柊が咲く十一月
最初に会った時、私は十二歳だった。そして兄さんは、学生服を着た十六歳だった。
秋の終わりのある日、私は車に乗せられ、山奥にある温泉旅館へと連れていかれた。
私から見て、祖父のいとこの子供に当たる人が経営している旅館だった。
はっきり言えば血の繋がりはあってないようなものだ。だけどその頃の私には身寄りがなかった。生母は私を一人で育ててくれたものの既に他界していたし、祖父母も高齢で子供の面倒を見られる環境ではなかった。そして物心もついてしまった私を好きこのんで育ててくれる人はなかなかおらず、親戚の元を転々とした後に行き当たったのがここだった。
当時はまだ家族ではなかった両親と、それから兄と、庭に面した小さな客室で向かい合わせに座った。
一張羅に身を包んだ父と母の間で、黒い学生服の少年がじっと私を見つめていたのを覚えている。学生服と同じように、髪も瞳も艶やかな黒色をしていた。眉が隠れるくらいの前髪の下、顔立ちは西洋の絵画みたいに端整だった。
その兄さんが、名乗るよりも早く切り出した。
「先に言っとくけど、うちは貧乏だからな」
「え……?」
何を言われたかわからない私をよそに、兄さんは続ける。
「こんな大きな旅館をやってるから金があると勘違いされそうだけど、別に贅沢はしてないし小遣いなんてめちゃくちゃ少ない。旅館の方も人手が足りなくて、僕も友達と遊ぶ暇もないほどちょくちょく駆り出されてる。うちに来たら君まで家業を手伝わされるのは間違いない」
「こら、志信。いきなり脅かす奴があるか」
父さんに叱られても全く意に介する様子はなかった。それどころか眉一つ動かさずに反論した。
「デメリットもちゃんと説明しとかないとフェアじゃないだろ。向こうにだって選ぶ権利はある」
「だからって、言い方ってものがあるだろう……」
それで父さんは溜息をつき、母さんは私へ優しく取り成してきた。
「あ、あのね、菜乃ちゃん。確かにうちは裕福ではないけど、子供をもう一人養う余裕くらいはあるの。だから心配しないでね」
私は黙って頷いた。
内心は不安だった。この家が裕福ではないことに、ではない。兄となるかもしれない人の物言いから、自分は歓迎されていないのではないかと感じたからだ。
これまでも歓迎されないことの方が多かったから、ここでもそうなのかと悲しくなった。
「もしご迷惑なら、私は……」
震える声で申し出ると、意外にも兄さんがかぶりを振った。
「迷惑なんてことない。だから君が決めるといい」
艶のある黒い髪がさらさらと揺れ、長い睫毛が瞬きをする。
「決して楽な暮らしができるわけじゃない。でも家族が欲しいなら、うちにおいで」
そして私から目を逸らさず、念を押すように言ってくれた。
「君が家族になるなら、僕は君を大切にする」
兄さんのその言葉は、両親にとっても驚くべきものだったらしい。父さんも母さんも目を見開いて兄さんを見ていた。
私にとっても当然思いがけないことだった。
だけどそれ以上に、初めて貰った言葉でもあった。どこからも必要とされてこなかった私に、血の繋がりもごく薄い、私よりも少し年上なだけの兄さんが初めて欲しい言葉をくれた。
「お願いします。私を、妹にしてください」
気がつくと私は、兄さんにそうせがんでいた。
表情を和ませる父さんと母さんの間で、兄さんもまた利発そうに微笑んだ。
「これから、兄として君を守ろう。――よろしくな、妹」
「はい!」
私は嬉しさに胸がいっぱいになって、泣かないようにするのが大変だった。
でもせっかく兄さんが笑ってくれているのだから、私も笑っていたいとその時思った。
それから志信兄さんは、客間の広縁から庭を見せてくれた。
この旅館の庭には大きな池が作られていて、人がようやくすれ違えるだけの細い石橋が架けられていた。磨かれた鏡のように微動だにしない池の水面には、石橋と、池の傍らに生えた背の低い木の影が落ちていた。
青々と繁った葉には棘があり、クリスマスリースに飾られている葉とよく似ていた。
