇らせる。
 ピアの心が救われるなら、彼女の傷が癒えるならと申し出たことだが、ピアはいつでもそれを拒んだ。
「私にはイリスがいるから――この手が私を撫でてくれるから、それだけでいいの」
 そう言って、ピアはたくさんあるイリスの手の一本一本に頬ずりをしてくれる。
 イリスがそれに応じてピアのうなじをくすぐると、彼女は小さく声を上げ、首を竦めた。
「ひゃっ。イリス、くすぐったいってば!」
「くすぐっているのだから当然だ」
「もう、手紙書けなくなっちゃうから……」
「私の手はたくさんある。そなたをくすぐりながら文を書くのもたやすいこと」
 じゃれ合う二人は、下界ならどこにでもいるような夫婦と何ら変わりない。

 かつてのイリスはずっと孤独だった。
 自分と同じ存在とめぐり会うことはなく、戯れに人里に干渉することはあれど、誰かと言葉を響かせ合う機会はなかった。
 膨大な知識を抱え、それを形にする術はある。だが命あるものだけは生み出すことができない。
 そんなイリスの長きにわたる孤独と乾いた心を、ピアの存在が潤してくれる。
 ささやかなことでも幸せそうに笑ってくれる彼女を、イリスは心から愛している。
 これまで気まぐれに振るってきた『神の手』を、例えばたった一人の為に使うのも悪いことではないと思った。

「『私の幸いを信じていてください。私も父さんと母さんの幸いを、夫と共に祈っています』」
 手紙はそう結ばれて、使役獣は城の露台から飛び立った。
 程なくして麓の里へ辿り着き、ピアの親許へ届くだろう。
「ちゃんと届くといいな」
「案ずるな。必ず届く」

 二人も露台まで歩み出て、手紙を携えた使役獣が見えなくなるまで見送った。
 城の周りには今日も靄に覆われていて、人であるピアには下界を見通すことができない。
 娘を失くした悲しみに沈むピアの両親も、イリスの目にしか見えていなかった。

「父さんと母さん、やっぱり落ち込んでる?」
「ああ、自責の念に苛まれているようだ。そなたの手紙が果報となればよいのだが」
「そうだね。私が幸せだって、知って欲しいな……」
 ピアは宙に浮かぶイリスに、そっともたれかかってきた。
 イリスは全ての手でその身体を包み、抱き締める。
「いつか、会ってみればいい」
「うん、会いたいな。父さんたちも、自分を責めなくていいんだって知って欲しい」
 四十二本の手の中で、ピアは心地よさそうに目をつむった。
 そんな妻の柔らかい髪を、イリスはいつでも優しく撫でる。愛を込めて。
「そなたが望むならいつでも叶えてやろう、我が妻よ」
「ありがとう。イリス、大好きだよ」
「知っている。そして私も、同じように思う」
 姿かたちこそかけ離れていても、夫婦の想いは同じだった。


 里に手紙が届いてから更に半年後。
 ピアのお腹は少しずつふくらんでいき、あっという間に丸くなった。
 人智を超えた知識量を誇るイリスではあったが、知識だけで妻のお産を手伝うことはできない。
 そこで夫婦は里からピアの両親を呼び寄せ――いくらかの騒動はありつつも、ピアの母親は見事に孫を取り上げた。
 生まれた子供は双子のきょうだいで、姉の方は母親に、弟の方は父親によく似ていた。

 夫婦の蜜月はこれからも続く。
 今度は家族六人で、更に幸福に暮らしていくことだろう。
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