葉の付け根には小さな白い花が咲いており、ほのかに甘い香りを漂わせていた。
「この旅館の客室は、庭を囲むように配置されてる」
広縁から庭を指差しながら、兄さんは小さな私に教えてくれた。
両親は一通りの挨拶が済むと仕事に戻ってしまい、代わりに兄さんがこの部屋に留まり、私に旅館のことを教えてくれた。
「客室にはそれぞれ名前がついてる。庭から見える木々や植物の名前だ」
庭に手入れが行き届いていることは、子供の私にもよくわかった。美しく、いつまでも眺めていたくなる庭だった。
「この部屋の名前は、柊の間という」
「柊の間……」
兄さんの言葉を真似して繰り返すと、彼は橋の傍にある背の低い木を指差した。
「あれが柊だ。今はちょうど花が咲いてる、きれいだろ?」
私は指差された木を確かめた後、隣に立つ兄をそっと見上げた。
学生服の袖から覗く手首がきれいで、横顔もまた美しく、いつまでも眺めていたいと子供心に思った。
「君も少しずつ覚えておいた方がいい。お客様に聞かれるようになるからな」
「そうします」
私の素直な返事に、兄さんもほっとしたようだ。柊を指差していた手で、励ますように私の肩を叩いた。
「頑張れよ、妹」
「はい、兄さん」
この日は間違いなく私達が兄妹になった日であり、家族になれた日でもあった。
だけど後から思い出す時、私はその日に全く別の印象を抱いていた。
新しい家族の中で、私は温かく幸せな少女時代を過ごした。
そして時は流れ、現在の私はもう二十歳だ。高校を卒業した後、家業である温泉旅館の手伝いをしている。
自室で袖を通した下ろし立ての着物は、絹の匂いがした。晩秋らしく抹茶色の、格子模様の付け下げだ。初めのうちこそ着慣れなかったけど、仕事着として身に着けるうちに着物が好きになっていた。帯を締める度に身が引き締まるし、背筋がぴんと伸びる気がする。
そして着物を着る私を、誉めてくれる人がいる。
「――いるか? 今、いいか」
帯を締め、鏡面に映る自分の姿を検めていると、不意に襖がノックされた。兄さんだ。
着物は既に着終えていたけど、お化粧がまだだった。とは言え兄を待たせておくのも申し訳なかったので、私は振り返って応じた。
「どうぞ、兄さん」
すると静かに襖が開いて、ブラックスーツの志信兄さんが姿を見せた。
「おはよう。支度の最中にごめんな」
「兄さん、おはよう。あとは化粧をするだけだから」
私は澄まして答えた。
だけど本当は、兄の前で化粧をしていない顔を晒すのが恥ずかしかった。子供の頃から傍にいた相手ではあるけど、私ももう大人だ。こと兄さんの前ではなるべくきれいにしていたい。
志信兄さんも同じように大人になっていた。その端整さは成長の過程で全く衰えることはなく、仕事をしていても、町へ出ても人目を引く美しい青年だった。出会った頃に着ていた学生服はとうに脱ぎ、今は黒いスーツを着て家業に携わっている。艶のある深い黒。兄さんの髪や瞳と同じ色。
「新しい着物か、秋らしくていい色だな」
私に対する優しさも何一つ変わることはなく、今朝も穏やかに微笑みかけてくれた。
「母さんが選んでくれたの。冷えてきたから、温かみのある色にしなさいって」
「よく似合う、きれいだよ」
志信兄さんはいつも私を誉めてくれる。
その度に私は嬉しくて、兄の顔を直視していられなくなる。
「ありがとう、兄さん」
兄妹になってから八年が過ぎていた。
その間、志信兄さんは私にとって自慢の兄となっていた。
忙しい両親の代わりに甲斐甲斐しく私の面倒を見てくれ、私は兄さんから勉強を教わったり、思春期にありがちな対人関係の悩みを打ち明けたり、学校行事などに招待して足を運んでもらったりした。私と兄さんの血の繋がりはごく薄く、当然ながらあまり似ていない兄妹だった為、会う人会う人に驚かれた。
特に学校の友人達からは兄の紹介をよく頼まれた。私はその話を兄まで持っていったけど、兄の返事はいつも同じだった。
『旅館の仕事と、妹の面倒を見るので忙しい。そう言っておいてくれ』
私も内心ほっとしながら、その通り伝えては皆に落胆されていた。
でも皆が紹介してもらいたがるのもわかる。私にとっても自慢の兄、だった。
ただ一つ、
「いつの間にやらすっかり大人になったな、妹。あの小さかった君が……」
「私だって二十歳だから、いつまでも小さいままじゃありません」
「むくれるなよ。そういうところはまだ子供だな、妹」
志信兄さんは、私を『妹』と呼ぶ。
出会った頃からずっとだ。
初めは、名前を呼びにくくてそう呼んでいるのかと思っていた。
兄さんからすれば十六歳という多感な時期に突然できてしまった妹だ。親しげに名前を呼ぶのは抵抗があるのかもしれない、と子供なりに捉えて寂しさを堪えていた。
だけど年月がいくら過ぎても、兄さんが私を名前で呼んでくれることはなかった。私のことを菜乃と呼ぶのは他人に紹介する時だけで、私個人への呼びかけはいつも『妹』だ。
私は、名前で呼んで欲しいのに。
実際にそうねだったこともある。だけどいつも優しく、私のお願いならどんなことでも聞いてくれる兄さんが、この件だけは首を縦に振らなかった。
『妹を妹と呼んでおかしいか?』
むしろ不思議そうに聞き返されたので、兄さんの中では妹を妹と呼ぶことが常識なのかもしれない。
「ところで妹、君に話がある」
志信兄さんが思い出したように口を開いた。
改まった様子に、私は怪訝な思いで尋ねる。
「どうしたの、兄さん。こんな朝早くに話だなんて」
「朝のうちでなければ間に合わないからな」
長い睫毛を伏せた後、兄さんはしばらく沈思するように黙った。睫毛が微かに揺れていたように見えた。
それからおもむろに目を開き、じっと待っていた私に向かって、
「妹、見合いをしてくれないか」
「――えっ」
その瞬間、呼吸が止まった。
予想もしていなかった言葉だった。
「み……見合いって……」
「つまり、結婚して欲しいということだ」
兄さんの黒い瞳は、片時も逸らされることなく私を見つめている。
私は呆然としたまま、ひとまず事態を呑み込もうと深呼吸をした。
「結婚なんて……あの、私はまだ二十歳になったばかりで」
「二十歳になったからこそだろ。十代の君ではさすがにな」
「でも私はそんなこと、考えたこともないのに」
「だから見合いの席を設けることにしたんだ」
志信兄さんは淡々と語を継いでいく。
「僕が知る限り、君には交際相手がいたことはない。そうだな?」
「そ、そうだけど」
事実を指摘され、私はうろたえた。
私もまた旅館の手伝いが、そして兄の傍にいることにとても忙しかったので、そういう話には縁がなかった。なくてもいいと思っていた。
そしてこれからもこの旅館に留まり、両親や兄にご恩を返しながら働いていけたら――そんなふうに、願っていたのに。
「長らく交際相手のいない人間は、異性を見る目に乏しいと聞く」
兄さんがそこで眉を顰めた。
その点について、私もあえて反論はしなかった。
「だが君も年頃だからか、最近ではよく旅館のお客様にも君のことを聞かれるんだ。独身なのか、結婚相手は決まっているのかと」
「それ、初耳なんだけど」
「心配しなくてもいい。兄さんが適当にあしらっておいた」
胸を張る志信兄さんがどこか誇らしげに見えた。
「大切な君に悪い虫でもついては困るからな。結婚相手は僕が見極める」
「兄さんが……」
胸の奥が軋むように痛んだ。
あの頃と同じく『大切だ』と言ってもらえて、いつもなら嬉しいはずなのに。
「君にとって最良の相手を用意したつもりだ、気に入ってもらえるといいな」
兄さんが微笑むので、私は俯くしかなかった。
「お見合い……しなくては駄目?」
「したくないのか?」
まるで予想外だというように、驚く声で聞き返された。
慌てて首を横に振る。
「したくないって言うより、そういう話はまだ早いと思っていたから」
だけど、薄々は察していた。
いつまでもここにいたい、家族の傍で恩を返したいと思っても、そうはいかないのだろう。
旅館の跡継ぎは志信兄さんだ。
両親は兄さんに、将来的には旅館の経営者になって欲しいと言い、兄さんもそれを自ら望んで受け入れて現在に至っている。となれば兄さんはいつか奥さんを貰うのだろうし、その人と共にうちの旅館を盛り立てていくのだろう。
一方、私に対して両親は『やりたいことがあるなら好きにしていい』と言ってくれた。
高校時代、進路について相談を持ちかけた時は、進学するもしないも、家を出るのも自由だと言っていた。ただもしやりたいことがないのなら、あるいは旅館の仕事を面白いと思ってくれているなら、できればここに残って、兄妹で旅館の未来を支えてはくれないかと――私の答えは最初から決まっていた。両親と兄が望んでくれているなら、他に行きたいところなんてない。
逆に言えば、兄さんが望むのなら私はどこへだって行くつもりでいた。
志信兄さんが、私を必要としていないなら。
「むしろ早ければ早い方がいい。虫除けの為にも」
兄さんがそう言うからには、覚悟をしなくてはならない。
まだ諦めきれてはいなかったけど、私は一歩踏み出すつもりで兄さんに尋ねた。
「そのお見合いって、いつになるの?」
「今日だ」
「今日?」
あまりにも急な話にぎょっとした。
今日はこれから仕事だ。お客様に朝食をお出しして、後片づけを済ませたらチェックアウトの時間がやってきて、お見送りをしなくてはならない。お昼の休憩を挟んだ後、次のお客様のチェックインまでにミーティングや各お部屋の確認を済ませ、お客様をお出迎えしたら夕食までは慌ただしく、飛ぶように時間が過ぎていく。
このスケジュールで、一体いつお見合いをするのだろうか。
「昼休憩の際に付き合ってくれ。そこで食事ついでに席を設けるつもりだ」
志信兄さんは私の肩を励ますように叩いた。
スーツの袖から覗く手首のきれいさは少年時代と何ら変わらず、昔のことを思い出して切なくなる。
「それだと、あまり時間がないけど……」
「一回目としては十分だろ。これきりにするつもりもないし」
お見合いをしたことがないので断言はできないけど、どうやら二度、三度と顔合わせの機会を設けることになるらしい。
一体、どんな人と会うことになるのだろう。
「じゃあ、そういうことでよろしくな」
兄さんはぼんやりする私に微笑みかけると、踵を返した。
「朝の忙しい時にごめん。今日も頑張ろうな、妹」
襖の前で足を止め、一度振り返り、そんな優しい言葉を置いていった。
だけど、
「はい……」
私がようやく返事をしたのは、襖が閉まり、兄の足音が聞こえなくなってからだった。
しばらくしてから私は我に返り、鏡の前に座ってのろのろと化粧を始めた。
唇に紅を引きながら、胸裏には二つの矛盾した感情が渦巻いていた。
一つは、兄さんの期待を裏切りたくないという気持ち。
もう一つは、志信兄さん以外の人を想うことなどできない、という確固たる意志だった。
午前の仕事を無我夢中でこなした後、ようやく昼休憩に入った。
仕事をしている間は憂鬱を忘れられた。だけど賄いを貰おうと厨房に足を向けた途端、兄さんとの朝のやり取りを思い出して一気に気分が沈んだ。
今日はいつも通りの休憩には入れない。
お見合いを、これからしなくてはならない。
「……あら、菜乃ちゃん。遅かったのね」
厨房に入ると、着物姿の母さんが声をかけてきた。
見れば厨房には母さんの他、この時間に休憩に入る仲居さん達と板前さん達が勢揃いしていた。物思いに耽りながら歩いていたせいで、戻るのが遅れたようだ。
「遅くなってすみません」
慌てて頭を下げれば、母さんは私の前に立ち、慣れた手つきで衿元の緩みを直してくれた。
「大丈夫よ、少しくらい待たせてやったって」
母さんのその言葉にどきりとする。
当然ながら、母さんも私がこれからお見合いをする話は知っていることだろう。だけど『待たせてやったって』と言うからには――。
「もう、いらしてるんですか?」
まだ見ぬ縁談の相手について、私は尋ねた。
母さんは一度瞬きをしてからにっこり微笑んだ。穏やかな笑い方は兄さんとよく似ていた。
「ええ、少し前から待っているようよ。きっとそわそわしてるでしょうね」
「そうですか……」
もう来ているのであれば、もはや逃げ場はない。私は密かに奥歯を噛み締める。
「さ、菜乃ちゃん」
待ち構えていたように板長が私を手招きし、折り詰め弁当を二折差し出してきた。
「若旦那に頼まれて作っといた弁当だよ」
「兄さんが?」
朝の話しぶりからしても、今回のお見合いは兄さんがセッティングしたもののようだった。
だとすると相手は兄さんの知り合いという可能性もありそうだ。断ることはできないだろう。
「これ持ってって二人で食べな。今日の為にとびきり腕を振るったからな」
「は、はい」
板長は上機嫌で私に折箱を持たせた。ずしりと重たく、ほんのり温かい。
「柊の間よ、行ってらっしゃい」
母さんの言葉をきっかけに、居合わせた仲居さん達も次々と口を開いた。
「頑張ってね、菜乃ちゃん!」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
「覗きに行ったりしないからね。本当はしたいけど!」
皆の冷やかしめいた言葉に見送られ、私はそそくさと厨房を後にした。
抱えた折り詰め弁当の重さにこちらの気まで重くなる。母さんを筆頭に、皆は今日のお見合いを慶事と捉えているようだ。ここに至るまで相手がどんな人かという説明は一切なかったものの、とりあえず良縁と呼べるものではあるらしい。
せめてお見合いの前にもう一度、志信兄さんに会っておきたい。
そんな思いが浮かんだけど、振り払うより他なかった。
柊の間の襖の手前で、私は膝をつく。
襖は立って開けてはならないし、ノックをせずに一声かけて、了承をいただいてから開けるのが決まりだ。兄さんは私の部屋に入る時だけ、私にわかるようノックをするけど――それは前に私が音楽を聴きながら勉強をしていて、返答がないことに慌てた兄さんが了承を得ないうちから部屋に立ち入ってきて、ちょっとした騒ぎになったことに起因している。兄さんは私が体調を崩して倒れているのではと思ったらしい。心配性の、とてもいい兄だった。
お見合いの直前であっても思い出してしまうくらいに――。
「……失礼いたします」
込み上げてくる思いを呑み込んで声をかけると、
「どうぞ、お入り」
襖の向こうから聞こえてきた声は、意外にも志信兄さんのものだった。
私は驚いた。兄さんが来ているとは思わなかったからだ。
もしかしたらお見合いの仲人をするつもりなのかもしれない。だけど他でもない兄さんの前で縁談なんて、はっきり言ってしまえば嫌だった。兄さんがお見合いの後押しをするようなことを口にしたら、さぞかし切ない気分になってしまうだろうと思った。
それに、板長から渡された折り詰めは二つきりだ。お見合い相手と兄さんに渡せば、私の分が足りなくなってしまう。
ただ、玄関横に揃えられた靴は一足だけだった。志信兄さんが愛用しているストレートチップの革靴、サイズも同じ二十七センチだ。うちの旅館の客室には下駄箱がない為、室内には兄さんしかいないということになる。
どういうことかと戸惑っていれば、襖越しにまた兄さんの声がした。
「妹? どうしたんだ、入りなさい」
「は、はい。では失礼いたします」
促され、私は心を落ち着けながら襖を開ける。
柊の間の塗り机の前、座っていたのはやはり志信兄さんだけだった。朝と同じ、仕事用のブラックスーツを着た兄さんが床の間を背に正座している。客室奥の広縁からは昼時の柔らかい日差しが降り注いでいて、部屋全体を明るく照らしていた。
「遅かったな、妹。今日は忙しかったか?」
日の光の中、兄さんから向けられた優しい微笑に一瞬、見惚れてしまった。
我に返った後で詫びておく。
「遅れてすみません、兄さん」
「いいよ、気にしないで。時間も少ないし座りなさい」
柊の間はそれほど広い客室ではなく、収納も壁面のクローゼットの他は布団をしまう押入れくらいしかない。どういう理屈かはわからないけれど、そこに今日のお見合い相手が隠れているという可能性は――なさそうな気がする。
そもそも他に人がいる気配はない。
「何だ、きょろきょろして」
室内を見回す私に、志信兄さんが訝しげな顔をする。
「兄さん、一人なの?」
私が尋ねるとすぐに頷かれた。
「ああ」
「えっと……お見合い、なんでしょう?」
「そうだよ。早速始めようか」
兄さんが座るよう勧めてくる。
私は混乱しながらもそれに従い、持ってきた折り詰めを机上に置いた。
「板長に頼んでたものだな」
一目見るなり、兄さんが言った。
「はい。二折しか貰ってこなかったんだけど……」
「二折で十分だろ、二人しかいないんだから」
私の恐る恐るの問いかけにも、兄さんはおかしそうに笑うばかりだった。
まるで、端からこの場には私と志信兄さんの二人だけで、他には誰もいるはずがないというような――でも、お見合いの席だ。二人だけというのは考えられない。
ますます訳がわからない私をよそに、兄さんは折り詰めの封を丁寧に解いて蓋を開けた。そして感嘆の息をつく。
「随分と豪勢だな。そこまで張り込まなくてもいいと言ったのに」
その言葉に私も蓋を開け、そして中身の豪華さに思わず目を瞠った。
折り詰めの中は六升に仕切られており、そこに板長が工夫を凝らした目にも美しい品々が並んでいた。いい焼き色のついた銀鰈に海老、つややかな照りのある昆布巻、秋らしいしし唐やさつまいもの天ぷら、ちりめんとクルミの佃煮などだった。板長自慢の茶飯は鮮やかな黄色の錦糸卵が散りばめられていて、更に薄切りの松茸が載せられている。
「美味しそう」
口に出して呟くと、兄さんが静かに笑った。
「妹の好きな茶飯は入れてくれと頼んだんだ」
兄さんが笑う度、胸が痛くなる。
いつも優しく、私を誰より深く思い遣ってくれる兄だった。傍にいるだけで常に守ってもらっているようで、安心できたし幸せだった。
「ありがとう、兄さん」
込み上げてくる思いを堪えながらお礼を言うと、志信兄さんは嬉しそうに箸を取る。
「ではいただこうか、妹」
「えっ、いいの? 私達しかいないけど」
「ああ。他には誰も来ないよ」
「……どうして?」
何かがおかしい。
ずっとそう思っていたけど、ここに来て違和感がより強まった。
今日は私のお見合いの日、のはずだ。この事実は志信兄さんのみならず、母さんも板長も仲居さん達も知っている。折り詰め弁当の豪勢さからしても、この席が特別なものであることは間違いない。
だけどそれなら、私のお見合い相手は一体どこにいるのだろう。
どうして志信兄さんは、誰も来ないと言うのだろうか。
「他に誰かいた方がよかったか?」
兄さんがからかう口調で聞き返してくる。
そういう意味で尋ねたわけではなかったけど、自然とうろたえてしまう。
「よ、よかったって言うか……いいとか悪いとかじゃなくて、どうしてかなって」
「当然だろ、見合いの席なんだから」
志信兄さんの口ぶりは、私が疑問を持つ方がおかしいと言わんばかりだ。
果たしてそうだろうか。
「当然って……」
「妹、天ぷらをトレードだ。君の好きなさつまいもをあげるから、しし唐をくれ」
「は…はい、構わないけど」
「ありがとう。ついでに松茸も一枚あげよう」
兄さんの箸が天ぷらを入れ替え、私の茶飯の上に松茸を追加してくれた。
いつものことだ。志信兄さんは私の好きな食べ物を熟知していて、私が言い出すまでもなくこうして交換を申し出てくれる。時々、交換と言わず余分にくれたりもする。
私がまだここへ来たばかりの頃、父さんや母さんが忙しくて一緒にご飯が食べられなくても、兄さんだけは必ず私と食卓を囲んでくれた。私の好きなものを知っているのもそういう経緯があったからだ。
そんな兄さんのことが、私は。
「……兄さん、聞いてもいい?」
貰った天ぷらを見つめつつ、私は、意を決して切り出した。
「どうしたんだ、妹」
「私、やっぱりお見合いをしなくちゃいけないの?」
その問いの直後、柊の間は声どころか物音一つしなくなった。
数秒間の沈黙を経て私がこわごわ面を上げると、兄さんがきょとんとしているのが見えた。
「何だ、今更。嫌になったのか?」
「嫌なのは……嫌だよ、だって」
お見合いの相手がここにいないのが幸いだった。
誰であろうと私の気持ちは揺らがない。私が想う人は一人だ。
その人が私に、どこかへ嫁げと言うのなら従うつもりではいるけど――その前に、言ってしまいたいことがある。
「私……」
箸を置き、塗り机を挟んで向き合う兄さんを見つめる。
初めて会った日と同じだった。柊の間で、秋の終わりに、兄さんと顔を合わせた。違うのはここに父さんと母さんがいないことと、兄さんがもう大人で、ブラックスーツを着ていることだ。
そして、私もまた子供ではない。
「好きな人がいるの」
ずっと言えなかった言葉を、口にするのは遅かったかもしれない。
だけど私達は兄妹だ。
血の繋がりこそ薄いけど、兄さんは私を妹と呼び、その通りに慈しんでくれた。
私も兄さんの大切な妹でありたかった。大切にしてもらった分だけ、兄さんを喜ばせられるような、困らせることのないような妹でありたかった。
「兄さんのことが、好きなの」
重ねて告げると、兄さんもまたそこで箸を置いた。
そして私をじっと見つめ、優しく目を細めて言った。
「知ってたよ、妹」
「……えっ」
予想外の返答、だった。
知ってたって――まさか。そんなことが、まさかあるはずがない。
「でも知ってても、ちゃんと言ってもらえるのはいいもんだな。ありがとう」
兄さんは相好を崩すと、笑顔に照れの色を滲ませながら語を継ぐ。
「君もそう思ってくれたなら嬉しいよ」
「え……あの、えっ? 兄さん、知ってたって、どういう……」
「君は僕のことが好きなんだろ。兄としてじゃなく、異性として」
何のためらいもなく、そして寸分の狂いもなく、兄さんは私の気持ちを言い当てた。
私がずっと押し隠してきて、今日の今日まで八年間口にできなかったはずの胸中をだ。
「な、なんで……だって、そんな、私、何も言ってないのに……」
「言わなくてもわかるよ。僕は八年も君の兄さんだったんだからな」
志信兄さんは再び箸を取り、
「だから君を見合いに誘った。お互い好きなら、いつまでも兄妹でいる必要はないだろ」
動揺から立ち直れない私をよそに、美味しそうにしし唐の天ぷらを食べる。
――たった今、私を更なる混乱へ突き落す一言が発せられたような気がした。
「に、兄さん……」
もはやどこから驚いていいのかわからなかった。
でもこれは、これだけは聞いておかなければならない。
「もしかして、私のお見合いの相手は、兄さんなの?」
すると兄さんは事もなげに顎を引く。
「ああ。一番いい相手だろ、君を誰より深く想い、大切にしてきた人間だ」
確かにそれはその通りだ。兄さん程に私を大切にしてくれた人はいない。
「そ、そうだけど、だって、そんなこと今朝は一言も!」
「言っただろ。見合いをしてくれないか、って」
言った。
だけど『誰と』とは言わなかった。
「それに、結婚して欲しいとも言った」
「じゃあ……あれはもしかして、プロポーズだったの?」
「今気づいたのか、妹!」
ここに来てようやく兄が驚きの表情を浮かべて、それから苦笑する。
「僕があんなにもわかりやすく申し込んだというのに、君は何も知らないで返事をしたのか」
「だって主語がなかったもの!」
「主語がなくてもわかりそうなもんだ。結婚して欲しい、って言ったんだぞ」
「でも……」
お見合いは当の本人から申し込まれるものではないし、その後のプロポーズでは自分のことだと思いようもないだろうし、ましてやずっと兄であった人からの告白だ。わかるはずがない。
今はもう、全て知ってしまったけど。
「なら改めて聞こうか、妹」
志信兄さんがまた箸を置く。
艶のある黒い髪が揺れ、同じ色の瞳がじっと私を見据えた。唇に微かな笑みを乗せ、穏やかな声で兄さんは言う。
「君に、僕と結婚して欲しい」
ずっと好きだった、だけど手が届かないと思っていた人からのプロポーズだ。
どう答えるかなんて――、
「わ、私……兄さんのこと好きだけど、結婚なんてすぐには……」
「駄目?」
「駄目って言うか、好きな人といきなり結婚なんてしたら倒れちゃうから!」
八年間も好きだった人なのだから、少しずつ段階を踏んで付き合わなくては心臓が持たない。
私の答えに、兄さんは困ったように眉を顰めた。
「参ったな。父さん母さんには『早いとこ責任を取れ』と言われてるんだ」
なぜだか急に背筋が冷え、代わりに頬が熱くなる。
兄さんが私の気持ちをずっと知っていたということは、もしかして他の家族も、いやこの旅館の他の人達も――思えば柊の間へやってくる前、厨房でのやり取りはまさにそんな感じだった。
参ったのは私の方だ。
今日、これから、父さんや母さんをはじめとする皆とどんな顔を合わせたらいいのだろう。
「まあ、大切な君の言うことだ。まずは恋人同士からというのも筋か」
兄さんは生真面目に頷くと、改めて姿勢を正した。
「では今日から僕は君を恋人として、これまで以上に守ってみせよう。よろしくな」
これは本当に現実なのだろうか。
兄さんと私が、兄妹ではなくなる日が来るなんて。
「はい……」
私は嬉しさのあまり、頷き返すのがやっとだった。
夢見心地で美味しい折り詰めを食べ終えた後、私達は残りわずかの休憩時間を過ごした。
初めて会った日と同じように、二人並んで広縁に立ち、柊の間から庭を眺めた。ちょうど柊の花が咲いていて、小さな白い花とそこから漂う微かな甘い香りには覚えがあった。
「思えばあの日も、まるで見合いのようだった」
志信兄さんが柊を見つめる横顔は、記憶にあるものよりも美しかった。
大人になり、優しさも穏やかさも、そして私に対する親しみもずっと深まった横顔だった。
「君を初めて見た時、あまりにも儚げで、守ってやりたいと思った。そんな君だからこそ、嘘をついてはいけない、とも」
「兄さんがあんまり正直だから、父さんも母さんも驚いてた」
「そうだったな。でも君には後悔させたくなかったんだ」
お蔭で私は八年の間、一度としてあの日の選択を悔やみはしなかった。
そして、幸せな少女時代を過ごすことができた。
二十歳になった現在も、今日からの日々もまた。
「……兄さんは私を、妹としてしか見てないんだと思ってた」
私も柊を見ながら、今だからこそ言える本心を打ち明ける。
兄さんがこちらを向くのが視界の隅にちらりと見えた。
「そんなことを一度でも言ったかな」
「いいえ、でも私を『妹』と呼ぶでしょう」
「妹を妹と呼んでおかしいか?」
前にも聞いたような言葉が返ってきて、私はようやく笑うことができた。
「よそのご家庭では、妹を名前で呼ぶ場合の方が多いみたいだけど」
それから改めて兄を見上げると、兄も黒々とした瞳で私を見下ろしていた。
「想像してみてくれ、妹。たかだか十六歳の少年が、四つしか離れてない可愛い妹を迎えることになったとして、平然としてられるか? 無理だろ」
あの頃の兄さんの気持ちを、今なら想像できそうな気がする。
寄る辺のない私を前にして、嘘をついてはいけないと思った兄さんの優しさを。
「君を『妹』と呼ぶのは、自己暗示みたいなものだった」
兄さんの手がが私の肩に触れる。
スーツの袖から覗くきれいな手首を、私は感慨深く見下ろした。
「そう呼べば僕も心の準備ができるより早く、君のいい兄さんになれる気がしたんだ」
だからだろうか。兄さんは私にとって、ずっといい兄さんだった。
「でも、これからは妹と呼ぶ必要もないな」
志信兄さんは私の肩をそっと撫でた。
それから真っ直ぐに私を見つめたまま、何度か深呼吸をして、恐らく心の準備をしたのだろう。
やがて、言った。
「菜乃。これからもよろしくな」
初めて名前を、兄さんの穏やかな声で呼んでもらえた。
私はその声を記憶に留めておきたくて、静かに、深く息を吸い込んだ。
あの日からずっと覚えていた、白い花の香りと共に。
柊が咲く十一月に、忘れられない思い出がまた一つ、増えた。